マタイによる福音書の８章と９章には、主イエス・キリストがなさった様々な奇跡のことが、まとめて語られています。私たちはこれまで、その部分を順番に読んできました。ふりかえって見るならば、８章の始めには、らい病を患っている人の癒しがまず語られていました。８章５節以下には、中風で寝込んでいる、ある百人隊長の僕の癒しがありました。１４節以下には弟子のペトロのしゅうとめの熱病の癒し、そしてそこに連れられてきた多くの悪霊に取りつかれた人が皆癒されたことが語られていました。２３節以下には、ガリラヤ湖の嵐を鎮める奇跡、２８節以下には、ガダラ人の地方で、悪霊に取り付かれた二人の人から悪霊を追い出す奇跡が語られていました。９章に入ると、まず、友人たちによって寝たまま連れてこられた中風の人の癒しがあり、９節以下には徴税人マタイを招いて弟子にしたことが語られていました。「わたしに従いなさい」という一言で、徴税人マタイが主イエスに従って行ったというこの出来事も、一種の奇跡であると言うことができるでしょう。１８節以下には、十二年間出血が止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しと、死んでしまった少女を生き返らせる奇跡とが語られていました。２７節以下には、二人の盲人の目を開く奇跡、そして本日の３２節以下には、悪霊に取りつかれて口が利けない人が癒されてものを言うことができるようになったことが記されています。これらの数多くの癒しのみ業、奇跡が８章９章に語られており、その全体のまとめをしているのが、本日のところの３５節です。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。まさに「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」、その主イエスのみ業のまとめ、しめくくりの部分に私たちは今さしかかっているのです。

　その数々のみ業の最後に語られているのは、３２節以下の、悪霊に取りつかれて口の利けない人の癒しですが、そのみ業には、それを見た人々の反応がつけ加えられています。３３節の後半に、「群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った」とあります。この反応は、口の利けなかった人が癒されたということだけを受けてのものではないでしょう。これまでに語られてきた、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」主イエスのみ業の全体を受けての、人々の反応がここに記されていると考えてよいと思います。人々は主イエスの数々の奇跡を見て、驚嘆したのです。そして「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言ったのです。まさに前代未聞のすばらしいみ業が、主イエスによってなされたと人々は思ったのです。これは単に普通には起こり得ないような奇跡に驚いた、というだけのことではありません。「イスラエルで」と言われていることに意味があるのです。神様に選ばれ、神様の民とされているイスラエルです。そのイスラエルで、これまで起こったためしがないようなすばらしい癒しのみ業が行われた、それは、旧約聖書に預言されていた神様の救いがいよいよ実現し始めたということです。その預言が、本日共に読まれたイザヤ書３５章です。その５，６節にこうあります。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。ここに、様々な癒しのみ業が預言されています。これらがまさに、主イエスによって実現しているのです。ここに並べられている癒しの最後が、「口の利けなかった人が喜び歌う」であることは、８，９章の一連の癒しの最後が、本日の箇所の、口の利けない人の癒しであることと重なっています。人々は主イエスの癒しのみ業に、このイザヤの預言の実現を見たのです。つまり主イエスによって、いよいよ、イザヤが預言した「そのとき」が来たことを感じたのです。「そのとき」とは、主なる神様がイスラエルを救って下さる時、イザヤ書３５章の最後の１０節にある「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」ということが実現する時です。この完成に至る救いがいよいよ始まった、ということを、人々は驚きの内に感じ、期待したのです。

　しかしここにはそれと同時に、全く別の反応もあったことが語られています。３４節の「しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った」というところです。主イエスが悪霊を追い出して癒しを行っているのは、自分が悪霊の親玉だからだ、悪霊が主イエスの命令に従うのは、暴力団の親分が命令すると子分が言うことを聞くのと同じだ、と彼らは言っているのです。つまり、主イエスによって行われている癒しの奇跡は、神様のみ業ではない、そこに神様の救いが現れているようなものではない、イザヤの預言の実現などではない、ということです。これも、これまでに語られてきた主イエスのみ業全体に対する反応であると言えるでしょう。つまりこの主イエスの癒しの奇跡を語る部分のしめくくりには、そのみ業に対する全く正反対の二つの反応が記されているのです。

