人は変わることが出来るのだろうか。これは厳しい、大きな問いです。もし、人が変わることが出来ないとすれば、私共は自分の今ある状況にいつまでも甘んじ、そこにとどまるしかないことになるのではないでしょうか。しかし、もし人が変わることが出来るなら、私共は自分自身が今置かれている状況も変わっていくことを期待することが出来ます。聖書が告げていることは明解です。人は変わることが出来るし、自分を取り巻く状況も変わる。聖書は明確にそのことを私共に告げます。私共が出会う様々な困難や課題は、多くの場合、自分自身が変わること、変えられることによって、大きく展開し、状況は全く変わっていくでしょう。聖書は、そのことを信じて良いのだと私共に告げています。
私共はたいてい、自分は変わらないで、自分の周りの者を変えようとします。しかし、本当は自分が変わらないと、周りも変わらないのではないでしょうか。自分が変われば周りも変わるのでしょう。しかし、この自分が変わるということは、なかなか難しいものです。私共の性格なり、心の習慣というべきものは、幼い頃からの積み重ねによって出来上がってきたものですから、そう簡単に変わるという訳にはいきません。今日から自分は生まれ変わって生きていこう、そう思ってもなかなかうまくいきません。しかし、神様は最も偉大な、最上の教育者です。神様に出会うならば、神様の御手にかかるならば、私共は変えられていきます。例外はありません。実に聖書というものは、神様によって変えられた人々の証言集なのです。聖書に出て来る人々は、皆、神様に出会って、神様の御業の中で変えられていった人々なのです。勿論、聖書に出て来る人々だけが特別なのではありません。神様に出会った誰もがそうなのです。この教会というところは、神様によって変えられた人々の群れであり、変えられ続けている人々の群れなのです。
今、ローマの信徒への手紙を読みました。5章1〜4節に「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」とあります。この手紙を書いたパウロも又、神様によって変えられた一人です。彼は神様との間に平和を与えられていることを喜んでいます。その喜びの中で、苦難をも誇りにしていると言い切るのです。そして、「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」と告げるのです。苦難がやがて希望を生む、そのことを知っているというのです。それを知っているのは自分だけではない。わたしたち、です。信仰によって、神様との間の平和を与えられ、救いに与っている者は、誰もが知っていることだというのです。何故ならそれは、全てのキリスト者が信仰の歩みの中で経験していることだからです。神様と出会う中で、苦しみというものが、人をいじけさせ、ひがみっぽくさせ、何でも人のせいにして、文句ばっかり言っている人を作るものではなくなるというのです。これは驚くべき言葉ではないでしょうか。しかし、これは本当のことなのです。神様の御手の中に生かされていることを知った時から、私共は苦難に出会っても、投げ出さず、忍耐することを学び、やがて希望を持って生きる者とされるのです。
私共はヨセフ物語を読み続けています。ヤコブの十二人の息子たち、やがてイスラエルの十二部族となっていく者たちの物語です。十七歳で兄たちにエジプトに売られたヨセフ。そしてヨセフを売った十人の兄たち。まことにひどい話です。このような悲惨な家族に希望はあるのでしょうか。彼らは変わることが出来るのでしょうか。このような家族が再生することが出来るのでしょうか。聖書は、このような家族さえも変えられる、変えられるどころか、神様の祝福を受け継ぐ神の民イスラエルとなっていったのだと告げるのです。
今朝与えられているところを見てみましょう。43章1〜2節「この地方の飢饉はひどくなる一方であった。エジプトから持ち帰った穀物を食べ尽くすと、父は息子たちに言った。『もう一度行って、我々の食糧を少し買って来なさい。』」とあります。エジプトの七年の豊作の後、飢饉が来ました。エジプトはヨセフの進言通り、豊作の間に食糧を蓄えておきましたので、飢饉が来ても困りませんでした。近隣の地方からエジプトに食糧を求めに人々は集まりました。ヤコブの十人の息子たちもエジプトに食糧を求めに行きました。そこで彼らはヨセフに出会うのです。ヨセフは兄たちと気付きましたが、兄たちはヨセフのことが分かりません。そしてヨセフに言われるままに、兄弟シメオンをエジプトにおいて、ヤコブのもとに戻って来ました。次に来る時は末の息子、ヨセフのただ一人の実の弟ベニヤミンを連れてくるようにと言われてです。それからしばらくの時が過ぎました。エジプトから持ち帰った食糧も底をつきそうになりました。これがなくなれば、ヤコブとその家族は飢えて死ぬよりほかはありません。飢饉はおさまらず、ヤコブたちは再び生命の危険にさらされていたのです。そしてヤコブは再び、エジプトに食糧を買いに行くようにと、息子たちに命じたのです。
