富山鹿島町教会

礼拝説教

ペンテコステ記念礼拝
「目を開かれて」

列王記下 第6章8〜23節
マタイによる福音書 第9章27〜31節

 本日この礼拝のために与えられている聖書の箇所、マタイによる福音書第9章27節以下には、主イエスが二人の盲人の目を開かれたという癒しの奇跡が語られています。また、本日共に読まれた旧約聖書の個所、列王記下第6章8節以下にも、主なる神様によって目が開かれたり、閉ざされたりということが語られています。これは預言者エリシャの物語です。エリシャとその召使のいた町が、ある時、敵の大軍によって包囲されてしまった、その軍勢を見て召使は「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか」とあわてふためくのです。しかしエリシャが、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈ると、彼の目が開かれた。すると、火の馬と戦車、つまり神様の軍勢がエリシャを囲んで守っているのが見えたのです。さらにエリシャは今度は敵の軍勢の目をくらましてくださいと祈りました。すると敵たちはエリシャを見てもそれと気づかず、むしろエリシャによってイスラエルの本拠地であるサマリアまで連れてこられてしまった。そこでエリシャがもう一度、「主よ、彼らの目を開いて見えるようにしてください」と祈ると、彼らは自分たちが敵の王の前に連れて来られていたことに気づいたのです。このように、神様が目を開いて下さると、肉体の目に普通には見えないものまでもが見えてくるし、神様が目を閉ざされると、肉体の目は見えていても、ものを正しく見ることができなくなる、そういう意味では盲目と変わらないことになる、ということがこの話において語られているのです。

 本日は、ペンテコステ、聖霊降臨日です。聖霊なる神様が弟子たちに降り、それによって彼らは力を与えられて、主イエス・キリストのことを宣べ伝え始め、この世に教会が誕生した、そのことを記念する日です。弟子たちは既に、主イエス・キリストの十字架の死と、復活とを体験していました。復活された主イエスが彼らに現れて下さり、主イエスが捕えられ、十字架につけられていく時に逃げ去り、あるいは「そんな人は知らない、自分とは関係ない」と裏切ってしまった彼らの罪を赦して下さったのです。しかしそのような復活された主イエスと出会いによって直ちに教会が生まれ、伝道が開始されたのではありませんでした。弟子たちは集まって祈りつつ、聖霊が降るのを待たなければならなかったのです。そして聖霊が降った時に初めて、伝道が開始され、教会が誕生したのです。このことは、教会の誕生や歩みは、人間の力や計画によるのではなく、神様の力、聖霊の働きによることだ、ということを示しています。それを弟子たちの側、人間の側から言うならば、聖霊が降ることによって、ある意味で彼らの目が開かれた、それまで見えなかったものが見えるようになった、ということになるのではないでしょうか。ペンテコステの日に、弟子たちは、目を開かれたのです。エリシャの召使が目を開かれて、火の馬と戦車が自分たちを囲んで守っていることを見たように、肉体の目に見えていることを越えた神様の現実に目を開かれたのです。それによって伝道が始まり、教会が生まれたのです。復活した主イエスを肉体の目で見ただけで伝道が始まり教会が生まれたのではなかったというのは大事なことです。私たちは、主イエス・キリストをこの目で見たことはありません。もしも教会が、主イエスを肉の目で見た、その体験によって誕生したものであるならば、私たちがそこに加わることは不可能なのです。しかし教会はそういうことによって成り立っているのではなくて、弟子たちが聖霊によって目を開かれたことによって誕生した群れなのです。聖霊によって目を開かれ、肉の目によっては見えなかった神様の現実を見る、教会はその聖霊の働きによって歩んできたのです。それゆえに、主イエスから二千年後の、遠い日本の地にいる私たちも、同じ聖霊の働きを受けて教会に加わることができるのです。教会とは、聖霊によって目を開かれた者の群れなのです。