　このことは、私たちの信仰にとって、とても大事なことをいくつか教えています。第一のことは、主イエスの奇跡を実際に見たり体験すれば信じることができる、というものではない、ということです。私たちはともすれば、聖書に語られている様々な奇跡の記事を読んで、「自分もこんなことを実際に見たり体験すればイエス様を、神様をはっきりと信じることができるのに」と思うことがあります。しかしそんなことはないのです。主イエスの当時の人々、そのみ業を見た人々が、みんな信じたわけではありませんでした。同じように主イエスの奇跡を見た人々が、このように全く正反対の反応を示しているのです。奇跡を見れば信仰が生まれるというものではありません。そしてここに教えられている第二の大事なことは、この第一のこととつながっているのですが、要するに、主イエスのみ業をどう受け止めるかということが、私たち一人一人に問われているということです。ここに語られている二つの正反対の反応の内、どちらに組するか、それは私たちの思い次第なのです。群衆たちと共に、主イエスのみ業に、神様の救いの実現を見ていくか、それともファリサイ派の人々のように、それは神様のみ力によることではないとして拒否するか、それを私たちは問われています。この問いにどう答えるかによって、私たち人間は、信じる者と信じない者の二つに分かれるのです。ファリサイ派の人々に組して、主イエスのみ業が神の力によるものではないとして拒否する、それはなにも「悪霊の頭」によると考えることばかりではありません。こういう奇跡は「超能力」によることだったのだ、と考えてもよいのです。あるいは、もともとこんな奇跡はなかったので、教会が、イエスを神の子と信じさせるためにでっちあげた話だ、と考えてもよい、そこまで言わないとしても、イエスに救い主であってほしいと期待する人々の思いがこのような話を生んだと考えることもできる。いずれにせよ、イエス・キリストのみ業に神様の救いを見ようとしないこと、それがファリサイ派の人々に組することなのです。

　主イエスのみ業に神様の救いを見るか否か、そういう問いの前に立たされた人のことが、この福音書の１１章に語られています。これから読む所の先取りになりますが、そこを見ておきたいと思います。１１章２節以下です。そこには、洗礼者ヨハネが、捕えられている獄中から人を遣わして主イエスに質問をしたことが語られています。その質問とは、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」というものでした。ヨハネ自身が予告した、来るべき救い主、それはあなた、主イエスなのか、それともそうではないのか、という問いです。この問いに対して主イエスは、「そうだ」とも「違う」ともお答えにならず、こう言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。ここにも、８，９章に語られている主イエスのみ業が並べられています。主イエスはヨハネにこれらのみ業を示し、あなたはこれをどう受け止めるのか、と逆に問われたのです。この問いが、私たち一人一人にも投げかけられています。それにどう答えるかで、信じる者になるか、信じない者になるかが分かれるのです。ですから「わたしにつまずかない人は幸いである」というみ言葉は、私たち一人一人に向けて語られているのです。

　この主イエスの問いかけにどう答えるかによって、私たちの歩みは、信じる者と信じない者の二つに分かれると申しました。その二つの歩みの違いはどこにあるのでしょうか。主イエスのみ業に、神様の救いを見ていく歩みと、そうでない歩みはどう違うのでしょうか。そのことを、先ほど読んだ３５節から読み取っていくことができると思うのです。もう一度３５節を読んでみます。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。これは８，９章の癒しのみ業をまとめている言葉だと先ほど申しました。「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」という所は確かにそう言うことができます。しかしここにはその前の「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」という文章があるのです。つまり主イエスが町々村々を巡回して教えを語られた、そのこともここには見つめられています。そして実はこの３５節と対になっているところが、ずっと以前に読んだ所にあったのです。それは４章２３節です。そこにはこうありました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。９章３５節とほとんど同じことがここに語られています。この４章２３節と９章３５節は対になっているのです。そしてこれはマタイ福音書によく出て来る書き方なのですが、このように対になっている二つの節が枠となって、あるいは額縁のようになって、それに挟まれた部分に語られていることがまとめられているのです。つまり、この二つの節に挟まれた部分、即ち５章〜９章が一つのまとまりであり、その内容をまとめているのがこの二つの節なのです。５〜９章が一つのまとまりであると申しましたが、ここは明らかに二つの部分に分けられます。５〜７章は、いわゆる「山上の説教」と呼ばれる、主イエスの教えを語っている部分です。そして８，９章は、これまで見てきたように、主イエスのみ業をまとめて語っている部分です。そういう二つの部分からなる５〜９章が、あの二つの節にまとめられているのです。ということは、本日の３５節で言えば、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」とあるところが、５〜７章の「山上の説教」をまとめており、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあるところが、８，９章をまとめているのです。つまりこの３５節のまとめの言葉において、５〜７章の山上の説教における主イエスの教えと、８，９章におけるみ業との全体が振り返られ、見つめられているのです。 主イエスのみ業に、神様の救いを見ていく歩みと、そうでない歩みの違いがこの３５節からわかる、と先ほど申しました。それは今申しました３５節の性格によることです。ここには、主イエス・キリストの教えとみ業が凝縮されて見つめられています。癒しの奇跡だけが見つめられているのではなく、その前の教えの部分も合わせて見つめられているのです。そしてその主イエスの教えは、「御国の福音」と呼ばれています。山上の説教の全体が、「御国の福音」という言葉でまとめられ、代表されているのです。「御国」とは、神の国、神のご支配という意味で、マタイの言い方では「天の国」です。「こころの貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と始まる山上の説教は、この天の国、神のご支配が私たちの上に実現することを告げ知らせていました。その神のご支配はどのようにして実現するか、それは、律法や預言者を完成するために来た主イエスによってでした。主イエスは、律法学者たちのようにではなく、真に権威ある方として、律法を完成させる教え、神様がその民に本当に求めておられることを告げ知らせられたのです。その主イエスの教えの中心をなし、何度も繰り返された言葉は、「あなたがたの天の父」という言葉でした。神様はあなたがたの天の父であられる、あなたがたを、父として愛し、養い、守り、導いていて下さる、あなたがたが願い求める前から、あなたがたに必要なものをちゃんとご存じであり、それを与えて下さる、だからその父なる神様に信頼して、何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩むことなく歩みなさい、と教えられたのです。山上の説教の中心は「主の祈り」でした。言葉数多く祈らなければ聞いてもらえない、何度もしつこく祈り求めなければなかなか行動を起こしてくれない、そういう疎遠な神様に祈る異邦人たちの祈りとは違って、あなたがたは、「天におられるわたしたちの父よ」と祈ることができる。その父なる神様が、私たちを子として愛していて下さり、私たちに本当に必要なものを、私たち以上によくわかっていて下さり、それをふさわしい時に、ふさわしい形で与えて下さるのだから、ああして下さい、こうして下さいと祈る前に、「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が行われますように」と祈ることができる、そういう祈りを、そういう天の父との関係を、主イエスは私たちに与え、示して下さったのです。本来、父なる神様とそのような関係を持ち、「父よ」と呼ぶことができるのは、神の独り子であられる主イエスお一人だけのはずです。しかしその主イエスが、人間となってこの世に来て下さり、私たちを招いて下さり、「私の父はあなたがたの天の父でもある、あなたがたも私と共にこの父を、天の父と呼んでよいのだ」と教えて下さった、これが「御国の福音」です。そういう福音、即ち良い知らせ、喜びの知らせを、主イエスは私たちに告げ、もたらして下さったのです。

