礼拝説教「み名をあがめさせたまえ」詩編 第138編1〜8節 マタイによる福音書 第6章9節 礼拝において、マタイによる福音書を読み進めておりまして、今「山上の説教」と呼ばれる主イエスの教えを読んでいます。その教えの中心にあるのが、「主の祈り」です。主イエスは私たちに、祈りを教えて下さったのです。生まれつきの私たちは、くどくどと言葉数多く祈る異邦人の祈りしか知りません。神様はなかなか祈りを聞いては下さらない。聞いてもらうためには何度も繰り返し、神様をかきくどくように祈らなければならない、それが私たちの普通の感覚です。それに対して主イエスは、神様はあなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをすべてご存じであり、それを与えて下さる天の父となって下さった。だからあなたがたは、なかなか聞いてくれない、なかなか腰を上げようとしない神様を揺さぶり動かそうとするような祈りではなくて、天のまことの父の愛に信頼して、「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさい、と教えて下さったのです。主の祈りはそのように、天の父であられる神様のもとで、その愛と恵みに信頼して生きる者の祈りです。「こう祈りなさい」と教えて下さることによって主イエスは、私たちが、神様の子どもとして、天の父であられる神様を信頼して生きるように導いていて下さるのです。 「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉によって導かれている主の祈りは、その後に続く六つの願い求めの言葉から成り立っています。その一つ一つをこれから毎週の礼拝において味わっていきたいと思っています。本日はその最初の願い求め、「御名が崇められますように」、私たちが祈っている言葉で言えば、「願わくはみ名をあがめさせたまえ」です。今私たちが祈っている主の祈りの言葉が、いつごろどのようにしてあのような形になったのか、私は寡聞にして知りません。文語調の言葉ですから、昔の文語訳聖書の言葉かなと思って読んでみると、こうなっています。「願はくは御名の崇められん事を」。これは「願わくはみ名をあがめさせたまえ」と似ていますが、「崇められん事を」と「あがめさせたまえ」ではやはり違います。「崇められん事を」というのは、新共同訳の「崇められますように」と同じ意味です。口語訳聖書も「あがめられますように」となっていました。それに対して「あがめさせたまえ」と言うと、「私たちにあがめさせてください」という意味になります。「崇められますように」と「あがめさせたまえ」は、似ていますが、違うのです。原文の言葉をそのまま訳すならば、三つの聖書が共通してそうなっているように「崇められますように」という文章になります。「あがめさせたまえ」という訳は出てこないのです。ですから今私たちが祈っている主の祈りの言葉は、間違った、あるいは不正確な訳であると言わなければならないのです。主イエスが教えられたもともとの主の祈りは、「御名が崇められますように」という言葉なのです。 こんなふうに言いますと、どうでもよい小さなことにこだわっているように感じられるかもしれません。しかしこのことの背後には、非常に大事なことが隠されています。それは、神様の御名を崇めるのは誰か、という問題です。御名を崇めるのは私たちにきまっているではないか、と思われるかもしれません。そう思うから、「あがめさせたまえ」という言葉が生まれたのでしょう。しかしここでさらに見つめなければならないのは「崇める」という言葉です。ここの原文の言葉は「聖くする、聖なるものとする」という意味です。つまり、「御名が聖なるものとされますように」というのがこの祈りの意味なのです。私たち人間が、御名を聖なるものとする、と考えるならば、それは「崇める」という意味になるでしょう。けれども、神様の御名が聖なるものとされるのは、私たちがそれを崇めることによってなのでしょうか。そもそも私たちが、神様の御名を聖なるものとすることなどできるのでしょうか。聖書において、「聖なる」という言葉の意味は、神様のものとして区別された、ということです。イスラエルは聖なる民である、それは神様がこの民をご自分の民として選び、他の民とは区別されたからです。十戒の中に、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあります。安息日が聖であるのは、神様がこの日を他の日から区別されたからです。つまり何かが聖なるものとされるのは、神様がそれをご自分のものとして選び分かたれるからなのであって、私たちがそれを崇めるからそれが聖なるものとなるわけではないのです。御名が聖なるものとされる、というのもそれと同じです。私たちが聖なるものとして崇めるから御名が聖となるのではありません。御名を聖とされるのは神様ご自身です。神様が聖とされたから、御名は聖なるものであり、だから人はそれを崇めるのです。ですから、「御名が聖なるものとされますように」という祈りは、私たちを始めとする誰かが神様の御名を聖なるものとしますように、そして神様はそのことをうんうんとうなずきながらお受けになりますように、ということではないのです。