富山鹿島町教会

礼拝説教

「喜び、祝いつつ」
詩編 第100編1〜5節
マタイによる福音書 第6章16〜18節

 本日は、アドベント第一主日です。教会の暦では、本日から、アドベント、訳せば待降節に入ります。アドベントとは、「到来」という意味の言葉です。主イエス・キリストが2000年前にこの世にお生まれになったことを喜び祝うクリスマスの到来を、四本のろうそくを立てて、それに毎週一本ずつ火を灯すことによって備えていくのです。そのようにクリスマスを迎える備えをしていくと共に、この時は、主イエス・キリストがこの世の終りにもう一度来られる、それによって私たちの救いが完成する、その主の第二の到来を待ち望んでいく時でもあります。2000年前の第一の到来の恵みを覚えつつ、来るべき第二の到来を希望をもって待ち望んでいく、そういう信仰の養いの時として、このアドベントを過ごしていきたいのです。

 本年のアドベントの期間の礼拝において、どの個所からみ言葉に聞いていこうかといろいろ考えました。私たちは今、礼拝において、マタイによる福音書を連続して読んでいます。今その第6章の、いわゆる「主の祈り」が教えられているところを読み終わったところです。いろいろと考えた結果、このマタイ福音書の第6章の続きをそのまま読み進めていこうと決意いたしました。アドベントの第四主日がクリスマス記念礼拝になりますが、その日に、6章の最後のところ、25節以下の「思い悩むな」というみ言葉に聞くことになります。ここは、マタイによる福音書において、あるいはその5〜7章のいわゆる「山上の説教」において、一つのクライマックスとなっているところです。クリスマスに、その個所をご一緒に読むことは相応しいことだと思うのです。

 そういうわけで、本日のこのアドベント第一主日は、16〜18節からみ言葉に聞きます。ここには、断食をするときについての教えが語られています。断食という習慣はしかし私たちの間にはありません。キリスト教の歴史においては、断食が信仰の表現として位置を持っていた時代があるし、今でもそれが残っている流れもあります。私たちの受け継いでいる伝統においても、断食することが全くなかったわけではありません。しかし私たちのこの教会や私たちが親しくしている諸教会においては、今、断食ということを信仰生活の中に位置づけそれを実践している人はほとんどいないと言えるでしょう。そういう意味では、この教えは自分とは直接関係がない、自分の事柄ではないという思いを私たちは持つかもしれません。けれどもここで、この教えが語られているその流れ、文脈をもう一度振り返ってみる必要があります。先程申しましたように、この教えは、5〜7章の、「山上の説教」の中にあります。そして第6章の1節以下が、ひと続きの教えとなっているのです。これまでしばらくの間、主の祈りの言葉を一つ一つ取り上げて読んできましたので、その流れを忘れてしまっているかもしれません。もう一度、6章1節以下を振り返って見たいと思います。1節に、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」とあります。「善行」と訳されているのは「義」という言葉です。それは神様の前に正しい行いということです。5章には、その義、正しい行いについて教えられていました。5章の20節には、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」というみ言葉がありました。律法学者やファリサイ派の人々は当時の聖書である旧約聖書を詳しく学び、そこに教えられている神様の掟、律法を厳格に守っていた人々だったのです。その人々より以上の正しさ、義を持たなければ天の国に入ることはできない、救いにあずかることはできないと主イエスは言われたのです。その「より以上の義」とはどのようなものか、ということが、5章21節から終りまでの間に、「律法にはこう語られている、しかし私は言っておく」という形で、いくつかに渡って語られていました。神様の前に本当に正しい生き方が教えられてきたのです。6章はそれを受けて、今度は、その義、善行を行う時にどのようにそれをなすべきか、ということを語っているのです。それが「見てもらおうとして、人の前で善行をするな」という教えです。人の前で、人に見てもらおうとしてしてするのでは、それは本当に神様の前で正しい行いにならないのです。そしてそのことを、具体的な三つの事柄において語っていきます。施しと祈りと断食です。この三つはいずれも、神様の前で正しいこと、神様を信じる者がなすべき信仰の行為として当時重んじられていたことなのです。施しについては2〜4節です。祈りについては5〜15節です。その中に「主の祈り」が教えられていたのです。そして第三の断食についてが本日の16〜18節です。これらの善行、義、正しい行いを、人の前で、人に見てもらおうとしてするな、と教えられているのです。ですから、この断食についての教えは、ここだけを独立させて読んだのでは、その意味を正しく理解することができません。その前からの三つの事柄をセットにして読む必要があるのです。

