礼拝説教「もう少し待ってください」エレミヤ書 8章4〜13節 ルカによる福音書 13章1〜9節 小堀 康彦牧師
神様は今、生きて働いておられます。この今生きて働いておられる神様の御前に生きる者となる。それが悔い改めるということであります。父なる神様が私共に求め、主イエスが私共に求め給うことは、この一つのことなのであります。他のことではありません。ただ一つ、神様の御前に生きる者となるということです。
主イエスは、私共が悔い改め、新しく神様の御前に生きる者となる時、決別すべき考え方、ものの見方というものがあると、今朝私共に告げて下さっています。その決別すべき考え方、ものの見方というものが何かと言いますと、それは因果応報という考え方、ものの見方のことなのです。つまり、善いことをしたら善い目に遭い、悪いことをしたら悪い目に遭うという考え方です。この考え方は、広く、深く、あらゆる民族・文化に行き渡っているものだと言って良いでしょう。おおよそ、全ての宗教の根底には、この考え方があると言っても良いかと思います。私共は幼い時から「バチが当たる」とか「バチが当たった」という言い方に親しんでいます。実はこの背後にあるのが、因果応報という考え方、ものの見方なのです。
さて、主イエスが神様の裁きについて、終末について教えておられたちょうどその時、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という知らせが入ってきました。少し判りにくい表現ですけれど、こういうことだと思います。何人かのガリラヤ人がエルサレムの神殿で礼拝をささげていた所、ピラトの部下、つまりローマ兵ですが、彼らが来てガリラヤ人を殺したということだと思います。ただ、この出来事が実際に、いつ、どういう形で起きた事件を指しているのかは特定することは出来ません。いろんな説がありますが、その一つに、ピラトはエルサレムに水道を造ろうとした。ローマ人は彼らが支配した地域には、必ずローマ式の水道や道路を造ったのです。ビラトはその水道を造る資金に、エルサレム神殿に蓄えられているお金、これは献金ですが、それに目をつけたのです。そして、それに反対する人々が立ち上がり、ローマ軍と衝突したのだというのです。あるいは、そうであったのかもしれません。又、4節の「シロアムの塔が倒れて18人が死んだ」というのも、このシロアムというのはエルサレムの水源の一つですから、この水道工事をしていた時に起きた事故を指しているのかもしれません。
だったら、どうしてなのか。これは大問題です。これは、どうして世界に不幸があるのか、悲しみがあるのかという問題につながります。これは、神学の分野では神義論、神様の義、義しさを問うという議論になります。今、この問いについて議論する時間はありません。簡単に結論を出せる問題ではないのです。ただ、一言申し上げるとするならば、この問題と、真っ向から取り組んでいる聖書の個所があります。それが「ヨブ記」です。ヨブ記は始めから終わりまで、この問題を扱っています。 それ故、次のいちじくの木のたとえを話されたのです。このたとえ話には、いちじくの木と、それを植えた主人と、その木の面倒を見ている園丁とが出て来ます。主人は父なる神様です。いちじくの木とは、神様に植えられた木ですから、当時のユダヤ人、現在の私共キリスト者を指しています。これはイザヤもエレミヤも用いた旧約以来の伝統的なたとえ方です。そして、園丁とは主イエス・キリストを指しているのでしょう。父なる神様は、私共に求める実を見つけることが出来ないので、切り倒せ。そう言われる。求める実とは、悔い改めて神様の御前に、神様と共に生きるということであります。それが見られない以上、切り倒すしかない。裁き、滅ぼすしかない。そう言われるのです。しかし、それに対して園丁は、「肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と言うのです。つまり、園丁は「もう少し待ってください。」と言うのです。「もう少し待ってください。」これは、神様の裁きを知らされた、私共の言葉ではないのです。切り倒されることを知らない、実を付けていないいちじくの木に代わって、園丁が、主イエスが神様に向かって言われたのです。「肥やしをやってみます。」とは、十字架を指しています。主イエスは、悔い改めることなく、神様の義しさはどこだ、あの人がこんな目に遭ったのは悪いことをしたからだ、そんな風にのん気に構えている私共の為に、十字架にかかり、命をかけて、私共の裁きを待っていただいたのです。私は思うのです。どうして神様は、自分のことしか考えることが出来ず、互いに戦い続ける人類をこのままにしているのか。二千年もの間、裁きの時を、主イエスの再臨を延ばしているのか。それは、主イエスが十字架におかかりになり、「もう少し待ってください」と神様にかけあって下さったからなのです。主イエスは、今も、父なる神様に「もう少し待ってください」と掛け合って下さっているのです。そして、私共には、「神様の裁きが来る前に悔い改めよ」そう告げておられるのです。主イエスは、自らの十字架の死によって、因果応報の考えを退けられたのです。 私共は生きていく上で、様々な困難に出会います。どうして、こんな目に遭わねばならないのかと思うことがあります。神様は私を見捨てられたのかと思うことさえあるかもしれません。しかし、そうではないのです。父なる神様は待っておられるのです。私共が悔い改めることを待っておられるのです。神様に愛され、神の子とされた者としてふさわしい実をつけることを待っているのです。苦しみの中で、悲しみの中で、あの十字架の主が共に苦しみ、共に悲しみ、「もう少し待ってください。」と父なる神様に執りなして下さっているのであります。このキリストの御業の中で、私共は自分の人生を受け取り直さなければならないのです。このキリストの御業の中で、悲しみを、不幸を、受け取り直さなければならないのです。何故、こんな不幸があるのか。この問いを神様に向ける者は、神様から「何故、キリストは十字架にかかったのか。」との問いを受けるのです。まずこの問いに答えなければならないのです。この問いに答えることなく、何故世界に苦しみがあるのかとの問いへの答えが与えられることはありません。この神様からの問いに答える中で、私共は十字架の主イエスの御前に立たされます。その時、私共は悔い改めへと導かれざるを得ないのです。そして、この悔い改めの中で、私共の新しい歩みが始まるのです。それは、神を問うのではなく、神に従い、神の恵みに応える歩みなのであります。私共は、この新しい歩みへと招かれているのです。 [2007年2月25日] |