礼拝説教「主が間におられる」 サムエル記上 第20章1〜42節エフェソの信徒への手紙 第2章14〜22節 月の最後の主の日には、原則として旧約聖書サムエル記上よりみ言葉に聞いておりまして、本日は第20章です。前回は9月の終りでしたので、しばらく間が開いてしまいました。ここに至るまでの流れを簡単に振り返って見たいと思います。サムエル記は、イスラエルが、士師の時代、即ちゆるやかな部族連合体の時代から、中央集権的な王国へと移行していった時代のことを描いています。その時代に神様によって立てられて民の精神的拠り所となったのが、サムエルという、最後の士師であり預言者であった人です。そのサムエルによって、イスラエルの最初の王として立てられたのがサウルでした。しかしサウルはその王としてのふるまいの中で、主なる神様のご命令に背いたために、結局神様に見捨てられてしまいます。そして神様が新しく王として選び、サムエルに油を注がせたのがダビデでした。サウルの王国は神様によってダビデへと引き渡されていくのです。今私たちが読んでいるあたりは、その過程を描いている所です。ダビデは羊飼いの少年でした。そのダビデが神様によって選ばれ、その印としての油を注がれ、ペリシテ人との戦いにおいて、一騎打ちを挑んできたゴリアトという大男を倒して大手柄を立て、サウルの宮廷に迎え入れられ、サウルの娘と結婚する、そのようにしてダビデがイスラエルの歴史の表舞台に登場し、王となる道を上昇してきたことがこれまでに語られていたのです。ところがそのようにダビデが頭角を表わしていくことは、サウルにとっては心配の種でした。この男はいつか自分の王位を奪い取るのではないか、という思いが次第に募ってきたのです。ただでさえ彼は既にサムエルから、主は王国をあなたから取り上げて別の人にお与えになる、と宣言されていたのです。このダビデがその人ではないか、ということを彼も感じ取っていたのでしょう。しかし彼はなお自分の王位に固執しようとします。そこに、ダビデに対する敵意が生まれるのです。その敵意はもう既に何度も表わされています。18章10節以下のところでサウルはダビデを槍で突き殺そうとしたとあります。それは悪霊に取り付かれてのことだと書かれていますが、その直前の所に、人々が「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っているのを聞いてサウルが激怒したことが語られていますから、サウルのダビデに対する激しい嫉妬の思いが根本にあることは間違いありません。また19章では、サウルは息子のヨナタンと家臣たちにはっきりと、ダビデを殺すように命じたとあります。その時はヨナタンになだめられてそれを撤回していますが、その後すぐにまたダビデの家に部下を遣わして殺そうとします。その時はサウルの娘でありダビデの妻だったミカルの機転によってダビデは逃げ出すことができ、サムエルのもとに身を寄せました。サウルはさらにその後を自ら追っていきましたが、神様の助けによってダビデはまた難を逃れることができたのです。このように、ダビデはサウルに命を狙われる状態になってしまいました。王の娘婿でありながら、もう宮廷に出入りすることができません。どこかに逃亡の生活を余儀なくされるのです。順調に上昇してきたと見えたダビデの歩みが、ここからは苦難の歩みへと転換していくのです。本日の第20章は、丁度その転換点に当ります。サウルのダビデへの殺意が確認され、ダビデが決定的にサウルの宮廷を去り、逃亡生活に入る、そのことがここに語られているのです。 この、サウルとダビデの関係ということが、サムエル記上の大事な主題の一つです。その背後には、神様の選びというテーマがあります。サウルも、もともとは神様に選ばれて王となった人でした。しかし彼はその歩みの中で、神様に捨てられたのです。そして新たにダビデが選ばれました。サウルとダビデの関係とは、神様に捨てられた者と選ばれた者との関係なのです。これは聖書全体を貫く大事なテーマの一つです。この世界を主なる神様がお造りになり、支配しておられる、この世の全てのことが神様のみ手の内にある、という聖書の信仰においては、人間の繁栄と没落、いわゆる栄枯盛衰を、単に運命のいたずらとして、諸行無常と言って片付けてしまうことはできません。そこには、神様に選ばれた人と捨てられた人とがいる、神様の二種類のみ業がある、と考えずにはおれないのです。そのことをどうとらえ受け止めるかは、聖書の信仰における大事なポイントになります。このサウルとダビデの物語全体を通して、そのことを考えていくことになるでしょう。しかし今はまだその物語の途中ですから、そのことは課題として頭に置いておいて、本日は、この20章が語っていることに集中していきたいと思います。 この20章で、ダビデと並んで主人公となっているのはヨナタンです。彼は先程も申しましたように、サウル王の息子、王子です。そういう意味では彼はサウルの側に立つ人です。しかし彼はダビデと親友でした。18章1節に、「ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」とあります。そして19章においても、ダビデのことを父サウルに執り成したのです。そのように深い信頼関係に結ばれていたヨナタンに、ダビデは、サウル王の気持ちを確かめることを願います。既に何度も命をねらわれているダビデは、自分にどのような落ち度があったからそんな目に遭うのか、理解できないのです。