 これらの三つの教えに共通して出てくるのが、「偽善者」という言葉です。それが「見てもらおうとして、人の前で」善行をする人々のことをさしています。偽善者というと、私たちは普通、本当は善人ではなく、心の中では善くないことを考えているのに、表面は善人であるかのように見せかけている人という意味で理解しています。しかしここで使われている偽善者の意味はそれとは違います。ここで言う偽善者とは、「見てもらおうとして、人の前で」良いことをしようとする人、つまり、人の評価、評判を気にし、人からほめてもらうことを求めている人、心が人の方を向いている人です。それは言い換えるならば、心が神様の方を向いていない、ということです。神様がそうすることを求めておられるから、神様が喜んで下さるからそれをするのではなくて、人に誉められ、あの人は正しい立派な人だと言われたいためにしている、「神様の前で正しいこと」をしているはずなのに、心は少しも神様の方を向いていない、それがここで言う偽善者なのです。自分はこのような偽善とは無関係である、と言うことができる人は、私たちの中にいないでしょう。私たちは誰でも、自分が何か少しでも良いことをしたら、それを誉めてもらいたい、人に認めてもらいたいと思います。自分からそれを吹聴するようなことはしなくても、人が、「あの人は黙っているがこんな良いことをしている」と言ってくれることを喜び、それを願っています。逆に、自分がした良いことが人に少しも知られず、気づいてもらえず、評価されないとがっかりしてしまう、傷ついてしまう、すねてしまう、ということがあります。私たちは皆、「見てもらおうとして、人の前で」という偽善の思いを持っているのです。そういう偽善を指摘し、戒めているこれらの教えは、ですから、私たちと無関係どころではありません。まさに私たちに向けて語られている教えなのです。断食というのはそのことを語っている一つの事例に過ぎません。ここで教えられていることの中心は、断食をどうするか、ということよりも、もっと深いところにあるのであって、断食の習慣を持たない私たちとも決して無関係ではないのです。

 そのことを確認した上で、しかしここでは断食ということについて教えられている、そのことの意味を考えていきたいと思います。断食とは、文字通り食を断つことです。一定期間食事をとらなかったり、あるいはある種のものを食べなかったりすることです。そこには当然空腹や、「あれを食べたい」という思いが起こってきます。それを自分の意志で我慢していくのです。つまりそれは苦しみの業、苦行です。わざと自分に苦しみを課すのです。そこにはどんな意味があるのでしょうか。断食は、悲しみ、嘆きの表現であると言われています。本当に悲しみ嘆いている時、私たちは、食事も喉を通らない、という体験をします。それを逆に、食事を断つことによって悲しみや嘆きを表わすのです。その悲しみ嘆きとは、自分の罪に対する悲しみであり嘆きです。自分は神様の前に罪人である、神様のみ心に背き、逆らっている、そういう道を歩んでしまっている者であるということを、心から悲しみ、嘆くのです。イスラエルの人々においては、断食はそういう思いの表れとして位置づけられていたのです。そういう断食の本来の意味を考える時、それは私たちの信仰においても真剣になされなければならないことであると言わなければならないでしょう。実際に断食をするかどうかはともかく、その根本的な意味である、自分の罪を嘆き悲しみ、神様の前にそれを悔い改めることは、私たちの信仰において非常に大事なことなのです。大事なことと言うよりも、このことは、これまで読み、学んできた「主の祈り」を真剣に祈っていこうとする時に、私たちがまさに自分のこととして実感していくことなのです。主の祈りにおいて、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈ることが教えられました。私たちは神様に負い目がある、赦していただかなければならない罪がある、それを赦してくださいと日々真剣に祈り求めるのです。そしてそのことは、私たち自身が自分に罪を犯している者を赦すことと切り離すことができないのです。主の祈りの最後に、もう一度たたみかけるようにこのことが繰り返されています。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。私たちが人の罪を赦すことが、神様が私たちの罪を赦して下さることの条件とされているのです。それは、私たちが人を赦したら神様も私たちを赦して下さるという交換条件のようなことではなくて、私たちは、人の罪を赦そうと真剣に努力していくところでこそ、自分の罪が分かり、それを神様に赦していただかなければならないことも分かってくるということでしょう。主の祈りを真剣に祈っていくということは、人の罪を赦そうと真剣に努力していくということです。その時私たちは、それがいかに難しいことであるかを知るのです。自分はいかに人を赦すことができない者であるかがそこで本当に見えてくるのです。人を赦すことはせずに、しかし神様には赦してもらおうとする、そういう身勝手なわがままな者であることを思い知らされるのです。そのことを私たちは嘆き悲しみ、神様の赦しを求めずにはおれないのです。断食にこめられている自らの罪への嘆き悲しみの思いは、主の祈りを真剣に祈っていくところに必然的に起こってくるものだと言わなければならないでしょう。それを断食という形で表わすことはしないとしても、その思いは私たち皆に共通しているものなのです。

