富山鹿島町教会


礼拝説教

「主の祈り」
列王記上 第8章27〜53節
マタイによる福音書 第6章5〜15節

 ようやく9月を迎えました。今年の夏は暑く長い夏でした。まだ暑い日が続いています。特に体の弱っている人、お年寄りにはつらい夏だったと思います。教会の歩みにおいても、この夏はいろいろなことがありました。盛り沢山の夏であったという感じがします。何よりも、教会に連なる三名の方々を天に送りました。いずれも、50歳代の方々です。人間の生と死、人生について、深く考えさせられる夏であったと思います。亡くなられた上野陽子さんのお嬢さんが、このことを通して、「人生が変えられたように思います。'死'がより身近なものになりました。つまり、'生きること'をより真剣に受け止めるようになりました。そして、人生の主人は神であることをあらためて教えられました。」と言っておられます。それは身内の方だけの感慨ではなく、教会に共に連なる私たち一人一人がこの夏与えられた思いなのではないでしょうか。3名の内2名の方々の葬儀を教会が取り仕切って行いました。いずれも、よい伝道の機会となったと思います。いつも思うことですが、お葬式こそ、どんな伝道集会にも勝る伝道の時、主イエス・キリストの福音を多くの方々に宣べ伝える機会なのです。

 またこの夏、当教会としては初めて、夏期伝道実習の神学生を迎えました。このことは、迎えた神学生にとってよい研鑚の時となった以上に、私たちにとってよい刺激となったと思います。牧師となるために献身し、学んでいる若者との出会いは、私たちに、自分の人生を何に献げて生きるか、ということを改めて考えさせてくれたのではないでしょうか。そしてこのことと並んで、私どもの群れの二人の女子青年が、この夏、いずれも牧師と婚約しました。このことも、この夏の特筆すべき出来事であったと思います。 このように、この夏私たちは信仰におけるいろいろな刺激を与えられました。別れと新たな出会いを経験しました。その盛り沢山の夏を経て、9月を迎え、新しく歩み出そうとしています。今この時に私たちに求められていることは、改めて、神様の前に膝まづいて、祈ることだと思います。祈りの中で、この夏に与えられた様々な体験、刺激、出会い、それらによって考えさせられたことを、神様のみ前で振り返っていく、反芻していくことが大切だと思うのです。

 今私たちは、マタイによる福音書を礼拝において連続して読んでいます。丁度今さしかかっているところは、主イエスが、祈りについて教えられた個所です。その中で、いわゆる「主の祈り」が与えられています。主イエスが、「こう祈りなさい」と教え、与えて下さった、私たちの祈りの模範あるいは土台と言ってよいものです。本日からしばらくの間、この「主の祈り」を丁寧に読みつつみ言葉に聞いていきたいと思います。秋を迎えて、主の祈りをじっくりと味わい、それを祈りつつ歩んでいくことは、意義深いことであると思います。このことの中で、この夏に与えられた様々な体験を咀嚼していくことによって、それらは私たちの信仰の血となり肉となっていくと思うのです。

 さて、私たちは毎週の礼拝の中で主の祈りを祈っています。祈祷会の最後にもみんなでこれを祈ります。教会学校でもこの祈りは毎週祈られていますから、子供たちも真っ先に覚えるのはこの祈りです。あるいはキリスト教主義の学校や幼稚園においても、これは必ず覚えさせられますから、信仰を持っていない人でも、この祈りだけは頭のどこかに残っている、という人も多いのです。そのように主の祈りはある意味で私たちにとってあまりにも身近な、当たり前のものになっており、教会におけるある決り文句のようになってしまっているきらいがあるかもしれません。しかしここで私たちは、主イエスが主の祈りを教えて下さったそのみ言葉を深く味わっていきたいと思います。9節の冒頭に、「だから、こう祈りなさい」とあります。主の祈りは、主イエスが、「こう祈りなさい」と言って教えて下さったものなのです。主の祈りはもう一箇所、ルカによる福音書の11章にも出てきますが、そこでも、弟子たちが主イエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったことに対して主イエスが「こう言って祈りなさい」とこの祈りを教えて下さったことが語られています。いずれにおいても主の祈りは、主イエスが「こう祈りなさい」と教えて下さったものです。だから「主の」祈りと言うわけですが、この当たり前と言えば当たり前のことですがとても大事なことなのです。つまり主の祈りは、神様にこんなふうに祈ったらよいのではないか、こう祈ったら神様は喜んで下さるのではないか、と人間が考えて生み出したものではないのです。神の独り子であられ、ご自身が神であられる主イエスが、「こう祈りなさい」と教え、与えて下さったものです。つまりこれは、祈る相手である神様から私たちに求められている祈りなのです。

