主イエスは十字架にかけられて殺されました。ピラトというローマから遣わされていた総督によって主イエスの十字架の死は決定されたのです。しかし、聖書が記すこのピラトによる裁判には、よく分からないところがあります。ピラトは主イエスが死刑に当たるような犯罪は何もしていないことを知っていたのです。ピラトは主イエスを助けようとします。鞭で打って懲らしめるぐらいでいいだろうと提案するのです。ところが、人々が主イエスを「十字架につけろ」と叫び続けたので、この声に負けて、主イエスを十字架にかける決定をしたのです。事の成り行きは分かります。しかし、どうして人々がこれ程までに主イエスを十字架にかけようとしたのか、今一つ分からないのです。マルコによる福音書15章11節に「祭司長たちは、…群衆を扇動した」とあります。又、10節に「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのため」であったと記します。ユダヤ教の指導者たちは、自分たちの権威を少しも認めようとしない主イエスの言動に我慢がならなかった。そして、群衆を扇動して、主イエスを十字架につけよと叫ばせ、その通りにした。
これが一応の説明です。しかし、これで本当に説明になっているのでしょうか。聖書に記されていることからは、多分これ以上の説明は出来ないでしょう。しかし、何とも釈然としない思いが残ります。なるほどと言えるような説明が出来ないのです。求道者の方に、「イエス様はどうして十字架にかからなくてはならなかったのですか。福音書を読んでも、今一つよく分からないのです。」そう尋ねられることがあります。正直な感想だと思います。牧師としては、このような質問にはきちんと納得出来るような説明をしなければいけないと思いつつも、あまりうまく説明することが出来ません。確かに、想像をたくましくして色々な説明をほどこすことも出来るでしょう。しかし、それで主イエスが十字架にかからなければならなかった本当の理由を説明することにはならないのだと思うのです。何故なら、この主イエスの十字架という出来事が、そもそも合理的に説明することが出来るようなものではないと私には思えるからなのです。ユダヤ教の指導者たちのねたみ、群衆の扇動。私共の中には、そんなもので一人の人間が不当な死を迎えていいのか、殺されて良いのか、そういう思いがある。そして、裁判の判決を下す者が人々の声に負けて不当な判決を下していいのかという思いがある。だから納得出来ないのだと思うのです。
私はこの納得出来ない感覚はまともなのだと思います。しかし、この主イエスの十字架という出来事はまともなことではないのではないでしょうか。正気の人間が理性的に行動して起きるようなことではないのではないでしょうか。祭司長や律法学者それに民衆も、この時まともではなかったと私は思うのです。まともな神経なら、こんなことはしなかったと思うのです。しかし、人間というものは、しばしばまともではなくなるのです。目先の利益の為に、それがどんな結果をもたらすかも分からずに、平気で人を踏みにじることをするのです。それが罪です。まともな人間が、いつもまともな感覚で生きているのならば、どうして戦争が起きますか。起きるはずがないのです。まともな人間ばかりなら、どうしてこんなに石油が値上がりするのですか。それによって会社が次々に倒産に追い込まれている。まともな人間ばかりなら、どうして穀物がこんなに値上がりして、食べ物がなくて飢える人々が何億人も出るのですか。おかしいです。間違っています。まともじゃない。しかし、それが人間の歴史の現実なのです。確かに、主イエスがどうして十字架にかからなければならなかったのか、その合理的な説明、誰もがなるほどと納得出来るような説明は出来ないかもしれません。しかし、それこそが本当のことだったのではないかと思うのです。人間の罪が、ねたみ、扇動、そしてピラトの自己保身という形で表れて、主イエスを十字架へと追いやっていく。ユダの裏切りもそうでしょう。みんなが納得するような合理的に説明できるでしょうか。ユダもまともじゃないです。それらの人間達が持つ合理的に説明できない罪、怒濤のように押し寄せる罪を主イエスは引き受け、黙しておられる。屠り場に引かれていく小羊のように黙しておられる。
