富山鹿島町教会

イースター記念礼拝説教

「主は我が力、我が歌、我が救い」
出エジプト記 15章1〜21節
マタイによる福音書 28章1〜10節

小堀 康彦牧師

 私共は今朝、主イエスの復活の出来事を覚え、これを記念する礼拝を守っております。今、「ハレルヤ、ハレルヤ」、「主はほむべきかな」と、繰り返し歌いました。ハレルヤ、主はほむべきかな。まことにイースターにふさわしい賛美であります。主イエスの歩みは、十字架の上の死をもって全てが終わったかのように見えました。誰もがそう思いました。主イエスの弟子達もそう思っていました。主イエスを十字架につけた祭司長・律法学者・長老達も皆そう思っておりました。しかし、神様の救いの御業は、終わりませんでした。誰もが心に思い描いたこともない出来事を起こされたのです。神様は御子キリスト・イエスを死人の中から復活させられ、主イエスを殺した人々の愚かな、罪に満ちた業を無にされたのです。神様は、人間のどんな罪に満ちた力も業も、神様の救いの業に対抗することは出来ないことを示されました。復活は、単に一度死んだ人間が生き返るということではありません。いわゆる蘇生ということではないのです。もし、そうであるならば、甦った主イエスは、再び死ななければならないでしょう。しかし、主イエスは復活されて、死を超えた、死の先にある命の門を開いて下さったのであります。主イエスは死んで甦ることによって、死の支配に終わりを告げたのです。私共を、この世界を支配しているのは死ではなく、永遠に生き給う神様であることを示されたのです。
 主イエスの復活という出来事は、二千年前に主イエスというただ独りの神の御子の上に起きた出来事です。前にも後にも、主イエスと同じように復活した者は居ません。しかし、この主イエスの復活という出来事は、私共には関係のない、主イエスだけの出来事ということではないのです。それは、主イエスの十字架と同じです。私共は十字架につきません。主イエスが私共の為に、私共に代わって十字架におかかりになられたからです。私共の罪の裁きを、主イエスが私共に代わって、十字架の死をもって引き受けて下さったからです。そのように、主イエスの十字架の死が、私共の為であるならば、主イエスの復活も又、私共の為なのであります。主イエスは十字架の上で死なれ、三日目に甦ることによって、私共の初穂となられたのです。復活第一号になられた。それは、私共も又、主イエスの復活に続いて、時が来れば共々に復活する者とされたということなのであります。だから、ハレルヤなのです。「主はほむべきかな」なのであります。
 今、出エジプト記15章をお読みいたしました。これは、モーセに率いられてエジプトから脱出したイスラエルの民が、前は海、後ろはエジプトの軍勢という、もうどうにもならない、絶体絶命という状況の中で、何と神様が海を左右に分けて道を造り、イスラエルの民を救って下さった。あの海の奇跡を経験し、その直後、その思いもかけない神様の救いの御業を喜び、神様をほめたたえた歌です。この歌を歌った時のイスラエルの民の喜び、それは、イースターを迎える私共の喜びと重なるでしょう。罪の縄目から逃れることが出来ず、死の支配から逃れることの出来ない私共を、神様は思いも掛けない復活という出来事をもって救ってくださったのです。まことに、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救い」であります。ハレルヤなのです。

 私は元々、マイナス思考の強い人間です。何かをすれば、つい失敗した時のこと、悪い結果に終わった時のことを考えてしまいます。あまり自分が願った通りの結果になるようなことは考えられない。そして、悪い結果が出ると、「やっぱりね」と思ってしまう。そういう少年時代、青年時代を過ごしました。現実的と言えば現実的なのですが、良い結果を夢見て浮かれるということは、まずありませんでした。しかし、20才で信仰を与えられ、主イエスと共に歩む者とされて、そのような私の性格が少しずつ変わってきたように思います。今は、何をしてもあまり結果を先回りして考えることがなくなったように思います。良い結果を考えて楽しむということもありませんが、悪い結果を思って暗くなるということも無くなりました。結果がどうであれ、自分が出来ることを精一杯やってみる。そして、あまり良い結果が出なかったとしても、それが全てではない。そのことを知るようになりました。神様が、何か判らないけれど、次を用意して下さっている。必ず次がある。そう自然に思えるようになりました。どんな深刻な状況の中にあっても、次がある。これで終わりではない。そう思うのです。それは、神様がおられる以上、そういうことにならざるを得ないからであります。どんなに明日を展望することが出来ない中にあっても、いや、そもそも私共は明日を知らないのです。明日は、全てを知り、全てを支配されている神様の御手の中にあることなのです。ですから、明日を見通せない状況の中にあっても、私共は明日を神様の御手に委ねて、思いわずらうことなく、今日出来ること、今日しなければならないことをすれば良いのでありましょう。この神様による、私共の思いを超えた次の一手こそ、海の奇跡であり、主イエスの復活という出来事だったのであります。主イエスの復活という出来事を知らされた私共は、「神様による次の一手」というものがあることを知ったのであります。