 祈りというのは、私たちと神様との関係、交わりの場です。ですから、どういう祈りをしているか、に、私たちにとって神様がどういう存在であり、私たちと神様との関係がどうであるか、が現れてきます。例えば、家内安全商売繁盛というようなことだけをひたすら願い求める祈りをしているとしたら、その人にとって神様というのはそういうご利益を与えてくれる存在であり、その人と神様との関係はそういうご利益によって結ばれた関係である、ということです。あるいは、神様を信じてはいるが祈ることはしていない、という人があるならば、その人にとって神様は交わりの相手ではないということであり、ということはその人は神様と関係を持って生きていない、ということです。つまりその人は、神様を信じていると思っているだけで、実際には自分一人で、自分の頭と心のみを頼りに生きているのです。そのように、どう祈るか、あるいは祈らないかに、私たちと神様との関係が現れるのです。そうであるならば、神様が私たちに祈りをお求めになったということは、神様が、私たちとの交わりを、関係を求めておられるということです。しかも、ただ「祈りなさい」と言うのではなくて、「こう祈りなさい」と祈りの内容まで教えられたということは、「私はあなたがたとこういう関係を結ぼうとしているのだ」ということをそこで示しておられるということなのです。ですから私たちが主の祈りを教えられ、それを祈りつつ生きるというのは、単に教会らしい、クリスチャンらしい合言葉や決り文句を覚えているということではなくて、神様が私たちと関係を持とうとしておられる、その神様の望んでおられる関係、交わりの中で生きる、ということです。それこそが、聖書の教える、私たちの信仰なのです。私たちの信仰は、私たちが神様のことをどう思い、どういう関係を持とうとするか、ではなくて、神様が私たちのことをどう思い、どういう関係を持とうとしておられるか、それに即して生きることです。主の祈りを祈ることには、そういう意味があるのです。

 神様が私たちのことをどう思い、どういう関係を持とうとしておられるのか、それに即した祈りが主の祈りです。そのことは、「だから、こう祈りなさい」の「だから」という言葉からも伺い知ることができます。この言葉によって、主の祈りは、その前の所の、主イエスの祈りについての教えと結びつけられているのです。その前の所の教えの帰結として、主の祈りが教えられているのです。5節以下に語られている祈りについての教えは、偽善者のように祈るな、異邦人のように祈るな、という二つの部分から成っています。これらのことについては、既に8月13日の礼拝においてお話ししていますから、ここでは詳しくは申しません。ただ、主の祈りとのつながりで考えるならば、7節以下の、異邦人のように祈るなという教えをもう一度振り返って見る必要があると思います。主イエスは、異邦人の祈りを批判して、あのようにくどくどと祈るな、彼らは、言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる、と言われました。くどくどと言葉数の多い祈りは、あなたがたのなすべき祈りではない、あなたがたのなすべき祈りは、もっと簡潔な、短い祈りなのだ、ということです。その簡潔な、短い祈りとして、主の祈りが教えられたわけです。ですから主の祈りは、異邦人のくどくどと言葉数の多い祈りと対照的な簡潔な祈りなのです。

 しかしこのことは、単に祈りの長さ、言葉の多少の問題ではないでしょう。異邦人は何故くどくどと言葉数多く祈るのでしょうか。その思いは、「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」ということに言い表されています。それは言い換えれば、言葉数が少ないと聞き入れられない、ということです。つまり神様は私たちの祈りや願いを、簡単には聞いて下さらない、何度も何度も、繰り返し、沢山の言葉を費やしてお願いしていって初めて聞き入れられる、という感覚がそこにはあるのです。こういう感覚は私たちの中にも自然に存在しています。前にも申しましたように、日本にも「お百度を踏む」ということがあります。何かの願いを適えてもらうためには、百度繰り返してお参りをし祈らなければならない、それくらいすれば、願いが神仏に通じる、ということです。そしてこういう感覚は、主イエス・キリストを信じる私たちの中にもしみついているのではないでしょうか。私たちも、神様に何かを祈り願う時に、そう簡単に聞いてもらえるとは思わない。何度も何度も繰り返し祈らなければならないと思う。あるいは、ただ祈り願うだけではだめなので、普段の生活においてちゃんと礼拝を守り、神様に従い、仕えていく、そういう信仰生活を送っていなければ、何か願い事がある時だけ祈ったって神様は聞いてはくださらない、そんなふうに思うのです。つまり、神様に祈りを聞いていただくというのは大変なことであって、そのためには私たちの側においてもそれなりの努力や精進が必要だ、というのが、洋の東西を問わず私たち人間が自然に思うことなのです。くどくどと言葉数多く祈ることはそこから生じているのです。主イエスはそれに対して、そのような祈りをするな、と言われました。その理由が8節です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。これが、くどくどと言葉数多く祈らなくてもよい理由です。つまり、くどくどと祈らなくても、神様は私たちの必要をちゃんとご存じであられ、必要なものを必要な時に与えて下さる方なのです。つまり、異邦人のくどくどと言葉数の多い祈りと、主の祈りとの違いは、長さや言葉の数ではなくて、祈る相手である神様と祈る私たちとの関係の違い、神様が私たちにとってどのような方であるか、の違いなのです。なかなか祈りを聞いてもらえない、聞いてもらうためにはそれなりの努力がいる、そういう神様に祈っているのか、願う前から私たちに必要なものをご存じであられる神様に祈っているのか、その違いです。主イエスは、主の祈りを教えて下さることによって、私たちに、異邦人とは違う、まことの神の民としての神様との関係、交わりを与えようとしておられるのです。