御名を聖として下さるのは神様ご自身です。この祈りは、その神様ご自身のお働きを願い求めているのです。私たちがというよりもむしろ神様が、ご自分のみ名を聖なるものとして下さるように、とお願いしている、それがこの祈りなのです。 神様がご自分の御名を聖なるものとする、そういうことを語っている個所の一つが、本日共に読まれた旧約聖書、詩編138編です。その2節に、「聖なる神殿に向かってひれ伏し、あなたの慈しみとまことのゆえに、御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって、あなたは仰せを大いなるものとされました」とあります。その最後の文章は、口語訳聖書ではこうなっていました。「あなたはそのみ名と、み言葉を、すべてのものにまさって高くされたからです」。ここは、この口語訳のように、「み名とみ言葉をすべてのものにまさって高くされた」と訳すべきでしょう。神様が、ご自身のみ名を、すべてのものにまさって高くされた、聖なるものとされたのです。それゆえに人間は、御名に感謝をささげ、礼拝するのです。人間が崇め、高くするから御名が聖なるものとなるのではありません。神様が御名を高くし、聖なるものとされたから、人間はそれを崇めるのです。 しかしそれでは、神様がご自分の御名を聖なるものとなさるとは具体的にはどういうことなのでしょうか。そのことを教えてくれるもう一つの個所を読んでみたいと思います。旧約聖書エゼキエル書第36章の16節以下です。「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した。その歩みは、わたしの前で生理中の女の汚れのようであった。それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注いだ。彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである。わたしは彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた。彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した。事実、人々は彼らについて、『これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだ』と言った。そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」。 23節に「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」とあります。神様がご自身の御名を聖なるものとする、と宣言しておられるのです。それは、その御名が汚されているという現実があるからです。神様の御名を汚しているのはイスラエルの民です。18節に、「彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚した」とあります。神様に選ばれ、聖なる民とされたはずのイスラエルの人々が、神様に背き、偶像の神々を拝むようになったことによって、神様の御名は汚されたのです。神様はその罪に対して怒り、彼らを約束の地から追いやり、他国に捕われの身とされました。しかしそのことによって神様の御名はその他国の人々の間でも汚されてしまったのです。そこで神様は、おまえたちが汚した私の名を私自身が聖なるものとする、と宣言なさいました。イスラエルの民のためと言うよりも、ご自身の御名のために、神様は行動を起こされるのです。そして御名を聖なるものとなさるのです。それは具体的には何をすることでしょうか。それは24節にあったように「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」ということです。つまり、諸国に散らされてしまっているイスラエルの民をもう一度集め、国を再興して下さるのです。罪のために散らされてしまったイスラエルをもう一度集めて国を興して下さる、つまり彼らの罪を赦して下さり、新しく出直させて下さるという恵みを与えて下さるのです。それが、「神がご自身の御名を聖なるものとする」ことです。神様の御名が聖なるものとされるとき、神様の民であるイスラエルに赦しと救いが与えられるのです。神様がご自分の御名を聖なるものとされる、とはこういうことです。そのことは、神の御名を汚している民が、その罪を赦されて、神の民として新しく出直すことを赦されるということを伴っているのです。それゆえに、「神様がご自分の御名を聖なるものとしてください」という祈り願いは、私たちの救いと関係のないことではなくて、まさにそのことこそが私たちの救いなのです。 このエゼキエル書の言葉が語っているように、私たちは、神様の御名を聖なるものとするどころか、むしろそれを汚している者です。私たちが神様の御名を聖なるものとすることができる、などと思うのはとんでもない傲慢なのです。自分が神様のために何かをすることができる、と思うことは、人間の傲慢の中でも、最も質の悪いものです。そう思う時に私たちの高ぶりは頂点に達するのです。そう思っている人間は自分を絶対化します。