 さて、主イエスが復活された日のことを、マタイによる福音書の報告に従って見てみましょう。28章1節「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」とあります。週の初めの日とは、日曜日です。今朝の日の出は5時9分でした。日の出前の、東の空が白々としてくる頃、朝の4時半頃でしょうか。「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」のです。他の福音書によると、彼女達は、主イエスの遺体に香料を塗る為に墓に行ったと記されております。主イエスは、金曜日の夕方3時に息を引き取り、アリマタヤのヨセフによって、墓に葬られました。日没と共に安息日が始まりますので、時間がありませんでした。きっと、アリマタヤのヨセフがピラトから主イエスの亡骸を引き取り、墓に葬るまで一時間も無かったのではないかと思います。時間がなかった。主イエスの遺体は、普通の人のように香料を塗るという作法も受けずに、墓に葬られたのです。主イエスに従って来た婦人達は、そのことが心残りだったのでしょう。自分達の手で、主イエスの遺体を丁重に葬りたかったのです。せめて人並みに、亡骸に香料を塗るぐらいはしてあげたい、そう思ったのです。彼女達は、主イエスが葬られた墓に急ぎました。その時、大きな地震が起こりました。主の天使が降ってきたのです。そして天使が告げたのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」これは、婦人達にとって、思ってもいないことでした。彼女達は、驚き、恐れました。天使が告げたように、彼女達は「十字架につけられたイエス」を求めてやってきたのです。十字架にかけられ、死んでしまった主イエスの遺体を求めてやってきたのです。彼女達の中には、主イエスは甦っているかもしれないということに対しては、少しの期待もなかったのです。主イエスの遺体は葬られた墓の中にある。そう信じて疑っていませんでした。しかし、主イエスの遺体は墓の中にはなかったのです。そして、天使は「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と告げたのです。かねて言われていたとおりです。確かに、主イエスは三度、ご自身が罪人の手に捕らえられ、十字架につけられて殺され、三日目に復活することを予告されたことが、福音書に記されています。この三度の予告は、単に回数を示している以上に、完全に、完璧に、弟子達が忘れることがない程十分に予告をしたということでしょう。ところが、天使に告げられるまで、婦人達はそのことを思い出しもしなかったのです。それは、主イエスの予告にもかかわらず、この十字架上での死というものが、くつがえすことの出来ない決定的な出来事として、婦人達に受け取られていたということです。死というものは、それが来てしまえば、もう誰も動かすことの出来ない、決定的なもの。死ぬまでは何らかの手だてもあろう。しかし、死んだら終わり。それが、婦人達の常識であり、この世界の常識でありました。常識というよりも、この世界の動かし得ない法則、原理とも言うべきものであります。しかし、天使の告げた言葉は、その原理、原則、常識をくつがえすものだったのです。この世の原理、原則、常識、当たり前のことという中には、神様は入っていません。この「死んだら終わり」というこの世界の原理、原則に従わない方、それが神様です。主イエスは、この甦りの事実によって、神様がおられること、生きて働き、私共と共に居て下さることをお示しになったのであります。
 良いですか皆さん。神様が居られる、私共と共に居て下さるということは、私共の明日への常識的な見通しは、くつがえされるのだということなのです。神様の救いの御業というものは、いつもそうなのです。神様の御業は、いつも私共の考えの外にあるのです。だから、私共は絶望というものを知らない者とされているのです。