 断食はこのように、神様に対する自分の罪を嘆き悲しむ悔い改めの思いの表れでした。ところがその断食が、偽善になってしまうのです。それは、断食が立派な信仰の行為として賞賛されるようになったことによります。断食は、神様の前に自らの罪を認め、それを悔い、嘆きつつ赦しを求める、そういう神様の前での謙遜の印として、施しや祈りと並んで立派な信仰の行為になったのです。そうなると、それを「見てもらおうとして、人の前で」することが生じます。自分は断食をしている、ということを、いかにもそれらしい姿で人に見せようとする、そのために、「顔を見苦しくする」ということが始まったのです。断食は空腹の苦しさに耐えることです。また当然栄養が不十分になり、顔色が悪くなり、元気がなくなります。「顔を見苦しくする」というのは、そういう状態をことさらに人に見せようとすることです。そうして、いかにもあの人は断食をしている、ということを人にわからせようとするのです。そうなってしまったら、それはもう自分の罪を悲しみ嘆いているなんていうことにはならない、それは自分の断食を誇っているだけだ、ということは私たちにもわかります。人間の心というのは複雑なもので、自分がいかに謙遜に自分の罪を意識し、嘆いているか、ということを誇るという傲慢に陥るのです。それは謙遜の衣をかぶった傲慢なのです。しかし主イエスはここで、「そんなのは本当の断食ではない」とか「それは謙遜ではなくて傲慢だ」という言い方をなさいません。主が言われたのは一言、「彼らは既に報いを受けている」ということです。それは、人に見せようとして、人からの評価を求めて断食をしている者は、「あの人は熱心に断食をしている信仰深い人だ」と人に誉められることでもう報いを受けてしまっている、それ以上の、神様からの報い、神様が彼の悲しみ嘆きを受け止めて下さり、罪を赦して下さることなどは求めていない、彼にとっては、人からの報いが全てになっている、ということです。つまり彼の断食は神様の前での断食になっていないのです。私たちは、自分の断食を人に見せびらかすなんていやらしい、そんなの謙遜ではなくて傲慢だ、と思います。しかし主イエスが問題にされるのはそういうことではないのです。本当に問題なのは、そのことが神様の前で、神様に心を向けてなされているかどうかなのです。

 人に見せるための断食では意味がありません。形としての断食はそういう虚しいものになりがちなのです。しかし主イエスは「断食などやめてしまえ」とは言われませんでした。そうではなくて「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言われたのです。顔を見苦しくして、自分が断食していることを人に見せようとするのでなく、むしろきれいに身づくろいをしなさいということです。「それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである」とあります。身づくろいをするのは、断食していることを人に気づかれないためです。ということは、ただ頭に油をつけ、顔を洗うというだけではなくて、全ての点において、普段通りの、つまり食事をきちんととっている時と同じ生活をし、同じように人と接しなさいということです。本当は空腹でたまらない、力が出ない、という状態であっても、普段通り元気に、明るく生活しなさいというのです。あるいは別の言い方をすれば、断食などしていないふりをしなさい、ということです。それは、施しについての教えにおいて、「右の手のすることを左の手に知らせるな」と教えられたことと、また祈る時には「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」るように教えられたことと同じことを言っています。人には知られずに、ただ神様のみが知っておられるところでする、そうすることによって初めて、断食は偽善から解放されるのです。人の目の前での行為から、神様の前での行為になるのです。人間からの報いではなく、隠れたことを見ておられる父なる神様からの報いを待ち望むものとなるのです。

