主イエスが十字架につけられました。主イエスの右と左には、一人ずつ犯罪人も十字架につけられました。三本の十字架が立てられたのです。主イエスの服はくじ引きで分けられました。兵士たちも、主イエスを十字架につけることにした議員たちも、口々に主イエスをののしり、あざけりました。「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」民衆は見ておりました。その中にはただの野次馬もいたでしょうし、かわいそうにと見ていた人もいたでしょう。いい気味だと思って見ていた人もいたでしょう。この主イエスの十字架という出来事には、人間の残忍さ、醜さ、愚かさといった罪が、生のまま、何の覆いもなく表れています。人間はそれ程悪いものではないと考えたい人も、この主イエスの十字架の場面を見るなら、考えを改めざるを得ないでしょう。人はこれ程までに他人の死というものに対して冷酷になることが出来、楽しみさえする。人間の奥底にある暗い、黒い思いが、幾重にも重なって主イエスに襲いかかり、渦巻きのように主イエスの十字架を取り囲んでいます。しかし、そのどす黒い渦巻きは、主イエスを飲み尽くすことが出来ない。この時、主イエスの口から、どす黒い渦巻きを切り裂く白い光のような、驚くべき言葉が告げられました。34節です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」何という言葉か。何という度外れた言葉か。人類は、この方がこの言葉を発するまで、このような世界があることを知りませんでした。それは、本当の愛を知らなかったということでもあります。
この34節は、この新共同訳では大きなカッコでくくられています。これは、元々はなかったけれど、後代になって書き加えられたと見られる所という意味です。使徒言行録7章60節に、ステファノが殉教する時に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と言った言葉から、主イエスの十字架上での言葉として書き加えられたと考える学者も少なくありません。しかし、私はそうは思いません。事柄の順序として、主イエスが十字架の上で語られた言葉が、弟子のステファノに受け継がれたと考えるしかないだろうと思うのです。この言葉は、まことの神であられる主イエス・キリストの人格、神様の愛をその身において現された主イエス・キリストというお方の本質が、最も明瞭に表れている所だからです。私は、主イエスのこの十字架上の言葉がなければ、ステファノがこの言葉を殉教する際に語るということはあり得なかったと思っています。この祈りは、私は奇跡の祈りだと思うのです。まことの神にして、まことの人であられる主イエス・キリストにおいて、初めて可能な祈りであったと思うのです。そう思わずにはいられないほど、この言葉は度はずれている。私共自身が生きている世界を超えています。
今まで多くの人々が、この主イエスの言葉によって信仰の道へと導かれてきました。私もその一人です。初めてこの主イエスの言葉に出会った時、私は圧倒されました。自分は何もしていないのに十字架につけられている。その激しい痛みの中で、自分を十字架につけ、自分をののしり、あざけっている人の為に祈る。その人が神様の裁きに遭うことなく赦されるようにと祈る。一体、そんなことが人間に可能なのだろうか。この人は、自分とは全く違うし、自分が知っている人間という範疇の外にいると思いました。この人は、憎しみ、恨み、呪いといった、私共の心の奥底にある黒い闇と無縁な、全く別の存在だ。いやそれどころか、輝く光を注ぎそれらの闇を打ち破る方だ。こんな人がいるのだろうか。もし本当にこんな人がいるなら、こんな人なら、信じてもいい。信じたい。そう思いました。
もう30年以上も前になります。若い日に、私も正しく生きたい、美しく生きたい、人の役に立てるように生きたいと思っていました。いわゆる青年の理想主義ともいうべきものを持っていたのです。しかし、そう思っている自分と、その正反対のことを願っている自分がいることにも気付いていました。出世したい、金持ちになりたい、恋人が欲しい、等々の欲求があり、それを手に入れようと、もがいている自分です。この分裂した思いを抱きながら、いわゆる現実主義と申しますか、食べていく為の道を考え選択していたわけです。そういう中で、この主イエスの言葉に出会いました。驚きました。それまでこんな人の話しを聞いたことがなかったのです。反射的に、こんな人は居ないと思いました。しかし、この言葉を忘れることは出来ませんでした。印象的に、たった一度聞いただけで、私の心に刻みつけられました。そして、教会に通う中で、「父よ、彼らをお赦しください。」と言われた主イエスのこの言葉の中に自分も入っている、この祈りは自分の為に主イエスが十字架の上で為して下さったものなのだということが分かりました。それが私の回心の時でした。
