富山鹿島町教会

礼拝説教

「御心を行う者」
詩編 第103編1〜22節
マタイによる福音書 第7章15〜23節

 先週の礼拝において私たちは、「狭い門から入りなさい」という主イエスの教えを読みました。命に通じる門は狭く、その道は細い、その、狭い門から入り、細い道を歩めと主イエスは教えておられるのです。その礼拝の後、先週の間に、何人かの方々とお話する中で、「狭い門の教えを単純に受け止めていたが、そう簡単ではないことがわかった。自分は果たして狭い門から入り、細い道を歩むことができているだろうか、むしろ自分の歩んでいる道は広い道なのではないだろうかという不安を覚えた」という感想をお聞きしました。これはとても大事な感想であると思います。私たちはとかく、狭い門と広い門、細い道と広い道の区別が、自分にはわかっていると思ってしまいがちです。自分が狭い門、細い道を歩んでいると思うこともあれば、広い門、広い道を歩んでいると思うこともありますが、いずれにしても、何が狭い門、細い道で、何が広い門、広い道であるかを、自分の思いで決めてしまい、わかったつもりになってしまうのです。けれども、事はそんなに単純ではありません。私たちの人生は常に、狭い門と広い門、細い道と広い道の分かれ道に立たされているようなものです。どちらを選ぶかという選択を迫られるのです。そして、どちらが狭い門でありどちらが広い門であるかは、そう簡単にはわからないのです。狭い門から入ったつもりが、いつのまにかその道が広い道になってしまっていることもあれば、広い道を歩んでいたつもりが、思いがけず細い道になっていくということもあるのです。そのように私たちは、自分の歩んでいる道を見極めることができない者です。本当に歩むべき道はどこか、ということにおいて、いつも迷いや不安があるのです。それがあるのが当然で、もしもそういう迷いや不安が全くなくなってしまったら、それこそその人は、滅びに通じる広い道をまっしぐらに歩んでいるということになるでしょう。「狭い門から入りなさい」という教えは、ある意味で、私たちに、迷うことを求めている教えだと言うことができます。自分の歩む道はこれだ、と簡単に決めてしまって疑いを抱かないことを戒めている教えだと言うことができます。そういう時にこそ私たちは、間違った道を歩んでいってしまうことがあるのです。

 自分の歩んでいる道が間違った道になってしまっていないか、振り返ってみる必要がある。本日の15節以下のみ言葉も、その点において先週のところとつながっていると言うことができます。ここには「偽預言者を警戒しなさい」とあります。預言者とは、神様のみ言葉を伝える者、その意味で、信仰の指導者、導き手です。その預言者に、偽者がいる、と主イエスは教えておられるのです。偽者の預言者に導かれていったら、間違った道を歩むことになってしまう、そうならないようによく警戒しなさいというのです。ここで言われている預言者は、旧約聖書の預言者たちのことではありません。教会において、神様のみ言葉を教え、その指導者となっていた人々が預言者と呼ばれていたのです。その人々の中に、偽者がいる。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」とあります。教会はしばしば羊の群れに喩えられますが、彼らは一見羊の仲間であるように見えるのです。そして仲間の羊たちを導いていこうとします。しかし実はその中身は狼であって、羊を餌食にしようとしているのです。うっかりこの偽の羊、偽の預言者についていくと、まんまと食い物にされてしまうのです。だから預言者たちをちゃんと見分けなければならない、そうしないと、預言者に導かれて正しい道を歩んでいるつもりが、間違った道、滅びに通じる道に導かれてしまっているかもしれないのです。

 この教えはある意味では、教会において、その指導者の言うことであっても、そのまま鵜呑みにしてはいけない、ということです。もっと具体的に言えば、牧師の言うことが必ずしも正しいとは限らないから気をつけなさい、ということです。牧師が語ることをそのまま鵜呑みにするのではなくて、それが本当に神様のみ言葉になっているか、吟味しなければならないのです。これはとても大事なことであって、私たちプロテスタント教会の基本原理の一つであると言うこともできます。つまり私たちにおいては、牧師は信徒の一人であって、カトリック教会のような聖職者ではありません。ということは、牧師の語る説教を、一般信徒は、ただありがたくうけたまわるだけで何の批判も疑問も持ってはならない、ということではないのです。単なる好き嫌いでものを言っても意味はありませんが、聖書に照らして、また教会の信仰に照らして、この説教は真実に神の言葉となっているか、ということを吟味する権利と義務を一般信徒の皆さんは持っているのです。それを放棄してしまうと、偽預言者、偽牧師によってとんでもない所に導かれてしまうことが起るのです。「偽預言者を警戒しなさい」という教えはそういうことを私たちに求めているのです。

