礼拝説教「神からの報い、人からの報い」詩編 第16編1〜11節 マタイによる福音書 第6章1〜4節 礼拝において、マタイによる福音書を読み進めてまいりまして、第6章に入りました。第5章から第7章にかけては、「山上の説教」と呼ばれる、主イエスの教えを集めた部分です。3章からなるこの説教の丁度真ん中のところに入ってきたわけです。長さの点からだけではなく、内容から言っても、この第6章は山上の説教の中心部分であると言うことができます。山上の説教は、非常にしっかりとした全体の構造を持っているということを前にも申しました。その構造を図にしたプリントを「聖書を学び祈る会」においてお配りしましたので、ご覧になりたい方は受付の棚にある「聖書研究プリント」のファイルからお取りいただきたいのですが、それを見ていただくとわかるように、山上の説教は、一番初めと一番終わりのところが対応しており、そのように外側から幾重にも枠が作られている「枠構造」になっています。タマネギのような構造だと思っていただけばよいでしょう。そしてそのタマネギを外側から剥いていって、一番中心にある部分、それが6章の1〜18節なのです。今私たちはその中心部分にさしかかってきたわけです。そしてついでに申しますと、この中心部分にもさらに枠構造があって、中心の中のさらに中心、タマネギの一番真中の芯の部分にあるのは、「主の祈り」なのです。山上の説教は「主の祈り」を中心として、その周りに様々な教えが、それを囲むように配置されている、そういう構造を持っているのです。 さてそのように、私たちは山上の説教の中心にさしかかってきたわけですが、この中心部分と、これまでに語られてきたこととのつながりをも意識しておく必要があります。山上の説教は、「あなたがたは幸いである」という主イエスの宣言によって始まりました。その幸いとは、「天の国」にあずかる幸いです。「天の国は近づいた」と言って主イエスは伝道を始められました。主イエスが来られたことによって、天の国が決定的に近づいたのです。あなたがたはその天の国にあずかる者だ、だからあなたがたは幸いだ、と主イエスは言われたのです。そして次には「地の塩、世の光」の教えがありました。天の国にあずかる幸いを与えられている者は、地の塩として、世の光としての働きをしていくのです。そのための塩味を失ってしまってはならないし、光を隠したり消してしまってはならないのです。その塩味や光とはどのようなものか、それが5章20節に語られています。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。「義」というのは言い換えれば「正しさ」です。天の国にあずかる者は、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる正しさ」を持たなければならないのです。それが私たちに求められている塩味であり光なのです。そして5章21節以下には、その「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」とはどのようなものかが、旧約聖書に示されている律法を引用しながら、「しかしわたしは言っておく」という仕方で、律法に教えられている義を超える、それを完成させる主イエスの教えとして語られてきました。その最後のクライマックスに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と教えられていたのです。これこそが、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義、天の国にあずかる者として私たちが持つべき塩味や光の中心なのです。5章はそういう流れを持って語られていたのです。 6章に入って、その流れは新しい展開を見せます。1節に、「見てもらおうとして,人の前で善行をしないように注意しなさい」とあります。この「善行」と訳されている言葉は、先程の「義」と同じ言葉です。「見てもらおうとして、人の前で義を行わないように」と言われているのです。つまり6章も、5章に続いて、私たちが天の国にあずかる者として持つべき義、正しさのことを語っているのです。しかし、5章においては、その義、正しさとはどのようなものか、という内容を問題にしていたのに対して、この6章では、その義、正しさを行う私たちの心、私たちがどのような思いでその義、正しい行いをするか、ということを問題にしているのです。 「見てもらおうとして,人の前で善行をしないように注意しなさい」。これが、この6章1〜18節の、山上の説教の中心部分のタイトルのようになっています。