しかし、今回は難問がありました。一番下の息子ベニヤミンを連れて行かなければならなかったからです。しかしヤコブはベニヤミンを手放したがりません。ベニヤミンとヨセフは、ヤコブの最愛の妻ラケルとの間の子だったのです。そして、ヨセフは二十年前に兄たちの所に行かせて、死なせてしまった。ヤコブはそう思っています。ヤコブも兄たちも、ヨセフが生きていることを知りません。ヤコブは、ベニヤミンだけは失いたくない、そう思っているのです。ヤコブは言います。6節「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをしたのか。」ヤコブの口から出るのは愚痴であり、息子たちへの非難です。このような言葉を息子達に投げかけるヤコブは、もう自分のことしか考えることが出来ない、まるでエゴの塊のようになってしまった老人に見えます。
ところがここで、ユダが父ヤコブを説得するのです。8〜9節「ユダは、父イスラエルに言った。『あの子をぜひわたしと一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。』」このユダは、37章26節に記されているように、ヨセフを売ってしまおうと提案した者だったのです。ヤコブのヨセフに対しての溺愛と、ヨセフの偉そうな態度に腹を立て、「ヨセフを売ってしまえ」と提案したのは、ほかでもないこのユダだったのです。しかし、ここでのユダは違います。あいも変わらずベニヤミンを溺愛している父ヤコブですが、その父に対して、ベニヤミンのことは保障します、もしベニヤミンに何かあったら私が生涯その罪を負います、そう言い切るのです。豊かだった時、この家族はバラバラでした。しかし、もう食べ物がなくなるというこの状況に陥った時、この家族は今までになく、父のことを思い、心を一つにすることが出来たのです。ヨセフを売ってしまえと言ったユダが、ベニヤミンの安全を身を挺して保証すると言うのです。ユダはここで変えられてきています。ヤコブはこのユダの言葉に心が動きます。そして、ベニヤミンを連れて行くことを許すのです。この時の11、12節にある、名産をその人に贈り物として持って行けとか、銀を二倍用意して行け、というのはいかにもヤコブらしい知恵の付け方です。しかし、大切なのは14節です。ヤコブは「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」と告げていることです。ヤコブはここに来て、やっと全てを神様に委ねると言うことが出来たのです。ヤコブも変えられ始めています。ユダが変えられ、ヤコブが変えられる。ここで、事は動き始めます。
ベニヤミンを連れて、十一人のヤコブの息子たちはエジプトへ行きます。ヨセフは兄弟たちを自分の家へ連れて行きました。十一人の兄弟たちはまだヨセフが分かりませんから、どうして自分たちがエジプトの大臣の家に連れてこられたのか分かりません。不安だけが大きくなります。前回に来た時に戻っていた銀のせいだろうか。自分たちは奴隷にされるのではないか。兄弟たちの不安と恐れはどんどん膨らみます。そして、ヨセフの家の執事に向かって、自分たちは何も悪いことはしていない、と一生懸命言うのです。この時の執事が兄弟たちに告げた言葉に注目しましょう。23節です。「御安心なさい。心配することはありません。」と執事は告げるのです。「御安心なさい。」これは「シャローム」という言葉です。シャローム、これはパンパンに張った平安、平和、神の平和を意味します。ここで執事は、まるで御使いのような役割をして果たしています。神様の御心を告げているのです。執事はシャロームを告げ、そして「心配することはありません。」と続けるのです。この「心配することはありません。」という言葉は、「恐れるな」と多くの場合訳されている言葉です。神様や御使いが告げる言葉です。クリスマスの日に、天使たちが羊飼いに告げた言葉です。この所の訳は、私ならば「平安あれ。恐れるな。」そのように訳したいところです。「平安あれ。、恐れるな」そう兄弟たちは告げられたのです。