自分は神様のためにこのことをしているのだ、と思う時に、それとは違う思いを持っている人、あるいはそれに反対する人は、神様に敵対していることになってしまいます。批判は許されなくなるのです。そういう自己絶対化によって、私たちは平気で人を傷つけ、殺すようになってしまうのです。神様の御名を聖なるものとすることができる、という思いほど危険なものはない、と言わなければならないでしょう。私たちが常に意識し、繰り返し確認していかなければならないことは、自分が神様の御名を汚している、ということです。自分が何かをすることによって、神様の御名は聖なるものとされるどころか、汚され、泥まみれになっていく、私たちはそういう者なのです。 けれどもそのことを知る時に、私たちが同時に知らなければならないことがあります。それは、私たちが神様の御名を汚してしまうのは、神様が私たちをご自分のもの、ご自分の民として下さっているからだ、ということです。イスラエルの民は神様に選ばれ、聖なる民とされたのです。それゆえに、彼らの罪は神様を汚すことになったのです。神様の民であり、神様に選ばれた者たちは、神様の御名を背負って生きているのです。だからこそ、御名を汚す者にもなるのです。神様と関係のない者が何をしようと、御名が汚されることはないのです。つまり、私たちが、自分は神様の御名を汚している者だということを知るということは、自分が神様のもの、神様の民、神様の御名を背負って生きている者だと知る、ということなのです。神様が私たちに、お前は私のもの、私の民だと言って下さっているのです。そしてその神様は、私たちによって汚されているご自分の御名を聖なるものとして下さる方です。私たちを打ち滅ぼすことによってではなく、赦して下さり、新しく出直させて下さることによって、それをして下さる方なのです。 私たちによって汚されている御名を神様が聖なるものとして下さる。そのことはどのようにして起っているのでしょうか。ヨハネによる福音書第12章27節以下を読んでみたいと思います。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」。ここに、「父よ、御名の栄光を現してください」という主イエスの祈りが記されています。これは「御名を聖なるものとしてください」というのと、内容的に同じ祈りです。聖なるものとされるとは、即ち栄光が現されることなのです。主イエスご自身がそのことを祈り求めておられる。主の祈りの第一の祈りを主イエスがここで祈っておられるのです。それでは主イエスは、御名の栄光はどのようにして現されると言っておられるのでしょうか。「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と言われています。「この時」とは、「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と言っておられるその時です。ここはヨハネ福音書におけるゲッセマネの祈りに当る所です。主イエスは、目前に迫った十字架の苦しみと死とを思い、「わたしをこの時から救ってください」と祈りたい思いでおられるのです。しかし、「わたしはこの時のために来た」。主イエスがこの世に人となって来られたのは、この十字架の苦しみと死とを引き受けるためだったのです。それによって私たちの罪を赦して下さるためだったのです。だから、主イエスは十字架の死への道を歩み通そうとしておられます。その中で「父よ、御名の栄光を現してください」と祈っておられるのです。御名の栄光は、主イエスが十字架の死への道を歩み通されることによって現されます。神様は、独り子主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死ぬことを通して、ご自身の御名の栄光を現し、御名を聖なるものとしようとしておられるのです。エゼキエルの預言はこのことによって実現します。神様に選ばれ、神様の民とされた者たちが、神様に背いて御名を汚している、その民が罪を赦されてもう一度神様の下で歩み出すことができる、その救いの恵みは、主イエスの十字架の死によって与えられたのです。そのようにして神様はご自分の御名を聖なるものとして下さったのです。ですから、「御名を聖なるものとしてください」という祈りは、ただ神様の御名が聖なるものとされるように、という「神様のための祈り」ではありません。それはむしろ私たち自身のための願い求めなのです。神様の御名が聖なるものとされることこそが、私たちの救いであり、私たちが罪を赦されて新しく神様の恵みの下で生きる道はそこにこそ開かれているのです。 主イエスは主の祈りを教えてくださることによって、私たちが、神様の子どもとして、天の父であられる神様を信頼して生きるように導いていて下さるのだ、と最初に申しました。そのことは、「天におられる私たちの父よ」という最初の呼びかけにおいてのみのことではありません。「御名が崇められますように」という祈りにも、このことが同じように語られているのです。御名が崇められる、つまり聖なるものとされる、それは主イエスの十字架の死によって与えられている神様の恵みの中に私たちが生かされることです。つまりそこでこそ私たちは、主イエス・キリストによって私たちの父となって下さった神様の恵みの中で、神様の子として生きることができるのです。