 そのように申しますと、聖霊によって目を開かれるとはどういうことなのだろうか、自分は果して聖霊によって目を開かれていると言えるだろうか、という疑問が私たちの中に生じて来ます。そのことを、本日のマタイ福音書9章の記事から考えていきたいと思います。ここに出て来る二人の盲人は、主イエスによって目を開かれたのです。そしてこれは、単なる病気の癒しの奇跡ではありません。主イエスは29節で「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われました。すると彼らの目が開かれたのです。つまりこれは信仰の出来事です。彼らは主イエスに信仰を認められて癒され、目を開かれたのです。私たちが聖霊によって目を開かれるというのも、信仰におけることです。彼らはどのような信仰によって目を開かれたのか、ということを見つめていくことによって、私たちが聖霊によって目を開かれるとはどういうことであるのかが分かってくると思うのです。  「あなたがたの信じているとおりになるように」と主イエスに言われて癒されたこの二人の盲人は、どのような信仰を持っていたのでしょうか。彼らは、主イエスの一行に、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来たのです。主イエスは今、カファルナウムの町におられます。そこで、ある指導者、他の福音書では会堂長となっていますが、その家で、死んでしまった娘を生き返らせるという大きなみ業をなさったのでした。そこから家に帰る途中です。家というのは、主イエスが定宿としておられた弟子のペトロの家であると思われます。死者の復活の奇跡を見聞きした多くの群衆たちが興奮してその周りにひしめいていたでしょう。その雑踏の中で、この二人の盲人は、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながらついて来たのです。実はマタイはこれと同じような話を、20章の終わりにも語っています。そこでも二人の盲人が、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。その場面においては、周りの人々が彼らを叱って黙らせようとしたが、ますます大きな声で叫び続けた、と語られています。この9章においても、状況は同じだったでしょう。彼らは、何とか主イエスの耳に届くようにと、必死に、憐れみを求めて叫びながら、手探りで、主イエスの後について来たのです。

 彼らは主イエスに「ダビデの子よ」と呼びかけています。それは「救い主」という意味です。ダビデ王の子孫に、神様が救い主を遣わして下さるという預言が旧約聖書にあります。救い主は「ダビデの子」として来ると誰もが信じていたのです。彼らは、主イエスこそその救い主であると信じて、このように呼びかけ、救いを求めたのです。主イエスこそ約束されたダビデの子、救い主であると信じて、その憐れみを求めて叫び、ついて来る、その姿に、彼らの信仰を見ることができるかもしれません。しかしまた別の見方をすれば、彼らは、目が見えない苦しみの中で、とにかく自分たちを救ってくれそうな人にわらをも掴む思いですがっただけだったとも言えるでしょう。主イエスが、いろいろな病気の人を癒し、死んだ人を復活させさえした、そのことを聞いた彼らは、この人ならば、自分たちを見えるようにしてくれるかもしれないと思ったのです。「ダビデの子」という呼びかけにしても、彼らが主イエスのことをよく知った上で、この方こそ約束された救い主に違いないと信じてそう呼びかけたとは言えないのではないかと思います。救い主が来れば、力ある癒しの業を行って、苦しんでいる者たちを救って下さると信じられていたのです。ですから、主イエスをはっきりと信じたと言うよりも、そういう期待を込めて彼らは「ダビデの子よ」と呼んだのではないでしょうか。つまり、この27節の彼らの姿に、どれだけ本当に「信仰」と呼べるものがあるのか、それは疑問であると思うのです。主イエスご自身も、叫びながらついて来る彼らの声には全く反応をなさっておられません。主イエスが彼らと向き合われるのは、28節にあるように、家に入ってからです。このことは主イエスが、多くの人々が押し迫っている雑踏の中ではなく、家の中の落ち着いた所で彼らと向かい合おうとしておられることを示していると言うこともできるでしょうが、しかし同時に、ここでの癒しが、彼らのあの叫び求めに直接応える形で行われたのではない、ということをも示していると言うことができると思います。

 家の中で初めて主イエスは彼らに語りかけられます。それは「わたしにできると信じるのか」というみ言葉でした。ここに「信じる」という言葉が出てきます。主イエスは彼らの信仰を問われたのです。「わたしにできると信じるのか」、「わたしが、あなたの目を開くことができると信じるのか」そう主イエスは問われたのです。この問いこそ、主イエスが、私たち一人一人に向き合って、私たちの目を見つめながら語りかけておられる問いです。信仰者、クリスチャンと呼ばれる人は、この問いを主イエスから受けた人であり、また信仰者、クリスチャンであり続けるとは、この問いを受け続けていくことなのです。「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫ぶことが信仰なのではありません。私たちはしばしば、そういう叫びに似た思いを持ちます。様々な苦しみや悲しみに直面する時、どうしたらよいかわからず途方に暮れてしまう時、「主よ、神よ、私を憐れんで下さい、イエス様、私を救って下さい」と願うのです。けれども主イエス・キリストとの本当の出会いは、そのように願っている私たちに、主イエスが、「わたしにできると信じるのか」と、面と向かって問うてこられる、そこにおいてこそ起ります。その問いに対して私たちはどう答えるか、それがまさに問われているのです。「憐れんでください、助けてください」と願うことと、主イエスにそれができると信じることとは別です。論理的には、信じているから願っているのだ、できないと思ったら願ったりはしない、ということになるかもしれません。しかしそれは違うと思います。私たちは苦しみの中から神様に、主イエスに、助けを求めて叫びます。しかしいざ、「わたしにできると信じるのか」と問われると、ぐっと言葉につまってしまうのではないでしょうか。そこで、「信じてますよ。信じてるからこそお願いしているんです」と言う人がいたら、私はそれは信仰と言うよりも、苦しい言い訳だと思います。おまえは本当に私の力を信じているのか、と主イエスに問われる時、私たちは絶句せざるを得ないのではないでしょうか。「わたしにできると信じるのか」という主イエスの問いは、そのような、重い、厳しい問いなのです。

