富山鹿島町教会

礼拝説教

花の日合同礼拝
「祝福への旅立ち」

創世記 第12章1〜9節
ヘブライ人への手紙 第11章8節

 皆さんは、新約聖書の一番初めところ、1ページの最初を読んだことがあるのではないでしょうか。新約聖書の最初にあるのは、マタイによる福音書ですね。その最初のところには、人の名前がずらずらと並べられています。それは、イエス様がお生まれになる、その前に生きた、イエス様の先祖たちの名前です。誰々が誰々を生んで、その誰々がまた誰々を生んで、ということがずっと続いてきて、最後のところにイエス様が生まれたと書かれています。そういうのを「系図」というのですが、そのイエス様の系図の一番最初に出て来るのは、アブラハムという人です。アブラハムから始まって、その子供の子供の子供…と何十人もつながった先に、イエス様がお生まれになったのです。今日はそのアブラハムのお話をします。先ほど読まれた創世記12章に、アブラムという人が出てきました。この人が、後でアブラハムという名前を神様からいただくのです。イエス様の最初のご先祖様です。

 今、「最初のご先祖様」と言いましたが、それってちょっとおかしいなと思った人もいるのではないでしょうか。だってアブラハムにもお父さんとお母さんがいたはずです。お父さんの名前はわかっています。テラというのです。そのまたお父さんもわかっています。そういうふうに、ご先祖をたどっていけばどこまでも続くのであって、アブラハムが最初のご先祖、というのはおかしなことなのです。でも、マタイによる福音書の最初の系図は、アブラハムから始まっています。その前の人たちのことは全然出てこないのです。やっぱりアブラハムが最初なのです。これはどういうことなのでしょうか。

 アブラハムはよっぽど何かすばらしいことをしたので、この人こそ私たちのご先祖だ、ということで名前があげられるようになったのでしょうか。その通りです。アブラハムはすばらしいことをしたのです。それで、イスラエルの人たちの最初のご先祖として名前があげられるようになったのです。でもそのすばらしいことというのは、私たちが普通に考えるすばらしいこととは大分違っていました。アブラハムは、旅に出たのです。それだけです。それが、彼がしたすばらしいことでした。立派な町や国を起こしたわけではありません。世の中をよくするために立派な行いをしてみんなに尊敬されたわけでもありません。ただ、旅に出た、そのことが、アブラハムを特別な人にしたのです。

 皆さんも、旅、旅行をしたことがあると思います。小さい皆さんにとっては、日帰りで金沢まで行ってくるというのも旅です。だんだん大きくなってくると、それが泊りがけになり、東京ディズニーランドへ行く、大阪のユニバーサルスタジオ・ジャパンへ行く、と行き先も遠くになっていきます。さらには、アメリカへ行く、ヨーロッパへ行く、という海外旅行に出かけることもあるでしょう。でも、今言った旅行はみんな、行き先が決まっています。金沢へ行くにしても、アメリカへ行くにしても、どこそこへ行く旅行、行き先、目的地が決まっている旅行、それが私たちの旅、旅行です。中には、ある期間、日本中を、あるいは世界中を、気の向くままにあちこち旅をする、という人もいます。行き先が決まっていない旅行です。でもそういう旅でも、今度はどちらの方へ行こうと思って電車に乗るのだし、ここで降りようと思って降りるわけで、行く先はその時その時自分で考えて決めているのです。そういうふうに、私たちのする普通の旅は、自分で目的地、行く先を決めるものです。ところが、アブラハムの旅はそうではありませんでした。彼は、どこどこへ行こう、と思って旅に出たのではなかったのです。アブラハムが旅に出たのは、神様の呼びかけがあったからでした。その神様のお言葉が、創世記12章1節にあります。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。アブラハムはこの神様のお言葉を聞いて、生まれ故郷、お父さんの家を出て、旅立ったのです。

 この旅は、何日か出かけてまた戻ってくるというものではありません。もう帰ってこないのです。新しいところへ行って、新しい生活を始めるのです。生まれ故郷、父の家を離れていくのです。それまでの生活、慣れ親しんだものを捨てていくのです。神様の呼びかけに応えて、そのように新しいところへ、新しい生活へと向かっていくのです。それがどこで、どんな生活なのかはわかりません。神様は「わたしが示す地に行きなさい」とだけおっしゃいました。それがどこかはまだわからないのです。先ほど読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙11章8節に、このアブラハムの旅立ちのことが語られていますが、そこには、「行き先を知らずに出発したのです」とありました。アブラハムは、行き先を知らずに旅立ったのです。それは気の向くままどこへでも行くということではありません。行き先は神様がお決めになるのです。その神様の導きに行き先をお任せして、とにかく今の生活から旅立ったのです。これが、アブラハムの旅立ちでした。神様を信じて、神様に従っていくというのはこういうことなのです。神様を信じることは、旅に出ることです。それまでの自分の歩み、生活を出て、違う、新しい歩み、生活へと向かうことです。しかもどういう歩み、どういう生活に向かうかは、私たちが決めるのではなくて、神様がお決めになる、その神様の導きに身を委ねていくのです。

