アブラハムの息子イサク。彼はアブラハムが100才の時に妻サラとの間に与えられた独り息子です。イサクはアブラハムの祝福を受け継ぐ者として生まれました。イサクとは、「彼は笑う」という意味です。アブラハムもサラも自分達がこれ程高齢になってからどうして子が与えられようかと、神様の約束を笑いました。しかし、この神様を侮るニヒルな笑い、神様を馬鹿にした笑いは、本当にイサクが与えられることによって、心からの喜びの笑い、神様を誉め讃える笑いへと変えられました。「彼は笑う」という意味のイサクと名付けられた彼の生涯には、その名の通り神様の祝福による笑いがありました。勿論、イサクの人生には何の問題も困難も無かったということではありません。今から三千年以上も前のことです。食べるということだけで大変な時代でした。イサクも例外ではありません。しかし、何度も困難な状況の中に落ちこみながら、それでもなおイサクは守られました。まことに不思議なように、彼は守られたのです。それは、彼が神様の祝福を受け継ぐ者として、選び立てられていたからです。神様の祝福がイサクをとらえて離さず、イサクがどこに行っても、神様の祝福の方がイサクを追いかけて来たのです。私共は、神様の祝福を追い求める、神様の恵みを求める、それが信仰者の歩みであると思っている所があります。日本では昔から、お百度参りとか、お茶断ちとか、自分の願いをかなえる為に、様々な信心業がなされます。そういうことをすることが信仰だと思われている所もあります。神様の恵み、祝福を求めて信心するのです。しかし、聖書は神様の恵みと祝福とは、私共が追い求めるものではなくて、逆に神様の恵みと祝福とが私共を追いかけてくるのだと告げているのです。詩編の23編、詩編の中で最も有名な詩編の一つですが、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まる詩です。この詩編の最後には、「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」とあります。主の恵みの御手の中に生かされる幸いを歌う詩人は、自分の生涯は神様の恵みと慈しみを追い求めるものではなくて、神様の恵みと祝福の方が私を追いかけて来るのだ。そう歌ったのです。これが聖書の神様の恵みの現実の中に生きた者の歌なのであります。イサクの生涯も、まさにそのようなものだったのです。
私共は、つらいこと、苦しいこと、困難なことに対しては大変敏感です。しかし、神様からの恵みや祝福に対しては鈍感な所があるのではないかと思います。成功すれば自分の手柄、自分の力で手に入れたと思い、苦しいことがあればそれは神様のせいにする。そういう所があるでしょう。しかし、そのような心の動きの中では、なかなか神様の恵みと祝福が見えてこない、判らない。そういうことになってしまうのではないかと思うのであります。そうではなくて、すでに与えられている神様の恵みに対して、目を開かれていきたいと思うのです。自分を追いかけてきて離さない神様の恵みと祝福に目を開かれていたいと思うのです。そうすれば、私共もイサクのように、笑うことが出来るからです。
さて、イサクが住んでいた地方に飢饉があったと聖書は告げています。12章においてはアブラハムが同じように飢饉にあった時、彼はエジプトに逃れて行きました。しかし、この時イサクは、エジプトに行くことを神様に禁じられてしまいます。2〜3節「そのとき、主がイサクに現れて言われた。『エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。』」とあります。エジプトにはナイル川がありますので、周りの国々が飢饉でも、エジプトだけは大丈夫、何とかなる。それがこの時代の常識だったのだと思います。ところがイサクは神様によって、エジプトに行くことを禁じられてしまうのです。神様はイサクに、アブラハムに与えた祝福の約束を与えるのです。私が祝福するから、ここに居なさいと、神様はイサクに告げたのです。12節を見ますと、「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。」とあります。彼は穀物の種を蒔いたのです。飢饉がある時に、種を蒔くとはどういうことなのか。普通は、こういう時には種を蒔かないだろうと思います。飢饉なのですから、種を蒔くより、それを食糧にするのが先であり、種を蒔いてもダメだろうという思いが先に立つものでしょう。しかし、イサクは種を蒔き、百倍もの収穫を得たのです。イサクが種を蒔いたのは、神様がこの土地においてイサクを祝福するという、神様の言葉を信じたからでありましょう。イサクは、この神様の約束を信じ、種を蒔き、神様の祝福を与えられたのであります。これが第一の祝福です。
