神の言葉である聖書。これは旧約と新約とからなっています。私共は旧約聖書、新約聖書という言い方に慣れていますけれど、旧約聖書と新約聖書という二つの聖書があるわけではありません。ただ一つの聖書の中に、旧約の部と新約の部があるのです。聖書は、旧約と新約とを合わせて、初めて聖書となるのです。私共は、教会に旧約と新約とが一つになった聖書を持ってくることが当たり前になっていますけれど、しかし以前は新約だけの薄い聖書を持ってくる人も少なくありませんでした。重いからとか、紙の事情がよくなかったとか、様々の事情があるかと思いますが、一番の理由は、礼拝において読まれる聖書が新約だけだったということではないかと思います。私共の教会の礼拝では、旧約と新約とを必ず礼拝で読みますが、これは『ウェストミンスター礼拝指針』以来の改革・長老教会の伝統です。しかし、カトリックや聖公会、そして最近ではプロテスタントの多くの教会でも採用しております教会暦による聖書日課、これは、この日にはこの個所を読むようにと定められているもので、世界共通のものですが、これでは旧約から一個所、新約からは福音書と使徒達の文書から一個所ずつ、計三個所を読むことになっています。いずれにせよ、今も多く日本の教会で為されている新約聖書から一個所を読んで、それで説教するという形は、長い教会の歴史を振り返ってみますと、かなり特異な形であると言わねばならないと思います。
どうして旧約も読むのか。それは、旧約とは一体何なのかという問いとも重なってまいります。これについて、色々な言い方が出来ると思います。例えば、「旧約とは天地創造以来、主イエス・キリスト到来までの神様の救いの歴史を記したものである。」そのように言うことも出来るでしょう。しかし、新約との関係で言うならば、「旧約は主イエス・キリストによる救いの預言であり、新約はその成就が記されている。」ということになると思います。預言というと、私共はイザヤ書、エレミヤ書といった預言書だけだと考えがちですが、そうではありません。旧約全体が、主イエス・キリストの救いを指し示しているのです。その証拠に、新約における一番多い旧約からの引用は、詩編です。このことは、新約聖書を記した人たちが、詩篇を主イエスの救いの出来事を予言したものであると理解していたということでしょう。まことの救い主である主イエス・キリストというお方は、いきなりやって来たのではなく、長い神様の救いのご計画の中で、時満ちるに及んでやって来られたのです。主イエス・キリストというお方は、又その御業は、旧約においてすでに預言されているのです。もし、主イエスの為さったこと、お語りなったことが旧約と無関係であるならば、主イエス・キリストがまことの救い主であるという根拠はなくなってしまうのであります。神様の御心が示された旧約の予言の成就として、主イエスはやって来られたのです。
今日与えられております御言葉において、バプテスマのヨハネは、主イエスに対して、弟子を遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。」とたずねております。「来るべき方」とは、まさに旧約において預言されていた救い主、旧約においてやがてお出でになると告げられていた救い主という意味であります。バプテスマのヨハネは、マタイによる福音書11章によるならば、この時すでに牢につながれていたと記されております。牢につながれていたバプテスマのヨハネ。彼は、まさにいつ自分の命がなくなるか判らない。そういう状況に置かれていたのであります。彼は、主イエスに洗礼を授けました。人々は彼がメシアではないかと考えましたが、彼は、「自分は来るべき方を指し示す者」、「自分はその方の履物のヒモを解く値打ちもない者」と考えていました。そして、ヨハネによる福音書1章によれば、主イエスを「神の子羊」と言って、主イエスこそ、来るべき方であると指し示した者でした。
