富山鹿島町教会

礼拝説教

「友あり」
詩編 133編1〜3節
ルカによる福音書 9章49〜56節

小堀 康彦牧師

 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩編133編の一節です。ここには、今朝、このように礼拝に集っている私共の思いが歌われています。この詩編133編は、都に上る歌です。イスラエルの人々が都エルサレムにある神殿に上って礼拝をささげる。その旅の途中で歌った歌です。彼らは、エルサレムを目指しながら、この歌を何度も何度も繰り返し歌ったことでしょう。神様の御前に共に座る。その光景を思い描きながら、何度もこの歌を繰り返し、旅をした。それは、私共が主の日の礼拝を守る為にここに集う時の思いと重なるでしょう。私共は主の日の礼拝のたびごとにここに集います。神様に礼拝をささげる為に、神様を拝む為にここに集う。しかし、私共は一人で礼拝するのではありません。ここには愛する兄弟姉妹がいる。信仰の友がいる。それらの人達と共に神様の御前に座る。何という恵み、何という喜び。ここには、神様の御前における喜び、平安、祝福があるからです。イスラエルの人々が、何日かの旅の末にエルサレムを目指した様に、私共も又、7日の旅路の末に、ここにたどり着いた。この兄弟が共に座っているこの場に集う為に、私共は一週間の歩みをなしてきたのでありましょう。
 牧師館には、金曜日や土曜日になると、しばしば今度の日曜日は礼拝に行くことが出来ませんという電話がかかってきます。理由は様々ですが、一様にとても残念ですという思いが伝わってきます。その思いを受けて、電話口で祈ることも良くあります。そして、私はその人々を覚え、その人々と共に、その人々に代わって、礼拝を守ります。
 私は、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」と、言える交わりの中に生きる者とされている幸いを、心から感謝しています。決しておせっかいでもなく、しかし互いに気遣い合い、共に喜び、共に涙する交わりであります。共に主をほめたたえ、共に祈りを合わせることの出来る幸いな交わり。それは何ものにも換えがたいものであります。

