富山鹿島町教会

礼拝説教

「もう少し待ってください」
エレミヤ書 8章4〜13節
ルカによる福音書 13章1〜9節

小堀 康彦牧師

 神様は今、生きて働いておられます。この今生きて働いておられる神様の御前に生きる者となる。それが悔い改めるということであります。父なる神様が私共に求め、主イエスが私共に求め給うことは、この一つのことなのであります。他のことではありません。ただ一つ、神様の御前に生きる者となるということです。
 主イエスは終末ということ、神様の裁きということをお語りになられました。私共は共々にルカによる福音書を読み進めてきておりますが、12章の始めから今朝与えられております13章の9節まで、主イエスは繰り返し神様の裁きについてお語りになられました。主イエスが神様の裁きについてお語りになる時、そこには明確な意図があります。それは、主の裁きの時が来るのだから、いやすでに始まっているのだから、新しく神様の御前に生きる者となれ、悔い改めよ、ということなのであります。
 悔い改めるということは、あんなことをして悪かった、こんなことをしなければ良かったと反省することではありません。もちろん、そのような具体的な自分の所業に対しての深い反省を伴いますけれど、それだけではありません。いつでも、どこにおいても、誰に対しても、神様の御前に生きる者となるということであります。あの人はどうだ、この人はどうだと、のん気に批判などしている場合ではない。この私が、神様の御前に生きる者となるがどうかなのです。

 主イエスは、私共が悔い改め、新しく神様の御前に生きる者となる時、決別すべき考え方、ものの見方というものがあると、今朝私共に告げて下さっています。その決別すべき考え方、ものの見方というものが何かと言いますと、それは因果応報という考え方、ものの見方のことなのです。つまり、善いことをしたら善い目に遭い、悪いことをしたら悪い目に遭うという考え方です。この考え方は、広く、深く、あらゆる民族・文化に行き渡っているものだと言って良いでしょう。おおよそ、全ての宗教の根底には、この考え方があると言っても良いかと思います。私共は幼い時から「バチが当たる」とか「バチが当たった」という言い方に親しんでいます。実はこの背後にあるのが、因果応報という考え方、ものの見方なのです。
 主イエスは、私共の神様はバチを当てる方ではない。だから私共は因果応報という考え方から自由に解き放たれなければならない。そう教えておられるのです。そう申しますと「しかし、神様は裁かれるのではないか。」そんな問いを持たれる方もおられるでしょう。その通りなのです。神様は全ての者を裁かれます。これを逃れることは誰にも出来ません。それは確かなことです。しかし、それは「バチを当てる」「バチを当てられる」ということではないのです。「バチが当たる」というのは、何か悪いことをした、その結果こんな悪いことが起きた、ひどい目に遭ったということでしょう。この悪いことというのには、いろいろな種類があります。他の人に対して悪いことを言ったり、行ったり、あるいはその人本人のことではなくて親の行状であったりする訳です。そして、人はその因果から逃れる為に名前を変えてみたり、お墓を清掃したり、最近では風水占いによって部屋の色を変えたりということがなされているのでしょう。この因果応報という考え方は、これをしたからあれが起きるという、自動的なものです。それを支配しているのは、因果律という法則なのです。しかし、私共の神様は生ける神です。断じて法則などではありません。私共の人生を支配しておられるのは生ける神様であって、訳の判らぬ法則などではないのです。私共の生ける神は、私共の全てを知り、その上で御心のままに裁きをなされるのです。そして、その御支配は恵みとまこととに満ち満ちているのです。私共はこの恵みとまことに満ちた神様の裁きを知り、私共は悔い改め、この方の御前に新しく生きる者となるのであります。