 しかしそのことだけを考えていると、例えばこうして礼拝を守り、説教を聴いていても、この説教は本当に正しいだろうか、といつも疑いの思いをもって聞かなければならないとか、あの牧師は偽者ではないか、という疑いの目で見なければならない、ということになって、それでは礼拝が礼拝にならない、ということにもなりかねません。教会における指導者、み言葉を語る者がそのように常に吟味されなければならないというのはその通りですが、しかしもっと根本的に大切なのは、私たち一人一人が、自分自身のことを吟味し、自分の歩んでいる道を常に振り返ってみることでしょう。指導者のことだけを疑いの目で見ていればいいというものではないのです。主イエスはそのことを、21節以下で語っておられるのだと思います。そこには「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」とあります。イエス・キリストに向かって「主よ」と言う、つまりイエスこそ主であると告白し、主イエスをあがめる、それは私たちの信仰の基本です。つまりここではもう指導者のことだけではない、全ての信仰者のことが見つめられているのです。そして、主イエスに対して「主よ」と言っていれば、それで天の国に入ることができるわけではない、つまり救いにあずかれるわけではない、と言われています。救いにあずかれない場合だってある。23節の言葉で言えば、最後の審判の時に主イエスから「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われてしまうことがあるのです。そうするとこれは、私たちの方では、自分は主イエスを信じる信仰者であるつもりでいても、主イエスからは、おまえたちとは関係ない、と言われてしまう、つまりおまえたちは偽者の信仰者であると断定されてしまうということです。偽者になってしまうのは指導者だけではない、信仰者一人一人が、偽者になってしまう危険があるのです。私たちは、まず自分自身に対して、このことを常に問いかけ、自分自身を吟味していかなければならないということでしょう。そのことの中で、指導者に対する吟味ということもなされていかなければならないのです。

 さてそれでは、その吟味はどのようにすればよいのでしょうか。本物と偽者とを見分ける鍵はどこにあるのでしょうか。16〜18節にはこうあります。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」。つまり、預言者が本物か偽者かは、その実らせる実でわかるのです。良い実が実っているならそれは良い木である印です。悪い木からは悪い実りが生まれるのです。本物と偽者を見分けるには、どのような実が実っているかを見ればよい、というわけです。しかしそれではその良い実と悪い実とはどういうことなのでしょうか。何をもって良い実とし、何をもって悪い実としたらよいのでしょうか。21節の言葉からすれば、「主よ、主よ」と言っているだけではだめで、「天の父の御心を行う」ことが大事だということです。「主よ、主よ」と言っているだけでは良い実を実らせているとは言えない、天の父の御心を行うことこそ、良い実を実らせることだ、ということでしょう。ちなみに、「実を結ぶ」と訳されている「結ぶ」という言葉と、「御心を行う」の「行う」は、原文においては同じ言葉です。実を結ぶことと御心を行うこととは一つなのです。

 そうすると、天の父なる神様の御心を行うことこそが、本物の印であるということになります。私たちはこの21節を読むと、これは、言葉だけではだめで行いを伴わなければならないということだ、と理解しがちです。「主よ、主よ」と口で言うだけで、実際に御心を行うことがなければ意味がない、それは偽者だ、と主イエスは言っておられるのだと思うのです。そこから、信仰が本物であるとは、言葉だけではなく、行いが伴うことだ、という理解が生まれます。しかし、主イエスが言っておられることは果たしてそういうことでしょうか。次の22節以下に語られていることは、そういう理解とは矛盾するのです。そこには、「かの日」つまり世の終りの日に、結局主イエスから「あなたたちのことは全然知らない」と言われてしまう、つまり偽者と断定されてしまう人々のことが語られています。その人々は主イエスにこう言うのです。「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」。つまりこの人々は、数々の立派な業、行いを、しかも「御名によって」つまり主イエス・キリストの名によって行ってきたのです。「主よ、主よ」と言うだけで何も腰をあげず、行動しなかったのではありません。預言し、つまりみ言葉を語り、悪霊を追い出し、奇跡をすらも行ったのです。私たちの中の誰よりも、この人たちはすばらしい行いをし、力ある業をしたと言えるのです。ところが彼らは主イエスから、「おまえたちは私と関係がない」と言われてしまう、偽者だと言われてしまう。ですから、本物と偽者とを区別する鍵は、行いがあるかどうか、ということではないのです。勿論、行いはなくてもよい、ということではありません。問題はその行いが、「わたしの天の父の御心を行う」ことになっているかです。彼らがしてきたことは、立派な、力ある業でした。人を助け、救うような業でもありました。しかし、「天の父の御心を行う」ことにはなっていなかったのです。ですから問題は、「言葉だけではなくて行いだ」ではないのです。どういう行いをするか、その行いが本当に父なる神様の御心を行うことになっているか、が問われているのです。