兄弟たちは何も知りません。だから恐れ、不安に怯えている。しかし、既に神様の平安が備えられているのです。兄弟たちは知りません。気付きません。しかし、既に備えられているのです。そして執事は言うのです。「あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。」「あなたたちの神、あなたたちの父の神が」です。神様に目を向けよ、そこにあるシャロームを知れ、そして恐れるな。そう告げているのです。八方ふさがりのように思えるときにも、いつも神様がおられる「天」は塞がれることはなく、そこから私共に祝福が、平和がやって来るのです。この時、まだ兄たちはそれを知りません。しかし、ヤコブもユダも変わり始めている。ヤコブの変化も、ユダの変化も、取り立てて言う程ではないのかもしれない。飢饉が迫ってきたから、仕方なくそうしただけなのかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、この飢饉の背後には神様がおられ、ヤコブと息子たちの変化の先に、神様の祝福、神の平和、シャロームが備えられているのです。聖書はそのことを告げているのです。
兄たちはヨセフの家で、再びヨセフに会います。ヨセフは、父ヤコブの安否を尋ねます。「父上は元気か。まだ生きておられるか。」二十年前に別れてから会ったことのない父。自分のことを目に入れても痛くない程に可愛がってくれた父、ヤコブ。兄たちは父ヤコブが元気であることを告げます。次に弟ベニヤミンです。ヨセフがベニヤミンと別れた時には、まだ小さな子であったことでしょう。しかし、あれから二十年が過ぎています。ベニヤミンも立派な青年になっていました。そしてヨセフは告げるのです。「神の恵みがお前にあるように。」これは神の祝福を告げる言葉です。ここにも、やがて与えられるであろう神様の祝福の兆しが告げられているのです。
30節、ヨセフは席を外します。涙がこぼれそうになったからです。ヨセフは奥の部屋に入って泣きました。しかし、まだヨセフは自分がヨセフであることを明らかにしません。どうしてでしょうか。それは、まだ兄たちがどのように変わったのか、ヨセフには分からなかったからです。ヤコブも、ユダの言葉に代表されているように兄たちも、変えられてきています。しかし、ヨセフにはそれがまだ分かりません。このことが明らかにならなければならないのです。
和解というものは、当事者同士が変わる、変えられるということがなければならないのではないでしょうか。「もう、あのことはなかったことにしよう。」それだけでは、実は本当の和解にはならないのだと思います。お互い変えられることがなければ、結局のところ、同じことの繰り返しになってしまうからです。ヤコブもヨセフの兄たちも、そしてヨセフも又、変えられなければなりません。そして、そのことが明らかにされなければならないのです。ただ再会するだけでは和解には至らないのです。神の平和、シャロームが満ちる時ではないのです。しかし、今日、御一緒に見てきましたように、皆が少しずつ変わってきています。もう少しです。神様の時は満ちるのです。そのとき、はち切れんばかりの神の平和、平安、シャロームが満ちるのです。それは、既に備えられています。私共にも、それが備えられています。私共はそのことを信じて良いのであります。
人間というものは、どうも暗い方、暗い方へと引っ張られていく傾向があるようです。つらいことがあると、それがいつまでも続くかのように考えたり、もっと悪い状況になっていくのではないかと恐れ、不安になる。この時の兄たちがそうでした。ヨセフの家に連れて行かれた時には、奴隷にされるのではないかと恐れたのです。ヤコブもそうでした。ベニヤミンも失うのではないかと心配していたのです。しかし、ヨセフの家の執事の口を通して、神のシャロームが告げられました。八方塞がりのような状況になった時、私共にはなお塞がっていない一方がある。それが天です。私共は天を見上げ、そこから来る祝福を信じて良いのであります。それを信じて歩み続けていく中で、私共は「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということが本当に本当のことだと知らされていくのであります。
私がまだ二十代の頃、教会の伝道師であった老婦人が、「小堀さん、私はこの年になって、やっと何がなくてはならないかが分かった。それは平安。平安さえあれば、他は何もいらない。」、そう言われたことを思い出すのです。そしてその平安こそ、シャロームです。神様が私共に備えて下さっている、はち切れんばかりの平和です。平安は、自分で手に入れることが出来るものではありません。神様が賜物として私共に与えて下さるものです。自分の道を神様にお委ねするという変化の中で、私共に備えられていく神様の賜物なのです。そして、その変化も又、神様が大いなる教育者として、私共に為して下さいます。私共はそのことを信じて良いのです。
[2007年11月18日]
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