礼拝説教「主イエスに従う」詩編 第34編1〜23節 マタイによる福音書 第8章18〜22節 本日ご一緒に読む聖書の個所は、マタイによる福音書8章18節以下ですが、その冒頭には、「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。主イエスは今、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムのペトロの家におられます。そこが主イエスの根拠地となっていたのです。そこに、多くの人々が、主イエスを取り囲むように集まって来ていました。それは、この前のところ、16節以下で、悪霊に取りつかれた人、病気の人などが大勢主イエスのもとに連れて来られ、その人々は皆癒されたと語られていることによります。そのような恵みのみ業をなさった主イエスのもとに、沢山の人々が、押し迫るように集まって来たのです。 主イエスはその群衆を見て、弟子たちに、向こう岸に行くようにお命じになりました。つまり、この群衆たちから離れて別の場所へ行こうとされたのです。向こう岸とはガリラヤ湖の向こう岸です。28節によれば、そのようにして主イエスが行かれたのは「ガダラ人の地方」でした。それはガリラヤ湖の東側の地で、ユダヤ人たちの地ではない、異邦人の地です。つまり外国です。自分を慕って集まって来ている人々のもとを去って外国に行こうとしておられるのです。それは何故でしょうか。せっかく、主イエスのみ言葉やみ業を伝え聞いた多くの人々が集まって来ているのです。つまり、今が伝道のチャンスです。その人々にみ言葉を語り聞かせ、さらに癒しの業をなされば、その人々からさらに多くの人々に主イエスのことが伝えられ、もはや誰も止めることのできないような勢力を、主イエスはこのガリラヤで確立することができると思われるのです。今この群衆から離れて行ってしまうことは、せっかく盛り上がっている人々の熱気を冷ましてしまうことになります。それとも主イエスは、ユダヤ人だけでなく、異邦人たちにも宣べ伝えて、異邦人をも含めた群れをご自分のもとに結集しようとしておられるのでしょうか。しかしこの後のところを読むと、向こう岸でそのような伝道活動がなされているわけでもありません。むしろ主イエスは、その地を追われるようにして戻って来られるのです。いったいこの時に向こう岸に行くことにどんな意味があるのか、はなはだ疑問です。ただ、群衆たちから離れるためだけにこのことがなされたように思えるのです。主イエスはここで何を思っておられたのでしょうか。 ただ群衆たちから離れたかった、そうかもしれません。主イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」というみ言葉をもって伝道を開始されました。その、近づいている天の国、即ち神様の恵みのご支配とはどのようなものであるかを、「山上の説教」においてお語りになったのです。そしてその神様の恵みのご支配の印として、様々な癒しのみ業をしてこられたのです。しかし人々は主イエスのみ言葉やみ業を正しく受け止めたとは言えません。彼らは主イエスの教えに驚きました。聞き慣れた律法学者たちとは違う、権威ある者としての教えに耳新しいものを感じたのです。それで多くの人々が主イエスの後についてきました。また彼らは主イエスの癒しのみ業に感動しました。その癒しを求めて多くの人々が集まって来たのです。しかしその人々は、主イエスの教えやみ業の本当の意味をとらえてはいません。これまでに読んできた所においても、主イエスと本当に出会い、主イエスが求めておられる信仰に生きた人は、彼ら群衆の中の誰かではなくて、らい病を患っていた人であり、異邦人の百人隊長だったのです。主イエスを取り囲んでいる群衆たちは、結局、信仰よりも、自分の願い、病気の癒しや苦しみからの解放しか求めていない、そういう現実の中で、この群衆から離れたいと主イエスが思われたとしても不思議ではありません。 しかし、この「向こう岸に行く」ことには、そのように群衆から離れる、というだけの消極的な意味だけではなくて、ある積極的な意図も込められていたと言えるのではないかと思います。主イエスは、群衆から離れ、船出をすることにおいて、主イエスに本当について来る者、従って来る者を見極めようとしておられるのです。主イエスが小さな舟に乗ってこぎ出される時に、本当に従っていこう、ついていこうとしている者は、その舟に一緒に乗り込まなければなりません。