礼拝説教「娘よ、起きなさい」イザヤ書 25章4〜10節 ルカによる福音書 8章49〜56節 小堀 康彦牧師 主イエスの足もとに一人の男がひれ伏しました。会堂長のヤイロです。彼には12才になる一人娘がいました。12才といえば、当時はもうそろそろ結婚の話が出る、そういう年齢でした。その一人娘が死にそうになっていたのです。彼は主イエスが自分の家に来てくれるようにと願いました。主イエスの力で娘をいやしていただきたかったのです。実は、すでにこの時、主イエスとユダヤ教の指導者達の関係は険悪なものになっていました。断食や安息日などに対しての理解の違いがはっきりしてきて、主イエスとファリサイ派・律法学者達との間で何度か論争もありました。会堂長というのは、毎週安息日にシナゴーグという会堂で守られる礼拝を取りしきる立場にあった人です。いうなれば、その地域の顔役、村長さんのような存在と考えて良いでしょう。立場的に言えば、主イエスと対立してもおかしくない人でした。しかし、彼は主イエスの足もとにひれ伏したのです。彼の中には、ただ娘を助けたいという思いだけがあったのではないでしょうか。立場も、体面も関係ない。ただ娘を助けたい。その一心で主イエスの足もとにひれ伏したのだと思います。
主イエスは、この会堂長の願いを聞き入れ、彼の家に行くことにしました。その途中、12年間、出血の止まらない女性が主イエスの服の房に触れていやされるという出来事が起きたのです。これについては先週の礼拝において見ました。そして、主イエスとその女性とのやり取りが続いている最中に、この会堂長の家から人が来て告げたのです。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」この言葉を聞いて、この会堂長が何を思ったのか、聖書は何も記していません。ただ、私共は自分の体験に照らし合わせて想像するだけであります。多分、この時会堂長ヤイロは、この自分の家の者が告げる報告を聞いて、何が起きたのかよく判らなかったのではないかと思います。確かに、主イエスのもとに娘を助けて欲しいと願いに来たのですから、娘は死ぬかもしれないと頭のどこかでは判っていたことだったと思います。しかし、頭で判つているということと、それを心できちんと受けとめるということとは、一つであるとは限らないのです。特に、愛する者の死ということに関しては、そういうものであります。葬式の時に、まことに気丈なあいさつをされた夫や妻が、二ヶ月、三ヶ月、半年過ぎてから、さびしさに気も狂わんばかりの思いにさいなまれるということがあるのです。会堂長は、この知らせを聞いて、そのような意味で頭と心とが混乱していたのではないかと、私には思えるのです。そして、その混乱を静めるかのように、主イエスは言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」会堂長ヤイロをおそった娘の死。その死による混乱と死の影を追いはらうかのように、主イエスは「恐れることはない。」「恐れるな!!」と告げるのです。ここには、死に直面しなお死を恐れない、死を打ち破る力を持つ方が立っておられます。私どもに代わって、毅然と立っておられます。会堂長もその妻も、家の者も、皆、この動かすことの出来ない娘の死という現実に混乱し、圧倒され、支配されそうになっています。しかしその中で、ただ一人、主イエス・キリストだけは、その死に恐れることなく立っています。少しも怯えることなく、死を見下し、圧倒的力をもって死をねじ伏せる方がここに立っているのです。ここには、復活の命、永遠の命を持つ方が立っているのです。どうしようもなく、死の力の前にねじ伏せられそうになり、うずくまるばかりの人々を前に、「恐れるな。」「信じなさい。」「娘は救われる。」「泣くな。」「死んだのではない。」「眠っているのだ。」と告げる方がおられるのです。
この方は「ただ信じなさい。」と言われる。何を信じるのか。この圧倒的な死というものの前で、神様の力、神様のあわれみを。死を打ち破り、命に至らせることの出来るただ一人の神の子、主イエス・キリストを信じること。ここに全てがかかっている。この方は「わたしを信じなさい。」と言われているのです。わたしの力を、わたしの命を、わたしそのものを信じなさいと言われているのです。
私共の愛する者が死ぬという事態に、私共は誰でも出会わなくてはなりません。遅かれ早かれ、例外なく出会うのです。そういう時、この会堂長のようにイエス様が来て復活させてくれればと私どもは思う。しかし、そういうことは起きません。しかし、その愛する者の死の向こうで、復活の主イエスが、娘の手を取り、「娘よ、起きなさい。」と告げられるのです。この「娘よ」という所に、私共は自分の愛した者の名を入れて読んで良いのですし、私共自身の名を入れて良いのです。主イエスは十字架の上で死んで、三日目によみがえられた。主イエスも一度死んだのです。そして復活されたのです。自ら死んで、その死を打ち破られた方が、私共の死の向こうにおられ、私共の手を取り、私どもの愛する者の手を取り、私共の名を呼んで復活の命を与えて下さるのです。私共は、そのことを信じるのです。
この会堂長ヤイロの娘の復活という出来事は、どこから始まったでしょうか。私は、この会堂長が主イエスの足もとにひれ伏した所から始まったのだと思うのです。もっと言えば、この会堂長が主イエスの足もとにひれ伏した時、全ては決まったと言っても良いのではないかと思います。会堂長は、主イエスの前にひれ伏した時、多分、何も判らなかったと思います。ただ、自分の娘を助けて欲しい。それしかなかったでしょう。しかし、主イエスはこの時全てを知っておられたのではないでしょうか。この会堂長は、主イエスの足もとにひれ伏した時、自分の全てをこの方の前に投げ出し、委ね、すがった。そこで全てが決まってしまったのだと思うのです。主イエスは、この会堂長の全てを受け取られたのです。この会堂長の娘の死に対しての恐れも不安も動揺も、全てを受け取り、彼を揺るがぬ全き救いへと導いたのです。主イエスは彼と共に家に行き、娘のなきがらが置かれている所にまで共に行き、そしてそこを復活の場とされたのです。全ての悲しみ、嘆きを受けとめ、その極みまで共に歩み、復活の力をもって一切の涙をぬぐわれたのです。 [2006年1月29日] |