それまで、主イエスを十字架につけた人と、十字架上の主をののしっている人と、自分とは関係がないと思っていました。自分はこんなにひどいことを人に対してはやったこともないし、やらない。そう思っていました。しかしある時、自分の心の奥底には、人のことなんて関係ない、自分さえ良ければ他人はどうなったってかまわない、そういう自分がいることに気付かされたのです。それは、いつもは自分でも気付かない程、心の奥底にしまってある思いです。しかし、確かにそういう自分がいる。この自分は、自分でもどうしようも出来ない自分です。それに気付いてしまったのです。主イエスがここで「自分が何をしているのか知らない」と言われた言葉が、まさに自分自身のことだと知らされました。見ようとしなかった、気付かないふりをしていた自分の奥底にある自分のことだと知らされたのです。一体、このような自分をどうすれば良いのか。どの友達に話しても答えは同じでした。「みんな同じようなもんだ。気にする必要はない。」きっとそうなのでしょう。人は皆、同じようなものなのでしょう。しかし、「気にしない」ということでは済みませんでした。それはほとんど、せっぱ詰まった思いでした。私は、自分の為に「父よ、彼らをお赦しください。」と祈って下さった方、主イエス・キリストに、「私をお赦しください。」と祈りました。それは、生まれて初めて主イエス・キリストというお方の前に出て、主イエス・キリストに向かって自分の言葉で祈った時でした。それから、日曜日の礼拝において、涙なしに説教を聞くことは出来ませんでした。自分の為だけに語られているような気がしました。そして洗礼を受けました。20歳の時です。
この主イエスが十字架の上で捧げられた「彼らをお赦しください。」との祈りは、確かに神様に聞かれているのです。それ故に、私の罪も赦されたのです。この時から神様が居るとか居ないとか、そんな議論はどうでもよくなりました。自分自身でもどうしようもない自分、自分さえも受け入れず赦すことの出来ない自分の闇、暗いどす黒い私を神様は赦し、受け入れ、「我が子よ」と呼んでくださった。愛して下さっている。ありがたいことです。その時から、私にとって大切なことは、私を赦し、受け入れ、愛して下さった神様、主イエス・キリストを悲しませないということになりました。それは、私の心の奥底からどす黒い思いが消えてなくなったということではありません。依然としてあるのです。しかし、それと戦う者となったということです。
さて、主イエスは十字架の上で、もう一つ大切な言葉をお語りになりました。43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」です。主イエスの右と左には、犯罪人が同じように十字架につけられておりました。一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とののしりました。しかしもう一人は、この主イエスをののしる犯罪人をたしなめ、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言うのです。ある人は、この二人は反ローマ、ローマからの独立を目指す同じグループに属する政治犯ではなかったかと言います。あるいは、そうであったかもしれません。そして、この主イエスを罵る人をたしなめた人は、主イエスに向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と語るのです。これは悔い改めの言葉です。「イエス様、よろしくお願いします。」と、主イエスを頼ったのです。主イエスはこの言葉を受けて、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と告げられたのです。
「楽園」という言葉は、口語訳ではパラダイスとそのままに訳しておりました。これは元々、囲いのある大きな庭園を指すペルシャの言葉です。ペルシャの王様が宮殿の中に持っていたような、大きな立派な庭園です。これについて色んな議論がありますけれど、私はこれは単純に天国と理解して良いのだろうと思っています。
ここで大切なことは、この主イエスの救いの約束は、今までも良いことをしてきたわけでもない犯罪人に対して、しかもこれから死ぬわけですから、良い業など何一つすることが出来ない、そういう者に向かって告げられたということです。