つまりそこではもう、群衆の一人でいるわけにはいかないのです。多くの人々と共になんとなく主イエスのみ言葉を聞き、なんとなく行動を共にしている、ということはもうできないのです。主イエスはそういう状況を作り出すために向こう岸に行こうとされたのではないでしょうか。それは、群衆をふるいにかけるためです。そう言うと言葉が悪いかもしれません。別の言い方をすれば、ここには、「私に本当に従って来る者は誰か」という招きがなされているのです。 ある人がその招きに答えて名乗り出た、ということがここに語られています。それは「ある律法学者」です。彼は「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったのです。つまり、私はあなたと共に舟に乗り込み、向こう岸に行きます、ということです。彼は群衆の中から進み出て、主イエスに従って行こうとしているのです。この人が律法学者だったというのは、大変意味深いことです。律法学者は律法の専門家です。律法とは、旧約聖書以来、神様の民イスラエルに与えられている掟です。それを守り行なうことが、神様の民の一員であり、神様の救いにあずかる者である印なのです。律法学者は日々その律法を研究しており、どうすればそれを守って生きることができるか、また、生活の上での様々な具体的状況において、この場合にはこの律法が当てはまるからこうしなさい、ということを人々に教えていたのです。そのような人が、主イエスに従って行くと言った。それはすばらしいことです。主イエスの教えが、律法に適うものであり、主イエスに従うことによってこそ、律法を本当に行って生きることができる、ということを、専門家が自ら認めたのです。律法学者が弟子たちの中に加わっているということは、今後の伝道のために大変大きなプラスになると思われるのです。 ところがこの律法学者の申し出に対する主イエスのお答えは、私たちを驚かせ、とまどわせます。主イエスは、「よく言ってくれました。あなたのような人が加わってくれると有難い」などとは言われなかったのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。この言葉は、「どこへでも従って行きます」という彼の言葉に対して、直接的には肯定にも否定にもなっていません。しかしどちらかというと、否定的な響きがあると言えるでしょう。そして事実、この後主イエスの一行に律法学者が加わったということはどこにも語られていませんから、彼はこの言葉を聞いて、従っていくのをやめたのだと思います。そう思わせるようなことを主イエスは敢えて言われたのです。 この主イエスのお言葉は何を語っているのでしょうか。「人の子」という言葉は、ここに初めて出てきていますが、主イエスがご自分のことをさして言っておられる言葉です。そうするとこれは、「狐や空の鳥には、それぞれねぐらがあるが、私には、そして私に従って来る者たちには、枕する所もないのだ、私に従って来るとは、私と共にそういう厳しい、つらい生活を送るということだ、あなたはその覚悟があるのか」、ということになるでしょうか。そう言われて彼は、「そんなつらいことならやっぱりやめます」と言って去って行った、ということでしょうか。私たちはそういうふうにこの話を読んでしまいがちだと思いますが、ここに語られているのはそんな単純なことではないと思います。そもそもこの律法学者が、「あなたのおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った、そこには、「どんなつらい、苦しいことがあっても」という思いが感じられます。彼はそれなりの覚悟をもって主イエスに従おうとしているのです。そうでなければ、このように申し出ることはできないでしょう。「つらいことならやっぱりやめます」という程度の思いでいる者は、群衆の一人に過ぎないのです。彼が、結局主イエスに従っていくことができなかったのは、それがつらいこと、苦しいことだと言われたからではありません。それでは、何が原因なのでしょうか。 この律法学者が、主イエスに従って行こうとした、その思いは、彼が律法学者であったということから推察することができます。律法学者は、律法をより厳格に守り、それによって神様の前により正しい、より清い、より相応しい者となろうとしているのです。彼らの律法研究は、自分がより良い者になろうとする思いでなされています。