花の日礼拝説教「私たちを助けてくださるイエス様」ヘブライ人への手紙 4章14〜16節 小堀 康彦牧師
今日は教会学校の子供たちと一緒に礼拝を守っています。いつもは別々に礼拝をしていますけれど、私たちは一つの神様の家族です。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんも、子どもたちも、みんな同じ一人の神様に造られ、守られ、生かされています。そのことを感謝して、私たちは日曜日にはこの教会に集まって、このように神様を礼拝しているのです。
イエス様は朝の9時に十字架にかけられました。そして、午後3時に十字架の上で息を引き取られました。イエス様が十字架につけられた時、弟子たちはみんな逃げてしまっていました。イエス様の味方をしてくれる人は誰もいませんでした。イエス様が十字架につけられると、人々が見物に来ました。そして、口々にイエス様をののしり、バカにして言いました。「本当に救い主、メシアなら、十字架から降りてみろ。」「他人を救っても、自分を救うことも出来ないのか。」「たいしたユダヤ人の王だ。」そんな風に言ってイエス様をバカにしました。
私たちは苦しくなると、人に分かって欲しいと思います。でも、自分も経験したことがないと、なかなか分かってあげることが出来ません。私は中学生の2年と3年の時、学校でいじめられていました。毎日学校に行くのが嫌で嫌でしょうがありませんでした。でも、そのことをお父さんにもお母さんにも言えませんでした。学校に行くと、休み時間が来るのが恐ろしくて、いつも誰も来ないトイレの裏に行っていました。教室にいると、みんなにいじめられたからです。他のクラスの、小学校の時からの友達に話すことも出来ませんでした。だって、いじめられていない人に話したって、分かってもらえないし、どうにもならないと思ったからです。その頃はイエス様を知らなかったのです。でも今思うと、あの時もイエス様は私と共にてくださったのだと思います。
私たちがどんなに苦しい時も悲しい時も、その全てを自分のこととして知っている方がいる。それは何と幸いなことでしょう。それは、私たちはどんな時でもひとりぼっちではないという事です。自分の大切な人が苦しんでいるのに、私たちは何もしてあげられない。そういう時もあります。しかし、その苦しんでいる大切な人の苦しみを、共に味わって下さっている方、イエス様がいて下さるのです。イエス様はその人の為に十字架におかかりになったのです。私たちと同じ苦しみ、試練を味わい尽くされる為に、イエス様は十字架から降りようとなさらなかったのです。 神様は、私たちをどんなに愛しているか、そのことを示す為に、独り子であるイエス様を与えて下さり、十字架におかけになりました。けれどそこでイエス様が十字架から降りてしまったら、苦しんでいる人は自分が神様から愛されていることが分からないでしょう。ひとりぼっちだと思うでしょう。希望なんてどこにもないと思うでしょう。だからイエス様は、苦しむ人に「あなたの苦しみをわたしは知っている。わたしも人に捨てられ、十字架の苦しみを受け、死の苦しみさえ味わった。だから、わたしが共に苦しむ。わたしはあなたと共にいる。」そう語りかける方として、十字架から降りて来られなかったのです。このイエス様の愛から外れている人はいません。自分のような者は、神様から、イエス様から見放されている。誰もそんな風に考えてはいけません。イエス様の十字架を見上げて、神様の憐れみ、恵み、助けをいただく為に祈りましょう。愛する独り子であるイエス様を与えて下さった神様は、この祈りを必ず聞いて下さるからです。 [2008年6月8日] |