 その、まことの神の民としての神様との関係、交わりを表しているのが、「あなたがたの父」という言葉です。あなたがたが祈る相手である神様は、あなたがたの父であられる、あなたがたは、その父なる神様の子である。あなたがたは、子として、父であられる神様に祈るのだ、と主イエスは言われるのです。神様と私たちの間には、父と子という関係がある、それが、「願う前から必要なものをご存じ」であるという関係です。父は、子どもを愛し、子どものために本当に必要なものを与える、子供が願ったら初めて与えるのではなくて、願う前からそれを与える。あるいは、子供がしきりに願っても、それが子供にとって必要でない、むしろよくないものである場合には、それを与えない、そのようにいつも子供のためを思い、子供のためによいものを与えようとするのが父です。人間の父は、なかなかその通りにはいかない、というのも事実です。私たち人間の父は、子供に本当に必要なものを与えずに、むしろ不必要な、害になるものを与えてしまうことがあります。私たちはそのような問題だらけの父ですけれども、神様は本当の父として、子である私たちに、本当に必要なものを、必要な時に、必要なだけ与えて下さるのです。神様は、あなたがたのことをそのように子として思い、あなたがたとそのような父と子の関係を結ぼうとしておられる、それが主イエスの教えです。そして、「だから、こう祈りなさい」と主の祈りが教えておられるのです。

 それゆえに、この祈りの最初の呼びかけの言葉「天におられるわたしたちの父よ」、私たちが今唱えている言葉で言えば「天にましますわれらの父よ」、この最初の一句がとてつもなく大事なのです。この一句に、主イエスが教えて下さった私たちと神様との関係の根本があります。この一句があるから、私たちは異邦人のようにくどくどと言葉数多く祈らなくてもよいのです。この一句があるから、神様が私たちに必要なものを願う前からご存じであり、それを与えて下さることを信じることができるのです。つまり主の祈りを祈ることの一番大きな意味、あるいは一番大きな恵みは、この最初の呼びかけの言葉にあると言うことができるのです。「天にましますわれらの父よ」と祈ることができる、それこそ、何物にもまさる恵みです。誤解を恐れずに言えば、この最初の呼びかけを心から祈ることができれば、もう後は何も祈らなくてもよいくらいなのです。後は、願う前から私たちに必要なものをご存じであられる神様に全てをお任せして生きることができるからです。