 さて、婦人達は天使の知らせを受けて、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、この知らせを弟子達に知らせる為に走ったのです。彼女達は走った。この喜びの知らせを伝える為に走った。すると、復活の主イエスが婦人達の前に立って、「おはよう」、口語訳では「平安あれ」と言われたのです。これは直訳すれば「喜べ」となる言葉です。そして、復活の主に出会い、婦人達は主の前にひれ伏し、拝んだのです。世界で最初の主イエスの復活の知らせを伝えた人は、この婦人達でした。そして、その知らせを伝えようとした時、婦人達の前に復活の主が現れたのです。これは、とても大切な所です。この時、まだ婦人達は復活の主に実際には出会っていなかった。しかし、天使の知らせによって主イエスの復活を知らされ、それを伝えようとした。彼女達は走った。すると、その途中で今度は実際に復活の主イエスが現れ、言葉をかけられたのです。私は伝道者として、このことが良く判るのです。私共はどこで復活の主と出会うのか。それは、主の復活の知らせ、喜びの知らせを伝えようとして走っている時に、復活の主がその姿を現し、言葉をかけられるということなのではないでしょうか。
 もちろん、復活の主は自由にその御姿を私共に示されます。私共が病気で床に伏している時、祈っている時、悩みの中にいる時、それは神様の自由の中にあることです。しかし、確かに私共が主の復活の恵みを誰かに伝えようとして一生懸命になっている時、神様は不思議な出来事をもって、主は甦り、今も生きて働き給うことを、私共に示して下さるのであります。
 私共は主イエスのご復活の出来事を伝えたいと思う。しかし私共は、どうやって主イエスの復活を伝えようか、自分には相手が信じてくれそうな巧みな言葉を持っていないと戸惑います。そもそも、主イエスの復活を信じて貰えるように語る巧みな言葉などというものがあるのでしょうか。主イエスのご復活は、「主は甦られた」としか言いようがない。そして、これは決して誰にでも信じてもらえるものではないのです。事実、この婦人たちが主イエスの弟子たちにこの主イエスのご復活の出来事を知らせたときにも、弟子達はそれを信じなかったことが他の福音書には記されています。主イエスの弟子達さえ信じなかったのです。しかし、この信じることの出来ない弟子達に、復活の主ご自身がその御姿をお見せになりました。そして、彼らも信じる者とされたのです。私共が語る主イエスの復活を、それを聞いた者が信じようと信じまいと私共は心配しなくても良いのです。神様が良しとされた者には、信じさせるために、復活の主ご自身がその御姿を示してくださるからです。大切なことは、私共が復活の主を伝えようとして走り出すとき、復活の主が、まず私共にその御姿を現してくださるということなのです。

 復活の主は言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」復活された主は、弟子達を「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。弟子達の主であり、師であられた主が、弟子達の兄弟となられたのです。それは弟子達が主イエスと同じように、神の子としての身分を与えられたということを意味しているのでしょう。私共もそうです。天地の造り主である神様に対して、「アバ、父よ。」と呼ぶことが出来る者とされたのです。私共が主イエスに対して、兄弟となろうとする前に、主イエスの方が私共の所にまで下ってこられて、兄弟となって下さったのであります。
 ガリラヤ、それは弟子達が主イエスと出会う前に生活していた所、自分達が生まれ育った所、そして主イエスと出会い、共に歩んだ所。そこで、主イエスは再び弟子達と出会うと約束されたのです。エルサレムから遠く離れ、辺境と言われた土地。神様の救いから遠いと思われていた所。そこが、復活の主との出会いの場となるのです。私共にもガリラヤがあります。私共にとって、この富山の地がガリラヤなのです。家族の中で一人だけ、町内の中で自分の家族だけが、この礼拝に集っている私共です。とすれば、自分の家族がガリラヤであり、町内がガリラヤであり、職場がガリラヤなのです。復活の主は、そこで私共と出会うと約束して下さっているのです。
 私共は、ただ今から聖餐に与ります。この聖餐は、復活された主イエスと共にいただく食事です。この聖餐に与りつつ、代々の聖徒達は、主が今も生きて、自分達と共に居て下さることを心に刻み、自分達の明日を、その主の御手の中に委ねてきたのです。私共も又、今この聖餐に与り、復活の主の命に共に与り、死の力から解き放たれ、死の先にある永遠の命に目を向けて、明日への思いわずらいの一切を神様にお委ねさせていただきたいと思うのです。

[2006年4月16日]

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