イサクが人格的に優れた人であったという訳ではありません。7〜11節を見ますと、イサクは妻のリベカが美しかったので、美しいリベカを手に入れる為に、土地の人が自分を殺すのではないかと思って、リベカを妹といつわりました。これは、12章において、エジプトでアブラハムがサラを妹といつわったのと同じです。自分が助かる為に、リベカを妹と言っていつわる。結果的には問題は起きませんでしたけれど、妹なのですから、リベカを自分の妻にするという人が出てこないとも限りません。自分の為に妻を犠牲にするということが起きたかもしれない。イサクのしたことは、弁解の余地はありません。しかし、神様はそのようなイサクを祝福したのです。神様はイサクが善人だから祝福したのではないのです。イサクがアブラハムの祝福を受け継ぐ者だから祝福されたのであります。私共もイサクと同じなのです。私共はアブラハムの子孫であり、アブラハムの祝福を受け継ぐ者とされた者なのです。キリスト者とは、そういう者です。ですから神様は、私共を必ず祝福して下さるのであります。このことを、私共は単純に信じて良いのであります。私共が善人であるから、信仰深いから祝福されるのではありません。私共がアブラハムの子孫とされている、アブラハムの祝福を受け継ぐ者とされている、だから神様は私共を祝福されるのです。
イサクは、百倍もの収穫を得ました。しかし、周りは飢饉なのですから、イサクは周りの人々からねたみを買ってしまいました。これは私共にはどうしようもありません。「隣の家に蔵が建てば、腹が立つ。」と言われるくらいですから、イサクが神様の祝福を受けて豊かになりますと、ねたまれるのは仕方がないことでした。しかも、彼は元々その土地に居た人ではありません。そこで、その土地の王アビメレクに「ここから出て行っていただきたい。」と言われてしまったのです。
ここからが大切です。イサクは、ここでアビメレクと争わないのです。イサクは出て行きます。そして、井戸を掘るのです。イサクは種を蒔いたのですから農耕者であるかに見えますが、やはりアブラハムの子であり牧畜の民でもあります。農耕にたずさわろうと、牧畜をしようと、大切なのは水です。日本人は安全と水はタダで手に入ると思っている、という言い方がされる時がありますが、安全も水も、それを手に入れるにはそれなりの費用がかかる。それは世界の常識です。旧約聖書の時代、水は決定的に重要なものです。その土地の井戸を支配するということが、その土地を支配するということと同じ意味を持っていたのです。イサクは井戸を掘りました。しかし、井戸を掘り当てると、そこの土地の人々がこの井戸は自分達のものだと言って来る。イサクは争いません。イサクは次の土地に移り、また井戸を掘ったのです。そして、その土地で同じように井戸をめぐって争いが生じると、彼は次の土地に移って井戸を掘りました。彼は、エセク(争い)、シトナ(敵意)、レホボト(広い場所)という井戸を掘り、更に26章の最後には、ベテル・シェバの井戸を掘り当てたのです。四つの井戸をイサクは掘り当てたのです。私は、ここにも神様の祝福があると思います。イサクが行く所、行く所で、井戸が掘り当てられる。日本のように、どこでも掘れば水が出てくるというような土地ではないのです。それに井戸を掘るというのは、大変な技術も必要でした。それ故、井戸は、大変貴重なものだったのです。イサクは、行く所、行く所で井戸を掘り当てる。しかも、それが争いの種になると、そこから移って行って、また、そこで井戸を掘り当てるという、当時の人々の目から見れば、奇跡としか言いようのないことをしたのです。イサクは、自分で掘り当てた井戸を守る為に戦うことも辞さない。そういう人ではなかったのです。「これは私が掘り当てた井戸だ。私のものだ。」そう言って争うことも出来たでしょう。しかし、彼はそうはしないのです。彼は、井戸を譲ってしまうのです。私共だったらどうでしょう。豊かな財産を築いたと思ったら、出て行けと言われ、井戸を掘り当てて、ここで生活していけると思ったら、「これは自分達の井戸だ。」と言われ、次の土地に移って行く。そこでも井戸を掘り当てれば、そこでも争いが生じ、次の土地に移っていく。こんな人生のどこに神様の祝福があるのかと思うのではないでしょうか。それどころか、自分の人生には、少しも良い所がない、そう言って嘆くかもしれません。しかし、イサクは嘆きません。それどころか、聖書はイサクが何と神様に祝福された者であるかと告げているのです。
