富山鹿島町教会

礼拝説教

「正気になって」
詩編 71編14〜24a節
ルカによる福音書 8章26〜39節

小堀 康彦牧師

 主イエスは嵐を静め、向こう岸に着かれました。そこはゲラサ人の土地でした。このゲラサ人の地方というのが、実際にどの場所なのかは議論があります。というのは、同じ記事を記したマタイとマルコでは、ガダラ人の地方となっているからです。ゲラサなのか、ガダラなのか。ゲラサの町ならばガリラヤ湖の南東50kmですし、ガダラの町ならガリラヤ湖の南東10kmいうことになります。しかし、どちらにしても豚の群が湖になだれ込んでおぼれ死んだという出来事を考えると、少し遠すぎるようです。ただはっきりしていることは、この地方は異邦人が住む土地であったということです。ユダヤ人は豚肉を食べませんから、それを飼うということもなかったのです。つまり、主イエスは嵐の湖を乗り越えて、異邦人の所へ、しかも悪霊によって苦しむ者の所へ行かれたということなのです。

 私共が福音書を読んでいて、いささか戸惑う所は、この汚れた霊とか、悪霊というものが出て来る所だろうと思います。読んでいてもピンと来ない。そんな感じを受ける方が少なくないと思います。確かに、私共が普通の日常生活をしておりまして、汚れた霊とか悪霊とかを感じるということはあまりないだろうと思います。しかし、それは悪霊が居ないということではないのです。良く「魔が差した」という言い方をします。普段のあの人からは考えられないようなことをしてしまう。言ってしまう。自分でも何であんなことをしたのか冷静になってから考えても良く判らない。後悔ばかりがある。この日本語の「魔が差す」という言葉は、私共が悪霊の支配に入ってしまう状況を、大変良く言い表しているのではないかと思います。悪霊というのは、本人も良く判らない内に、その人の中に忍び込んで、いつの間にかその人を支配してしまうものなのです。あるいは、その人の中にある罪が、悪霊・悪魔というものを自分の中に呼び込んでしまうということなのかもしれません。私どもは毎日のように、新聞やテレビで「どうしてこんなことが」と思うような悲惨な事件の報道を聞いております。その多くは、正気だったら起き得ない、そういうものではないかと思うのです。しかし、この「正気である」ということは、実はそう簡単ではない。私にはそう思えるのです。勿論、誰でも自分は正気だと思っています。しかし、私どもはどこか正気を失っているような、崩れと言いますか、そういうもの抱えているのではないかと思うのです。しかし、それになかなか気付かない。この悪霊に取りつかれたゲラサの人の場合、この崩れは明らかな形で現れています。私共の崩れは、これ程明らかではありませんが、同じ質のものがあると思いますので、いくつかの特徴的な所を見てみましょう。
 第一に、「衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。」とあります。これは他の人との交わりを失っている、断っている。そういう姿でしょう。衣服を着なければ、社会生活は成り立ちません。家というのは、基本的には私共が最も安心出来る所です。一番近しい人との交わりがある所です。しかし、そこに住まず、墓場に住んでいる。墓場には生きている人はいない訳です。生きた、生身の人間との交わりを拒む、断っている、ということであります。
 第二に、28節に「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。』」とあります。悪霊は、主イエスが誰であるか知っているのです。この時、まだ弟子達さえも、「この方はどなたなのだろう。」と言っている時に、この悪霊につかれた人は主イエスに対して、「いと高き神の子イエス」と言っている訳で、イエス様が誰であるか知っている。しかし、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」と言うのです。イエス様が誰であるか判った。判ったけれど関わりたくない。自分から離れてくれと言う。この主イエスから何としても離れたい、関わりたくない、この心の動きこそ、悪霊の本質を示しているのです。何故私どもの伝道が困難なのか。様々な説明がなされます。しかし、その本質においては、悪霊の働きがあるからだと、私は思っています。この人は「頼むから苦しめないでほしい」と言うのです。主イエスと関わることは苦しめられることだと判っている。何故か。自分の今までのあり様を変えられてしまうからでしょう。悪霊は、この人を支配し続けたいのです。主イエスによって変えられたくないのです。
 第三に、この人は鎖でつながれ足枷をはめられても、それを引きちぎってしまいます。彼は実に力があるのです。人の力では、誰も制御することが出来ないのです。悪霊というものは、人間の知恵や力で何とか押さえつけることが出来るような弱いものではないのです。私共はこのことをちゃんと知っておく必要があります。実に、悪霊をおさえることが出来るのは、神様だけなのです。主イエスにお願いするしかないのです。
 今、悪霊について私共は三つの点を見てきました。人との交わりを断つ。主イエスと関わりたくない。人には制御出来ない程の力を持つ。これは、現代日本の中でも、様々な形をとって現れてきているのではないか、問題を起こしているのではないか、そう思うのです。この悪霊が引き起こす問題と無縁な人を見つけることが出来ないほどに、悪霊はこの現代日本の隅々にまで力を及ぼしているのです。私どもは、このことをちゃんと見据えなければなりません。悪霊などというものは昔話で、現代の日本に住む私どもには無縁であるなどという呑気なことを言っていては駄目なのです。自分のすぐそばに、悪霊の力が及んできているのです。