 しかし、私共がこの幸いな交わりの中に生かされる時、一つの危険、一つの黒い誘惑とでも言うべきものと隣り合わせにあるということにも、私共は気付いていなければならないだろうと思うのです。それは、内と外、自分達仲間とそうでない人達との区別の中で生じる傲慢な思いです。内の人、仲間の人は良い人。しかし外の人、自分達と違う人は悪い人。自分達は正しく、外は悪。内は清く、外は汚れている。内は大切、外はどうでも良い。もっとはっきり言えば、内は味方で外は敵という心のあり様です。
 このような心の動きは、しばしば政治結社や新興宗教などに見られるものです。カルトと呼ばれる宗教には必ず見られる特徴だと言って良いでしょう。外を敵と見なすことによって、内部の結束を強めるというものです。これは、意図的になされる時もありますが、自然な心の動きの中で生まれることもあります。この心の動きは、特別なものではなくて、ほとんど人間の本能と言っても良い程に、何らかのグループが出来れば、強い弱いの程度の差はあるにしろ、必ず備わってしまう心の動きなのではないかと思います。その意味では、この心の動きは、大変根が深い。それは、私共の存在と切り離すことが出来ない程であり、私の根本的な罪と結びついているのではないかとさえ、私には思えます。これは大きく言えば、ナショナリズムの問題にもなりますし、宗教対立、文化対立の問題にもなってきます。
 学校におけるイジメの問題が、しばしばマスコミなどに取り上げられます。話を聞くだけで腹が立つようなケースも多いし、本当に心を痛める場合が少なくありません。しかし、学校からイジメを完全に無くすことは出来ないのではないかとも私は思います。もちろん、陰湿な、悲惨な結果をもたらすイジメも仕方がないと言うのではないのです。このイジメの問題もまた、私共の罪と結びついているものだと思うからです。私の娘が小学校の五年生の頃だったと思いますが、学校に行くのが嫌になったことがありました。聞いてみると、仲間はずれにされるのが恐いと言う。しかも、仲間はずれにされる子は、毎日違う。どうして、その子が仲間はずれにされるのかも判らない。だから、いつ自分がそうなるのか判らない。これは、大変なプレッシャーだったようです。親としては、何もしてあげることも出来ず、神様の守りを祈って送り出すしかありませんでした。しかし、一年もするとそういうことは無くなったと言うのです。ある教育学者が言うには、これは女の子によく見られる、コミュニケーション能力開発の一つの過程だと言うのです。仮の敵を作って、仲間を作る。それは仮の敵ですから、誰でも良い。だから毎日替わる。そして、昨日は仮の敵だった子が今日は仲間になる。そこで大変高度なコミュニケーション能力が開発されていくというのです。男の子には、あまり見られないそうです。なる程と少しは納得しますが、やっぱり釈然としません。やっぱり、仮の敵を作って仲間作りをするという営みは罪であり、悪魔的知恵ではないかと思うからです。確かに、私共が仲間を作ると、そこには必ず仲間でない人が出来てくる。このことをどのように受けとめなければならないのか。これは、うるわしい交わりの中に生かされている私共にとっても、とても大きな課題であることは間違いないことでありましょう。
 自分達は神様を知っている。イエス様を知っている。自分達は救われた。しかし、世の人は神様を知らず、救いも知らない。それはその通りですけれど、だからといって自分達以外の人達を見下すようなことは、とんでもないことです。私共が救われたのは、ただ神様の恵み、神様の憐れみによるのであって、少しも私共の中に手柄はないのです。ですから、私共は神様に救われたことを喜び、感謝をしこそすれ、自分達以外の者を見くびったり、軽んじたりしてはならないのです。何故なら、まだキリストを知らないその人の為にも、主イエスは十字架におかかりになられたからです。私共に対しての主イエスの眼差しと、主イエスを知らない人に対しての主イエスの眼差しは違うのでしょうか。私は、主イエスは同じように私共を見てくださっているのではないかと思うのです。このキリストのまなざしを忘れると、私共は自分たちの仲間意識というものに支配され、傲慢になり、罪を犯すことになってしまうのではないでしょうか。私共は、内と外という意識を、このキリストの故に乗り超えていく者として召されているのだろうと思うのです。そして、そこに生まれるのが、「まことの愛の交わり」、「主イエスの愛の共同体」ということになるのではないでしょうか。何故なら、私共の交わりの中心には、この内と外とを超えて、全ての者をその愛の眼差しの中で見ておられ、その御手の中で治めておられる、主イエス・キリストご自身がおられるからであります。

 さて、今朝与えられております御言葉において、49節を見ますと、「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。』」とあります。主イエスの弟子達は、自分の仲間以外の者が主イエスの名によって悪霊を追い出しているのを見て、やめさせようとしたというのです。イエス様は自分達のグループの仲間であり、それ以外の者が主イエスの御名を使うことを、彼らはとんでもないことだと考えたのです。弟子達の気持ちは判ります。しかし、主イエスは何と言われたか。50節「イエスは言われた。『やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。』」 主イエスは自分達に直接逆らったりしない人は、味方なのだと言われたのです。これは、とっても興味深い言葉です。弟子達は、自分達と同じでない者は「敵」だと考えたのでしょう。しかし、主イエスは、あからさまに敵でない限り、「味方」だと言われた。私共は敵を作るのは得意なのですが、どうも味方を作るのは苦手のようです。しかし、イエス様は弟子達に、自分達の仲間以外の者も味方と見なさいと教えて下さったのです。ここで主イエスは、内と外、仲間とそれ以外の人の垣根を超えておられます。何故なら、主イエスはキリスト者だけの主、王ではなく、天地を造られた神様の御子として、全ての生ける者の主、王であられるからであります。ここで私共は、主イエスがヨハネによる福音書10章16節において、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われたことを思い起こすのです。私共は主イエスの羊であり、教会という囲いの中に生かされています。しかし、この教会という囲いの外にも、主イエスによって導かれなければならない羊がいるのです。だから、私共は伝道するのでしょう。伝道の第一歩は、主イエスを知らない人を私共が味方と見ることが出来るかどうか、その人の友となれるかどうかにかかっていると言って良いと思います。いくら敵を作っても、神様の栄光を現すことは出来ないのです。