それで、サウルが自分を殺そうと思っていることをヨナタンにはっきりと確かめて欲しいと願うのです。ヨナタンは「決してあなたを殺させはしない。父は、事の大小を問わず、何かするときには必ずわたしの耳に入れてくれる。そのような事を父がわたしに伏せておくはずはない。そのような事はない」と言います。父がそんなことを考えているはずはない、何度かダビデを殺そうとしたのは、悪霊に取り付かれて正気を失ってのことで、父の本心ではない、ということでしょう。ヨナタンの、善良な息子として父を信じたいという思いがここに表れています。しかしダビデは事態の深刻さを見つめています。「わたしがあなたの厚意を得ていることをよくご存じのお父上は、『ヨナタンに気づかれてはいけない。苦しませたくない』と考えておられるのです。主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。死とわたしとの間はただの一歩です」。それで、ヨナタンは新月祭の祝宴の席で、サウルの気持ちを確かめることを約束します。その宴席にダビデが欠席していることをサウルがどう受け止めるかによって、その本心をさぐり、それをダビデにそっと知らせようというのです。サウルが本心からダビデを殺そうとしているなら、ダビデは直ちにここを逃れて去らなければなりません。 このヨナタンとダビデとの関係は複雑なものがあります。個人的には彼らは親友であり、何でも打ち明け合うことができる信頼関係にあります。しかしヨナタンは神様に捨てられた王サウルの息子であり、ダビデは神様が新たにお選びになり王として立てようとしている人です。サウルの王国を継ぐのは人間的な継承から言えばヨナタンであるはずですが、神様のみ心においてはダビデなのです。そのダビデをヨナタンは助けようとしている。それは、自分の王位を奪う者を助けることになります。サウルはそのことをはっきりと意識しているのです。30節以下に、新月祭の席上でダビデがいないことに怒ったサウルが、ダビデをかばおうとするヨナタンに言っている言葉がそれを示しています。「心の曲がった不実な女の息子よ。お前がエッサイの子をひいきにして自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、このわたしが知らないとでも思っているのか。エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ」。エッサイの子とはダビデのことです。ダビデが生きている限り、ヨナタンとその王権は確かではない、つまりダビデがその王位を脅かすのです。だからヨナタンがダビデをかばうのは、自分の王位を脅かす者をかばうことです。「自分を辱め、自分の母親の恥をさらしている」というのはそういうことです。王子として生まれ、その家の王権を守っていくべき者が、それを脅かす者を贔屓にするとは何事か、とサウルは言っているのです。ヨナタン自身も、そういうことに気づいていないのではありません。彼がダビデに語った13〜15節の言葉にはそれが表れています。「父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように。主が父と共におられたように、あなたと共におられるように。そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい」。彼は「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」と言っています。主なる神様が父サウルと共におられた、それによってサウルは王となったのです。しかし今や主はダビデと共におられる、それはダビデが王になるということです。そのことをヨナタンは意識し、認めています。そして14、15節の「そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい」という言葉は、さらにそれをはっきりと語っています。「そのとき」とは、「主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるとき」、つまりダビデが王となる時です。その時がやがて来る。その時自分はまだ命があるか、それとももう死んでいるかわからない。しかしその時に、わたしとわたしの家に慈しみを施して欲しいとヨナタンは願っているのです。今この時点では、ヨナタンは王子であり、ダビデは家臣です。しかしこの言葉は、その立場が逆転することを見越した言葉なのです。ヨナタンはそのように、イスラエルの王国が自分にではなくダビデに受け継がれていくことを、それが神様のご意志であることを意識しているのです。それを意識しつつ、ヨナタンはダビデと深い信頼関係にあります。それは、もう沈みかけているサウルの舟から逃げ出して、将来性のあるダビデの舟に乗り換えよう、というような打算的なことではありません。古代の世界において、王権の交代は、前の王家に連なる者の没落と死を意味していました。新しく王位に着いた者は前の王の一族を皆殺しにするというのが普通だったのです。それは人道にもとるひどいことだ、と私たちが憤ってみても仕方がありません。そうしなければ新しい政権の基盤が安定しない、そういう世界だったのです。ですから、ダビデが王になるということは、ヨナタンは死ななければならないということです。