二千ページにおよぶ聖書。このぶ厚い本を初めて手にした時、この本にはいったい何が書かれているのだろうかと誰もが思うでしょう。そのような期待をもって、最初の1ページ目を開くと、その冒頭に「初めに、神は天地を創造された。」という一文が目にとびこんできます。聖書には、前書きも、導入の部分もありません。何の解説もなく、いきなり「初めに、神は天地を創造された。」と書き出します。
現代人の多くは、信仰について語ろうとする時、神様が居るか居ないか、居るとすればどういう方でなければならないか、そんな議論をします。しかし、聖書はそんな議論につき合ってはくれません。「初めに、神は天地を創造された。」と何の前ぶれもなく告げるのです。この一文は、聖書がどういう書であるのかを明確に告げています。聖書とは、この世界の始めから終わりまで、全てをその御手の中に治めておられる神様の御業を記している書なのです。確かに聖書の中には、おびただしい数の人物が登場します。モーセ・ダビデ・イザヤ・ペテロ・パウロ……。一人一人が個性的で魅力的な人達です。しかし、それらの人は、誰も聖書の主人公ではありません。聖書の主人公は、いつもただ一人の神様なのです。神様は何をなされたのか、何をなさろうとされたのか、何をされそうとしているのか、そのことを記しているのです。
「初めに、神は天地を創造された。」この一文は、聖書を読む私共に、それまで持っていた様々な神様についての考えを捨てることを要求します。何となく、人間を超えた存在がいるのではないかと思っていたり、大自然を前にして思わず手を合わせたくなってしまう私共に対して、神様はそんなにボヤーッとした、はっきりしない方ではなくて、明確に「この方」と言える方であることを私共に告げるのです。神様は、天地を造られました。私共は、「この方」に向かって手を合わせ、祈るのです。見えるものも、見えないものも、世界に存在するものは、全て神様に造られたものにすぎません。どんなに雄大な自然も、その果てを見極めることが出来ない宇宙も、全て神様が造られたと聖書は告げるのです。このことは、この世界にあるものはそれがどんなに美しく、雄大で、力があったとしても、神ではないということです。私共は雄大な自然を前にすると、感動いたします。今年の夏、私も富山人として、立山に登らなければいけないと思いまして、夏休みに室堂から雄山に登りました。天気が良くて、白山も富士山も見えました。あのような絶景を見たのは、私の生涯の中で初めてのことでした。アリのように小さな自分、雄大な自然、心が動きました。雄山の山頂に着きますと、そこには神社があって、多くの人がおはらいをしてもらっていました。立山全体がご神体ということなのでしょう。しかし、私はこの雄大な自然を前にして、このような雄大な自然を造られた神様は何と大きな方であるかと思いました。 天地を造られた神様は、この世界を超えています。それは、私共の想像力をも超えているということです。私共はこの目に見える世界の延長線でしか事柄を理解することは出来ません、想像力とて働かないのです。神さまがこの天と地を作られたということは、神様は私共の理解を超え、想像力をも超え、私共のこの小さな頭の中に収まるような方ではないということなのです。更に言えば、神様が天地を造られたということは、この天地には始めがあり、始めがある以上、終わりもあるということを暗示しています。それはこの聖書の最後、ヨハネの黙示録を読めば明らかです。立山も称名滝も、やがて姿を変えていくのです。天も地も、その中にある全てのものは終わりがあるのです。始めもなく、終わりもない方。それはただ、天地を造られた神様以外にはおられないということでもあるのです。
さて、天地を造られた方がおられるということは、私共にとって単なる知識ですませる訳にはいきません。むかしむかし、神様が天と地の全てを造った。そういうことがあった。そんなことでは済まないのです。何故なら、天と地を造られたということは、この私を造られた方がおられるということでもあるからです。そしてその方こそ、神様であるということだからです。神様が天と地とを造られたということは、昔話ではないのです。この神様の御業は、今も継続されている神様の業なのです。
昨日、前任地の教会の幼稚園の先生のご主人から、無事女の子が生まれたという電話がありました。その前の日に、主治医から少し心配なことがあるので少し早いですが生みましょうという話があったということで、大変心配して、不安で祈って欲しいという電話が私の妻にあったばかりでした。知らせを受け、本当にうれしく喜びました。我が子が誕生する。それは、私共の人生の中で、神様の創造の御業をはっきりと覚えさせられる時なのではないかと思います。人は出産の時、誰でも皆、宗教的というか、信仰的というか、聖なる方の御業というものを感じるのではないでしょうか。子供が生まれる。その時、これは自分が造ったなどと思う人はいないでしょう。与えられた。さずかったと思う。それはまことに正しい感覚だと思います。残念なことに、その感覚はあっという間にしぼんでしまうようです。しかし、我が子が与えられたものであるのならば、私共の命も又、与えられたもの、神様の創造の御業の中で与えられたものなのであります。