自分を向上させ、高めて、神様の恵み、祝福を得るに相応しい者としていこうとしているのです。彼が主イエスに従っていこうとしたのも、その思いによってだったのでしょう。彼は主イエスの教えを聞き、そのみ業を見て、この方の教えにこそ、律法を本当に守り行っていく道が示されていると思ったのです。この方に従っていけば、律法をより良く守ることができ、より立派な神様の民になれる、そのように自分を向上させ、高めていく道が主イエスに従うことにこそある、と彼は思ったのです。彼はそのことのためには、つらい、苦しいことをも引き受ける覚悟を持っています。楽をして、安易に自分を高めることができるなどとは思っていないのです。神様の祝福により相応しい者となるためには、努力が必要だし、苦しみを負うことも必要だ、そういう覚悟を持って彼は主イエスに従って行こうとしたのです。この彼の思いは、私たちが信仰者になっていこうとする時にしばしば抱く思いと同じなのではないでしょうか。私たちは、信仰によって、自分がより良い者、より清く正しい者となることができる、と思って信仰を求めます。自分を向上させるために、信仰に入ろうとします。神様を信じ、イエス様を信じることによって、自分が前よりも良い人間になることができる、と思うのです。そしてそのためには、多少の苦しみをも負わなければならないのは当然だ、と思うのです。それは、この律法学者が主イエスに従って行こうとした思いと同じです。その思いに対して主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われたのです。それは、「私に従ってくることはつらく苦しいことだぞ」というだけの話ではありません。律法学者はこの言葉に、自分の思っていることと主イエスの思っていることとの食い違いを感じたのです。主イエスに従っていくことによって、より良い、より優れた生き方ができ、自分をより高めることができる、と彼が思っているのに対して、主イエスは、私に従ってくる者は、狐や鳥以下になるのだ、と言われたのです。それは、ただ苦しい生活をするということではありません。苦しい生活でも、高められた者、より優れた者となり、神様の祝福に相応しい者となったという自負を持って、誇り高く生きることができるならよいのです。しかし、狐や鳥以下の、枕する所のない歩みというのは、そのような自負や誇りを持ち得ない、全く惨めな、惨めなだけの歩みです。「生活は貧しいが心は豊かだ」などと言うことのできない姿です。自分がより良くなった、向上した、などという自覚を持つことができない生活なのです。私に従って来る者はそのような道を歩むことになる、と主イエスは言われたのです。それで、彼は去って行った。失望したのです。期待外れだと思ったのです。 ここに描かれていることは、私たちの信仰においてもしばしば起ります。自分を向上させ、より良い者になろうとして信仰を求める、そういう思いで神様を、主イエスを信じ、従おうとする、そういう信仰はどこかで挫折するのです。立ち行かなくなるのです。主イエスが与えようとしておられる救いはそのような私たちが期待しているものではないことに気づかされるのです。それでは、主イエスは、従って来る者たちにどのような救いを与えて下さるのでしょうか。 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。この言葉をもう一度味わい直してみたいと思います。主イエスは、狐と空の鳥を見つめさせておられます。「空の鳥を見よ」ということは、あの山上の説教の中にもありました。6章26節以下です。そこにおいて、空の鳥を見ることは何を意味していたでしょうか。それは、天の父なる神様が鳥たちを養っていて下さる、ということでした。彼らは、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないが、天の父なる神様が彼らをちゃんと養っていて下さるのです。「空の鳥には巣がある」というみ言葉も、そのことを見つめていると言えるでしょう。狐も鳥も、他の動物たちも皆、自分のねぐらを持っている、それは、神様が彼らを養い、守り、支えていて下さることの印なのです。それなら、「人の子には枕する所もない」とはどういうことでしょうか。「人の子」とは主イエスがご自分のことを指して言っておられる言葉だと先ほど申しました。しかしこれはもともと旧約聖書では、単純に人間を意味する言葉でした。その意味でとるならば、ここには、狐や鳥という動物たちと、人間との対比がなされていることになります。