 断食が偽善から自由になり、本来の意味を取り戻すためにはそういうことが必要だと主イエスはお教えになりました。この点は施しや祈りについての教えと同じです。しかしこの断食についての教えには、それだけでは終わらない、さらに深い意味が込められているように思います。それは、断食が、先程申しましたように、自らの罪を悲しみ嘆くことを本質としている、ということと関係します。そのことは断食をしていない私たちの信仰の歩みにおいても非常に大事なことだと申しました。大事なことだと言うよりも、主の祈りを真剣に祈っていけば当然、自分の罪を悲しみ嘆かずにはおれないのだとも申しました。その悲しみや嘆きの表現が断食なのです。しかし主イエスは、その断食をしつつも、断食などしていないように歩めと言われるのです。それは私たちに当てはめて言うならば、自分の罪を嘆き悲しみつつ、しかし嘆き悲しんでなどいないように歩めということです。いったいどうすればよいのでしょうか。自分の罪を嘆き悲しむことは心の中でだけにしておいて、表に現れる生活においては、嘆き悲しんでなどいないように振舞う、ということでしょうか。しかしそれは余りにも不自然なことです。本当に嘆き悲しんでいるなら、それが表にも現れるのが自然です。それを押し殺して、あたかも全く嘆いていないかのように、自分の罪など少しも気にしていないように振舞う、というのでは、別の形での偽善ではないか、とも思えるのです。

 そこで、主イエスが「断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言われたことの意味を改めて考えたいと思います。この教えは、単に断食を人の目から隠せということだけではないと思うのです。「頭に油をつけ、顔を洗う」、それは、ただ断食をしていない普段通りの生活をする、ということではなくて、むしろ、祭を喜び祝う、その身づくろいを意味しているのではないでしょうか。断食を隠して歩むというだけではなくて、喜び、祝いつつ歩むことを主イエスは求めておられるのです。そのことは、この後の9章14節以下で、弟子たちが断食をしていないことをファリサイ派の人々にとがめられた時に、主イエスが答えられた言葉によって裏付けられると思います。主イエスは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」とお答えになったのです。つまり、弟子たちが断食をしていないのは、今は花婿が共にいる婚礼の祝いの時だからです。その花婿とは勿論主イエスです。主イエスが共におられる弟子たちの、即ち信仰者の歩みは、喜び、祝いの時なのです。そこには、悲しみの印である断食は相応しくないのです。このお言葉と共に読む時に、「頭に油をつけ、顔を洗いなさい」という言葉に、喜びと祝いに生きよという意味を読み取ることができると思うのです。私たちは、自分の罪を嘆き悲しまざるを得ない者です。主の祈りを真剣に祈りつつ生きようとする時に、いやおうなく、人の罪を赦そうとせずに自分の罪は赦してもらおうとする身勝手な自分を見出し、嘆き悲しみを覚えるのです。それが私たちの現実です。しかしその私たちに、主イエスは、喜び、祝いつつ生きよとお命じになっておられるのです。それは、あの嘆き悲しみを忘れてしまっていい、そんなことはどうでもいい、ということではありません。その嘆き悲しみの内にある私たちのところに、神様の独り子主イエス・キリストが来て下さった、そしてこの花婿主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さる、それによって神様は私たちの罪を赦して下さる、その喜びと祝いの中に私たちは生き始めることができる、ということです。私たちの、自分の罪のゆえの嘆き悲しみは、主イエス・キリストが来て下さり、その罪を背負って下さる、その恵みの中に包み込まれているのです。それでは私たちはどうするのか。私たちは、自分の罪を真実に嘆き悲しみつつ歩むのです。しかしそれはことさらに暗い顔をして、いかにも自分は罪を真剣に嘆いているというような陰気な生き方をすることではなくて、私たちは、主イエス・キリストによって罪の赦しを与えられた喜びと祝いに生きるのです。その主イエスが私たちのところに来て下さったことを喜び祝う祭りがクリスマスです。クリスマスを心から喜び祝っていくことこそ、自らの罪を真剣に悲しみ嘆く私たちが歩んでいくべき道なのです。このアドベントの時、これまで学んできた主の祈りを真剣に祈りつつ歩みたいと思います。そうする時に私たちは、自らの罪を思わしめられ、自分の力でそれをどうすることもできない嘆き悲しみを覚えずにはおれません。しかしこのアドベントの時、私たちは同時に、天の父なる神様がその独り子を私たちに与えて下さり、その十字架の死によって、ただ神様のみが与えることのできる赦しを与えて下さったことを覚えていくことができるのです。その時私たちは、自らの罪を嘆き悲しみつつ、本日共に読まれた詩編第100編を声高らかに歌うことができるのです。

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。
感謝の歌をうたって主の門に進み、
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。

牧師 藤 掛 順 一

[2000年12月3日]

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