富山鹿島町教会

礼拝説教

「新しい革袋」
ゼカリヤ書 第8章18〜23節
マタイによる福音書 第9章14〜17節

 本日の聖書の箇所、マタイ福音書9章の17節には、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」という主イエスのみ言葉が記されています。これは、「新しい酒は新しい革袋に」という形で一般にもよく知られて、時々引用される言葉です。当時、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れて熟成させながら保存したのです。その過程で革袋とぶどう酒がなじんでいって安定する。それを古い革袋に入れると、酒の変化に袋がついていけずに破れてしまうということのようです。また主イエスは同じことを語るもう一つのたとえを16節で語られました。織りたての布で古い服に継ぎを当てることはしない、というたとえです。そんなことをすると、新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるのです。これも当時の人々の生活の知恵です。新しい布は洗濯をすると縮む、当時はその縮み方がひどかったのです。だから新しい布で継ぎを当てると、洗濯した時にそこだけ縮んでかえってひどいことになるのです。このように、これら二つのたとえは、古いものと新しいものとは相容れない、中身が新しくなる時には、外側の、容器も新しくしなければならない、ということを語っているのです。小泉内閣が、改革を旗印に、新しさを売り物に登場して、非常に高い支持率を得ています。閉塞感の中にあるこの国の、特に政治に、新しさをもたらしてくれるという期待が大きいということでしょう。その新しい酒が、自民党の、またこの国全体の、古い体質をどれだけ新しい革袋に変えていくことができるか、が問われています。革袋を新しくしていくことができなければ、語られていた新しさはイメージだけのもので、中身は結局古い酒のままだったということになるのです。そしてもしこれが本当に新しい酒であるなら、それは古い革袋を引き裂いていかずにはいないでしょう。それが「構造改革」ということであり、そこには「政界再編成」も伴ってくると思われるのです。

 古いものと新しいものとの間には、このように常に軋轢があり、矛盾対立があります。継ぎ当てのたとえは、古い服をいかに守るか、という話になっていますが、ぶどう酒と革袋の話は、「新しい酒は新しい革袋に」、つまり中身と共に入れ物も新しくならなければならない、という点に強調が置かれています。そして主イエスがここで語ろうとしていることの主眼もそこに置かれているのです。そのことは、この教えが語られていった文脈からわかります。事は、ヨハネの弟子たちが主イエスのもとに来て言った言葉から始まっているのです。彼らは、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言ったのです。このヨハネとは、洗礼者ヨハネです。彼のことは3章に語られていましたが、荒れ野に住み、らくだの毛衣を着て、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていました。つまり、非常に質素な、というよりも食うや食わずの生活をしていたのです。そして「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り、悔い改めの印としての洗礼を授けていたのです。そのヨハネのもとに集まって来た弟子たちは、しばしば断食をしていました。彼らにとって断食は、自らの罪を嘆き悲しみ、悔い改めることの印です。しばしば断食することで、彼らは自分の罪を深く思い、神様に赦しを求めて祈っていたのです。またここには、ファリサイ派の人々もよく断食をしているということが語られています。ファリサイ派の人々にとっての断食は、ヨハネの弟子たちとはいささか意味が違っています。彼らは、罪の悔い改めとしてというよりも、神様に従う敬虔な行為として断食をしていました。ルカによる福音書の18章9節以下には、ファリサイ派の人と徴税人の祈りを対比した教えが語られていますが、そこでファリサイ派の人は、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈っています。ファリサイ派の人にとっての断食はそのように、神様に従うよい行いの一つなのです。このように、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人では、同じ断食をするのにも全然意味が違います。ヨハネはファリサイ派の人々に対して、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と激しい言葉をあびせました。断食をすることで神様の前で正しい者になれると思うなど、ヨハネにとってはとんでもない間違いだったのです。そのように根本的には全く相容れないはずのヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々が、しかしここでは一緒になっています。彼らは両方とも、よく断食をしていたという点で一致するのです。ヨハネの弟子たちもファリサイ派の人々も、その意味は全く違っていても、断食をして祈るという、古くからの信仰的行為を共に大事にしているのです。それに対して主イエスは、新しさに生きておられたのです。