 この二人の盲人は、その主イエスの問いに対して、「はい、主よ」と答えました。今申してきたことからすれば、これは驚くべき答えです。「おまえは私がおまえの目を開くことができると本当に信じているのか」と問われて「はい、主よ、あなたが私の目を開き、癒して下さることがおできになることを私は信じています」と答えたのです。そこに、この人たちのすばらしい信仰がある、この信仰を受けて主イエスは、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われ、癒しの業を行って下さったのだ、この信仰が彼らを救ったのだ、と言うこともできるかもしれません。けれどもそこでもう少し考えてみたいことがあります。彼らは「はい、主よ」と答えました。それは意味としては、今言ったような信仰の表明ということになります。驚くべき答えだと言ったのはそういうことです。しかし、考えてみれば彼らが言ったのは、「はい」という一言のみです。「主よ」も入れて、たった二つの単語です。原文の言葉を紹介するなら、「ナイ、キュリエ」となります。「ナイ」が「はい」、「キュリエ」が「主よ」です。日本語の「はい」にも似た、ほんの短い「ナイ」という言葉で彼らは主イエスの問いに答えたのです。彼らはそれをどんな思いで、どんな口調で言ったのでしょうか。確信を持って、元気に、大きな声で「はい」と言ったのでしょうか。そうではないのではないか。むしろ彼らは、この「はい」という一言しか言えなかったのではないだろうか。「はい、私はあなたが私の目を開いて下さる力ある方だと信じています」などと流暢に言うことはとてもできない、ただ「はい」と一言言うのが精一杯、それが彼らの思いだったのではないかと思うのです。「わたしにできると信じるのか」と問われた彼らは、やはり私たちと同じように、言葉につまり、絶句するしかないのです。しかしその中で彼らは、「はい」と答えることができた、それは彼らの信仰が立派だということではなくて、主イエスご自身が、彼らの「はい」を引き出して下さったということです。「わたしにできると信じるのか」という主イエスの問いは、私たちを厳しくテストして、合格点を取れない者は容赦なく振り落とす、という問いではないのです。主イエスはこの問いによって、私たちと向かい合い、そして私たちの「はい」という一言を導き出そうとしておられるのです。私たちはこの主の問いかけの前で自分が言葉を失わずにはおれない者であることを示されつつ、なお、主イエスの導きによって、ためらいがちに、「はい」と答えていくのです。「主よ」という言葉がその後に続いているのもそのことを示しています。「はい」と答えることができるのは、ひとえに主イエスの恵みと導きによることです。その主に全てを委ね、「主よ」と呼ぶことの中でこそ、私たちは「はい」と言うことができるのです。

 そして主イエスは、私たちの、このためらいがちな、ようやくにして語られた「はい」を受け止めて、それを私たちの信仰と呼んで下さるのです。「あなたがたの信じているとおりになるように」というみ言葉はそういうことを示しています。彼らがようやく一言発した「はい」を受けて、主イエスは、「あなたがたは私を信じている、私があなたがたの目を開くことができることを信じている。あなたがたは信仰者なのだ。そのあなたがたの信仰のとおりになるように」と言って彼らの目を開いて下さったのです。ですからこの「あなたがたの信じているとおりになるように」というみ言葉は、本当に信じれば何でも思った通りになる、ということではありません。この言葉はそんなふうに信仰の持つ力に注目して語られているのではなくて、主イエスが、私たちの、本当は信仰とは呼べないような思いを、信仰として受け止めて、それに基づいて救いのみ業を行って下さる、その恵みを語っているのです。ですからそれは22節で、主イエスの服の房にでも触れれば病気を癒してもらえのではないかと思って、後ろからそっと触れた女性に対して主が語られた「あなたの信仰があなたを救った」と同じ意味のみ言葉なのです。

