礼拝説教「平和を祈れ」イザヤ書 第52章7〜10節 マタイによる福音書 第10章5〜15節 主イエス・キリストには十二人の弟子たちがいた、ということはよく知られています。主イエスの周りに集まり、その教えを聞き、ついて来ていた人はもっと沢山いたのです。しかし主はその中から、十二人を特別に選び出されたのでした。私たちは先週の礼拝において、その十二人が選ばれたところを読みました。10章1〜5節です。十二人の名前もそこに並べられています。彼らは、主イエスによって選ばれ、指名を受けた人々だったのです。 その十二人は、何のために選ばれたのでしょうか。本日の5節にはこうあります。「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた」。つまり十二人は、主イエスによって派遣されていくのです。使命を与えられて遣わされていくのです。そのために彼らは選ばれたのです。1節には、彼らに「汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とあります。こういう使命を果たすための特別な力を与えられて、彼らは派遣されたのです。2節には、彼らのことが「十二使徒」と呼ばれています。「使徒」というのは、「遣わされた者」という意味です。主イエスによって遣わされた十二人、それが「十二使徒」なのです。本日の箇所は、その十二使徒の派遣に際しての主イエスの教えです。彼ら十二人が、遣わされていく先々で、何をしたらよいのか、またどういうことに注意すべきか、が語られているのです。何をしたらよいのか、それは7、8節に語られていることです。「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」、彼らは、これらのことをするために力を与えられて遣わされたのです。 さてここで少し脱線になってしまいますが、皆さんの中で、最近新しく買った聖書をお持ちの方は、今読んだところの「らい病」という言葉が「重い皮膚病」となっていることにお気づきかと思います。私も実は先日ある方に指摘されて初めて認識したのですが、そのように訳が変わっているのです。「らい病」というのは、最近国が隔離政策の誤りを認めた「ハンセン病」のことです。今日では、病原菌によって起る病気であることがつきとめられ、特効薬も開発されて治る病気になっているのですが、昔「らい病」と呼ばれていた頃は、「汚れた者」として社会から隔離されてしまうという差別の苦痛をも伴う病気だったのです。「らい病」という言葉が、その差別や偏見と結びついた言葉であるために、聖書においてもそれを「重い皮膚病」と訳し直すようになったのです。多くの方の持っている聖書はまだ「らい病」となっていると思いますが、新しく印刷されているものはそういうわけで「重い皮膚病」になっている、ということを認識しておきたいと思います。 さて十二人の弟子たちはこのような使命を与えられて派遣されたわけですが、その使命はまことに驚くべきものです。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病と呼ばれていた重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う、それはどの一つだけをとっても、とてつもなく大きなことであり、私たちの力ではとうていできないことです。こんな力を与えられて派遣された十二使徒たちはすごいなと私たちは思うのですが、しかしここに並べられていることは全て、主イエス・キリストご自身がしておられたことです。「天の国は近づいた」と宣べ伝える、それは4章17節で主イエスが伝道を始められた時に最初にお語りになったことです。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病の人を清め、悪霊を追い出す、それらも全て、これまで読んできたところに語られていた主イエスのみ業の中にありました。つまり、十二使徒に与えられた使命は、主イエスご自身のみ業の延長なのです。だからたいした事はない、などと言うつもりはありません。しかしそれは、弟子たちが何か独自に工夫をして、独創的なことをしていったということではないのです。彼らは、主イエスのなさったことをその通りにした、そのための力を与えられたのです。そしてそのことによって、先週も申しましたように、9章36節にあった、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という主イエスの憐れみのみ心が、世の人々に伝えられ、広められ、表されていったのです。彼らは、この主イエスの憐れみのみ心を具体化するための「働き手」として遣わされたのです。 この十二人の派遣は、この人たちだけの特別なことだったのでしょうか。このようにして主イエスに選ばれ、遣わされたのはこの十二人だけなのでしょうか。私たちはこの話を、ニ千年前の一つのエピソードとして読めばそれでよいのでしょうか。