彼は牢獄の中で、主イエスが誰であるかということへの疑いを持ってしまったのでしょうか。私共は、ここで彼が牢獄に入れられていたということをきちんと受けとめなければなりません。普通の状態ではなかったのです。彼は、神様によって立てられた預言者でした。主イエスを来るべき方として指し示す役割を持った人でした。彼は、主イエスこそが救い主であると良く判っていたのです。しかし、動揺したのです。私はここで、バアルの預言者との祈り比べに勝って後、王妃イゼベルによって命をねらわれた時の預言者エリヤを思い出すのです。あれ程の力ある預言者エリヤが、もう自分はダメだ、死んだ方がましだと泣き言を言うのです。預言者とて、自分の命が危なくなる中で、心が揺れるのです。主イエスが来るべき方であることを知っていたヨハネでした。しかし、いつになったら、天の軍勢を従えてイスラエルを解放するのか、自分をこの牢獄から出してくれるのか。ヨハネには救い主に対してのイメージがあったのではないかと思います。それは「力の救い主」というイメージではなかったかと思われます。人々を集め、神の力によって、ローマを圧倒する。ところが、主イエスは一向にそのような気配を見せない。ヨハネは、しびれを切らして、主イエスのもとに二人の弟子を遣わして、問うのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」ヨハネの心も揺れたのです。
私共は、この時のヨハネの心の揺れが判るのではないでしょうか。私共も又、しばしば揺れるからです。苦しい時、私共は神様にこうして欲しい、こうなって欲しいと願いますけれど、そのような私共の思い、願い通りにならないことはしばしばであります。そういう時、神様は本当に自分を愛しておられるのだろうかと信仰が揺れるのです。この信仰の揺れを経験したことのない人は一人もいないでしょう。誰もが、この揺れを経験しています。しかし、私は思うのですが、このような信仰の揺れを経験する時こそ、実は私共の信仰が成長させられる時なのではないでしょうか。私共は神様に対して、イメージを持っているものです。しかし、その揺れの中で、そのイメージが崩されていきます。そしてそのことによって、私どもはまことに生きて働き給う神様と出会っていくのではないでしょうか。
洗礼を受けて数年後の時、私も信仰の大きな揺れを経験しました。大変辛い出来事に出会ったのです。当時私はまだ大学生でしたが、学校へも行く気がしない。「どうなってもいい」そんな気分で毎日、アパートでゴロゴロしていました。今思いますと、軽いうつ病だったのではないかと思います。自分はクリスチャンにもなった、ちゃんと教会にも行っている。だから、神様は自分に良いことだけをしてくれるはずだ。この良いことというのは、自分にとって良いことです。いつの間にかご利益を求める信仰になっていたのだと思います。そういう中で、私はヨブ記に出会うのです。まさに、目からウロコの経験でした。神様は神様であって、私の幸せの為におられる方ではない。幸せも不幸も、神の御手の中にあることである以上、自分はそれを受け入れ、それでもなお、神様を愛し、従っていかねばならない。言葉にしてしまうと、そういうことですが、それは神はまさに生きて働き給う方であり、その生ける神との出会いの時でありました。生ける神は、私共のイメージの中におられるのではないことを知らされた時でした。そしてこの「目から鱗」という経験は、ヨブ記という神様の言葉との出会いの中で与えられたのでした。
主イエスはここで、ヨハネの弟子達に対して、こう答えられました。22節「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」これは、まさに主イエスがなさっておられたことでありますが、同時にそれは旧約において神様からの救いが成就する時に起きると預言されていたことだったのです。今、一つ一つ見ていくことはしませんが、ここで主イエスが語られたことは、全てイザヤ書を中心とした旧約からの引用なのです。主イエスは、自分のしていることが、旧約の預言の成就であることを示されたのです。主イエスに対しての信頼が揺らいだヨハネに対して、主イエスは旧約の言葉を引用して、私こそ、あなたが考えている通りの、旧約において預言されている「来るべき者」であることを示されたのです。主イエスは、自分はこういう者であると直接言うのではなくて、旧約の預言の成就が、今、あなたの前に起きているではないか。そう言って答えられたのです。旧約の成就。これこそが、主イエスが誰であるかを最も明確に示すものだったのです。主イエスはヨハネのイメージ通りの方ではありませんでした。しかしそれは、主イエスのあり方が間違っていたのではなくて、ヨハネのイメージこそが訂正されなければならないものだったのであります。そしてそれは、何よりも神の言葉である聖書の言葉によって訂正されなければならなかったのです。