ピラトはここで、主イエスは死刑に当たるようなことは何もしていないと明言しています。しかも、三度繰り返しています。22節「ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』」三というのは完全数ですから、ここでピラトは、主イエスには罪はないと、断固として、否定しようがないあり方で、完全に宣言したということです。ここでピラトは、主イエスの無罪を証言する者として立っているのです。
ところが、ピラトはそこに立ち続けることが出来ませんでした。群衆は、主イエスを十字架につけろと叫び続けたからです。その叫びはどんどん大きくなります。このまま放っておけば暴動になるかもしれない。ピラトが恐れたのは何よりも暴動でした。ローマの総督としてユダヤに赴任しているピラトにとって、暴動こそ一番恐れていたことでした。そんなことが起これば、統治者としての自分の能力を疑われ、自分の将来がどうなるか分かりません。彼は自分を守る為に、主イエスを十字架につける決定を下してしまったのです。
この場面で主イエスを何とか助けようとしたのはピラトだけでした。しかし、そのピラト自身が十字架の決定を下したのです。人間的に言えば、ピラトに同情したくなります。何しろ彼は、この時から二千年たった今でも、全世界で日曜のたびごとに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言われ続けているのですから。彼は主イエスを十字架に架けた首謀者とは言えないでしょう。この時の祭司長が誰だったのか、私も知りません。しかし、ピラトの名前は誰でも知っている。名誉なあり方ではなく、全く不名誉なあり方で彼の名前は歴史に刻まれ、人々の記憶に残ったのです。このピラトに対して、私共は偉そうに、何と弱い奴だと言うことは出来ないでしょう。正しいことはこうすることだと分かっていながら、ついその決定をした後での周りの反発を恐れて事を曲げてしまう。そういう弱さが私共にもあるのだと思います。何かを決定しなければならない立場に立った者なら、これは誰でも身に覚えがあることなのではないでしょうか。
この使徒信条にポンテオ・ピラトの名が入っていることには、二つの意味があると言われます。一つは主イエスの十字架の出来事が歴史的出来事であった、その歴史性、日付の役割をしているということです。そしてもう一つは、主イエスの十字架はローマ帝国というこの世の権力、力によって為されたということです。ピラトはローマ帝国の権力を行使する者として主イエスの裁判を行い、無罪の者を十字架にかけてしまったということなのです。国家というものは大切です。こんなものはなくても良い。そんなことは言えません。国を失った民が、あるいは、きちんと統治する力のない政府のもとでは、国民がどんなに悲惨な目に遭うのか、世界にある内乱状態の国々を見れば分かります。ローマの信徒への手紙13章にあるように、国家は神様が与えた秩序であり、私共は国の権威を重んじなければならないでしょう。しかし、国家というものがいつも正しいわけではないのです。そのこともきちんと見ていなければならないのです。国家も又、人間の罪から自由ではないのです。それどころか、最も巨大な悪を為すのも又、国家というものなのです。
さて、人々は主イエスを「十字架につけろ」と叫びました。多分、ユダヤの指導者に扇動されたのでしょう。時は過越の祭りです。民族的高揚が最高に達していた時です。この時の人々の叫びには、熱狂した民衆の恐ろしさを覚えます。民族主義と宗教が結びつけば、このような熱狂が生まれやすいものです。私は牧師として、この宗教的熱狂というものに対して、嫌悪感さえ覚えます。中世の魔女裁判も十字軍も、同じ様な熱狂の中で為されたものでしょう。
ここで民衆が叫んだ「十字架につけろ」ですが、十字架とはローマの処刑の仕方です。ピラトの決定によって処刑されるのですから、十字架というのは当然であるとも言えますけれど、主イエスがこの十字架にかかって殺されるということは、聖書の文脈で見るならば単なる処刑ということ以上の意味があることだったのです。先程お読みいたしました申命記21章23節には「木にかけられた死体は、神に呪われたものだ」と記されています。「十字架につけろ」と叫んだ民衆がそのように理解していたかどうかは分かりません。しかし、この「十字架につけろ」との叫びは、主イエスを神に捨てられ、神に呪われた者とせよという叫びだったのです。そして主イエスは十字架につけられて死ぬことにより、神様の呪いを受ける者となられたのです。神様に捨てられ、一切の神の祝福を奪われた者となられたのであります。