 さて次に、主イエスの一行はサマリア人の村を通ることになりました。弟子が先に、主イエスが来られることを知らせる為に、準備をする為に、使いに出されました。ところが、その村の人々は主イエスを歓迎しなかったのです。この時、主イエスの弟子である、ヤコブとヨハネはとんでもないことを口にします。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」何とも激しい言葉です。このヤコブとヨハネという二人の弟子は、大変気性が激しかったようで、マルコによる福音書3章17節において「ボアネルゲス」、つまり「雷の子ら」という名を主イエスに付けられた程でした。マルコによる福音書では、この時シモンにはペトロ、岩という名が付けられました。シモンはこれから後も「ペトロ」と言われ続けましたが、ヤコブとヨハネはその後の教会の歴史の中で「ボアネルゲス」「雷の子ら」と呼ばれることはなくなりました。そのことについては、後ほど触れます。このような名を主イエスから頂いたのですから、この二人がどれ程激しい気性であったかが判るでしょう。彼らにしてみれば、自分達のメシア、まことの王、救い主を歓迎しないとは、何という罰当たりな者達だと腹が立って仕方がなかったのでしょう。しかし、当時、ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲でしたから、サマリア人の対応は、当時としては、まことに当たり前のものだったと考えて良いと思います。しかし、このヤコブとヨハネは腹の虫がおさまらず、こんなことを言ってしまったのでしょう。しかし、自分達が大切にしている方を、自分達以外の人が同じように大切にしてくれるとは限らないのです。日曜日の礼拝もそうでしょう。この日本でキリスト者であるということは、このような場面に日常的に出会わなければならないのです。その度に天から火を下していたら、日本中が焼け野原になってしまいます。この時、主イエスはこの二人の弟子を戒め、別の村に行かれました。むやみな衝突を避けられたのです。これも又、主イエスが私共に教えて下さっている知恵ではないかと思います。

 ところで、この大変激しいことを口にした二人の弟子でありますが、兄のヤコブは十二使徒の中で最初の殉教者となりました。そして弟のヨハネですが、彼は長生きして、エフェソの教会で牧会を続けたと言われています。彼が記した手紙がヨハネの手紙一、二、三として新約聖書に収められております。このヨハネの手紙で繰り返されているのは、「互いに愛し合いなさい。」という言葉です。繰り返し繰り返し愛を語る手紙を彼は書いたのです。それ故、彼は「愛の使徒ヨハネ」と呼ばれるようになりました。「雷の子」が、「愛の使徒」に変えられていったのです。私共は、このことを大切に受け取りたいと思うのです。主イエスの弟子も、元々は味方を作ることが苦手で、敵を作ってしまうのは大得意という者達だったのです。自分たちと違う者に腹を立てて、敵と見なしてしまう者だったのです。しかし、主イエスの救いに与り、主イエスの恵みの御業を告げる者として生かされ、立たされていく中で、愛の人にと変えられていったのです。私共自身も、私共の交わりも、そのように変えられ、成長していくことを、私共は信じて良いのです。私共の愛は、自分の仲間達だけに向けられるものではありません。何故なら、主イエス・キリストは世界の主、世界の王だからです。主イエスの愛は外に向かって溢れていくものです。外に溢れていかない愛は、動かず、よどみ、やがて腐ってしまいます。主イエスから注がれる愛は、枯れることのない泉です。外に溢れても溢れても、少しも減りはしないのです。この外に溢れ出した愛によって、私共の中に、この教会に、キリストの命の泉、キリストの愛の泉が湧き上がっていることが証しされていくのであります。

 仮の敵を作り、内部を固めるというのは、弱い自分達で何とか自分達を守ろうとした時に生まれる、人間の知恵かもしれません。しかしそれは、罪と結びついた知恵、悪魔的な知恵です。しかし、味方を作る、仲間を作る、友を作るという知恵は、神様の守りの中に生かされていることを知らされた者の知恵であり、神の知恵なのであります。私共は主に守られています。自分たちの力だけで自分たちを守ろうとしなくて良いのです。周りを敵と見なして、何時攻撃されても大丈夫なように身構えておく必要はないのです。私共を守ってくださっている神様が、味方を、仲間を、友を作るようにと促しておられるのです。私共はこの神の知恵を与えられている者として、敵を作らず、友を作る為に、この一週間も主と共に主の御前に歩んでまいりたいと思うのです。

[2006年4月2日]

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