 さて、主イエスが神様の裁きについて、終末について教えておられたちょうどその時、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という知らせが入ってきました。少し判りにくい表現ですけれど、こういうことだと思います。何人かのガリラヤ人がエルサレムの神殿で礼拝をささげていた所、ピラトの部下、つまりローマ兵ですが、彼らが来てガリラヤ人を殺したということだと思います。ただ、この出来事が実際に、いつ、どういう形で起きた事件を指しているのかは特定することは出来ません。いろんな説がありますが、その一つに、ピラトはエルサレムに水道を造ろうとした。ローマ人は彼らが支配した地域には、必ずローマ式の水道や道路を造ったのです。ビラトはその水道を造る資金に、エルサレム神殿に蓄えられているお金、これは献金ですが、それに目をつけたのです。そして、それに反対する人々が立ち上がり、ローマ軍と衝突したのだというのです。あるいは、そうであったのかもしれません。又、4節の「シロアムの塔が倒れて18人が死んだ」というのも、このシロアムというのはエルサレムの水源の一つですから、この水道工事をしていた時に起きた事故を指しているのかもしれません。
 主イエスは、神様の裁きの話をしている時に飛び込んで来たこの知らせを、すぐに用いて話されました。ガリラヤ人がピラトに殺されたという話は、主イエスの話を聞いている人々、目の前のガリラヤ人達にとって、仲間が殺されたという、ショックな出来事であったはずです。人々は、「悪いのはローマであり、ピラトだ。殺された仲間のガリラヤ人は可哀相な犠牲者だ。」と思ったに違いありません。主イエスは、知らせを聞くと、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」と問いかけます。これを問われた人々は、「そんなことはあるはずがない」という答えを、心の中でしたに違いありません。そして、主イエスは続いて「シロアムの塔が倒れて死んだ18人についてはどうか。」と問います。この問いについては、「ローマの工事を手伝ったりするからだ。バチが当たった。」そんな受け取り方がなされていたのかもしれません。主イエスは、この二つの例を取って、このような悲惨な目に遭った人々が、他の人より罪深かったということはないと告げられたのです。因果応報という考え方は間違いだ、これから自由になれと告げられたのです。良いですか皆さん。次から次へと病気になる人、困難な状況にある人、そういう人達は私共より罪深かったり、ました神様のバチが当たっているのでは断じてありません。このことをしっかりと心に刻んでおかなければなりません。それは、自分自身に対してもそうです。つらい病気、困難に出会った時、私共は神様のバチが当たっているのではないし、神様に見捨てられているのでもありません。このことは良く心に刻んでおいていただきたい。

 だったら、どうしてなのか。これは大問題です。これは、どうして世界に不幸があるのか、悲しみがあるのかという問題につながります。これは、神学の分野では神義論、神様の義、義しさを問うという議論になります。今、この問いについて議論する時間はありません。簡単に結論を出せる問題ではないのです。ただ、一言申し上げるとするならば、この問題と、真っ向から取り組んでいる聖書の個所があります。それが「ヨブ記」です。ヨブ記は始めから終わりまで、この問題を扱っています。
 また、この神義論の問題は、しばしば牧師が受ける問いでもあります。どうして戦争が無くならないのか。神様が世界を支配しているなら戦争なんかとっくに無くなってよいだろうにという問いです。飢えも、病も、人間関係の悲しみも同じであります。このような問いの背後にその人自身が直面している苦しみ、嘆き、試練がある場合、牧師はこの問いを受け止め、丁寧に聖書に聴きながら、共に祈りながら歩まねばなりません。しかし、この問いはしばしば頭の中だけの議論である場合も少なくないのです。そのような場合、牧師は答えるべき言葉を持ちません。どう答えても、簡単に納得できるような答えなどないのです。そして、この問いは深刻な神様への不信へとつながることが少なくないのです。私も牧師として、何度この問いを受けてきたか判りません。私自身、信仰が与えられて二年程経った時に、この問いに深く悩まされたことがありました。実は、この問いのポイントは、どこまでも「私が神を問う」という所にあるのです。そして、この問いを問うている人は、決して自分自身を問うということはないということなのです。自分のことは棚に上げるのです。
 しかし、ここでの主イエスのこの問題へのアプローチは少し違います。主イエスはここで、神様の義しさを問うているのではなくて、私共の義しさを問うておられるのです。殺されたガリラヤ人についても、シロアムの塔が倒れて死んだ18人についても、特に他の人々よりも罪深かったという訳ではない。ここで私共は、だったらそれは偶然、たまたま、運が悪かっただけ、そういう風に考えたくなります。しかし、主イエスはそのようなことも言われません。そうではなくて、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」そう告げられるのです。殺されたガリラヤ人も、自己で死んだ十八人に対しても、何故と問うている私が問題なのだ。私共も悔い改めなければ皆同じように滅びるのであります。ここで主イエスは、私共が死ぬ者であるということを見つめています。そして、「不幸な死」と「幸いな死」などというものがあるのか。死は滅びではないか。そして、この滅びは、神様の裁き以外の何ものでもない。そう告げているのであります。この神様の裁き、死、滅びを免れることは誰も出来ない。ここで主イエスは、私共の死、私共の滅びというものを正面から見すえておられるのであります。見すえているだけではない。受けとめておられるのです。

