今朝、私共はクリスマスの喜びの礼拝をささげています。そして、この礼拝において、一人の姉妹が信仰を告白し、洗礼を受け、神の子、キリストの僕として新しく生まれます。私共はこの神様の救いの御業の証人として立ち会うのです。そして、この喜びの礼拝において、私共が今朝心に刻む御言葉はただ一つ、「インマヌエル」であります。
イエス・キリストの誕生、それは預言者イザヤにおいて預言されたインマヌエル、「神、我らと共にいます。」の実現であったと聖書は告げています。クリスマスは何の日か? 教会学校の生徒たちは「イエス様が生まれた日」と答えます。その通りです。しかし、イエス様が生まれるとはどういうことなのか、どういう意味があるのか、子供たちはそこまでは答えられないかもしれません。しかし、それはそれで良いのです。子供には子供のクリスマスの迎え方があるのですから。たとえ、その意味をはっきりと答えることが出来ないとしても、子供たちはクリスマスを喜んでいます。何か特別な日で、ウキウキ、ワクワクする日であることを知っています。クリスマスが喜びの日であることを知っています。これはとても大切なことでしょう。先日、アドベント第三週の祈祷会で私の娘の奨励を聞きました。娘にとっても生まれて初めての奨励でありました。私も初めて自分の娘が人前で自分の信仰のことを話すのを聞きました。そして、親としてホッと胸をなでおろしたのは、この子はクリスマスを喜びの日として受けとめてきたということでした。クリスマスを喜びの日として迎える。それは何と幸いなことなのかと思うのです。しかも、私共はアドベントに入る前から、クリスマスの喜びの中を歩み始めるのですから、ほとんど一年間の十分の一はクリスマスということになるのです。人生の十分の一はクリスマスの喜びにつつまれる。何と幸いなことだろうかと思います。私共は、自分の子や教会の子供たちに、全力を注いで、クリスマスが喜びの日であることを伝えなくてはならないのだと思う。そしてその為には、何よりも私共自身が喜んでいなければなりません。自分が喜んでいなくては喜びは伝わりません。クリスマスの喜びは、クリスマスを喜ぶ者から伝染していく。そういうものなのではないかと思うのです。
しかし、私共はクリスマスの時にだけ、クリスマスの喜びの中を歩んでいるのではありません。何故なら、クリスマスの喜びは、インマヌエル、「神、我らと共にいます」の喜びに他ならないからです。神様はクリスマスの時にだけ私共と共におられるわけではないからです。クリスマスにおいて出来事となったインマヌエルの恵みは、いつでもどこででも私共をとらえて離さないからであります。
主イエスがお生まれになる時、マリアはまだヨセフと結婚する前に、聖霊によって身ごもりました。ヨセフはこの現実を受け入れることが出来ずに、マリアと縁を切ろうとしたのです。しかし、天使が夢に現れてヨセフに告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」ヨセフは、この天使のお告げを受け入れたのです。ルカによる福音書には、マリアは天使ガブリエルによって、あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を産むと告げられました。マリアは何のことか判らず、どうしてそんなことがあり得ましょうかと言います。そのマリアに対して天使ガブリエルは「神にできないことは何一つない。」と言って説得し、マリアはこれを受け入れました。マリアにしても、ヨセフにしても、聖霊によって身ごもるということはあり得ないことであり、受け入れがたいことだったのです。その二人を説き伏せるように天使がそれぞれに現れて告げたのです。この時、ヨセフとマリアの二人は天使が告げることを理解して、納得して受け入れたということではないでしょう。彼らはこの時、「聖なる畏れ」に打たれたのだと思います。聖なる畏れに撃たれ、有無を言わさぬあり方で、彼らはこれを受け入れたのだろうと思うのです。彼らはユダヤ人です。神様がおられるのは当然のこととして育ったに違いありません。しかし、その神様が自分の人生に、このような形で直接関わる方であると思っていたかどうか。彼らは生まれて初めて、この時に、天使という聖なる方に出会い、畏れ、驚き、自分の理解を超えた出来事を受け入れたのです。そして二人は、主イエスの父として、母として、神様に与えられた務めを果たしたのであります。私は、彼らはこの時、自分の「人生の秘義」と言うべきものに触れたのではないかと思うのです。それは、神様の御手の中にある秘義です。彼らは神様の御手の中にある、自分の人生の秘義に触れた。自分の人生は神様の御心を果たす為にあるという、秘義に触れたのです。彼らは、聖なる方に出会い、この秘義を知らされ、クリスマスの出来事を受け入れたのです。そして、誰よりも早く、誰よりも深く、主イエスの誕生というクリスマスの出来事を喜び、祝う者となったのです。主イエスの誕生を誰よりも早く、誰よりも深く喜んだのは、主イエスの父と主イエスの母である彼らだったのです。
クリスマスを喜び祝う者は、マリアやヨセフのように、聖なる畏れに打たれます。天地を造られた神様が、一人の幼子として誕生する。このどうしても私共の理解の範囲を超える神様の出来事に触れ、ただ驚き、畏れる。そして、この出来事が自分の人生と結び合わされ、自分が神様の御手の中で神様の御心を実現する為に用いられる者であることを知るのであります。このことを知った者の歩みは、インマヌエル、「神、我らと共にいます」という恵みの現実が、その人をとらえて離さないのであります。