 偽預言者を警戒しなければならない、というのもこのためです。彼らは羊の皮をかぶって来る。それは、本物の預言者との見分けがつきにくいということです。一見すると本物に見えるのです。もしもその預言者が、言葉だけで何も行いを伴わないなら、そんなものは偽者だとすぐ見抜くことができます。あるいは明らかに悪いことをしているなら、そんな者についていく人はいないのです。ところが、偽預言者はそんなことはしないのです。むしろ彼らは「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行う」のです。だから本物との区別が難しいのです。よい行いが伴っているかどうか、ということだけで判断しようとすると、本物と偽者とを正しく区別することができないのです。本物と偽者とを見分ける鍵はそこにあるのではなくて、「天の父なる神様の御心を行っているかどうか」にこそあるのです。

 それでは、天の父なる神様のみ心を行うとはどういうことでしょうか。そこで思い起したいのは、今私たちは、主イエスが語られた「山上の説教」の結びの部分を読んでいる、ということです。これまでに語られ、教えられてきたことのしめくくりとして、この教えは語られているのです。「天の父の御心を行う者だけが天の国に入ることができる」。この教えは5章20節の言葉を思い起こさせます。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。ここにも、天の国に入るためには何が必要かが語られていました。それは、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」に生きることです。そしてその「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」とはどういうものであるかが、5章21節以下の、山上の説教の中心部分において語られてきたのです。そこに様々な仕方で語られてきたことの中心となっていたのは、「あなたがたの天の父」という言葉でした。主イエス・キリストの父であられる神様が、あなたがたの天の父となって下さり、あなたがたを子として愛し、養い、はぐくんで下さる。その天の父の子として、天の父の愛を信じ、その養いと導きに身を委ねて生きなさいというのが、山上の説教の中心的なメッセージなのです。この天の父の愛の下で生きること、それこそが、「天の父の御心を行う」ことであると言うことができるでしょう。そしてそれは、自分の義、自分の正しさ、自分の立派な行いを拠り所として生きることをやめるということです。「見てもらおうとして、人の前で」よい行いをしていこうとする偽善は、そのような、自分の正しさ、よい行いを誇ろうとする思いから生まれるのです。そしてそれは、地上に富を積んで生きようとすることです。地上の富、それは、私たちが様々な意味で自分のものとして持っている財産です。そこには、自分の正しさ、力、立派な行いも含まれています。そういう、自分が持っているもの、自分の力に寄り頼むことをやめて、天に富を積めと教えられています。天の富とは、良い行いをして神様に貸しをつくるようなことではなくて、神様の、天の父としての愛と憐れみにのみ寄り頼んで生きることです。神様が天の父として、私たちに必要なものをすべてご存じであり、それを必要な時に与えて下さることを信じて、信頼して生きるのです。そこに、「何を食べようか何を着ようか何を飲もうか」という思い悩みからの解放が与えられます。地上の富、自分の持っているものに寄り頼んでいる間は、私たちは思い悩みから解放されることはないのです。

 このように、天の父なる神様の下で、その子として生きることこそが、「わたしの天の父の御心を行う」ことです。「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言う人々は、確かに立派な行い、よい業を沢山してきた、しかし彼らはそれをすべて、自分の業績、自分の財産にしているのです。そしてその自分の富、豊かさによって天の国に入ろうとしている、彼らが見つめているのは、天の父なる神様の愛や恵みではなくて、自分の豊かさなのです。そのような者に対して主イエスは、「あなたたちのことは全然知らない」と言われます。おまえたちは私とは何の関係もない、と言われるのです。自分のよい業、自分の財産に寄り頼んでいる者は、主イエス・キリストとは何の関係もない、その救いとは無関係な者なのです。山上の説教の冒頭の言葉、5章3節の「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」というみ言葉をも思い出します。「心の貧しい人」とは、自らの中に何の富も持っていない人、誇るべき何物をも持たない人、ただひたすら、神様の愛と憐れみによりすがるしかない人です。主イエスによってもたらされる天の国、神様の救いは、そのような人々にこそ与えられるのです。