「使徒」と呼ばれる人は確かに、この人たちと、そして後に立てられたパウロまでのことを言う言葉です。その後の教会の指導者たちのことは「使徒」とは言わないのです。ましてや、私たちは「使徒」ではありません。しかしその言葉はともかく、主イエスが十二人を選んで派遣された、そのことは、後の教会の人々と、つまり私たちと、決して無関係な、遠い昔の話ではないのです。そもそも、彼らの数が十二人だったということが、象徴的な意味を持っています。十二というのは、イスラエルの民の部族の数です。イスラエルという名前を神様から与えられたヤコブの息子あるいは孫であった十二人の族長たちからイスラエルの民が起っていったのです。十二人の弟子が選ばれ派遣されたことはそのことになぞらえられています。つまりこの十二人から、新しいイスラエル、新しい神の民が、つまり教会が生まれていく、彼らはその先頭に立っているのです。新しいイスラエルは、血のつながりによって広がっていくのではありません。彼らが宣べ伝えた「天の国は近づいた」という福音を信じ、それをもたらしておられる主イエスをキリスト、つまり救い主と信じて、従っていく人々が起される。そしてその人々がさらに、主イエスによって、最初の十二人と同じように遣わされていく、そのようにして、この新しいイスラエルは次から次へと広がり、発展していくのです。ですから、主イエスの選びと派遣は、この十二人だけのことではありません。この十二人の伝道によって主イエスを信じ、主イエスによって到来した天の国、神様の恵みのご支配を信じた者たちは、つまり教会に連なる者たちは、彼らと同じ使命を与えられて遣わされていくのです。そのことを、もう一つの側面からも確認することができます。このマタイ福音書において、本日の10章5節に「イエスはこの十二人を派遣するにあたり」とありますが、その後を読んでいっても、十二人が派遣されてどうした、ということは全く語られていないのです。マルコやルカにおいては、派遣された弟子たちが主イエスのもとに帰ってきて、自分たちのしたことを報告した、ということが語られているのですが、マタイにはそれが全くありません。つまりマタイは、十二人の弟子たちがこの時派遣されて何をした、ということには関心を持っていないのです。それならなぜこのように弟子たちの派遣に際しての教えを語るのか。それは、この福音書を読む教会の人々のためです。あなたがたも、この十二人と同じように主イエスによって選ばれ、主イエスの憐れみのみ業を担う「収穫のための働き手」として派遣されている、その派遣された者としてどのように歩むか、何を注意したらよいか、それをマタイはここに語っているのです。ですから本日の箇所の、派遣された弟子たちへの教えは、即、私たちに対する、教会に連なる信仰者一人一人に対する教えなのであって、私たちはこれをニ千年前の出来事として読み過ごしてしまうわけにはいかないのです。 そうなると、これは大変なことになった、と思わずにはいられません。先ほど見たような、主イエスご自身のなさっていた力ある業を、私たちもしていかなければならない、そのために世の人々のもとに派遣されているとなると、そんな任に自分はとうてい堪え得ない、自分はそんな器ではない、と思わずにはおれないのです。しかしそこで私たちは、8節の終わりの言葉をよく味わう必要があると思います。そこには、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とあります。弟子たちが派遣されてしていく業、それは、「ただで受けたことをただで与えること」なのだというのです。十二人は、汚れた霊を従わせるほどの権能を主イエスから与えられて遣わされました。しかしその力は、ただで与えられたものだったのです。この「ただで」という言葉は、「贈り物として、恵みとして」という意味です。代金や見返りを要求されない純粋な贈り物として、彼らは主イエスご自身の語っていたことを語り、なさっていた業を行う力を与えられたのです。つまり彼ら十二人が主イエスから使命を与えられて遣わされた、それは彼らが何か特別に優れた力や才能を持っていたからではなかった。立派な人間だったからでもなかった。そのように、神様の前に「私はこんなものを持っています、こんなことができます」と提出することができるものは何もなしに、彼らは選ばれ、派遣されたのです。主イエスは彼らからそのようなものを何一つ求めようとせず、ただ恵みによって、使命を与え、それを行なっていく力をも与えて下さったのです。だから弟子たちは、何の資格も相応しさもない自分に、ただ恵みとして与えられたものを、人々にも、ただで、何の資格も相応しさも求めないで与えていったのです。 そのような弟子たちの姿を具体的に示し教えているのが9、10節です。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」。派遣されていく弟子たちが、何を持っていくか、いや、何も持っていくなということが教えられています。