 主イエスの弟子たちは断食をしていなかった、それが主イエスの新しさの現れです。もっともここに語られているのは、主イエスの弟子たちのことで、主イエスご自身はどうだったのかはまた別です。主イエスは、4章で、荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになった時、40日間断食をしたとあります。主イエスご自身は断食をしなかったわけではないのです。しかし弟子たちにそれを求めることはなさいませんでした。断食することを信仰の実践とはお考えにならなかったのです。これは旧約聖書以来のイスラエルの信仰的伝統からすれば、驚くべきことでした。その意味においては、洗礼者ヨハネとファリサイ派のように月とスッポンほどの違いがあっても、断食を積極的に取り入れないような信仰生活は、これまでイスラエルにはなかったのです。主イエスはそこに、全く新しい信仰の生活を造り出されたのです。それが主イエスのもたらした新しい革袋です。そしてそれは、革袋だけが新しくなったのではありません。新しい革袋は新しい酒を入れるために用意されたのです。中身の酒が新しくなるから、それに応じた新しい革袋が必要になったのです。その新しい酒とは何でしょうか。主イエスによって、信仰の中身が新しくなった、その新しさとはどういうものなのでしょうか。それが、15節のみ言葉によって示されているのです。

 主イエスはここで、ご自分の弟子たちが断食をしない理由を語っておられます。それは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」ということです。断食は本来、悲しみの表現です。ヨハネの弟子たちが、自らの罪を嘆き悲しみ、悔い改めの印として断食をしていたのは、そのことと通じるのです。そういう悲しみの表現はしかし、婚礼の宴席には相応しくない。婚礼の席で、花婿を前にして、悲しみを表すのは相応しくないし、失礼なことです。婚礼の席においては、花婿とその喜びを分かち合い、喜びを表現すべきなのです。だから、私の弟子たちは断食をしないのだ、と主イエスは言われました。つまり彼らは今、婚礼の祝いの席にいる、花婿を前にしているのだ、というのです。その花婿とは、他ならぬ主イエスのことです。主イエスがこの世に来られた、それは、花婿が到着したということです。花婿の到着によって、婚礼の宴が始まるのです。そのことは、この福音書の25章にある、「十人のおとめのたとえ」においても語られています。花婿を迎えた客たちは、喜びの宴席に連なるのです。主イエスの弟子たち、信仰者たちは、その客です。その客に求められているのは、喜びと祝いを表すことです。そこで悲しみを表すのは相応しいことではないのです。

 主イエスの弟子たちは、悲しみと嘆きに生きるのではなく、喜びと祝いに生きる、それが主イエスによる新しい酒、新しい信仰の中身です。信仰の中身がそのように新しくなるのだから、それを入れる入れ物、信仰の生活も新しくなるのです。それは、ただ断食をもうしない、というだけのことではありません。断食についてのこの問答がどのような場面で起ったかを考えて見たいのです。これは単に、断食ということが信仰において必要であるかどうか、という議論があった、という話ではありません。もっと具体的なある場面の中でのことなのです。14節の始めに、「そのころ」とあります。この言葉はむしろ「そのとき」と訳すべきです。口語訳聖書は「そのとき」となっていました。つまりここは、その前のところと同じ時、同じ場での出来事として語られているのです。その前に語られていたのは、主イエスが、多くの徴税人や罪人たちと食事を共にしていたということです。主イエスは多くの人々、特に罪人と言われていた人々、それは言われていただけではなく、実際に罪の中に生きていた人々だったということを先週も申しましたが、そういう人々と食事を共にしていたのです。それは、ただ押し黙って、本当はおまえたちと一緒に食べたくはないのだが…、という雰囲気で食べていたというのではないでしょう。主イエスは彼らと楽しく談笑しながら、食べ、飲み、あるいは歌を歌っておられたのです。楽しい宴会を催しておられたのです。そこに、ヨハネの弟子たちがやって来て、「わたしたちはよく断食しているのに、なぜあなたの弟子たちはしないのか」と言ったのです。これは、楽しい宴会の席に水をさし、白けさせる言葉です。そしてそこには、弟子たちに対してのみでなく、主イエスに対する批判が込められています。神様の教えを説く人が、こんな宴会なんかしていていいんですか、もっと真剣に罪の悔い改めを教え、自分の罪を嘆き悲しむことをすべきではないのですか、という思いです。