前の王の息子であり、本来なら王位継承者であるヨナタンが生きていたのでは、ダビデの王権は安定しないのです。ですから、家臣ならともかく、王子であるヨナタンには、ダビデの方に鞍替えするなどという選択肢はありません。ヨナタンにとって、ダビデが王になることは、即、自らの滅亡を意味しているのです。つまり先程の言い方を用いれば、ヨナタンは神様に捨てられた者の側にいるのです。ヨナタンとダビデの友情というのは、即ち、捨てられた者と選ばれた者との間の友情です。その両者の間に、このような美しい信頼関係があったということを聖書は語っているのです。このことは、先程の、神様に選ばれた者と捨てられた者という問題を考えていく時に、大事な要素になることだと思います。 さて、ヨナタンとダビデの信頼関係を描いていく中で、この20章に繰り返し語られている大事な言葉があります。それは、23節の「わたしとあなたが取り決めたこの事については、主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」という言葉です。それは最後の42節にも「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから」という形で繰り返されています。わたしとあなたの間に主がおられる、ダビデとヨナタンとはそのような関係にあったのです。そのことこそが、この複雑な関係にある二人、人間の思いにおいては結び合い難いような二人を結び合わせている絆だったのです。 しかし、主が間におられる、とはどういうことでしょうか。主なる神様が二人を結び合わせている、だからこの世のどんな事情も、二人の身分や立場の違いも、人間的ないろいろな対立や食い違いも二人の信頼関係を損なうことはできない、ということでしょうか。そういうふうに言うことができたら、どんなによいだろうかと思います。しかし私たちの現実は、なかなかそうは行きません。「神が合わせたもうたものを、人が離してはならない」とは、結婚式において宣言される言葉ですが、そのように合わせられたはずの二人が、結局うまくいかなくなってしまう、という現実があるのです。神様が間におられる、神様が結び合わせて下さった、そういうことが、必ずしも人間どうしの関係をどんな時にも支えるものとは言えないという現実があるのです。そのようになってしまうのは何故でしょうか。主が間におられても実際にはあまり役に立たないということでしょうか。そうではないと思います。そんなことが起こるのはむしろ、私たちが、実際には自分の力や思いによって人間関係を維持していながら、主が間におられる、主が絆であるということを、その関係の飾りとして、あるいは補強として用いているからなのではないでしょうか。つまり、主が間におられると言いながら、本当には主が間にはおられないのです。いや、本当に主を間にしようとはしていないのです。本当は、間にあるのは人間の思い、それぞれの思いだけなのです。それを、主が間におられるという言葉で補強しようとしている、側面からの支えにしようとしている、そういうことが私たちは多いのではないでしょうか。そういう関係においては、主は間にはおられません。いや、私たちがおらせようとしていないのです。私たちが、主なる神様を、間にではなくて側面に、横に置いておこうとしているのです。主が間におられるという関係、それは、自分たちの関係を主なる神様に側面から支えてもらおうとするような関係ではないのです。そうではなくて、主なる神様に本当に間に立っていただこうとする関係、自分たちの交わりのど真中に、主なる神様に来ていただき、介入していただこうとする関係です。ですから、主なる神様が間におられるかどうか、ではなくて、いていただこうとしているかどうか、が問題なのです。別の言い方をすれば、主が間におられる関係とは、神様が出会わせて下さったというように過去をふりかえる関係ではなくて、今、そしてこれから、神様に間に立っていただかなければこの関係は維持され得ない、そういう関係のことなのです。 ダビデとヨナタンとの間の、主が間におられる関係はまさにそういうものでした。今この20章において、そういう関係が結ばれたのです。この20章は、いよいよこの二人が別れなければならない、そういう場面です。ダビデを亡き者にしようとしているサウルの息子であるヨナタンと、サウルに代わって王として立てられようとしているダビデ、その二人の道はここでもう別れざるを得ないのです。神様に選ばれた者と捨てられた者との歩みが必然的に分離していくのです。実際この20章の最後の所に描かれているのは、ダビデとヨナタンとの涙の別れです。親友どうしが、その信頼関係や愛にもかかわらず、その間を引き裂かれ、別離を余儀なくされるのです。もはや二人の間の信頼関係も愛も、二人を繋ぎ止めることはできません。そのような事態に立ち至った時、二人は、主なる神様のもとで契約を結んだのです。自分たちの間に主なる神様がとこしえにおられる、そういう交わりを結んだのです。それはもはや、神様が自分たちの交わりを支えて下さるとか、神様が仲立ちをして下さるからどんなことがあっても我々は一緒だ、などということではありません。人間の絆や親しさ、信頼関係はもはや何の役にも立たないのです。神様に間に立っていただくことによってしか、この交わりはもう成り立ち得ないのです。