富山鹿島町教会

礼拝説教

「求める者は得る」
イザヤ書 第7章10〜17節
マタイによる福音書 第7章7〜11節

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この言葉は、聖書の中で最もよく知られている言葉の一つであり、また最も慰めと励ましに満ちた言葉の一つであると言うことができるでしょう。この言葉は私たちに、積極的に生きることを教え、励ましています。「やったってどうせだめだ」とあきらめてしまうのではなくて、「よし、やってみよう」という気持ちを引き起こさせる言葉です。聖書は、主イエス・キリストは私たちに、そういう積極的な生き方を教えているのです。

 しかし私たちはこの言葉を読む時に、そのような励ましを受けると同時に、ある疑い、疑問をもどうしても感じるのではないでしょうか。本当に、求めれば与えられるのか、探せば見つかるのか、門をたたけば開かれるのか、という疑問です。それは、何か欲しいものがあったら、それを一心に求めれば必ず与えられるのか、という子供のような思いから始まって、人生の歩みにおいて、ある目的や希望を持って努力していけば必ずそれはかなえられるのか、という疑問にまで広がっていきます。今は受験のシーズンが始まろうとしています。自分の希望する学校に向かって多くの受験生たちが努力している。この後7章の13節には、「狭い門から入りなさい」という教えがありますが、この言葉ほど、本当の意味とは違う意味で一般に用いられている聖書の言葉はありません。その間違った意味での「狭い門」から入ることを多くの者が求めています。多くの者が入ろうとするから狭い門になるのです。その狭い門を突破して希望の学校に入学することが、熱心に門をたたけば必ず開かれて実現するのでしょうか。必ずしもそうではない、ということを私たちは知っています。求めれば何でも与えられたり、探せば何でも見つかったり、門をたたけば必ず開かれるというものではない、というのが、人生の真実です。いろいろな体験を重ねていくことによって、私たちはそのことを知るのです。いや、求めているものが与えられないというだけではない。求めていない、こんなことは絶対にいやだと思っているようなことがむしろ起こってくる。9、10節には、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか、魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」とありますが、私たちが人生の中で経験するのはむしろ、パンを求めていたのに与えられたものは石であったとか、魚を願ったのに与えられたのは蛇だったというようなことなのではないでしょうか。そのような経験の中では、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という教えは、何かそらぞらしい、あまりにも楽観的な、おめでたい教えであるように感じられるのです。

 「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という教えには、単に何かを求める、探すというのとは少し違う広がりがあります。「入門」という言葉があるように、例えば信仰の道を求めてそれを学ぶ、ということにもつながっていくのです。そういう意味で私たちは、聖書の信仰、主イエス・キリストを信じる信仰への入門を願って教会に来る、ということがあるでしょう。そのように門をたたけば、必ず開かれる、その門の中に入り、信仰を得ることができる、という約束をこの言葉は語っていると言うこともできるのです。けれどもここでも私たちは、必ずしもそうではない、ということを感じます。夏目漱石の小説に「門」というのがあります。その中で、主人公の宗助という男が、悩み苦しみからの解脱を求めて禅寺に修行に行くのです。しかし結局悟りを開くことができずに帰ります。そこにこういう文章があります。「自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、たたいても遂に顔さえ出してくれなかった。ただ、『たたいても駄目だ。独りで開けて入れ』という声が聞こえただけであった」。私たちはこれを、禅寺の修行とは結局こういうものだ、というふうにだけ読んでしまうことはできないでしょう。教会においてもこれと同じことが起こり得ます。それは、教会の人たちがもっと親切にして門を開けてあげなければ、というような話ではありません。神様との関係である信仰の門は、誰かが開けてあげることが出来るようなものではないのです。求めて、門をたたいても、結局それが開かれずに去っていってしまう、ということが起こります。漱石はこのようにも書いています。「彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」。信仰を求めて門をたたいても、結局このように立ち竦んだまま日が暮れてしまう、という不幸を味わうということもあり得るのです。このように考えてくると、「誰でも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたくものには開かれる」という言葉は、何の根拠もない、うつろなものに思えてくるのです。主イエスは、そのような虚しい、何の保証も根拠もない慰めを語られたのでしょうか。