求道者の方と話をしていて、よく耳にしますことは、「私はクリスチャンになるのにふさわしい者ではありません。」という言葉です。どこかで、クリスチャンとして良いことをしなければいけない、そんな風に思っている所があるのではないかと思います。もちろん、良き業は大切です。どうでもよいことではありません。しかしそれは、キリスト者となって、聖霊を受けて、その神様の守りと導きの中で為されていくことであって、良き業が出来なければ主イエスが与えて下さる救いに与ることが出来ない、というようなことでは断じてないのです。良い人は救われ、悪い人は救われない。このような理解は分かりやすいのですけれど、これは主イエスが与えて下さった福音ではありません。主イエスが自らの十字架をもって私共に与えて下さった福音は、ただ主イエスを信頼し、主イエスに頼りさえすれば救われるということです。
ここで二人の犯罪人が出て来ます。この主イエスの左右の十字架に架けられた二人に対して、一方は善人であり、一方は悪人であったと理解することは出来ません。二人とも、善人か悪人かという点で見るならば、五十歩百歩、同じようなものだったのではないかと思います。今までの歩みは悪人としてのそれであった。だから二人とも十字架につけられているのでしょう。しかし、一方は主イエスをののしり、一方は主イエスに頼りました。このことだけが、この二人を分けることになったということなのです。私は、この十字架の死の最後に主イエスを頼ったという犯罪人は、34節の主イエスの言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」を聞いたのではないかと思うのです。そして、この度はずれた言葉によって回心が起こり、この方に頼ってみよう、信じてみよう、そう思ったのだと思うのです。この犯罪人の姿に、私共は自分自身の姿を重ねることが出来るのだと思います。この人は十字架にかかる程ですから、今までの自分の歩みを誇ることなど出来ません。ですから、ただただ主イエスを信頼し、頼るしかなかった。信仰によって救われるとは、そういうことなのでしょう。私共の中には何もないのです。誇れるものなど何一つないのです。ですから、頼るしかない。救ってくださるようお願いするしかない。主イエスは、そのような私共の思いを受け止めて下さるのです。
この犯罪人は、あと何時間かすれば十字架の上で死んでしまう。そういう時になって主イエスと出会い、主イエスを信頼した。そして主イエスは、それを受けとめ、救いの約束をして下さった。このことは、私共が悔い改めて主イエスを信頼するのに、遅すぎることはないということではないでしょうか。死の直前まで、悔い改めのチャンス、救いに与るチャンスは開かれているということなのであります。もちろん、早い方が良い。しかし、遅すぎるということはないのです。たとえ、悔い改め・洗礼を受けるのが死ぬ一月前、一週間前、一時間前であったとしても、遅すぎることはないのです。救われるということは、「この世においていい目をみる」というようなことではないからです。神様の備えてくださってる神の国に入り、復活し、永遠の命に与るということだからです。
主イエスはここで、肉体の死を超えた所にある救いを約束して下さいました。それがパラダイスということです。この救いの約束に生きる共同体が教会なのです。ある牧師は、愛する者が死を目前にした時、癒しを願ったのではなく、「もうすぐ神様の元に行ける。もう少しで神様に、イエス様にお会い出来るのだ。」と枕元で語ったといいます。私共もそのような救いのリアリティーの中を生きていきたいと思います。私共は死んでお終いということではないのです。
ただ今から聖餐に与ります。自分が何をしているのか知らず、自らの罪も知らず、神様に敵対して歩んでいた私共を、招き、赦し、救いに与る者として下さった主イエス・キリスト。私共の為に十字架の苦しみを受け、恥を忍び、救いへの道を拓いて下さった主イエス・キリスト。私共は、その主イエスが今おられる天の御国を仰ぎつつ、その御国に入ることを信じ、この地上の生涯を歩むのであります。この聖餐に与ることにより、私共に備えられている救いの恵みを新しく心に刻みたいと思います。御国において、主イエスと共にいることになるその救いを、この聖餐に与り、キリストの体と血とに与ることによって、既に確かなものとして受け取りたいと思います。
[2008年7月6日]
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