こう言っても良いでしょう。ヨハネは旧約における救い主の預言が、主イエスの到来とともに一気に成就されると考えていた。しかし、神様は十字架と復活、そしてそれに続く終末に至るまでの歴史の中で全てを成就される道をとられた。主イエスと共に神の支配、神の国は来たのです。しかし、それで全てが終わったのではない。神の国はまだ完成していないのです。神の国の完成までは、まだ、しばらくの時が必要なのです。その意味では、なおしばらくの間待たねばなりません。しかし、その為に誰か他の者を待つ必要はないのです。神の国は始まったからです。主イエスと共に神の国はそこにあるのです。そして、その神の国は完成されるのです。その神の国の完成の為に、主イエスは再び来られます。主イエスはヨハネにとって「来るべき方」でありましたが、実は私共にとっても「来るべき方」なのであります。主イエスは再び来たり給う。その日を私共は待ち望みつつ、主イエスを信頼して、歩み続けるのであります。
さて、主イエスはバプテスマのヨハネがどのような者であるかを、人々に告げられました。27節「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。」です。ここで主イエスは、最後の預言書であるマラキ書を引用して、ヨハネが救い主より前に来る、救い主の道を備える者であることを告げられたのです。そのことによって、ヨハネの後に来た私こそ、まことの救い主であると示されたのです。続いて28節で「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」と言われました。これは、ヨハネはモーセやダビデやイザヤよりも偉いと言っているのではないのです。そうではなくて、ヨハネは主イエス・キリストを直接指し示すことが出来た、この恵みの大きさを告げているのです。だから、主イエスの救いに与る者は、更に明確に主イエスを救い主として指し示し、告白することが出来る。それ故に偉大であると言われているのです。このように言うことも出来るでしょう。ヨハネは他の旧約の人々よりも、より明確に主イエス・キリストの救いの業を見た。主イエスの救いの光を受けた。だから偉大だ。だとするならば、主イエスの救いに与った者は、更に明確に主イエスの救いの御業に与り、主イエスの救いの光を受けた。だから偉大だということなのです。
私共を偉くする、大きくするのは、私共の業績や力ではなく、主イエス・キリストの救いの御業なのです。何故なら、私共が神の子とされたのは、ただ主イエス・キリストの救いの御業によるからであります。天から降り注がれる神の救いの光に与ることなく、自分の持つ救いのイメージの中にとどまる限り、主イエスが与える偉大さに与ることは出来ません。
人は、神様に対しての、救いに対しての自分のイメージを変えようとはしません。ヨハネがそして主イエスが、笛を吹いても踊らないのです。自分の歌を歌っているだけです。そして、ヨハネは悪霊に取りつかれていると言い、主イエスに対しては大酒飲みと言うのです。しかし、神様も主イエスも、私共のイメージの中に入る方ではない。神様は私共のイメージを超えて、救いの御業を成就されるのです。主イエスの十字架こそ、まさに、全ての人々のイメージを裏切る、まことの救い主の救いの業でありました。だから、主イエスは、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われたのです。自分のイメージに固執する者は、主イエスにつまずくのです。生きて働き給う神様を受け入れることが出来ないのです。
今朝、私共に告げられているのは、まさにこのことなのです。私共は生ける神を拝むのです。自分の造った神様のイメージを拝むのではありません。愛する御子を十字架にかけ給うた、驚くべき御業をもって救いを成就し給うた、生ける神を拝むのです。神の国は、すでに私共の所に来ています。しかし、未だ完成はしていません。それ故に、私共は全き信頼をもって、来るべき方を、生ける者と死ねる者とを裁き給う主イエス・キリストの再び来たり給うを待ち望むのであります。
[2005年8月28日]
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