先日、求道者の方と話している時に、「洗礼を受けたら何か変わりますか。」と聞かれました。これは、正直な、そしてなかなか鋭い問いであります。洗礼を受けても、キリスト者になっても、もし何も変わらないとするならば、洗礼を受ける意味がありません。しかし、水を少し頭からかけられるだけで、本当に自分は変わるのだろうか。洗礼を受けられる前の正直な思いだと思います。私自身、洗礼を受ける前に、これと全く同じ質問を牧師にではなく、青年会の仲間にしたことを覚えています。彼は、「そんなこと考えたって判らないのだから、受けてみればいいじゃないか。そうしたら判るよ。」と答えました。これも又、一つの答え方でしょう。私も、それもそうだと受洗してしまいました。洗礼を受けたら、何か変わるのか。私は牧師ですから、受けたら判りますよとは答えず、はっきり「変わります。」と答えました。もちろん、自分自身で変わったと自覚することは、あまりないと思いますけれど、確実に変わる。それは間違いのないことだと思います。それはちょうど、恋愛中の人が結婚しますと、二人の関係と言いますか、相手に対しての安心感と言いますか、信頼感と言いますか、それは全く違った安定したものになるのに似ていると思います。恋愛中は、少し喧嘩をするだけで相手に嫌われるのではないかと不安になったりするものですけれども、結婚してからはそんなことはない。安心して派手な夫婦喧嘩が出来る。それと同じように、洗礼を受けると、その前よりも、神様と自分との関係が、実に安定したものになる。神様に対してより確かな信頼を持つことが出来るようになる。それは言えると思うのです。
そして、もう一つ私が申しましたのは、死が変わるということでした。私共は皆、やがて死ななければならないのですけれど、この死に対しての関係、理解の仕方、感じ方がまるで違ってくるのです。死というものは、圧倒的な力を私共に持っています。それで全てが終わる。もうどうしようもない。暗い、巨大な力に飲み込まれる。そんな感じを「死」というものに対して抱いているものです。しかし、洗礼を受けると、死とはそういうものではない、死で全てが終わる訳ではない、そんな風に感じるようになる。正直な所、私は自分が死んで後、神様の御前でお会いしたい人がたくさんいるのです。それを楽しみにしている所があります。死ぬことが怖くなくなったとまで言えば嘘になりますが、それで全てが終わるとは少しも思わないのです。年を重ねていきますと、神様の御前で再びお会いしたい人が増えていきます。楽しみが増えると言えば言い過ぎかもしれませんが、そんな感じを抱くようになる。それは、洗礼を受けることによって与えられる、自分の命がキリストの復活の命に結び合わされているということの恵みが、少しずつ自分のものとして判ってくるということなのだと思います。まことにありがたいことです。
さて、今朝与えられております御言葉でありますが、主イエスはナインという町に行かれたとあります。このナインという町は、カファルナウムから南東へ30km程の所にあったと考えられています。主イエスは、カファルナウムで百人隊長の僕を癒されて、それから約一日路程のナインの町に来られた訳です。ちょうど、魚津から富山に来るぐらいの感じでしょうか。その町の門に近づくと、門の中から葬式の列が出てくる所に主イエスの一行は出くわしたのです。人が死にますと、死体を町の中に置いておくことは出来ません。町の外にある墓場へと運び出さなければならない。当時の習慣に従って、大勢の人々が泣き声を上げながら、死体を乗せた「ひつぎ」をかこんで歩いて来た。「ひつぎ」と言っても、私共が現在使っているようなフタがあるものではありません。厚手の板の、中を少しくりぬいたものを考えれば良いでしょう。亜麻布でくるんだ死体はそのままに見えるのです。その死体は、その町に住むやもめの一人息子のものでした。夫に先立たれ、女手一つで育てた一人息子が若くして死んだ。この母の嘆きは、どれ程であったかと思います。
愛する者の死ほど、私共の人生の中でつらいことはないでしょう。しかも、若者の死は特に無念の思いを強くさせられます。主イエスは、この一人息子を亡くしたやもめの母親に目をとめます。そして、心を強く動かされるのです。ここで「憐れに思い」と訳されている言葉は、上から下を見下して、憐れむ、同情する、そのような心の動きを意味していません。この言葉は、「はらわたが痛む」という言葉です。主イエスは、一人息子を亡くして泣き叫ぶしかない母の姿を見て、はらわたを痛めて、心を動かされたのです。こういう所を読むと、「ああ、イエス様もそうだったのだ。」と私は思うのです。
牧師の大切な務めの一つは、葬式を行うということです。この教会に来て、すでにいくつかの葬式を行いました。牧師はいくつもの葬式を行いながらも、葬式に慣れるということはありません。いつもご遺族の方々の悲しみの心に引き込まれます。私は前夜式や葬式の説教中に、泣いてしまって、言葉がつまるということがよくあります。説教の原稿を書きながら、涙し、手が止まることなどしょっちゅうです。ご遺族の方々と共に悲しみ、涙し、そういう中で、ただ一つの慰めである福音の言葉、神の言葉を求め、共にそれに与るのです。
私共は愛する者を亡くした人の悲しみに出会い、言葉を失います。何と慰めてよいのか判らないのです。牧師だってそうです。ところがここに、大胆に、驚くべき言葉を告げる方がいます。主イエスです。主イエスは、はらわたを痛める程心を動かされながらも、一人息子を亡くした母に向かって、こう告げるのです。「もう泣かなくともよい。」直訳すれば、「もう泣くな。」という言葉です。「もう泣かなくともよい。」というのは、かなり優し言い方に訳していますが、本来、大変きつい言い方です。私にはまるで、泣いている母親に向かって、叱っているかのようにさえ聞こえる言葉です。そう、主イエスはこの時、腹を立てられたのだと思うのです。それは、一人息子を失って嘆いている母親に向かってではなく、この母親をここまで嘆かせ、圧倒的な力をもってこの母親をおしつぶしている、死に向かって主イエスは腹を立て、怒ったのだと思います。主イエスは、死に向かって怒り、この母をおしつぶしている死の力をはらいのけようとされる。そこで告げられた言葉が、「もう泣くな。」という言葉だったのでしょう。