私はクリスマスを迎えるたびに思うのです。マリアとヨセフがよくぞ天使の御告げを受け入れてくれたと。私共は、カトリック教会のように、マリアやヨセフを特別に尊い方だとは考えません。彼らも同じ罪人であります。しかし、彼らが主イエスの父・母となることを受け入れ、その務めを果たしてくれたことに対して、深く感謝したいと思うのです。当時のユダヤの社会においては、姦淫の罪を犯したと誹謗されるかもしれない危険を冒しても、神様の御心を受け入れてくれた。そして、主イエス・キリストの誕生という、インマヌエルの恵みを私共に与える為の神の器、神の道具となってくれた。この二人の、信仰による決断。それはその後の全てのキリスト者の幸いを生み出していくことになったのです。私は、マリアとヨセフのことを思うと、一人の人間の信仰による決断というものは、その人にとっては決して楽しいだけではない、重い、苦渋に満ちたものであるかもしれない。しかし、そのことによって、後に続く人々を大きな幸いへと導いていく、そういうものなのではないか。そう思うのであります。教会の歴史とは、そのような人々によって今日の私共へとつながってきたのだと、改めて思わされるのです。ペトロもヨハネもパウロもルターもカルヴァンもそうでした。もちろん、私共はマリアやヨセフのような、人々の目を見張るような役割を与えられているわけではありません。しかし、私共にはたとえ小さくても、それぞれの役割が与えられているのでしょう。そして、それぞれが小さなマリア、小さなヨセフとなることが求められているのだと思うのであります。
しかし、ヨセフとマリアは自分の力と能力で、神様から与えられた主イエスの父・主イエスの母としての務めを全うしたのではありません。マリアとヨセフの許には、いつも主イエスがおられた。マリアとヨセフは父・母として主イエスを守り育てなければなりませんでしたけれど、実は主イエスによって、マリアもヨセフも守られてきたのだろうと思うのです。守っていたように見えて、実は守られていた。そして、インマヌエルの恵みを、誰よりも深く、豊かに受けていたのは、マリアとヨセフであったに違いないと思うのです。
インマヌエル、「神、我らと共にいます」という恵みは、多くの場合私共には隠されているのだと思います。ですから、人は病気になったり、苦しい目に遭いますと、自分は神様に見放されたのではないかと、つい思ってしまうものなのでしょう。しかし、インマヌエルの恵みは、私共が良い時も、悪い時も、少しも変わることなく私共をとらえて離しません。これは確かなことなのです。
そして、そのことの一つの「しるし」が、私共には何処ででも、どんな時にも祈ることが残されているという事実です。祈りは独り言ではありません。神様がそこにおられるから、私共は祈るのでしょう。インマヌエルの恵み、「神我らと共にいます。」という恵みの現実の中に生かされているが故に、私共は祈ることが出来るのです。私共はこの教会に集うことが出来ない時でも、自分の家で、あるいは病室で、祈ることが出来るのです。「父なる神様」、そう、私共が心に一言唱えるのなら、そこはすでに神殿であり、神の家であり、教会なのです。「神、我らと共にいます。」からです。実に、インマヌエルの恵みの中に生きる者とは、祈る者である、祈りの恵みの中に生きる者であるということなのであります。
インマヌエルの恵みを知る道は、実感というようなものではありません。祈りの中で、神様が自分と共におられることを実感することがどうしても必要であるということではないのです。そうではなくて、主イエスがお生まれになった。この事実に目を向け、この出来事によって示された、神の大きさ、力、愛、真実を受け入れれば良いのです。このクリスマスの出来事に表された神様の救いの意志、自分の独り子を一人の人間として送り、十字架におかけになってまで私共の救いを成し遂げて下さった神様。この神様の守りと支えと導きと祝福の中に生かされている私共なのです。
今日は、一人の姉妹が洗礼を受けられますが、この婦人が洗礼へと導かれていく為には、生まれてこの時までの60年という時が必要でした。牧師がこの方と毎月二回の洗礼への学びを始めて二年でありますが、それはほんの最後の仕上げの時を共にしたに過ぎません。この方がこの救いの時を迎える為には、神様の時が満ちなければならなかったのです。それは出エジプトの旅が40年かかり、その中で様々なことがあったように、この方の人生においても、様々なことがあった。しかし今、それらの時を振り返り、インマヌエル、「神、我らと共にいます」という恵みの中での歩みであったことを、覚えておられることと思う。
私共は皆、一人一人、そのような神様の救いの歴史を持っているのでしょう。クリスマスのこの時、私共はその全てをインマヌエルの恵みの中で受け取り直したいと思うのです。そして、明日への希望を新たにしたいと思うのです。インマヌエル。それは、昔も今もこれからも、変わることなく私共を包んでいる神様の恵みの現実だからです。
今年のクリスマス、世界ではなお戦争が続いています。悲惨な状況はあります。しかし、私共は希望を失いません。インマヌエルの神様の救いの現実は、どんな人間の悲惨によっても消し去られ失われることはないからです。神、我らと共にいます。「我ら」です。神様は「私」と共におられるだけではないのです。この「我ら」という広がりの中で、この世界の歴史の全てが、この恵みの中に包まれ、とらえられていることを信じて良いのであります。
今日は聖餐にも与ります。この聖餐は目に見える形で、私共が口で味わう形で、インマヌエルの恵みの現実を私共に告げているのです。インマヌエル、「神、我らと共にいます。」クリスマスに生まれたあの主イエス・キリストが、今も聖霊として、私共と共にいて下さるのです。新しく迎える2007年も又、私共の群れに新しく加えられる婦人と共に、このインマヌエルの恵みの中を、歩んでまいりたいと思うのであります。
[2006年12月24日]
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