 しかし、それにも関わらずもっと重要なことは、主イエスはこのような人さえも恐れずに近づき、関わり、その人から悪霊を追い出してしまわれたということなのです。30節を見ますと、主イエスは、この人に「名は何というか。」と尋ねました。名を尋ねるということは、この人との関わりを、主イエスの方から求めたということでしょう。男は、「レギオン」と答えました。レギオンというのは、ローマの軍隊の名称です。日本語で言えば、師団とか、大隊ということになるでしょうか。多分、一つの悪霊ではなく、軍団と言っても良い程の多くの悪霊がこの人に取りついていたのでしょう。異邦人で、着物も着ず、墓場に住み、自分に関わるなと叫ぶ、大きな力を持つこの人を、主イエスは見捨てないのです。正直な所、私なら逃げ出したい所です。皆さんもそうでしょう。こんな人とは関わりたくない。そう思うし、実際、関わらない。しかし、主イエスはそうではないのです。自ら進んで関わりを持ち、その人から悪霊を追い出し、正気に戻すのです。
 私は、このような主イエスの歩みを読む時、本当に自分には勇気が無い、愛が無いということを知らされます。情けなく思う。私共が、この主イエスの愛の道具、器とされていることを思う時、自分の周りにいる、このような一人一人とも、自分から関わりを持つ為に、一歩を踏み出す力と勇気を与えて下さるよう、神様に祈るのであります。この一歩が、伝道の一歩なのでしょう。そして、その一歩を踏み出す力は、ただ神様からいただくしかないのであります。

 さて、この人についていた悪霊どもは、豚の中に入ることを、主イエスに願い、主イエスはそれをお許しになりました。そして、たくさんの豚、マルコによる福音書によれば、2000頭の豚が湖になだれ込み、おぼれ死んだのです。悪霊を追い出してもらったこの人は、服を着て正気に戻りました。しかし、ゲラサ地方の人々は、主イエスに自分達の土地から出て行ってもらいたいと願ったのです。どうしてでしょうか。ここで人々は、一人の人が正気に戻ったということを喜んでいないのです。それどころか、主イエスを恐ろしいものを見るかのように、恐れているのです。私は、ここで多くの豚が死んだということと関わりがあるのではないかと思うのです。豚はゲラサの人々にとっては、貴重な財産です。悪霊に取りつかれた人が正気に戻ろうと戻るまいと、自分には関係ないのです。彼らにとって大切なことは、たくさんの豚がおぼれ死んだということだったのではないでしょうか。もし、たくさんの豚が死ななければ、ゲラサの人々も悪霊に取りつかれた人が正気に戻ったのを喜んだかもしれません。しかし、たくさんの豚が死んだ以上、そんなことにとても喜んでなどいられない。「このまま放っておけば、これからどんな災いが起こされるか判らない。こういう物騒な人にはお引き取り願おう。」そういうことだったのではないでしょうか。私には、このゲラサの人々も又、悪霊の下にあったのではないか。そう思えてなりません。一人の人の命が救われることよりも、豚という財産の方が大事なのです。彼らは自分では正気だと思っていたのでしょうが、実はそうではなかった。生身の人間よりも豚という財産を愛し、主イエスとの交わりを拒んだのです。この町の人々に対して、悪霊は、レギオンと名乗った人のようなあり方で力を及ぼしてはいません。もっとソフトに、隠れたあり方で、しかしその支配を確実なものとしていたのではないでしょうか。