 しかし私がこれまで述べてきた受け止め方には、決定的に見落とされているものがあります。そしてそれこそが、この教えの中心であり、命なのです。それは何でしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる」「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」この「与えられる」と「開かれる」という言葉は、受動態、受身の形です。つまり、与える、開く方が別におられるのです。求める者に与え、門をたたく者に門を開く方の存在、それをこのみ言葉は見つめています。「探しなさい、そうすれば、見つかる」というのは受身の形ではありませんが、他の二つとの関連で言えば、ここでも、探す者に与え、見出させて下さる方の存在が考えられていると言えるでしょう。求める者に与え、探す者に見出させ、門をたたく者に門を開いて下さる方の存在、それこそが、私が先ほどまで述べてきた、「求める者には与えられるというのは本当か」という疑いや、これは何の根拠もない虚しい慰めの言葉ではないか、という思いに決定的に欠落していることなのです。そしてそれこそが、主イエスのこの教えの中心、命なのです。本日の説教の題を「求める者は得る」としましたが、これはそういう意味では間違った題だと言わなければなりません。短くするためにこうしたのですが、内容的には、ここに語られていることは「求める者は得る」ということではないのです。「得る」と言ってしまうと、自分が得る、獲得するということになり、そこでは「与えて下さる方」の存在が見つめられなくなってしまいます。しかし、「求める者には与えられる」、与えて下さる方がおられる、ということをこそ、この教えは語っているのです。

 求める者に与え、探す者に見出させ、門をたたく者に門を開いて下さる方、それは勿論神様です。神様が与え、見出させ、門を開いて下さるから、「求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」のです。この神様を抜きにして、ただ「求めれば与えられる、探せば見出せる、門をたたけば開かれる」ということだけを受け止めていこうとするならば、それこそ何の根拠も保証もない、むなしい言葉になってしまうのです。9、10節の「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」という言葉も、この神様の存在に私たちの目を開かせようとしている言葉です。あなたがたは自分の子供がパンを欲しがっている時に石を与えるか、魚を欲しがっているのに蛇を与えるか、そんなことをする親はいないはずだ、と言っているわけです。それは次の11節を導き出す言葉です。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。あなたがたの天の父がおられる。その父は、子であるあなたがたに必ず良いものを下さる。あなたがたは悪い者、罪ある者、問題や欠けを多く持った者であっても、自分の子供にはできるだけ良いものを与えようとするではないか。まして、天の父であられる神様、完全であり全能であられる方が、子として愛していて下さる私たちに良いものを与えて下さらないはずはないのだ。主イエスは私たちの目をこのように、天の父なる神様に向けさせようとしておられるのです。

 ここで、人間の親の姿から天の父なる神様のお姿が類推されて語られていることに注目しなければならないと思います。神様は天の父だ、私たちはその子どもだ、人間の親が子に良いものを与えるように、天の父なる神様は私たちに良いものを与えて下さるのだ、というのです。このことはある意味でわかりやすいことです。親が自分の子供に良いものを与えようとするのは当然の常識です。けれども、それを常識だと思える人というのは、幸せな人、幸せな子供時代を過ごした人なのかもしれません。親は子供に良いものを与える、ということは必ずしも常識ではありません。そうでない事例が沢山あります。親による子供の虐待ということが最近大きな社会問題になってきています。先だっても、親が子供を餓死させたというニュースがありましたし、車の中に放置してパチンコをしている間に子供が死んでしまったなどということが時々報道されます。親だから子供を愛し、子供のために良いものを与えようとしている、というのは必ずしも当たり前のことではないのです。それは、そのような特別なニュースになるようなことだけの話ではありません。私たちはまあ普通の人間として、親たる者は子供に良いものを与えようとしていると言えるかもしれません。しかし私たちが、子供のために本当に良いものが何かを知っており、それを与えているかというとそれは別問題です。良いものを与えようと思ってはいるけれども、本当に良いものを与えることができているとは限らないのです。むしろ私たちは、よかれと思ってはいても、パンの代わりに石を与えたり、魚の代わりに蛇を与えたりしてしまっていることがあるのではないでしょうか。私たちは、人間の親とは、そのように不完全であり、罪ある者なのです。その私たちの姿を天の父なる神様にそのままあてはめることはできません。人間の親がこうだから神様もこうだ、という考え方は正しくないのです。私たちはむしろ逆に考えるべきでしょう。神様が天の父として、子供である私たちに良いものを与えて下さる、そこに、親としての本当のあり方、倣うべき手本があるのです。私たちは悪い者であり、不十分な者だけれども、このまことの父であられる神様のお姿を見つめることによって、親としての本当のあり方を示され、教えられていくのです。