 このことは、主イエスを信じて生きる私たちの中に起こってくるある葛藤と関係しています。私たちは、主イエスによって罪を赦していただいたという救いにあずかっています。その救いを感謝するということは、自分の罪を見つめることであり、それを認め、悔い改めることです。主イエスご自身もヨハネと同じく「悔い改めよ、天の国は近づいた」とお語りになりました。信仰者として生きるとは、自分が罪人であることを認め、それを反省しつつ、神様の赦しに感謝して生きることであるわけです。しかしそこで私たちが思うことは、そのようにいつも自分の罪を見つめ、悔い改めに生きるというのは、堅苦しい、息のつまる生活ではないか、ということです。いつも自分は罪人です、罪人ですと言っている生活というのは、陰気な、喜びのない生活ではないか、そこでは人生の喜びや楽しみということは否定され、喜んだり楽しんだり、たとえば宴会の席に連なることなどに何か後ろめたい思いを抱かなければならないことになるのではないか、と思うのです。私たちはそういう二つの思いの間でいつも板ばさみになっているのではないでしょうか。そして人によってそこでの軸足の置き方が違っていて、ある人は、教会は礼拝と祈りの場であって、楽しみや娯楽のようなもの、ましてや宴会などはふさわしくないと考える、しかしある人はそういういわゆるピューリタン的な考え方に反発して、キリスト者ももっと人間らしくおおらかに生きるべきだと主張する、ということが起っているのです。私たちはそこで、本日の箇所における主イエスの教えをしっかりと受け止めなければなりません。主イエスは、罪人たちを招いて、楽しく宴会を催されたのです。悲しみの印である断食よりも、このような宴会の方が、主イエスの弟子たちに相応しいと言われたのです。それこそが、主イエスによってもたらされた新しさだと言われたのです。主イエスの弟子として、信仰者として生きることは、このような喜びと祝いに生きることであって、悲しみや嘆きの中で暗い陰気な顔をして生きることが信仰ではないのです。

 しかし私たちがそこで同時にしっかりと見つめなければならないのは、主イエスが楽しまれたこの宴会は、それに相応しくない者たちが恵みによって招かれた宴会であるということです。主イエスは徴税人や罪人たちを招いて共に宴会を催されました。そのような人々を自分の食事の席に招こうとする者は誰もいなかったのです。しかし主イエスはそのような人々と楽しい食事の時を過ごされたのです。そしてその喜び、祝いの中から、罪の悔い改めが生まれていったのです。徴税人であったマタイが主イエスの弟子となったことを先週読みました。そのような人生の大転換、罪の中に座り込んでいた者が立ち上がって主イエスの赦しにあずかり、新しく生きていくということが、この喜びの交わりの中で起こっていくのです。ですから主イエスがこのような宴会を楽しまれたことは、決して、罪の悔い改めをないがしろにしたということではありません。人間の罪を見つめることをやめたのではありません。あるいは、いつもそんなことばかり見つめていると暗くなるから、たまには楽しくぱーっとやろう、ということでもありません。主イエス・キリストは、私たち人間の罪を徹底的に見つめ、私たちがその罪を赦され、悔い改めて新しくなることを心の底から願っておられるのです。そしてそのために、ご自分の命をも献げて下さろうとしているのです。そういう思いによって主イエスはこの宴席を開き、そこに私たちを招いていて下さるのです。私たちは、この宴席に加わるのに相応しい者ではありません。そのような資格は全くないのです。しかし主イエスは、ただその恵みのみ心によって私たちを招いてこの宴に連ならせ、「私と共に喜び楽しもう」と言って下さったのです。それゆえに私たちは心から喜び、感謝して、この喜びの祝宴に連なるのです。主イエスを信じる私たちの信仰の生活は、そのような喜びと祝いの歩みなのです。そこに、主イエスによってもたらされた新しさがあるのです。

 しかしもしも私たちが、この主イエスの恵みによる招きを忘れて、自分の清さや正しさによって、あるいは自分がどれだけちゃんと罪を悔い改めているか、ということによって救いを得ようとするならば、私たちはたちまちこの喜びと祝いを失うのです。主イエスがもたらして下さった新しさを失うのです。そして古い、断食の世界に逆戻りするのです。それはファリサイ派の人々が、自分はこれだけ断食をしている、ということに寄り頼み、それを誇りとして、そして自分ほど断食することができない人に対して優越感を抱きながら生きている、そういう思いに陥ることであるかもしれません。あるいはヨハネの弟子たちが、自分の罪を見つめ、悔い改めの印として断食に励んでいる、しかしそのことの中で、悔い改めない人々を裁き、彼らに心を閉ざし、その人々を招いて楽しく宴会を開いている主イエスを理解することができない、それと同じになっていくことかもしれません。いずれにせよそれは、自分の力や努力によって正しい者となろうとすることです。断食によってであれ、何か他のことによってであれ、自分の業によって神様の前に正しい者となろうとする、それが古い生き方、古い革袋なのです。そういう生き方においては、ファリサイ派の人々のように、徴税人や罪人と同席することなどまっぴらごめんだ、ということが起るのです。あるいはヨハネの弟子たちのように、信仰者が宴会のようなこの世の喜びや楽しみに興じているのはふさわしくない、と批判するようになるのです。しかし主イエスによってもたらされた新しさは、自分の力や努力で相応しい者になるのではなく、全く相応しくない者が、ただ神様の恵みによって招かれて、花婿主イエスのもとでの祝宴にあずかることができる、ということです。この新しい酒に相応しいのは、断食という悲しみや嘆きの表れではなく、喜びと祝いなのです。そしてその喜びと祝いは、ただ自分たちが仲間内で喜び楽しむものではなくて、主イエスが招いて下さっている徴税人や罪人と共に喜び楽しむものです。人を裁き批判していくのではなく、お互いに主イエスによって招かれた罪人としての交わりを築いていく、その土台となる喜びであり祝いなのです。