 この二人の盲人はこのようにして目を開かれました。私たちが聖霊によって目を開かれる時にも、これと同じことが起るのです。私たちは、聖霊によって目を開いていただかなければならない者です。そうでないと、見るべきものが見えない者なのです。その私たちの姿は、あのエリシャの召使に似ています。肉体の目に見えているのは、敵の大軍に包囲されて、もうどうしようもない、自分はもう滅びるしかない、という現実です。そういう苦しみの中で私たちは、あわてふためき、パニックに陥るのです。しかしその私たちには、見るべきものが見えていません。目が閉ざされてしまっているのです。本当に見るべきもの、目が開かれたならば見えてくることは、火の馬と戦車が自分たちを囲んで守っているということです。つまり、神様が、人間を超えた強い力をもって私たちを守り、導き、私たちを通してみ心を行って下さるということです。それはもう少し言い換えるならば、神様が今あるがままの私たちをみ業のために用いて下さるということであり、もっと具体的には、私たちを主イエス・キリストの教会のかけがえのないえだとして下さり、主イエス・キリストの恵みが広められ伝えられ、伝道がなされていくために私たちを用いて下さる、ということです。あるいはもっと簡単に一言で言えば、神様が私たちを愛していて下さるということです。そのことが見えていない、それが目を閉ざされてしまっている私たちの姿なのです。聖霊は、その私たちの目を開いて下さいます。神様が私たちを愛していて下さり、強い力をもって守り、導いていて下さり、私たちを用いて下る、聖霊によってそのことに目を開かれるのです。ペンテコステの日に弟子たちに起ったのはまさにそういうことでした。そのことによって伝道が始まり、教会が生まれたのです。私たちが信仰を与えられ、教会の群れに加えられる時にも、それと同じ聖霊の力が働き、私たちの目を開いて下さるのです。

 この二人の盲人が主イエスに目を開かれた、その決定的な転機となったのは、「わたしにできると信じるのか」という問いに対して彼らが「はい、主よ」と答えたことでした。それは先ほども申しましたように、彼らが強い立派な信仰を持っていた、ということではありません。「わたしにできると信じるのか」という問いの前でたじたじとなり、言葉を失ってしまう現実は、彼らも私たちと変わるところはないのです。それはペンテコステの日に聖霊を受けた弟子たちも同じだったでしょう。「おまえたちは本当に私を信じているのか」と問われたら、肝心な時に主イエスを見捨てて逃げ去り、「そんな人は知らない」と言ってしまった彼らは「私は確かにあなたを信じています」などと胸をはって言うことはできないのです。しかしそれでも彼らは、「はい、主よ」と答えることができました。そのように答える自信が自分の中にあったからではなくて、主イエスがその答えを引き出して下さったのです。そのために主イエスは、彼らの罪を全て身に負って十字架にかかって死んで下さり、その罪を赦して下さったのです。主イエスはご自分の命をささげて、弟子たちが「はい」と答えることが出来るようにして下さったのです。それを妨げる障害を取り除き、その答えを引き出して下さったのです。私たちも同じです。「わたしにできると信じるのか」と問われれば、口ごもらざるを得ない私たちです。このような弱い、罪深い、力のない、また不信仰な者が、信仰者となり、教会の一員となって、神様に仕えて生きるなどということはとうてい考えられない、神様が自分のような罪深い、神様を裏切ってばかりいる、神様に従い仕えるどころか、神様を自分のために利用することしかしていないような者を、愛して、用いて下さるなどということはとうていあり得ない、と私たちは思うのです。けれども主イエスはそのような私たちから「はい、主よ」という答えを引き出そうとなさるのです。そのために、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。

 この二人の盲人たちは、主イエスの「わたしにできると信じるのか」という問いかけに対して、「はい、主よ」と答えたことによって、目を開かれていきました。聖霊によって目を開かれることは、この「はい」という小さな答えから始まっているのです。そしてこの「はい」という答えは、主イエスによって引き出され、神様によって与えられたものです。そこに働いているのが、聖霊の力なのです。私たちは、聖霊の導きによって、「あなたは私を信じるか」という主イエスの問いに、「はい、主よ」と答える者となるのです。そのことによって、私たちの目が開かれます。見えなかったものが見えるようになります。神様が私たちを愛して、みもとに招いていて下さり、恵みのみ業のために用いて下さることが見えてくるのです。もともと私たちの心には、神様の愛を頑なに拒もうとする壁があって、それが私たちの目を閉ざしています。その頑なな壁が取り除かれて、神様の愛に目を開かれ、それを受け入れる新しい世界が開けていく、その最初の一歩となるのが、「はい、主よ」という一言なのです。この一言を語ることができたなら、後は主イエスがそれを「あなたの信仰」と呼んで下さり、そこから豊かな恵みのみ業を繰り広げていって下さるのです。その決定的な「はい、主よ」を、聖霊なる神が私たちに語らせて下さるように、切に祈り求めたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年6月3日]

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