金貨も銀貨も銅貨も、つまりお金は一切持っていくな、袋や二枚の下着や履物や杖という、旅の最低限の必需品と思われるものすらも持っていくなと教えられているのです。何故でしょうか。それは10節の最後の言葉が教えています。「働く者が食べ物を受けるのは当然である」。これはつまり、自分で蓄えを持って用意していかなくても、神様のための働き手には必ず必要なものが備えられ、与えられるということです。誰がそれを備え与えてくれるのでしょうか。具体的には、行った先々の人々が、必要なものを捧げてくれるということですが、しかしそれは根本的には、神様が与えて下さるということです。「山上の説教」の6章32、33節で主イエスは、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とおっしゃいました。この父なる神様のみ心を信じて、そのみ手に身を委ね、与えられた使命を果していく、それが、何の蓄えも用意もなく派遣されていく弟子たちの姿なのです。そしてそれはまさに神様が、何の資格も相応しさもない自分に、ただで、恵みによって与えて下さるものによって生かされていくということです。主イエスに遣わされる弟子たち、信仰者の歩みは、自分の資格や力に寄り頼んで生きるのではなく、ただ神様が恵みとして与えて下さるものに支えられ、生かされ、そして神様が与えて下さる力によって使命を果していく、そういう歩みなのです。主イエスご自身がなさっておられた憐れみのみ業を行っていく働き手となるためには、自分の力、相応しさ、あれができる、これができるという能力は一切必要ない、そのような自分の中の蓄えは全くない者が、神様の恵みによって、ただで必要なものを全て与えられ、支えられ守られてその使命を果たしていくことができる、「何も持っていくな」という教えは、そういうことを語っているのです。 11節以下には、遣わされて行った先で何をするべきかが教えられています。しかし何か特別なことをせよと言われているわけではありません。することはただ一つ、12節にある「平和があるように」と挨拶することです。実はこの12節の原文には「平和があるように」という言葉はありません。直訳すれば、「その家に入ったら挨拶をしなさい」という文章です。その挨拶が、ユダヤ人の間では「シャーローム」という言葉であり、それは「平和があるように」ということなのです。日本語ではそういう時の挨拶の言葉は「こんにちは」ですが、考えてみるとこれは全く意味のない、虚しい言葉です。それに比べて、「シャーローム」という挨拶は何と豊かな、深い内容を持った言葉だろうかと思います。とにかく、その「シャーローム、平和があるように」という挨拶をする、それが弟子たちが派遣された先でするべきことなのです。そしてその一言の挨拶が、大きな意味と効果を持つのです。13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」。弟子たちが「平和があるように」と語る挨拶が、単なる挨拶で終らず、その家の人々に本当に平和を与える力を持つ。それはどういうことなのでしょうか。このことを私たちは、弟子たちが魔術のような力を与えられたと読んでしまってはなりません。このことは、その前の、彼らがお金も何も持たずに、つまり自分の力や蓄えによるのではなく、ただ神様からの養いと導きに身を委ねて遣わされていく、ということと合わせて読まなければなりません。そのように、神様の恵み、憐れみのみ心を信じて、それにこそより頼んで歩む者は、神様から本当の平和を与えられているのです。そしてその神様からの平和に生きている人は、人にも、その平和を伝え、与えていくことができるのです。人のもとに、本当に平和を携えて行くことができる人とはどのような人であるかがここには示されています。それは、自分の力や資格や正しさ、立派さに寄り頼むのでなく、神様が、何の資格もない自分にただで与えて下さった恵みをいただいて、それによって生きている、それにこそ寄り頼んで歩んでいる人です。そこにこそ、本当の平和があり、またそのような人こそ、人に平和をもたらすこともできるのです。 ここには、相手の人々が、その平和を受けるにふさわしい場合とふさわしくない場合があることが語られています。相手がふさわしくない場合には、その平和は弟子たちに戻ってきてしまうのです。このふさわしさとは何でしょうか。ただで与えられるというのは嘘で、何らかの相応しさという資格が求められているのでしょうか。そうではありません。この場合の相応しさとは、神様が与えて下さる恵み、平和を、自分の何らかの資格や相応しさに対する報酬としてではなく、まさに恵みとして受けることです。つまり自分の中の蓄え、自分が持っているもの、自分にはこれができる、ああいう力があるという思いを捨てて、ただ神様の恵みを感謝してお受けするという心です。「地上に富を積んではならない。富は天に積みなさい」という、これも「山上の説教」の6章19節以下に語られていた教えはそういうことを語っていたのです。