その善行、義なる行いの例として、施し、祈り、断食があげられていくのです。これらはみな、信仰にもとづく正しい行い、優れた善行として重んじられていました。主イエスによってもたらされる天の国にあずかる者たちにとっても、これらのことは大切にすべき正しい行いなのです。けれども、その正しいことも、どのような思いでするかによって、その意味が全く違ってきてしまうのです。それを「見てもらおうとして、人の前で」するのでは、せっかくの正しいことの意味が失われてしまうのです。 2節に、「偽善者たち」の姿が語られています。彼らは、施しをする時に、人からほめられようと会堂や街角で、自分の前でラッパを吹き鳴らしてするのです。「ラッパを吹き鳴らす」というのは、比喩的な表現と考えてよいでしょう。要するに、人々によくわかるように、ああ、あの人は貧しい人々に施しをしている、信仰深い立派な人だ、と人々が思うように、そういうお膳立ての中で施しをするのです。そうすることによって、自分のしている施しを、無言の内にも吹聴している、それが「自分の前でラッパを吹き鳴らす」ということの意味でしょう。それが、「見てもらおうとして、人の前で善行をする」人の姿なのです。あなたがたはそのようにするな、と主イエスは言われるのです。それではどのようにして施しをすればよいのか、それが3、4節です。「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」。「人目につかせない」という言葉は、「隠れたものとしておく」という意味です。施しは、人に見せるのではなく、隠れたものとしておけ、と主イエスは言われるのです。偽善者たちは、自分の施しの業を、できるだけ人々に見せようとする、人に知られ、ほめられようとする、それを吹聴しようとするのに対して、主イエスの弟子であり、天の国にあずかる者とされている私たちは、それを人に知らせずに隠しておくべきなのです。主イエスはそこで、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われました。そんなことは実際にはあり得ないのです。手は両方とも頭の指示に従って動くのですから、右の手と左の手が全く関係なくバラバラに行動するなんてことはあり得ません。しかしそのような誇張的な表現を使ってまで、自分のする施しを人に知らせるな、隠しておけ、と主イエスは言われるのです。 私たちは、この主イエスの教えにある面共感を覚えます。ここに偽善者と呼ばれている人々のような、わざと人が沢山いる所で施しをしたりして、自分のよい行いを吹聴するのは、私たちの感覚からしてもあまり誉められたことではありません。むしろ、いやらしい、鼻持ちならないことです。そんなふうにはなりたくない、と私たちも思うのです。よいことをする時にはもっとひかえめに、さりげなくするのがよいのだ、という感覚を私たちは持っているのです。それでは主イエスがここで言われたことは、そういう私たちの思いと同じことなのでしょうか。これ見よがしに善行をするのは、いやらしい、鼻持ちならないことだから、もっとひかえめに、さりげなくした方がいい、と主イエスは言っておられるのでしょうか。 私たちがこの偽善者たちのことを、いやらしい、鼻持ちならないと感じるのは、彼らがこれ見よがしに自分の施しを誇るからです。そういう人を私たちはかえって軽蔑します。そして、もっとひかえめに、目立たないところでさりげなくよい行い、親切をしている人の姿を見ると、私たちは、ああこの人こそ本当に立派な人だと思い、尊敬するのです。そして自分もこの人のようになりたいと思うのです。そこには私たちなりのある価値観が働いています。これ見よがしに善行をする人よりも、目立たないところでさりげなくそれをする人の方がより立派だ、という価値観です。そして自分もその人のようになりたい、ということは、自分がその人を見ているように、自分も人から、あの人は目立たない所で良いことをしている立派な人だ、謙遜な人だ、と見られたいということです。つまり私たちは、どういう生き方がより人々から誉められるか、尊敬されるか、ということを敏感に感じ取り、知っているのです。そしてより誉められる方の生き方を選ぼうとしているのです。ですからどうでしょうか。目立たない所で、ひかえめに善行を行う方がよいと私たちは思っているわけですが、その自分の善行、よい行いが、人に全然見えなかったり、気づかれなかったりすると私たちはどう思うでしょうか。例えば誰も見ていないところで、ある人に親切にしたとします。私たちはそのことを人に吹聴したりはしません。