 「天の父の御心を行う」、それはこの山上の説教において教えられてきたみ言葉に従って天の父なる神様の子として生きることです。その時、そこには、良い実りが与えられます。その実りによって、本物と偽者とを区別することができるのです。天の父なる神様のもとで、その子として生きるところに与えられる実りとはどのようなものでしょうか。それは、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることです。右の頬を打たれたら左の頬をも向けることです。それは私たちの立派さによってできることではありません。天の父なる神様が、私たちを、私たちの正しさによってではなく、ただ父としての憐れみによって愛していて下さる、同じように私たちを迫害する者をも、その罪にもかかわらず、子として愛しておられる、その天の父のみ心を受け入れることによってこそ、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことは実現するのです。そのために主イエスが与えて下さったのが「主の祈り」です。「天にましますわれらの父よ」と神様に語りかけていく中で、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈るのです。この祈りを真剣に祈り続けていく中で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」という実りが与えられていくのです。この教えを語られた主イエスご自身が、まさにそのように歩まれました。主イエスは私たちの罪を背負って十字架の死への道を歩んで下さり、自分を十字架につける者たちのためにもとりなし祈って下さったのです。それは主イエスが、ご自分をお遣わしになった天の父なる神様の御心を行い通されたということです。私たちはこの主イエスに従っていくのです。その歩みが、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る歩みとなっていくのは当然のことなのです。

 天の父の御心を行わず、天の父の子として生きるのではなく、自分の行い、力、業績によって歩もうとするところに生まれてくる実は、あの「見てもらおうとして、人の前で」という偽善です。そしてそれは、自分の業や力を人の業や力と見比べて、自分を誇っていこうとする思いと結びついています。そこには、比べ合いが起り、誇り合いが起るのです。互いの謙遜さを誇り合うというような滑稽なことすらも起ります。そして、何を誇り合うにせよ、そこには、対立が生まれ、対立し合う党派が生まれます。偽預言者によって生み出される悪い実ということで見つめられているのはそういうことだと思います。偽預言者は、表面的にはよい働き、よい業を、熱心にしているのです。しかしその業、働きが、教会の中に、その人を中心とするグループを作っていってしまう、そしてそのグループと別の人を中心とするグループとが対立し合い、教会の一致を損なうような結果を生んでしまう、この福音書が編纂された教会において、おそらくそのような問題が起っていたのでしょう。そこで偽預言者と呼ばれている人々は、決して自分が偽預言者だとは思っていないのでしょう。教会のために、神様のためにと思って熱心に働いている、しかしその働きが、自分の業、自分の業績、自分の誇りを満たすようなものになってしまうことによって、天の父の御心を行うものではなくなってしまい、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」のではなく、「敵を憎み、自分を理解してくれる仲間のためだけに祈る」ことになってしまうのです。これは私たち一人一人が自分の事柄として受け止め、心していくべきことだと言えるでしょう。

 本日共に読まれた旧約聖書の個所、詩編の103編について、最後にふれておきたいと思います。この詩は、主なる神様の慈しみと憐れみのみ心を歌っています。3節にも「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し」という恵みが語られています。また8節以下にはこうあります。「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」。主なる神様のこのような恵みと憐れみのみ心をこそ心に留め、忘れてはならないというのがこの詩の内容です。18節には、「主の契約を守る人、命令を心に留めて行う人」とあり、20節には「主の語られる声を聞き、御言葉を成し遂げるもの」、21節には「御もとに仕え、御旨を果たすもの」とあります。これらは皆、本日の個所における「わたしの天の父の御心を行う者」に当ると言えるでしょう。父なる神様の御心を本当に行う者とは、力ある立派な行いをすることができる者というのではなくて、私たちを罪に応じてあしらわれることなく、憐れみをもって赦して下さる、そのみ心をしっかりとわきまえる者なのです。この恵みのみ心が、主イエス・キリストによって、自分にも、他の人々にも、自分を迫害する者にまでも、豊かに注がれている、そのことをしっかりと見つめていく者こそが、「天の父の御心を行う者」なのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年2月11日]

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