この世界の全てを造り、私共をも造って下さった神様。この方を思う時、私共はただこの方を誉め讃えるしかないのではないでしょうか。私は神様を知るまで、誉め讃えるということを知りませんでした。うれしいことがあれば喜ぶということは知っていました。感動して涙することもありました。しかし、誉め讃える、讃美するという心の動きを知りませんでした。しかし、神様を知り、この方を誉め讃えるということを知りました。それは小さなことではありません。神様を知るまで、私の目はこの世界の中にしか向けられることがなかったのです。もっと言えば、私の人生にしか目が向けられることがなかったのです。自分にとって損か得か、楽しいか辛いか、そんなことでしか全てを見ていなかったのです。しかし、神様を知って、私は目を天に向かって上げることを学んだのです。自分が喜んでいても、悲しんでいても、目の前にある出来事が全てではなくて、その場から目を上げて神様を見上げることを知ったのです。私に命を与えて下さった、私の神、主をほめたたえ、この方に祈ることを知ったのです。私共は、この自分を造られた神様を知って、初めて「まともな人間」になるのではないでしょうか。自分を造った方を知らない人間。それは、誉め讃えることを知らない人間です。そういう人は、自分は自分の力で生きていると思っている訳で、どんなに人に優しくなれる人であっても、それは傲慢と言わざるを得ないのではないでしょうか。本当に心から頭を下げることを知らないからです。そして、その傲慢は、必ず自分の願いをかなえさせる為の神、偶像を造り出すことになるのです。「初めに、神は天地を創造された。」との一文は、私共を全ての偶像から解放するのです。
さて、神様は何をもってこの世界を造られたでしょうか。3節「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」とあります。神様は言葉をもって、この世界を造られたのです。神様は何もない所から、ただ言葉をもって世界を造られたのです。神様が言葉を発する前、2節「地は混沌であって」というように、無秩序でした。そこは闇がおおっていたのです。そこに神は「光あれ」と言葉を発し、「光」を造られたのです。この光というのは、いわゆる太陽の光ではありません。太陽と月は14,15節にあるように第四日目に造られたのですから、この「光」は太陽の光ではないのです。だったらこの光は何なのか。5節に「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」とありますから、これは一日目と二日目とを区別する光、つまり「時間」であると理解されます。神様は最初に時間を造られたということです。ですから神様に造られたものは、全て時間の中にあります。何ものも時間を超えることが出来ない。しかし、ただ神様だけは、御自分で時間を造られたのですから、時間の外におられる訳です。ですから、永遠なのです。
しかし、この時神様は「光あれ」と言われたのであって、「時間あれ」と言われたのではない。このことは、神様が「時間」というものを、この造られた世界を救いへと至らせるものとして造られたということを示しているのではないかと思うのです。時間というものは、ただ空しく過ぎ去っていくものではなくて、神様の御心の中で、満ちていくものなのです。時は満ちるのです。神さまのご計画の中で、必ず救いへと導いていく、そういう時の流れというものを神さまは造られたのです。この神様が「光あれ」と言われて造られた時は、やがて「まことの光」である主イエス・キリストの誕生へと満ちていく、そういう時だということなのであります。更に、「まことの光」であられる主イエス・キリストが再び来られる、その時に向かって進んでいる、満ちている時だということなのであります。
先程、ヨハネによる福音書をお読みいたしました。「初めに言があった。」という一文で始まっています。ヨハネは明らかに、創世記の始めを意識して、こう記しているのです。ここで言われている「言」とは、主イエス・キリストを指しています。つまり、天地創造の時、キリストは父なる神様と共に、言として天地創造に関わったというのです。今見てきました、創世記の冒頭の所でいうならば、神様が言われた「光あれ」という言、それがキリストであるということになります。神様は言葉をもって、世界を造られたのですが、その言葉がキリストであるということです。
私共はまるで意識をしていないかもしれませんけれど、私共がこの世に命を受けた以上、私共は父なる神様とキリストが関わっている創造のみ業に与っているのです。自分は仏教徒であるとか、無宗教であるとか言ってみても、この世に生を受けた以上、神の言葉である、キリストによって生きる者になったということなのです。
4節「神は光を見て、良しとされた。」とあります。神様は、自らの言葉をもってこの世界を造られた時、「良し」とされました。満足なものが出来たと納得されたのです。ということは、不良品はなかったということです。私共は神様の作品なのです。自分では、ここが気に入らないとか、もっとこうなら良かったと思う所があるかもしれません。あるいは、どうして障害を持って生まれてくる子がいるのかと思われる方もいるかもしれません。しかし、神様の作品である私共には、不良品は一つもないのです。私共は一人の例外もなく、神様が「良し」と言って下さっている者なのです。そして、神様の創造の御業は、まだ終わっていません。天地創造の時で、神様の創造の御業は終わっていないように、私共が生まれた所で、神様の創造の御業は終わっていないのです。まだ続いているのです。神の言葉によって、私共は造られ続けているのです。神様をほめたたえる者へと造られ続けているのです。神の言葉によって造られ続けているのです。私共が毎週、この礼拝に集い、神の言葉に与る度ごとに、私共は新しい神様の創造の業に与っているのです。キリストに似たものに造り変えられ続けているのです。
私共は、ただ今から、聖餐に与ります。これは、見える神の言葉です。この神の言葉によっても、私共は新しくされていきます。ただ一人永遠であられる方の命に与り、共に永遠に生きる者とされるのです。聖餐に与るとき、私共は「光あれ」と言われて時を造られた神様の御業が、完成するその時を仰ぎ望むのです。
[2004年9月5日]
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