 それ故、次のいちじくの木のたとえを話されたのです。このたとえ話には、いちじくの木と、それを植えた主人と、その木の面倒を見ている園丁とが出て来ます。主人は父なる神様です。いちじくの木とは、神様に植えられた木ですから、当時のユダヤ人、現在の私共キリスト者を指しています。これはイザヤもエレミヤも用いた旧約以来の伝統的なたとえ方です。そして、園丁とは主イエス・キリストを指しているのでしょう。父なる神様は、私共に求める実を見つけることが出来ないので、切り倒せ。そう言われる。求める実とは、悔い改めて神様の御前に、神様と共に生きるということであります。それが見られない以上、切り倒すしかない。裁き、滅ぼすしかない。そう言われるのです。しかし、それに対して園丁は、「肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と言うのです。つまり、園丁は「もう少し待ってください。」と言うのです。「もう少し待ってください。」これは、神様の裁きを知らされた、私共の言葉ではないのです。切り倒されることを知らない、実を付けていないいちじくの木に代わって、園丁が、主イエスが神様に向かって言われたのです。「肥やしをやってみます。」とは、十字架を指しています。主イエスは、悔い改めることなく、神様の義しさはどこだ、あの人がこんな目に遭ったのは悪いことをしたからだ、そんな風にのん気に構えている私共の為に、十字架にかかり、命をかけて、私共の裁きを待っていただいたのです。私は思うのです。どうして神様は、自分のことしか考えることが出来ず、互いに戦い続ける人類をこのままにしているのか。二千年もの間、裁きの時を、主イエスの再臨を延ばしているのか。それは、主イエスが十字架におかかりになり、「もう少し待ってください」と神様にかけあって下さったからなのです。主イエスは、今も、父なる神様に「もう少し待ってください」と掛け合って下さっているのです。そして、私共には、「神様の裁きが来る前に悔い改めよ」そう告げておられるのです。主イエスは、自らの十字架の死によって、因果応報の考えを退けられたのです。

 私共は生きていく上で、様々な困難に出会います。どうして、こんな目に遭わねばならないのかと思うことがあります。神様は私を見捨てられたのかと思うことさえあるかもしれません。しかし、そうではないのです。父なる神様は待っておられるのです。私共が悔い改めることを待っておられるのです。神様に愛され、神の子とされた者としてふさわしい実をつけることを待っているのです。苦しみの中で、悲しみの中で、あの十字架の主が共に苦しみ、共に悲しみ、「もう少し待ってください。」と父なる神様に執りなして下さっているのであります。このキリストの御業の中で、私共は自分の人生を受け取り直さなければならないのです。このキリストの御業の中で、悲しみを、不幸を、受け取り直さなければならないのです。何故、こんな不幸があるのか。この問いを神様に向ける者は、神様から「何故、キリストは十字架にかかったのか。」との問いを受けるのです。まずこの問いに答えなければならないのです。この問いに答えることなく、何故世界に苦しみがあるのかとの問いへの答えが与えられることはありません。この神様からの問いに答える中で、私共は十字架の主イエスの御前に立たされます。その時、私共は悔い改めへと導かれざるを得ないのです。そして、この悔い改めの中で、私共の新しい歩みが始まるのです。それは、神を問うのではなく、神に従い、神の恵みに応える歩みなのであります。私共は、この新しい歩みへと招かれているのです。

[2007年2月25日]

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