動物たちにはねぐらがあるが、人間には枕する所もない、それは、動物たちは神様の養いと守りの内に置かれているが、人間はそうではないということです。山上の説教の言葉で言えば、空の鳥は神様によって養われ、野の花は神様によって美しく装われているのに、あなたがた人間たちは、何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩んでいる、ということです。そのような思い悩み、不安、心配によって、安心して眠ることができない、それが「枕する所もない」人間の姿なのです。 何故人間はそのように思い悩み、枕する所もない状態に陥るのでしょうか。それは、天の父なる神様の養い、守りを見失っているからです。神様が天の父として、子である私たちを愛し、養い、導いて下さっていることを見失ってしまっているのです。だから、「何を食べようか何を飲もうか何を着ようか」と思い悩むのです。それは、自分で自分の人生を、生活を、どう支え、築き、維持していくか、という思い悩みです。神様の養いが見失われている所では、人は自分で自分を養い、守っていかなければなりません。自分で自分をどう生かし、人生を充実させていくことができるか、が勝負となっているのです。あの律法学者が、自分をより良い者とし、向上させるために主イエスに従おうとした、その思いも、同じ流れの中にあると言うことができるでしょう。自分で自分をどう高め、向上させることができるか、それを彼は求めているのです。それによって人生の支えを、安心を得ようとしているのです。主イエスに従うことも、つまり信仰もそのための一環となっているのです。しかしそれは、「何を食べようか何を飲もうか何を着ようか」という思い悩みの一環でしかありません。信仰によって自分を高め、向上させていこうとすることは、神様の父としての養いを見失っている人間の思い悩みでしかないのです。そこには本当の平安や安心はありません。むしろそのような歩みの中で人は、枕する所を失っていくのです。安心を失い、いつも不安に満たされていくのです。「人の子には枕する所もない」という言葉は、そういう私たちの現実を指摘している言葉でもあるのです。 しかしそれだけではありません。「人の子」という言葉は、もともとは人間を意味する言葉でしたが、旧約聖書の中でそれが、来るべき救い主を意味する言葉としても用いられていったのです。だから主イエスはその言葉を、ご自分のことを指す言葉としてお用いになったのです。私こそ、あなたがたが待ち望んでいる救い主だ、という主イエスの宣言がそこにはあるのです。その人の子、救い主である主イエスには、枕する所もない。それは、神様から遣わされた救い主である主イエスが、天の父の愛を見失って、思い悩みに陥り、枕する所もなくなっている私たちのところに来て下さり、その私たちの思い悩み、不安、苦しみを背負って下さったということです。この前の所には、主イエスが人々の病を癒されたのは、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」という預言の成就だったということが語られていましたが、「人の子には枕する所もない」という言葉にも、それと同じことが語り示されているのです。枕する所もない、安心して眠ることもできない、思い悩みに満たされている私たちのところに、救い主イエス・キリストが来て下さり、私たちの苦しみを担って下さったのです。主イエスに従っていくとは、この主イエスと共に歩むことです。この主イエスによって、天の父なる神様の愛と恵み、養いと導きの下で生きていくことです。それは、自分をどう高めるか、向上させるか、いかにより良い人間になるか、ということではないのです。信仰によってより良い人間になろうとしても、その歩みはどこかで挫折します。何故ならそれは人間の努力に過ぎないからです。主イエスが与えて下さる救いは、人間の努力とは別のものです。自分で自分を向上させ、高めることなどできない、良い者となることができない、そういう私たちのところに、神様の独り子であられる主イエス・キリストが来て下さり、私たちの罪を背負って下さり、十字架にかかって死んで下さった、そこに、神様の父としての愛があるのです。その愛を受けて、天の父なる神様が私たちを子として下さっていることを信じる、それが主イエスの与えて下さる救いであり、私たちの信仰です。主イエスに従うとは、この信仰に生きることなのです。