「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉には、私たちの父となって下さった神様の恵みを感じるけれども、次の「御名が崇められますように」という祈りになると、急にその父なる神様が、私たちが崇めなければならない遠い存在になってしまうように、あるいは私を崇めない者は赦さないと怖い顔をして見張っている方になってしまうように感じるとしたら、それは違うのです。「御名が崇められますように」という祈りは、独り子の十字架の死によって私たちの天の父となって下さった神様の子どもとして生きることを願い求める祈りなのです。 神様が御名を聖なるものとして下さる、そこに私たちの救いがあります。私たちは、御名を聖とするどころか、それを汚している罪人です。その私たちの罪を、主イエスが十字架の死によって贖って下さり、赦して下さる、神様の御名はそうやって聖なるものとされるのです。その恵みを受けた私たちは、それに応えて、感謝して歩みます。それが、私たちが神様を崇めることです。神様が聖なるものとされた御名を、私たちも聖なるものとするのです。私たちはそういう意味でのみ、神様を崇め、聖なるものとすることができます。それは、神様のために何かをすることができる、ということとは全く違います。私たちが神様の御名を聖なるものとすることなど、できはしないのです。しかし神様ご自身が、その独り子の命を与えて、私たちの罪を赦して下さり、私たちが汚している御名を聖なるものとして下さり、その御名の下に私たちをもう一度集めて、神様の民として生かして下さるときに、私たちはその神様の御名をほめたたえることができるのです。あの詩編138編の詩人が、「わたしは心を尽くして感謝し、神の御前でほめ歌をうたいます。聖なる神殿に向かってひれ伏し、あなたの慈しみとまことのゆえに御名に感謝をささげます」と歌ったのと同じようにです。神様がご自身の御名をすべてのものにまさって高くして下さった、その恵みに応えて、その御名に感謝し、御名を崇め、ほめたたえるのです。それが、天の父なる神様の恵みの下に、神様の子どもとして生きる者の姿です。私たちが天の父なる神様を崇め、ほめたたえるのは、そうすることによって神様のために何かをすることができるからでもなければ、そうしないと神様がお怒りになるからでもありません。それが、神様の子どもとして、天の父であられる神様を信頼して生きることだからなのです。 「ねがわくはみ名をあがめさせたまえ」という祈りは、不正確な訳だと申しました。正しくは「御名が崇められますように」なのです。しかし、今までお話ししてきたことを踏まえた上でならば、「ねがわくはみ名をあがめさせたまえ」という私たちが今祈っている言葉をもう一度受け止め直すことができると思います。私たちのために、私たちが汚している御名を聖なるものとして下さるのは、神様です。主イエス・キリストの十字架と、そして復活によって、そのことは成し遂げられました。この天の父の恵みに応えて私たちは、御名を崇めつつ生きるのです。「私たちに、御名を崇めさせてください」という祈りは、その信仰の歩みへの導きを祈る祈りとなるのです。「ハイデルベルク信仰問答」の問122はそのような意味でこの祈りを解説しています。「御名が崇められますように」という祈りがこう説明されているのです。「第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、慈愛、真理を照らし出すそのすべての御業において、あなたを聖なるお方として、あがめ、賛美するようにさせてください、ということ、第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ賛美されるようにしてください、ということです」。つまり、私たちが神様の恵みを正しく知って神様を崇めることができるようにということが第一、第二には、私たちの全生活が、神様の御名を汚すのではなく、それがほめたたえられるために用いられていくことができるように、ということです。本日のこの礼拝は、キリスト教放送局、FEBCによって録音され、「全地よ、主をほめたたえよ」という番組となって放送されます。私たちが富山の地でささげるこの礼拝が、主の御名をほめたたえるために用いられていくなら、それは大きな喜びです。そのように、天の父なる神様に信頼し、神様に「天の父よ」と祈りつつ生きる私たちの日々の生活の全てが、御名がほめたたえられるために用いられていくことを祈り求めていくのが、「願わくはみ名をあがめさせたまえ」という祈りなのです。神様は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちが汚しているその御名を聖なるものとして下さいました。そして私たちを新たにご自分の民として呼び集め、神様の子として生かして下さっています。私たちが神様の御名を聖なるものとすることはできませんが、しかし神様は弱く罪深い私たちをも用いて、ご自身の御名の栄光を現して下さることがおできになるのです。「願わくはみ名をあがめさせたまえ」と祈りつつ、その御業を待ち望んでいきたいと思います。
牧師 藤 掛 順 一 |