主イエスは、青年の死体を乗せた棺に手をかけた。すると、担いでいる人達は立ち止まった。これは私の想像ですが、この葬式の列は門の中から外に向かって出てきたのであり、主イエスの一行は門から町の中に入ろうとして来たわけで、この二つの流れは正反対、真っ正面から出会ったのではないかと思うのです。つまり、主イエスがここで「ひつぎ」に手を触れたというのは、正面からその棺の前に主イエスが立ちはだかり、その棺が前に進むのを阻まれたということではないかと思うのです。それは、死の行進、墓場へと進む、陰府へと進む行進を、主イエスがその前に立ちはだかって止めたということです。誰も引き返せない、誰も止めることの出来ない死の行進を、主イエスは止められた。全ての者がその力の前に、ただ泣き、嘆くしかない圧倒的力をふるう、死の力をはらいのけ、打ち破ろうとされた瞬間でした。主イエスは、すでに死んでいた青年に向かって告げます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると、死人は起き上がってものを言い始めたのです。死んでいた者がよみがえったのです。ここで、「起きる」と繰り返されている言葉は、復活を語るときに用いられる言葉なのです。青年は復活しました。主イエスが復活させられたのです。この時、母親をおしつぶしていた死の力は、主イエスによって打ち破られたのです。
主イエスが死人をよみがえらせたという記事は、聖書の中に三つあります。一つはこのナインのやもめの息子、もう一つは会堂長ヤイロの娘、そしてヨハネによる福音書にあるラザロです。この三人に対してなされた、この主イエスの奇跡は何を意味しているのでしょうか。この三人の出来事は、主イエスが与える救いそのものではありません。何故なら、この三人も又、時が来ればやがて死んだからです。しかし、この出来事は主イエスには死を打ち破る力があることを示し、また主イエス・キリストの復活の出来事を指し示す「しるし」となったのです。そして又、この出来事は、全てのキリスト者に与えられるまことの救い、すなわち、罪の赦し・体のよみがえり・永遠の命を指し示したのです。「しるし」と救いそのものは違うのです。
死は罪の値です。罪がなければ死もないし、死による悲しみもないのです。主イエスは復活によって死を打ち破られましたけれど、その為には復活の前に十字架による罪の赦しがなければなりませんでした。罪の赦しと体のよみがえりは、ひとつながりのことです。主イエスの十字架によって罪赦された私共は、たとえ死んでも、やがて時が来れば復活という救いに与るのです。この青年の耳もとで主イエスが「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と告げられたように、やがて時がくれば私共の耳もとで告げられるこの主イエスの声を聞くのです。「起きなさい。」「よみがえりなさい。」「復活しなさい。」その主イエスの御声と共に私共はよみがえり、永遠の命に生きる者となるのであります。死は私どもの全ての終わりではなくなったのです。
さて、主イエスの奇跡を目のあたりに見た人々は「大預言者が我々の間に現れた。」と言いました。それは、先程お読みいたしましたように、エリシャが死人を生き返らせたことがあり、列王記上17章にはエリシャの師匠に当たるエリヤも又、死人を生き返らせたことがあったからです。ですから、主イエスのこの奇跡を見て、人々がエリヤやエリシャという旧約における力の預言者の再来と思ったのは当然のことだったのです。ただ、エリヤもエリシャも、このよみがえりの命を全ての者に与える救いをもたらした訳ではありませんでした。実に、主イエスは、彼らの再来なのではなくて、彼らこそ、やがて来たる主イエス・キリストという、まことの預言者、まことの救い主を指し示し、預言していたのです。主イエスによって与えられる救いの出来事を指し示したのです。預言者とは、言葉と業と、そして何よりその存在をもって、まことの神であられる主イエス・キリストを指し示す者だからです。
人々は、主イエスの奇跡を見て、「神はその民を心にかけてくださった。」と言ったと記されています。しかし、これは直訳すると、「神がその民の所に来てくれた。」となるのです。神が来たのです。神の訪れを受けたのです。そう言って、彼らは神様を誉め讃えたのです。私共の所にも、神様は来られた。キリストは来られた。だから、私どもは洗礼を受けたのでしょう。そして、私どもは「キリストのもの」とされたのです。キリストは、全ての罪と死とを打ち滅ぼす方として来られました。だから、もう私共は泣かなくてもよいのです。光のない、出口のない暗闇の中で泣き続けなくて良いのです。逆に言えば、復活の光に照らされて、安心して泣いて良いのです。キリストの御手の中で安心して泣いたら良い。悲しいものは悲しいのですから。しかし、その悲しみは、最早、私共を永遠に支配するものではなくなっているのです。私共を永遠に支配される方、それは死ではなく、主イエス・キリストです。良いですか、皆さん。私共は、死が最早永遠でないことを知っているのです。時が来れば、自分も、自分が愛した一人一人も、皆、主イエスの御声と共によみがえるのです。それが、私共に与えられている救いなのです。私共は、神のもの、キリストのものなのです。
[2005年8月21日]
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