 天の父なる神様が、私たちに良いものを与えて下さる、だから、求める者は与えられ、探す者は見出し、門をたたく者は開けてもらえるのです。そうであるならば、私たちがそこで与えられるもの、見出すもの、開けてもらえる門とは、神様が私たちに与えて下さる良いものです。神様が、天の父としての恵みのみ心によって私たちに与えようとしておられる良いものを私たちは受けるのです。ですからこれは、私たちが自分の欲しいものを何でも手に入れることができる、ということではありません。私たちの望みや願いが何でもかなう、という話ではないのです。それは、与えて下さる方の存在を抜きにした、自分の欲望の実現だけを考えているあり方です。主イエスはそのようなことを教えられたのではありません。むしろ主イエスがここで私たちに教え、与えようとしておられるのは、「求める者に良いものを下さるに違いない」天の父なる神様との交わりです。天の父なる神様が、私たちに本当に必要な、良いものを与えて下さる、そのことを信じて、この神様の下で生きる、そしてこの神様に向かって、いつも「求めつつ、探しつつ、門をたたきつつ」生きることを主イエスは教えておられるのです。つまり、私たちが求め、探し、門をたたく、その相手が大事なのです。本当に求めるべき、探すべき、門をたたくべき相手を知り、その方に、求め、探し、門をたたきつつ生きるところにこそ、良いもので満たされていく人生が与えられるのです。

 神様が天の父として、私たちに必要なもの、良いものを与えて下さる、そのことは既に読んできた6章32節に語られていました。ここは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」と教えられている所です。私たちの日々の生活には、このような様々な思い悩みがあります。しかしその中で、私たちに必要ものをすべてご存じであり、それを与えて下さる天の父を信じて、その父の子として生きていくところに、思い悩みにおしつぶされてしまわない歩みが与えられるのです。本日のところもこれと同じことが教えられていると言うことができます。良いものを与えて下さる天の父のもとで、その子として生きるところに、本当に希望をもって積極的に、求め、探し、門をたたきつつ生きる歩みが与えられるのです。

 それゆえに、私たちが本当に希望をもって求め、探し、門をたたきつつ生きるために必要なことは、天の父なる神様との交わりであり、自分がこの神様の子供として愛されていることを知ることです。私たちは何によってこのことを知ることができるのか。それは、この教えを語って下さった主イエス・キリストによってです。主イエスこそ、神様の独り子であられ、神様を父と呼ぶことができるただ一人の方なのです。その主イエスが、人間となって私たちのところに来て下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して新しい命の先駆けとなって下さったのです。神様はこの独り子主イエスによって、私たちをもご自分の子として下さり、私たちの天の父となって下さったのです。主イエスがご自分の父なる神様を「あなたがたの天の父」と呼んで下さっているから、私たちも神様を父と呼ぶことができるのです。神様が私たちに与えて下さる良いもの、その第一のもの、中心は主イエス・キリストであると言ってもよいでしょう。ローマの信徒への手紙第8章32節に、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とあります。神様はその御子を私たちのために死に渡して下さったのです。そのようにして私たちを子として愛して下さっているのです。それゆえに私たちに必要なものはすべて必ず与えられるのです。神様が私たちに良いものを与えて下さるとはこういうことなのです。

 そのように神様が天の父として良いものを必ず与えて下さるのであれば、求めたり、探したり、門をたたいたりしなくてもよいのではないか、何故わざわざ「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言われるのか、と思うかもしれません。確かに、神様が天の父として、子である私たちに良いものを与えて下さるというなら、それは私たちが求めたら与える、求めなければ与えない、ということではないはずです。親は子に、子が求めなくても、あるいは求めるより先に、良いものを与えるのです。求めなければ与えられない関係は親子の関係ではないと言わなければならないでしょう。けれども主イエスは、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言われます。そこに、この教えのもう一つの大事なポイントがあると言うことができると思います。天の父なる神様に対して、求め、探し、門をたたくことが大事なのです。それは、祈ることです。主イエスはここで、求める者に与え、探す者に見出させ、門をたたく者に門を開いて下さる方に私たちの目を向けさせようとしておられると申しました。それは具体的には、私たちがこの父なる神様に祈ることなのです。「求める、探す、門をたたく」というのは、自分の望んでいることを得るためにあれこれと努力する、ということではなくて、神様に祈ることです。私たちは祈りの中でこそ、天の父なる神様に対して求め、探し、門をたたくことができるのです。ですからこの教えは、祈りへの勧めです。神様は、私たちが祈って求めていくのに対して、豊かに応えて下さる方なのです。