自分の中にどんな富、豊かさがあるかではなく、天の父なる神様が備え、与えて下さる富、恵みに信頼し、寄り頼んでいく、そういう心があるところでのみ、弟子たちが祈る平和は本当にその人に与えられるのです。逆に、そういう心がないところでは、どんなに平和が祈られても、本当に平和がその人のところに来ることはないのです。11節に、「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」と教えられている、その「ふさわしい人」というのもこれと同じことでしょう。神様の恵みが本当に恵みとして、つまりただで、何の資格も問われることなく自分に与えられていることを信じ受け入れる人、そしてそれを心から感謝していただく人、その人こそ「ふさわしい人」なのです。神様が与えて下さる平和は、魔術のように誰にでも与えられるわけではありません。神様の前にへりくだって、本当にそれをただでいただこうとする人、いや、ただでいただくしかない、自分はそのためにどんな代金も支払うことはできない、何の相応しさもないということを知る人だけがそれを得ることができるのです。 弟子たちは、そして教会に連なる信仰者は、このような使命のために遣わされていくのです。私たちも例外ではありません。その私たちにとって大事なことは、まず私たち自身が、神様の恵みを、本当にただで受ける者になることです。今見た意味での「ふさわしい人」に私たち自身がなることです。自分はこんな大それた使命に堪える者ではない、自分にはとてもそんな力はない、と言っている間は、私たちは、自分の力、自分の資格、自分の持っている相応しさに寄り頼もうとしているのです。それが、神様の前での傲慢、思い上がりです。私たちにそんな力がないこと、相応しい者でもないことは、神様よくご存じです。それをご存じの上で、その相応しくない私たちを選び、ただで、恵みを与えていて下さるのです。その恵みは、独り子主イエス・キリストによる恵みです。主イエスが、私たちが陥っている罪の責任を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、そして復活して下さった、それによって、私たちを支配している罪と死の力を打ち破って勝利して下さり、神様の下で生きる本当の平和を与えて下さった、この恵みがまさにただで、私たちに与えられているのです。ただで与えられているこの恵みを、私たちが信じて受け、感謝していく時に、私たちは、神様からの平和を与えられます。そしてその平和に支えられ、守られ、導かれている者として、自分の中には何の蓄えも、力もないままで、主イエスの働き手として遣わされていくのです。そして主イエスの憐れみのみ心が、私たちを通して人々の間で実現していくことを体験することができるのです。「天の国は近づいた、神様の恵みのご支配が今や主イエスによって始まっている」という喜びの知らせが私たちを通して伝えられ、様々な病気に苦しむ人が慰めと支えを与えられ、自分が、また家族が死の支配下に置かれて、恐れや悲しみや嘆きの中にいる人に希望が与えられ、困難や苦しみに打ち勝って新しく歩み出していく力が与えられていくのです。それは私たちの力によることではありません。神様がそこに働いて下さって、私たちを用いて下さるのです。 主イエスはここでは弟子たちに、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とおっしゃいました。まずは、神の民イスラエルの中へとあなたがたを遣わすということです。それは私たちに当てはめてみれば、まずは教会の中で、その兄弟姉妹の交わりにおいて、互いに、主イエスの憐れみの働き手として、平和を祈りもたらす者として歩めということでしょう。罪深い私たちは、その当たり前とも思えることすらもなかなかできない、むしろ互いに傷つけ合い、平和をもたらすどころか争いを引き起こしてしまうような者です。だから私たちは、常に繰り返し、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」というみ言葉に立ち返らなければなりません。私たちはただで、何の相応しさも資格もないのに、主イエス・キリストによる罪の赦しの豊かな恵みを受けたのです。だからそれを私たちの隣人にも、ただで、相応しさや資格を問うことなく与えていく者でありたいのです。そのような主にある兄弟姉妹の交わりを、新しいイスラエル、新しい神の民である教会において築いていきたいのです。そして主イエスの救いは、イスラエルの民のみに与えられるものではありません。この福音書の最後のところに至ると、復活された主イエスが、弟子たちを、全世界へと派遣し、全ての民をわたしの弟子としなさいと命じておられます。主イエスによる救いは、そのようにして教会の外にまで広げられていくのです。いや、主イエスの招きによって教会はその範囲をどんどん広げられていくのです。私たちはそのことのために選ばれ、遣わされています。「自分にはそんな力はない」と言うのはもうやめて、主イエスによる選びと派遣のみ心に従っていきたいのです。
牧師 藤 掛 順 一 |