 そうすると問題は、この最初の呼びかけを、私たちが心から祈ることができるかどうか、です。「天にましますわれらの父よ」という呼びかけは、あるいは私たちが祈る時に「天の父なる神様」と言って始める、その呼びかけは、祈りを始めるための単なる合言葉ではないのです。まずはとにかくそう語り始めて、その後何を祈っていくかが問題なのではないのです。その後何を祈るかよりも、この最初の語りかけが大事なのです。私たちは本当に心から、「天にましますわれらの父よ」と祈ることができるでしょうか。神様が、私たちの天の父であられ、私たちが一言も願う前から、必要なものをご存じであり、与えて下さる方であられることを信じて生きることができるでしょうか。それはできないと言わなければならないのではないでしょうか。私たちは、まことの天の父であられ、願う前から必要なものを全てご存じであられ、それを与えて下さるような神様を知ってはいないのです。私たちが自然に思い描くことができる神様は、先程申しましたように、そう簡単には祈りを聞いては下さらない神様、聞いてもらうためにはこちらもある努力や精進をしなければならないような神様、そういう、私たちにとって遠い、疎遠な神様でしかないのです。だから私たちの祈りも、ほうっておけば必ず、異邦人のような、くどくどと言葉数の多い祈りになるのです。なんとかして神様に祈りを聞いてもらおうと必死にならざるを得ないのです。主イエス・キリストは、そのような私たちに、「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言って、主の祈りを教えて下さったのです。この主イエスの導きによって初めて私たちは、「天におられるわたしたちの父よ」と祈ることができるのです。 主イエスは、神様に向かって、「アッバ」と呼びかけて祈られました。それは小さい子供が父親を呼ぶ親しい呼びかけの言葉であると言われます。私たちの言葉で言うならば、「パパ」とか「お父ちゃん」というような言葉でしょう。当時のユダヤ人たちの間で、祈りにおいて、神様に「父よ」と呼びかけることがなかったわけではないようです。けれどもこの「アッバ」という言葉で、神様に「お父ちゃん」と呼びかけることは、主イエスのみがなさった、まことに大胆なことだったのです。主イエスは、そう呼びかけることのできる方でした。それは神様の独り子、ただお一人の本当の子であられたからです。本日ご一緒に告白するニカイア信条に、主イエス・キリストについて「主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました」とあります。主イエスはそのような方として、父なる神様に「アッバ」と呼びかけて祈ることができたのです。その主イエスが、「私がアッバ、父よ、と呼びかけている方は、あなたがたの天の父でもある。あなたがたも、この神様に、『天におられるわたしたちの父よ』と呼びかけて祈りなさい、あなたがたもそのように祈ってよいのだ」、と言って下さっているのです。主イエスが、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さったのはこのことのためです。もともとは神様の子ではなく、疎遠な、異邦人の神しか知らず、それゆえにくどくどと言葉数多く祈らざるを得ない私たちが、主イエスと共に、「天にましますわれらの父よ」と祈りつつ生きることができるようになるために、主イエスは人となり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そのように主イエスが罪人である私たちと一つになって下さり、私の父なる神はあなたがたの父なる神でもあられる、あなたがたも、「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさい、と言って下さったのです。それゆえに私たちは「天にましますわれらの父よ」と祈ることができるのです。ですからこれは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられている恵みなのです。この後私たちは聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯は、主イエスが私たちのために十字架にかかって苦しみ、死んで下さった、その御体と御血とを表しています。聖餐にあずかることによって私たちは、主イエスが罪人である私たちのために十字架にかかって肉を裂き、血を流して贖いのみ業を成し遂げてくださったことを覚えるのです。そしてそれは同時に、私たちが、主イエスの父なる神様を、私たちの天の父と呼び、その父なる神様に祈りつつ生きることを許されているということを覚えることでもあります。主の祈りを祈りつつ生きることと、聖餐の恵みにあずかりつつ生きることは、同じ救いの恵みの別の側面であると言うことができるのです。それゆえに古代の教会においては、洗礼を受けて聖餐にあずかる者、教会のメンバーになった者にのみ、主の祈りが教えられた、という時代もあったのです。今日私たちはそのようにはしていません。今日初めて教会に来られた方ともご一緒に、主の祈りを祈ります。それは、この祈りを祈る恵みが、全ての人々に開かれており、神様はここに集っているすべての方々をその恵みへと招いていて下さることを信じ、表すためです。しかし、「天にましますわれらの父よ」と神様に呼びかけるこの主の祈りを祈る本当の恵み、喜びは、主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの恵みを知り、それにあずかって生きる者となることによってこそ本当に知ることができるものだということもできるでしょう。

 私たちは、教会において、またそれぞれの生活において、この主の祈りを祈りつつ生きます。この主の祈りを土台として、そこに、様々な自分の思いや願い、時には神様への愚痴や文句までも祈ります。こんなことは祈ってはいけない、ということは私たちの信仰にはないのです。何故ならば、神様は私たちの天の父となって下さったからです。子供が父に、何も遠慮する必要はないのです。まことの父であられる神様は、私たちがどんなわがままなことを言っても、だからといって私たちを見捨てて、お前はもう私の子ではない、とほうり出してしまうような方ではないのです。わがままは通らないでしょう。しかし天の父は、私たちに本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。

 本日共に読まれた旧約聖書の個所、列王記上第8章27節以下は、ソロモン王が神殿を建設し、それを神様に捧げた時の祈りです。ソロモンがはっきり言っているように、神殿は、神様の住まいではありません。神様を天から引き降ろして人間が造った神殿に住まわせるようなことはできないのです。神殿は祈りの場です。人々がそこで神様に祈る時に、神様がその祈りを聞いて下さるように、そしてその祈りに答えて下さるように、とソロモンは願い求めているのです。私たちが主の祈りを与えられているというのは、ある意味で、この神殿を与えられているのと似ています。主の祈りは、神様を私たちのところに引きずり降ろして思い通りにコントロールするためのものではありません。そんなことは出来ないのです。しかし、私たちがこの祈りを祈る時に、神様は私たちのまことの父として、その祈りに耳を傾け、私たちに必要なものを与えて下さる、そういう父と子の交わりを与えて下さるのです。「天にましますわれらの父よ」と祈りつつ生きる幸いを、この秋、深く味わい、かみしめていきたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年9月3日]

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