　そしてこの「御国の福音」の現れとして、主イエスは「ありとあらゆる病気や患い」を癒して下さいました。主イエスの癒しのみ業は、神の子としての力を示して人々を従わせるためではありません。様々な病気や患いによって、苦しみ悲しみによって、うちひしがれ、力を失い、立ち上がることができずにいる、そういう人々を、主イエスは深く憐れんで下さったのです。次の３６節には、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。その憐れみのみ心こそ、主イエスの癒しのみ業の意味であり、理由です。主イエスは、苦しみ悲しみの中にある者を、神があなたがたの天の父であられるという御国の福音によって慰め、力づけ、そしてその天の父なる神様の憐れみのみ心の現れとして癒して下さったのです。 これが、３５節に語られていることです。主イエスのみ業に神様の救いを見ていくというのは、主イエスの教えに「御国の福音」を聞き、その福音の現れとして主イエスのみ業を見つめていくこと、即ちそこに神様の憐れみのみ心を見つめていくことです。そのことによって私たちの歩みにどんな違いが生じるか。それは、神様が私たちの天の父となって下さり、父として私たちを愛していて下さることを知り、その神様に「天の父よ」と祈りつつ生きることができる、という違いです。大きな悲しみ、苦しみに陥る時、「天の父よ」と祈ることができる神様を知っているのとそうでないのとでは、その歩みは天と地ほどに違うものとなるのです。

　私たちは毎週の礼拝において、主イエスの教えを聞き、そこに「御国の福音」を聞きつつ歩んでいます。そしてその御国の福音を聞きつつ生きる私たちは、ありとあらゆる病気や患いを癒された、その主イエスのみ業をも、自ら体験していくのです。それは、病気が治るとか、死んだ者が生き返るとか、そういう目に見える奇跡が起こるということではありません。しかし、苦しみ悲しみの中で立ち上る力を失っている者が、主イエスの恵みによって力づけられ、起き上がって自分の足で立ち、歩くことができるようになっていくということが起こるのです。心の目がふさがれ、見るべきものを見ることができなかった者が、信仰の目を開かれ、神様の愛と憐れみのみ心を見つめるようになるということが起こるのです。心に重くのしかかっている苦しみや問題のゆえに、口を開くことができず、言葉を失ってしまっている者が、新しい言葉を与えられ、神様の恵みに感謝し、ほめたたえる言葉を与えられていくということが起こるのです。自らの罪の中に座り込み、誰をも寄せ付けない閉ざされた心の内に生きていた者が、「わたしに従いなさい」という主イエスの招きを受けて立ち上り、従っていくようになることが起こるのです。そのようにして、私たち一人一人も、主イエスによる癒しのみ業、奇跡を体験していくのです。そして主イエスは、私たちの先頭に立って、舟に乗り込み、こぎ出されます。私たちは、主イエスに従っていく信仰の船旅に出るのです。その船を嵐が襲います。私たちの信仰の船は、大波にもまれ、沈みそうになるのです。けれども、その船に共に乗り込んでおられる主イエスは、その嵐を鎮めて、私たちを守って下さるのです。８，９章に語られている主イエスのみ業は、そのようにして、一つ一つが、私たち自身の信仰の体験となっていきます。これらの奇跡をこの目で見たことはなくても、それを自分自身のことして体験していくのです。その歩みは、主イエスの教えに御国の福音を聞くことから始まります。主イエス・キリストの父なる神様が、主イエスの十字架の死と復活によって、私たちの天の父となって下さった、その福音を信じることから、私たちの歩みは、主イエスのすばらしいみ業、奇跡に導かれ、それを自ら体験していく歩みとなるのです。

牧師　藤 掛　順 一
[2001年6月17日]

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