わたしとあなたの間に主がおられる、という関係は、そのように、人間的な一切の絆が断ち切られていくところにこそ成り立つものなのです。 私たちは、教会において、信仰の仲間たち、兄弟姉妹の間で、信仰の絆による、神様が間におられる交わりを持っていると思っています。しかしそのことは、少し考え直す必要があるようにも思います。神様が間におられる関係というのは、何かというと神様が引き合いに出される、信仰が強調される、そういう交わりとは違うのです。私たちは、確かに、神様を信じる信仰という絆によって結ばれて兄弟姉妹の交わりを持っています。ここには、世間の交わりとは違う、より深い、親密な交わりがある、と言うことができるかもしれません。しかしそういう信仰を絆とした交わりというのも、人間の思いにおける交わりなのであって、それが即神様が間におられる交わりとなっているわけではないのです。神様が間におられる交わりは、それらの人間の思いにおける交わりが破れていく所、それが絆としての力を失っていく所、その絆にもかかわらず共に歩むことができなくなり、別離が起こってしまうような所、そのような場面において、もはや人間の思いや愛が及ばない、ただ神様に間に立っていただくしかない、という所に与えられるものなのです。もっと身近な分かりやすい言い方をするならば、信仰者として親しく仲良く交わりが持てている間は、いちいち神様に間に立っていただかなくてもいいのです。そう言うと語弊があるかもしれませんが、神様が間に立って下さることを意識しなくてもすむのです。しかし教会の中でも、同じ信仰に立っている者の間でも、なかなか親しくなれない、気持ちが通じ合わないという人もいます。あるいは、信仰の兄弟姉妹の間で、何かのいきさつで、傷つけたり傷つけられたりして、交わりが壊れてしまうことがあります。そのような時、そのような場面こそが、神様の出番なのです。そのような関係においては、私たちの親しさ、信頼、愛などが交わりの絆として力を失っています。その時私たちは、間に神様に立っていただくしかないのです。私たちはそこで、「神様、もはやあの人とは自分の思いや努力によって交わりを維持することができません。どうぞあなたが、私たちの間に立って下さい、あなたが私たちの絆となって下さい」と祈るのです。主が間におられる交わりとは、そこでこそ本当に成立するのです。普段、仲良く親しくしている人との交わりを、これこそ主が間にいて下さる交わりだと思っていると、その親しさが失われた時、そこには何も残りません。しかし主が間におられる交わりとは、そういう人間の親しさが全て失われてしまう所で、なお主なる神様が私たちの間に立って下さり、絆となって下さるという交わりなのです。言い換えるならば、私たちは、人間的な親しさが失われてしまう時に、もうこの交わりはおしまいだと思ってしまってはならないのです。そこにおいてなお、主が間に立ってくださる交わりがある、残されている、そのことを信じることを私たちは求められているのです。 主が間に立って下さる交わりは、私たちの人間的な親しさ、信頼、愛、そういった絆が失われ、交わりが崩壊していく、そこに主なる神様が介入してきて下さり、人間的には共に歩むことのできない者を結びつけて下さる、そういう交わりです。私たちは、人を傷つけ、傷つけられ、そういうことの中で、交わりを失っていく者です。あるいは自分の親しい、仲の良い者たちだけの交わりの中に閉じこもることによって、その外の人々との交わりを拒んでいく者です。そのようにして私たちは、人との間に常に壁を造っていってしまうのです。主なる神様は、そのような私たちの交わりの間に立つために、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そのことが、本日共に読まれた新約聖書の個所、エフェソの信徒への手紙第2章14節以下に語られています。その14〜16節にこうあります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。イエス・キリストは、十字架にかかって死ぬことによって、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊して平和を実現して下さいました。その隔ての壁は、私たちの心の中にあるものです。それが私たちの交わりを破壊し、人と人とを共に歩めなくするのです。それが私たちの持っている罪であり、そういう隔ての壁を常に作り出してしまう私たちは罪人なのです。神様の独り子イエス・キリストは、その私たちの罪をご自分の身に引き受けて、十字架にかかって死んで下さいました。ご自分がその敵意によって死ぬことで、私たちと私たちが敵意を持ってしまう相手との間に立って下さり、その敵意という隔ての壁を取り壊して平和を実現して下さったのです。この主イエス・キリストの十字架の恵みによって、私たちの罪によって破壊されていく交わりが、主が間におられる交わりとなったのです。主なる神様は、独り子イエス・キリストによって、私たちの、壊れていく交わりに介入し、その間に立って下さっているのです。このことを信じて、私たちは、私たちの罪による隔ての壁を乗り越えていくのです。自分の力や努力でそれを乗り越えることができなくても、そこに主イエス・キリストが間におられる交わりがなお残されていることを信じて歩むのです。 牧師 藤 掛 順 一 [2000年11月26日] |