 このレギオンと名乗った人は正気に戻り、しきりと主イエスにお供をしたいと願いました。これが正気に戻るということなのです。正気に戻るというのは、単に普通の生活をするようになるというのではないのです。神様に造られた者として、神の子、神の僕となるということなのです。主イエスに敵対していた者から、主イエスと共に生きる者になるということなのです。
 しかし、この時主イエスは、この人が自分について来ることをお許しにはなりませんでした。そして39節「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」とお命じになったのです。主イエスは、この悪霊を追い出してもらった人を、このゲラサの町に残し、主イエスの御業を告げる者としてお立てになったのです。このゲラサの人々も又、悪霊の支配から神様の支配へと、神様の下に立ち帰らなければならないのです。そして、その為の神様の救いの御業に仕える者として、主イエスはこの人をお立てになったのであります。そして、まず自分の家に帰り、自分の家の者に、主イエスの御業を告げるように命じられたのです。
 家族伝道の難しさということが、良く言われます。確かに難しい面があります。しかし、それは私共がここで命じられていること、「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」ということを忘れているからではないでしょうか。私共は、しばしば家族に対して、「キリスト者とは」「救いとは」といって、一所懸命説明をします。しかし、福音というものは、説明において伝わるものではないのです。そうではなくて、自分に神様は何をしてくれたのか。その事実を告げていくことなのです。そして、自分がどんなに変えられたのか、どんなに救われて、生まれ変わって、喜ぶ者とされているのか、イエス様はどんなに素晴らしい方なのか、そのことを告げていくのです。この悪霊を追い出してもらった人の家族は、さぞ喜んだことでしょう。それは家族は、この人を愛していたからです。この愛こそが、福音が伝わっていく道なのです。愛のない所で福音は伝わりません。

 私はこの悪霊に取りつかれたゲラサの人のこの記事を読みながら、この人は使徒パウロと同じではないかと思いました。パウロも又、主イエスを迫害するという、反キリストの道を正しい道として歩んでいた。しかし、主イエスと出会って変えられました。新しく生まれ変わったのです。今まで大切だと思っていたものが、全く意味のないものに見えてきたのです。フィリピの信徒への手紙3章7〜8節「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」とある通りです。そして又、この人はキリストの救いに与った私共一人一人とも重なってくると思いました。私共も知らず知らずの内に悪霊の支配の下にあり、神様を愛することを知らず、この世を愛しておりました。どうでも良い学歴だとか、収入だとか、世間体だとか、スタイルだとか、そんなものに心をうばわれていた自分があった。しかし、今はそんなものは、塵あくただと言える、思える。私共はまことに自由であります。私どもは、ただ神様の御心に従うことを喜びとし、主イエスを心からあがめ、力の限りほめたたえる者とされているのです。確かに、私共は主の御名を宣べ伝える為の一歩をなかなか踏み出せない弱さを持っています。恐れがあります。しかし、主をあがめ、主をほめたたえることを止めることは出来ないでしょう。そして、そこから全ては始まります。力も勇気も、主をあがめ、ほめたたえる主イエスとの交わりの中で、必ず神さまから与えられていくのです。私どもは、それを信じて良いのです。だから行きましょう。主と共に、主の平安の中を、主の御業に仕える者として。

[2006年1月8日]

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