礼拝説教「主が共におられる」創世記 39章1〜23節 エフェソの信徒への手紙 1章3〜7節 小堀 康彦牧師 私共の人生には、深みと言うべきものがある。ヨセフ物語を読み進みながら思わされることであります。家庭の団らん、恋の喜び、友情の美しさ。そのようなものは、ここにはありません。ヨセフはヤコブの年寄り子として生まれ、溺愛され、それ故に兄弟たちにねたまれ、憎まれ、エジプトに奴隷として売られてしまったのです。家族から引き離され、知っている人も一人もいない異国の地で、奴隷となってしまったのです。しかも、今日与えられた聖書の個所の最後の方では、監獄に入れられることになってしまったのです。父ヤコブの愛を一身に受けていた者が、異国の地で奴隷となり、監獄に入れられてしまう程の境遇の変化を味わう。一人の人に起きたそのような変化を聞けば、私共はこのヨセフという人は、相当心がねじ曲がり、人をうらみ、世を呪う、そういう人になったのではないかと想像するでしょう。私共は、どこか人間というものは、その人の置かれた環境で決まってしまうと思っている所があるからでしょう。しかし、ヨセフ物語は、そのような人間に対しての、人生に対しての、浅い理解とでもいうべきものに対して、否と言うのです。人生は、そんな浅いものではない。深みがある。これがこうなり、そしてその結果こうなった。そんな通り一遍の、簡単な説明で済む程に浅いものではない。深みがある。そう告げるのです。その深みは、神様によってもたらされるものです。この世界に神様がおられず、私共の人生が神様と何の関係もないものなら、人生は偶然の集積に過ぎず、深みのないものとなるのかもしれません。しかし、この世界は神様によって造られ、支配されているのであり、私共の人生も又この神様の御手の中にあるのです。私共が認めようが認めまいが、そうなのです。そして、私共は神様に似た者として造られている。人格を持つ者として存在しているのです。今、人格について語るいとまはありませんが、簡単に言えば、私共は「意志を持つ者」として生きているということです。この神様の御支配と、神様に似た者として造られた人間としての意志。これが、私共の人生に深みを与えていくのであります。この深みがなければ、私共の人生は単に食べて寝ての繰り返しに過ぎなくなってしまいます。自分が置かれた状況によって、全てが決まってしまうことになります。しかし、そんなことはあり得ないのです。
この39章は、ヨセフの人生の中で最も暗い所でしょう。ヨセフの人生の歯車が、悪い方へ悪い方へと回り出し、ヨセフは坂を転げ落ちるように、奴隷となり、更に監獄へと入れられてしまう。しかも彼は、監獄に入れられるような悪いことはしていないのです。一体神様は何をしているのか。そう言いたい所です。ところが聖書は、この彼の人生の最も暗い時に、「主はヨセフと共におられた」と繰り返し告げるのです。ヨセフが奴隷となった時、2節「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。」3節「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれ」、そしてヨセフが監獄に入れられた時、21節「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、看守長の目にかなうように導かれたので、」23節後半「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた」 私共は自分に都合が良いこと、楽しいこと、うれしいことが起きれば、「神様が共におられる」と感謝し、自分にとって嫌なこと、苦しいこと、つらいことがあれば、「神様は何もしてくれない」と不平、不満を漏らす。しかし、聖書はそうではないと告げているのです。ヨセフが奴隷になろうと、監獄に入れられようと、神様はヨセフと共にいて、ヨセフを守り、ヨセフのすることがうまくいくようにと導いて下さったというのです。
ヨセフが売られた所は、エジプトのファラオの侍従長ポティファルの家でした。ヨセフはこのエジプトの高官の家の奴隷となったのです。彼は、与えられた仕事を真面目に行い、自分に与えられている能力をフルに使いました。神様はヨセフを祝福し、ヨセフのやることはうまくいきました。そして、ヨセフはこの主人の信用を得、主人の家の財産の管理の全てを任されるようになりました。5節を見ましょう。「主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。」とあります。ヨセフに与えられた祝福は、ヨセフ個人の幸いという所にとどまらず、ヨセフの周りの人々をも幸いにしていったのです。このことはとても大切な事でしょう。私共は主と共に歩み、主の祝福を求める。しかしそれは、自分のことだけを考えるようなものであってはならないのです。キリスト者というのは、自分の存在が、この世界の祝福へとつながっていく、そのことを知っていなければならないし、それを求める者でなければならないということなのです。
さて、ヨセフは奴隷なりに生活も安定し、幸いを得ました。そこに誘惑がやって来ます。主人ポティファルの妻が、何とヨセフを誘惑するのです。6節後半を見ますと、「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。」とあります。ポティファルの妻はヨセフを誘惑して、ヨセフを床に誘います。しかし、ヨセフはこれを断りました。9節後半「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」と言うのです。この主人の妻がどのような女性であったのか分かりません。しかし、ヨセフにとって、更にこの家で大きな力を手に入れることが出来る機会でもあったことは間違いありません。しかし、彼はこれを断りました。ヨセフはこの時、「神に罪を犯すことはできない」と言うのです。その結果、ヨセフはこの主人の妻に逆恨みされて、「ヨセフの方が自分にいたずらをしようとした。」と言われ、監獄に入れられることになってしまったのです。 余談ですが、主人のポティファルは、本当のことを察していたのではないかと私は思います。というのは、当時の常識から考えれば、奴隷が主人の妻に手を出したとなれば、有無を言わさず死罪でしょう。それが監獄に入れられて済んでいるのは、主人のポティファルが、妻の言うことが嘘であることを察していたからとしか考えようがありません。又、ヨセフはこの女性の前から逃げたのですが、これも大変賢明な処し方だと思います。私が牧師になりたての頃、先輩の牧師から教えていただいたことです。誘惑というものは大変大きな力を持っている。だから、これと真っ向から戦うよりは、逃げられるならばその場逃げる、それが誘惑に陥らない賢い処し方だ、というのです。そうだと思います。もし、この時ヨセフがこの場に居続けたのならば、結果はどうなったか判らないと思います。
ヨセフを誘惑した主人の妻、これを非難することは出来ないでしょう。ヨハネによる福音書の8章の始めの所で、姦淫の女に対して、主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われたようにです。ただ、ここで示されていることはきちんと受けとめなければなりません。それは、「畏るべき方を持たない人は崩れる」ということです。この女性は、当時の女性としては、最上の生活をしていたはずです。夫ポティファルは、エジプトの王の侍従長、王の側近であり、高官です。何一つ不自由することのない身分でした。しかし、一つ欠けているものがありました。それは自分が何の為に、どこに向かって生きているのかを知らないということでした。それがヨセフと決定的に違ったことだったのです。現代の日本人の多くは、このポティファルの妻と同じような状況にあるのではないでしょうか。物質も豊かになった。不自由なものはない。しかし、何の為に生き、どこに向かって生きているのかを知らず、本当に畏るべき方を知らない。そのような現代の日本の中で、私共は畏るべき方を知っている者として生かされている。このことの意味と責任をきちんと受け取っていきたいと思うのです。 [2007年9月30日] |