主イエスが神様の呪いを受ける者になることによって、何が起きたのか。聖書はバラバという死刑囚が釈放されたと告げるのです。本来、神様に捨てられ、神の呪いを受けるはずのバラバという囚人が助かり、生きる者となり、主イエスが神の呪いを受ける者となったのです。
バラバについては、「暴動と殺人のかどで投獄されていた」と言われています。ユダヤ独立を求める熱心党の指導者の一人ではなかったかとも言われています。多くの学者は、このバラバの姿を想像たくましく描いてみせるのです。革命家であったとか、単なる強盗であったとか。しかし、彼がどのような人であったのかは、それ程重要なことではありません。大切なことは、主イエスが十字架につけられることになり、彼は釈放されたということです。これは、主イエスの十字架の秘義を示しています。本来処刑されるべきであった者が赦され、主イエスが処刑されることになったのです。このバラバの身の上に起きたことこそ、私共の上に起きたことなのです。本来、裁かれ、その罪の故に神に捨てられるべき私共が、主イエスの十字架によって赦され、生かされ、神の子とされ、永遠の命へと招かれたのです。
ユダヤの指導者たちのねたみ、扇動された民衆、暴動を恐れるピラト、それらが組み合わされ、主イエスは十字架にかけられることになりました。最初に申しましたように、三者三様の動機があったにせよ、皆まともではありません。人間の奥底にあるドロドロした罪がここで表に表れたのです。そして、それによって主イエスは十字架につけられた。ここには、人が理性的に判断して納得出来るような、歴史的な必然性はなかったかもしれません。しかし、ここには神様の御心における必然があったのです。主イエスの十字架は、全ての人間の罪の裁きを、神の御子イエスが私共に代わって自らの上に担うという出来事でした。その為に、主イエスの十字架は人間の罪の結果として引き起こされたものでなければならなかったのであります。人間の罪によって引き起こされた出来事であるが故に、その罪の全ての裁きを引き受けることになったのです。私共はここで、主イエスを十字架につける為に働いた人々を責めることは出来ません。ここには、私共の罪と私共の弱さが示されているからです。
どうして主イエスが十字架につけられることになったのかよく分からない。この思いは、この一連の主イエスの十字架への歩みを、遠い昔に起きた自分には直接関係のない出来事として外から見ているからなのではないかと思います。確かにそれでは、主イエスの十字架への歩みはよく分からないのです。主イエスの十字架への歩みの物語の中に、私共は入っていかなければなりません。「十字架につけろ」と叫んだ人々の中に、自分も入るのです。自分の立場や常識を守る為に主イエスを殺そうとしたユダヤの指導者たちと自分を重ねるのです。自分を守る為に民衆の叫び声の前に自分の判断を曲げたピラトと、自分を重ねるのです。その私の前に、何も語らずに、黙って十字架への道を歩まれる主イエスがおられる。この主イエスを十字架へと追いやった人々の中に自分を見出し、その私の前に十字架への歩みを為されている主イエスが居られることを発見したとき、私共はこの方の前にひざまずかざるを得ないでしょう。そして、主よ憐れんで下さい、私の罪を、私の弱さを、私の身勝手さを、私の愚かさを赦して下さい、そう祈らざるを得ないのです。そして、二度とそのような歩みをしないように、主よ私を清めて下さい、強めて下さい、そう祈るのでしょう。
ただ今から、私共は聖餐に与ります。この聖餐は、主イエス・キリストの十字架によって与えられた神様の赦しの恵みを覚え、この恵みの中に私共を新しく生かすものです。神様と敵対し、その御子を十字架にかけるような歩みと決別し、神の子、神の僕としての歩みへと私共を招く、契約の食事です。この食事に与った者として、この一週、キリストと共に、キリストの恵みの中を、キリストの恵みに応える者として歩んでまいりたいと願うのであります。
[2008年6月1日]
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