 このことはしかし、私たちが祈れば、神様はそれに応えて何でも与えて下さるということではないし、また、祈らなければ神様は何も与えて下さらない、ということでもありません。祈りは、神様を動かすためのまじないのようなものではないのです。私たちは祈りによって神様から良いものを獲得するのではないのです。神様はあくまでも天の父としての愛によって私たちに、良いものを与えて下さいます。それが主イエスによって示されている天の父なる神様のお姿なのです。その父なる神様が、私たちに、祈ることを求めておられるのです。私たちが神様に祈り求めることを願っておられるのです。神様が私たちの祈りを待っておられるのです。それは、そこでこそ私たちと神様との間に対話が生まれるからです。交わりが生まれるからです。神様は私たちとの間にそういう対話、交わりを持つことを願っておられるのです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」という教えはその神様の願いの表れです。神様は私たちが求めなくても、探さなくても、門をたたかなくても、良いものを与えて下さるのです。しかし神様は、私たちがご自分に向かって求め、探し、門をたたくことを喜んで下さるのです。祈りとはそういう神様との交わりに生きることです。ですから私たちは、祈らなければならないのではありません。祈らなければ神様の恵みをいただけないのではありません。そうではなくて、私たちは、良いものを与えて下さる天の父に祈ることができるのです。語りかけ、願い求めていくことができるのです。6章において、主の祈りが教えられたところもそれと同じ流れでした。8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われています。それなら、祈らなくたってよいではないか、となるところを、「だから、こう祈りなさい」と主の祈りが教えられたのです。私たちに必要なものをすべてご存じであり、それを必ず与えて下さる天の父なる神様を見つめる時に、私たちは、祈ることができるという幸いを与えられるのです。祈らなければならない、のではなくて、祈ることができる、神様が私たちの祈りを待っておられる、ということを示されるのです。

 本日共に読まれた旧約聖書の個所は、イザヤ書第7章10節以下ですが、ここには神様が預言者イザヤを通してアハズ王に、「神様が共にいて守って下さることのしるしを求めよ」とおっしゃったことが語られています。しかしアハズは「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と言ったのです。これは、神様にその恵みの証拠を要求するような、そんな神様を試すようなことはしません」という非常に信仰的な、模範的な言葉です。しかし神様はそれに対してイザヤにこう言わせたのです。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」。しるしを求めないという一見まことに信仰的な姿を、神様はもどかしく思っているのです。何故わたしにもっと求めないか、私の恵みをもっと求めて欲しいと思っておられるのです。そしてそこで神様が与えて下さったのが、インマヌエルの預言でした。インマヌエルとは、神は私たちと共におられる、という意味です。その預言が、主イエス・キリストにおいて実現したのです。イエス・キリストにおいて、私があなたがたと共にいる、という神様の恵みが実現しました。それこそが、神様が私たちに与えて下さる本当に良いものです。そして神様は私たちもその恵みを熱心に求め、探し、門をたたいて欲しいと願っておられるのです。そういう神様との交わりに生きていくことが、私たちの信仰であり、祈りです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という教えは、そのような神様との交わりへと私たちを招いているのです。

 「門」の主人公宗助は、門を開けてもらえず、さりとて門を無視して生きることもできず、門の下で立ち竦みつつ日の暮れるのを待つしかありませんでした。それは彼が、門を見つめ、それがどうしたら開かれるのか、自分が中へ入るにはどうしたらよいか、ということだけを考え、求めていた結果だと言えるでしょう。教会においても同じことが起こるのは、そういう求め方をしてしまうからです。しかし私たちが見つめるべきであるのは、その門を内側から大きく開いて私たちを迎え入れ、良いものを与えて下さる方の存在です。門を見つめ、門をいくら仔細に調べてみても、それが開かれることはありません。私たちは、それを開いて下さる主イエス・キリストを見つめ、その方に向かって、祈り求めていくのです。その時、この門は必ず開かれる。主イエス・キリストによって打ち立てられた、天の父なる神様との交わりが豊かに与えられるのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年1月14日]

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