 花婿主イエスのもとで祝宴に招かれている信仰者は、喜びと祝いに生きる、しかし15節後半には、謎のような言葉があります。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」。これはどういうことなのでしょうか。「花婿が奪い取られる時」とはいつのことなのでしょうか。単純に考えればそれは、主イエスが弟子たちから奪い取られて逮捕され、十字架にかけられて処刑される、その時ということになるでしょう。しかしそれは復活までのほんの三日間ほどのことになります。主イエスの逮捕から復活までの間だけが断食をする時である、というのでは、あまり意味がないし、また私たちとは関係のない話になってしまいます。ですからここはそのように読むのではなくて、復活された主イエスが天に昇られてから、この世の終りにもう一度来られる、その時までの間と理解した方がよいだろうと思うのです。ということは、今私たちはその時を歩んでいるということです。今この時こそまさに、「花婿が奪い取られている時」なのです。その「奪い取られる」というのは、目に見えるお姿としては、ということです。今私たちは、主イエス・キリストを肉体の目で見ることはできません。実際に主イエスと共に食事の席につくことはできません。目に見えるお姿としては、私たちは主イエスを奪い取られているのです。しかしそれは主イエスが私たちと共におられないということではありません。この福音書の最後のところ、28章20節で、復活された主イエスが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下さっています。目には見えないけれども、主イエス・キリストはいつも私たちと共にいて下さるのです。しかしそれは目に見える形で証明されることではありません。信じるしかないことです。つまり今私たちが歩んでいるこの時代は、信仰によって主イエスと共に歩む時代なのです。そこには、疑いも生じます。つまずきが起ります。様々な苦しみや悲しみが襲ってきて、私たちの信仰を動揺させます。そういう試練の中で、忍耐して歩んでいかなければならないのです。その信仰における忍耐を養い育てていくために、断食をはじめとする信仰的努力には意味があるのです。断食をするのも、ただ食を断つことが目的ではなくて、祈ることが目的です。本当に真剣に祈るために、断食を試みることもよいのです。キリスト教会の歴史の中に、断食はそのようにしてある位置を持ってきました。私たちはあまりそういう習慣を持っていませんが、私たちなりの仕方で、目には見えないが共にいて下さる主イエス・キリストとの交わりに生きるための努力をしていく必要はあるのです。そういう努力を通して、今この世界において、この生活の中で、私たちも、花婿主イエスが共にいて下さる喜びと祝いに生きることができるのです。

 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、ゼカリヤ書8章18節以下には、イスラエルにおいて、悲しみ、嘆き、悔い改めの印であった断食が、喜び祝う楽しい祝祭の時に変わる、という預言が語られています。断食が祝祭に変わるのは、最後の23節に語られているように、「神があなたたちと共におられる」ということが実現することによってです。神様が本当に共にいて下さるならば、私たちの歩みは、喜び祝う楽しい祝祭となるのです。神様の独り子主イエス・キリストがこの世に来て下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、この預言が実現しました。主イエスによって、インマヌエル、即ち「神はわたしたちと共におられる」ということが実現したのです。それゆえに、私たちの歩みはもはや悲しみや嘆きの歩みではなく、喜びと祝いの歩みです。主イエスによって与えられたこの新しさを、私たちは信仰と生活においてしっかりと身につけていきたいのです。そのためには、主イエスが、罪人である自分を招いて喜びの宴に与らせて下さっている、その恵みをしっかりと覚えなければなりません。そして、その自分と同じように、多くの罪人たちが、罪人であるままで、様々な欠けや弱さを持ったままで、主イエスに招かれて同じ祝宴に連なっていることを受け入れなければなりません。要するに、自分が赦せないと思っているその人が、主イエスによって共に招かれていることを信じ、受け入れるのです。それが、私たちが新しい革袋となることです。そしてそこに、「神があなたたちと共におられる」ということが明らかになっていくのです。このゼカリヤ書8章の23節には「その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ』」とあります。あらゆる言葉の国々の人、つまりイスラエルの民でない外国人、それはつまり、まだ信仰を持っていない人々ということです。その人々十人が、一人の信仰者に「あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ」と言う。そういうすばらしい伝道が、証しがなされるというこれは約束です。私たちが、主イエスによって与えられる新しさに本当に生きていくなら、そしてその新しい酒にふさわしい新しい革袋となっていくならば、そういうことが起るのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年5月13日]

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