礼拝説教「神の家族とされて」詩編 133編1〜3節 ルカによる福音書 8章19〜21節 小堀 康彦牧師 主イエスが人々に教えを宣べているその時に、主イエスの母マリアと主イエスの兄弟、多分弟達でしょう、彼らがやって来ました。それは、主イエスの教えを聞く為ではなかった様です。マルコによる福音書によるならば(3章21節)、主イエスの身内の者は、主イエスは気が変になったのではないかと思い、取り押さえようとしていたらしいのです。主イエスの家族が主イエスを信じるようになったのは、主イエスの復活の出来事に出会ってからのことです(コリントの信徒への手紙一15章7節)。この時はまだ、身内の中から変なのが出てしまった、困ったものだ、そう考えていた。「もう、こんな事はやめて、家に一緒に帰ろう。」そう言いに来たのだと思います。それは、もし、自分の家族の中から、宗教家が出て、主イエスのように人々を集めて教えを宣べ始めたなら、私共もきっとそんな対応をするではないでしょうか。私が20才の時に、最初に牧師になりたいと父や母に言った時の家族の反応は、かなり、これに近いものがあったのではないかと思います。少し頭を冷やしなさい。そんな感じでした。ところがこの時、主イエスの口から、重大な言葉が告げられました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」この主イエスの言葉によって、キリストの教会に集う者は、主イエスの兄弟姉妹となり、神の家族とされているということが明らかにされたのです。この言葉によって、民族を超え、国境を超え、社会的立場や身分を超えて、一つの家族としての愛によって結ばれる、キリストの教会が誕生したのです。
聖書というのは不思議な書で、同じ話を聞いても、その受け取り方というのは人によって全く違うということが起きてまいります。この個所は、その典型的な所の一つでしょう。私が求道者の方々と聖書のこの個所を読んでいて出会う反応は、「イエス様は自分の家族に対して冷たい。こんな方だとは思わなかった。イエス様は愛の方なのに、だったらまず自分の家族に対して、こんな冷たい態度はないだろう。」と反発するのです。もう一つの反応は、「自分はイエス様の兄弟とされている。ありがたいことだ。」そういう受け取り方です。どうして、このような正反対の受け取り方が起きるのか。それは、聖書を読む時に、自分をどこに置いているのかということによって起きる違いなのだと思います。この場合ですと、自分を主イエスの母・兄弟の所に身を置けば、「主イエスは冷たい」ということになりますし、自分を主イエスの教えに耳を傾けている者の所に身を置けば、「ありがたいことだ」ということになるのでしょう。この場合、主イエスのこの言葉の正しい聞き取り方は、もちろん、自分を主イエスの教えに耳を傾けている者と重ね合わせて聞くことです。 主イエスはここで、互いに仲良くしなさいと言っている訳ではありません。神の言葉を聞いて行う人が、私の母、私の兄弟なのだと言われたのです。私共は直接、兄弟姉妹となるのではないのです。そうではなくて、私共は、まず主イエス・キリストの母、兄弟、つまりキリストの家族となるのです。互いにキリストの兄弟となるが故に、私共は兄弟となるのです。キリストにつながるということが無ければ、何の関係もなくなってしまうのです。それは、互いにキリストの言葉に聞き従う中で、キリストに結ばれる中で、結び合わされていく交わりなのです。そこには、自分のわがままや、自分の罪も受け入れてもらえるはずだという甘えは禁物です。自分のわがまま、罪と戦うということがなければ、この交わりは崩れるのです。しかし又、自分の肉体的弱さや、愚かさを赦し合える交わりでもあるのです。互いに、キリストの言葉に聞き従っていこうとする中で生まれる愛の交わり、互いの欠けを支え合っていこうとする交わりがそこに生まれるのです。
私共が毎週告白している使徒信条の中に、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり」という所があります。私共の伝統では、聖なる公同の教会「すなわち」聖徒の交わり、と理解してきました。教会というのは、この私共の交わりのことだというのです。しかし、それを信じるとは、どういうことなのでしょうか。それは、この項目が、「聖霊を信じる」ということの内容として言われていることに注目しなければなりません。つまり、私共のこの交わりの中に、聖霊なる神様が生きて働いておられるということを、私共は信じるということなのであります。 「交わり」というものが真実なものとなっていく所には、必ず重荷を担う人がいるのです。そういう人がいなければ、真実な交わりは成立しないのです。家族もまさにそうなのです。そして、神の家族に連なる私共は、まず第一に主イエス・キリストが私共の重荷を担って下さっているのであります。この恵みの事実の上に成り立っているのが私共の交わりです。そして、このキリストの御業に重なるように、重荷を担う人が起こされていくのでありましょう。誰も重荷など負いたくない。それが正直な所かもしれません。しかし、それが変えられるのです。キリストを知ったが故に変えられるのです。主イエス・キリストの愛の故に、キリストを愛するが故に、私が負える分は十分に負わせて下さい。そう言える者に変えられていくのであります。神様は出来ないことまでしなさいとは言われません。しかし、出来ることは精一杯しなさい。その力は、私が与える。そう言われるのです。まことにありがたいことです。自分だけで立とうとしてはなりません。聖霊なる神様ご自身が働いて下さるのです。 先程、詩編133編をお読みいたしました。これは都詣での歌です。年に何回かエルサレム神殿に詣でる為に、イスラエルの人々は旅をしました。多くの場合、村の人々が一緒になって旅をしたと思います。その旅すがら、歩きながら歌った歌、それが都詣での歌です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」そう歌いながら、エルサレム神殿の礼拝へと旅をしたのです。この光景は、旅の途中で、車座になって、食事をしている所かもしれません。あるいは、共に礼拝に与っている時の姿かもしれません。神様によって一つにされている兄弟姉妹、それが共に座り、楽しんでいる。何という恵み、何という喜び。そこには、神の国の写し絵が現れ出てきているからでしょう。教会は神の国そのものではありません。しかし、神の国の風が吹いている所です。キリストの香りが満ちている所です。私共の交わりは、この地上にある家族のようになるのではないのです。「血を分けた兄弟」という言葉がありますが、私共は、「キリストの血を分けた兄弟」なのです。キリストの血を分けた兄弟姉妹は、天国にある交わりを、この地上に写し出していく交わりを形成していくのであります。この地上ではあり得ない程の麗しい交わりが、ここに生まれるのです。様々な問題・課題を持って、疲れ果てた人々が、ここに来て憩い、安らぐ。そういう交わりであります。そのような交わりに加えられ、その中で生かされている幸いを、心から感謝したいと思うのです。 [2005年9月25日] |