 行き先を知らずに旅に出るなんて、とてもあやふやな、不安なことです。しかも行き先は自分で決めるのではなくて神様がお決めになるというのでは、いったいどんな所に連れて行かれてしまうのかわからない、とますます不安になります。けれども神様はそこにちゃんと約束を与えて下さいました。2節に、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」とあります。これが、神様がアブラハムに与えて下さった約束の言葉です。あなたを祝福する、あなたは祝福の源となる。祝福ってどういうことでしょう。難しい言葉ですが、簡単に言ってしまえば、神様の恵みが満ちあふれるということです。そして私たちが本当に幸せになるということです。神様の恵みに満たされ、本当に幸せになる、そのことのために神様は、アブラハムに声をかけ、彼を旅立たせたのです。神様の呼びかけに応えて行き先を知らずに旅立つのは、この神様の祝福をいただくためです。どこへ導かれていくのはわからない、そういう不安やとまどいはありますけれども、神様は、ご自分の呼びかけに応えて旅立った者たちに、豊かな恵み、祝福を約束して下さっているのです。

 アブラハムに、「わたしが示す地に行きなさい」と呼びかけた神様は、今私たち一人一人にも、同じように呼びかけておられるのです。それは、私たちに今家を出て、家族と別れて、どこかへ行きなさい、と言っておられるということではありません。でも、私たちが神様を信じて、神様の約束して下さっている祝福を求めて毎日を過ごすようになるというのは、やっぱり私たちが変わることです。今まで通りではなくなることです。どう変わるのか、それはその人によって違います。神様を信じるようになることは、みんなが同じになることではありません。神様は私たち一人一人を、それぞれ違った仕方で、違った道へとお導きになるのです。それは神様がお決めになることで私たちはそれこそ行き先を知らずに旅立っていくのです。私たちがどう変わっていくかは、そのようにわかりません。けれども、神様を信じることによって、私たちは変わっていくのです。それまでは、自分や自分の周りの人々のこと、自分と関係のあることしか見ていなかったのが、神様を見あげるようになるのです。神様のみ心を聞こうとするようになるのです。それは、私たちが新しく旅立つことです。そのことによって神様は私たちを、私たちの知らない、新しい、すばらしい所へと導いていって下さるのです。神様の恵みを満たして、私たちを本当に幸せにして下さるのです。それは、わくわくするような楽しみなことではないでしょうか。神様を信じることは、そういうふうにわくわくする、楽しみな歩みなのです。

 アブラハムが旅立ったのは、自分が神様の祝福を受けて、幸せになるためだけではありませんでした。神様は「あなたは祝福の源となる」とおっしゃり、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という約束をも与えて下さいました。アブラハムが神様の呼びかけに応えて旅立ったことから、すべての人々に、神様の祝福、恵みが与えられていったのです。アブラハムはその始まりになったのです。私たちも、神様の呼びかけに応えて旅立つ時、私たち自身が神様の祝福をいただくだけではなくて、そのことを通して私たちの周りの人々にも、神様の祝福をもたらすことができるのです。

 アブラハムに約束された神様の祝福は、その子孫としてお生まれになったイエス様によって実現しました。祝福とは、神様の恵みが満ちあふれることです。それはどこに満ちあふれているのかというと、神様が私たちのために、独り子のイエス様を送って下さり、そのイエス様が私たちの身代わりになって十字架にかかって死んで下さった、そして復活して下さった、そこに満ちあふれているのです。私たちは毎週日曜日に教会で、このイエス様によって与えられている神様の恵み、祝福をいただいています。その祝福をいただいて、毎週毎週、新しく旅立っていくのです。

 アブラハムは神様の呼びかけに応えて旅立った時、75歳でした。もうおじいさんです。人生の先は見えた、と思ってしまう年齢です。けれどもそこになお、神様の呼びかけがあり、新しい旅立ちが起る。信仰とはそういうものです。神様の呼びかけに応えて旅立つのは、教会学校の生徒さんたちのような若い人たちだけではないのです。この旅立ちに、年齢は関係ありません。信仰を持つのに、もう遅いということはないのです。神様は、若い人をも年老いた人をも、どんな生活の中にある人をも、招いていて下さいます。私たちはいつでも、どこからでも、その招きに応えて旅立つことができるのです。どこへ導かれていくのか、それはわかりません。私たちに今週どんなことが起ってくるのか、誰もわからない、人生の行き先は実は誰も知らないのです。イエス様の父であられる神様は、私たち一人一人を、それぞれに違った仕方で、違った所へと導いていかれます。しかしどこへ導かれようとも、神様はそこに祝福を備えていて下さる、私たちはそうを信じて、この礼拝から、新しく旅立っていくのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年6月10日]

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