28節以下を見ますと、イサクに出て行ってくれと言った王様、アビメレクがイサクの所に来て、互いに危害を加えないという契約を結んで欲しいと言うのです。理由は、28節の「主があなと共におられることがよく分かったからです。」、そして、29節の最後にある「あなたは確かに、主に祝福された方です。」という所に現れていると思います。アビメレクは、飢饉の時に種を蒔き、百倍もの収穫があったこと、次々と井戸を掘り当てたこと、それを見て、イサクには神様がついている、イサクは神様の祝福を受けた者だということがはっきり判った。こういう人を敵に回さない方が良い。そうアビメレクは考えたのです。
イサクの歩みは、一見すると、次々に場所を追われ、せっかく手に入れた井戸も手放さなければならないということが続く。何とも、不幸な人生のようにも見える。しかし、そうではないのです。イサクがどこに行っても、神様は共にいて下さり、神様の祝福がイサクを追いかけて来て、イサクを離さないのです。同じ人生であっても、どこを見るかによって、その印象は全く違うものになるということでしょう。私共の幸いは、何を手に入れたかではなく、神様が共にいて下さったかどうか、神様の祝福を受け取ったかどうかにあるのではないでしょうか。イサクも飢饉に会いました。しかし、百倍の収穫を与えられました。土地を追われますが、井戸を掘り当て続けました。そして何よりも、彼の人生の中に争いがなかったのであります。争いの種は山ほどありました。しかし、彼はゆずって、ゆずって、ゆずって、争いにしなかったのです。私には、神様の祝福に生きる者のしるしが、ここにあるように思えてなりません。イサクは、神様の祝福を信じるが故に、エジプトにも行かずに飢饉の中で種を蒔き、掘り当てた井戸も手放し、次の土地に移って行くことが出来たのでしょう。神様の祝福を信じるということは、神様の御手の中にある明日を信じるということでもあるのです。イサクは争わず、まさにその名前イサク、「彼は笑う」のように、喜び笑いつつ、この地上での歩みをなしたのであります。
私共も神様の祝福を受けて生きる者であります。礼拝の最後に、私共は神様の祝福を受け、この場からそれぞれの場へと遣わされて行くのであります。祝福において告げられる言葉は、民数記6章のアロンの祝福と、コリントの信徒への手紙二の最後にあります三位一体の祝福です。このコリントの信徒への手紙二の祝福の言葉の直前には、11節「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」とあるのです。ここには、まさに神様の祝福の中に生きる者の姿が告げられているのでしょう。「平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」この言葉を心にとめたいと思うのです。私共は神様の祝福を受けた者として、アブラハムに約束された神様の祝福を受け継ぐ者として、この一週間も歩んで行くのであります。神様の祝福は、私共がどこに生きていても、追いかけて来て、私共を離しません。どうしてか。主イエス・キリストが私共と共にいて下さるからです。だから、神様の祝福が私共を追いかけてくるのです。私共がたとえ、病気になっても、悲しいことがあっても、それは私共から神様の祝福を奪うことは出来ません。死に打ち勝ち給うた主イエス・キリストご自身が、私共と共にいて下さるからです。だから安心して行きなさい。次から次へと土地を追われたイサクに、レホボト(広い場所)が与えられたように、私共も必ず広い場所、安心して、ゆったり生きることが出来る場所へと導いていただけるからです。詩人は歌いました。「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩編23編2〜3節) 主は、我が羊飼いであられます。私共は主の羊です。だから大丈夫なのです。
[2006年11月5日]
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