そこにこそ、私たちの本当の命がある。思い悩みから解放されて、神様の養いの下で、安心して眠ることができる歩みがあるのです。 しかし私たちはこのことを、なんだ、主イエスに従う信仰の歩みは、枕する所もないような困難な苦しい道を歩むことではないのだ、自分で努力して自分を高めていくことが求められているのではないのだ、信仰に生きることはもっと楽なことなのだ、と安心してしまうわけにはいきません。21節以下には、弟子の一人が主イエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったことが語られています。主イエスはそれに対して、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とお答えになりました。要するに、父親の葬式を出すことよりも、主イエスに従うことの方が大事だ、それを第一とせよ、と言われたのです。ここに、主イエスに従うことの、決して安易ではない厳しさが示されています。主イエスに従うとは、これまで見たように、自分で自分を高め、より良い者としていくことではなくて、主イエスによる天の父なる神様の愛を受け、主イエスと共に歩むことでした。それは自分で努力して自分を向上させていくことではない、だから楽なことだ、と思ったら大きな間違いなのです。自分で自分を高めていくのではない、主イエスによって、父なる神様からの愛と恵みをいただいて生きる、そのためには、主イエスのもとに私たちが留まり続けなければなりません。私たちのために、枕する所もない歩みをして下さり、十字架の苦しみと死を負って下さった主イエスのもとに、しっかりと留まらなければならないのです。そのためには、私たちも、枕する所のない歩みをしていくことになります。それは自分を高め、より良い者となるためではなくて、主イエスと共にあるためです。そこにこそ命があるから、そこに留まるのです。そのことが、親の葬式を出すことよりも大事とされている。親を丁重に葬ることは、どこの世界でも、人間としての最低の、また最大の義務とされています。そのことよりも、主イエスと共にあることを大事にせよというこの教えは、まことに厳しいものであり、ある意味ではつまずきに満ちたものです。しかし私たちは、信仰のこの厳しさをしっかりと受け止めなければなりません。主イエスの教える信仰の厳しさは、自分で自分を高め、向上させていくための厳しさではなくて、私たちを本当に生かす主イエスの恵みのもとに、何をおいても留まるという厳しさなのです。それが主イエスに従うということであり、それがなければ、私たちはいつまでたってもあの群衆たちの一人で終わってしまうのです。 主イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。主イエスのもとに留まることにこそ、命があるのです。それ以外のところには、たとえば自分で自分を高め、より良い者となっていこうとするところには、まことの命はないのです。主イエスのもとに留まるのでなければ、私たちは、死んでいる者です。本当に生きているとは言えないのです。ですから、主イエスのもとに留まることをやめにして、親の葬式を行ったとしても、それは、死んでいる者が死者を葬っているということにしかなりません。そこに支配しているのは、死です。その葬りには命と希望はないのです。しかし私たちが、主イエス・キリストに従っており、主イエスのもとに留まっており、それゆえに神様の父としての愛の内に留まっており、すなわちまことの命のもとに留まっているならば、その私たちが行う葬りは、命の支配の下にあるのです。死んで、復活して下さった主イエス・キリストの恵みの下にあるのです。つまり私たちは、主イエスに従っており、主イエスのもとに留まっていることによってこそ、本当に命と希望と慰めのある葬りができるのです。この教えは、信仰者は親の葬式を出してはならない、などということではありません。教会も、ちゃんとお葬式を行うのです。そこには、死に勝利された主イエス・キリストの恵みと、希望があります。私たちがそのようなお葬式を行うことができるのは、主イエスに従っているからです。主イエスのもとにこそ命があることを信じ、主イエスのもとに留まることを何よりも大事にしているからです。その信仰の厳しさをしっかりと受け止めていく所でこそ、命と希望と慰めのある、つまり本当によいお葬式をすることができるのです。 牧師 藤 掛 順 一 [2001年4月1日] |