しかしその人が、「あの時あの人からこんな親切を受けた」と感謝し、それを周りの人々に語ってくれることを私たちは喜びます。逆に、そういう機会があるのに、相手が全然感謝もせず、私たちから受けた親切を人に言うでもなく、知らん顔をしたとすると、私たちは、「あいつは何なんだ。受けた親切を何とも思っていないのか」と腹を立てたりするのではないでしょうか。私たちは、自分のよい行い吹聴したりはしません。しかしそれが人々に知られ、「あの人は陰であんな良いことをしていたのか」と思われることを願っています。自分のした良いことが、誰にも全く知られず、誰からも少しも評価されなかったら、私たちはがっかりするのです。そういう私たちの思いというのは、見てもらおうとして人の前で善行をする人や、人からほめられようと会堂や街角で施しをし、自分の前でラッパを吹き鳴らす人と、いったいどれほど違っているのでしょうか。 主イエスが言っておられるのは、これ見よがしに善行をするよりも、目立たない所でひかえめにする方が評判がいいぞ、ということではないのです。主イエスは1節で、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と言われました。また4節にも、「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」とあります。主イエスが私たちに見つめさせようとしておられるのは、天の父からの報いです。天の父である神様からの報いは、見てもらおうとして、人の前でなされる善行に対しては与えられない、天の父は、隠れたことを見ておられるのだから、あなたがたの施しが隠れたものでなければ、天の父からの報いは得られないのだ、というのです。 主イエスがここで「報い」ということをはっきりと言っておられることに、私たちはある驚きを覚えます。よい行いをすれば、よい報いが与えられる、それは私たちが心の中でそうあって欲しいと望んでいることです。でも、それと同時に私たちは、報いを期待してよい行いをするなどというのは不純だ、本当のよい行いというのは、報いなど一切期待せずに、純粋な心で行われるものであるはずだ、とも思っているのではないでしょうか。だから、心の中では期待しつつも、よい行いの報いなどということはあまり口にしようとしないのです。ところが主イエスはここではっきりと、「報い」を語られます。報いを期待しつつよい行いをしてよいのだ、と言われるのです。しかし問題はその報いが誰から与えられるか、です。天の父から与えられる報いをこそ求めなさいと主イエスは言われるのです。2節には、会堂や街角で施しをするあの偽善者たちが、「既に報いを受けている」とあります。この報いは、天の父からの報いではありません。これは、人々からの賞賛、誉めてもらうこと、あの人は立派な人だと評価されること、つまり人から与えられる報いです。見てもらおうとして、人の前で善行を行い、自分の善行を吹聴する者たちは、人からの評価、誉れという報いを受けているのです。そしてそれは、先程考えたように、目立たないところでさりげなく良い行いをすることによって私たちが期待している報いでもあります。これ見よがしなあからさまな仕方ではなく、ひかえめに、目立たない仕方でよい行いをする方がよい、と私たちが思う時に、私たちが期待している報いは、やはり「人からの報い」、人から「あの人は目立たない所でこんな良いことをしていたのか」と誉めてもらうことなのです。そういう私たちと、ここに描かれている偽善者とどこが違うのか、と申しましたがそれは、「人からの報い」を期待しているという点で同じではないか、ということなのです。そして、そういう人からの報いを求めている人は、「既に報いを受けている」のです。この「既に受けている」という言葉は、「領収書を書いてしまった」という意味です。つまり、「もう十分お代はいただきました。これ以上は請求しません」ということです。人からの報いを求める者は、人からほめられること、あの人は立派な人だと思われることで、つまり人からの評価を受けることで満足なのです。もうそれ以上の報い、つまり、天の父なる神からの報いなどはいらないのです。人からの報い、評価こそが彼らにとっては全てなのです。 そのような生き方、つまり、人からの報い、人からの誉れをのみ求め、天の父なる神様からの報いを期待しない生き方をしている人のことを、主イエスは「偽善者」と呼びました。これは私たちが普通に考える「偽善者」という言葉の意味とは大分違うように思います。しかしこの偽善者と訳されている言葉のもともとの意味は、俳優、演技する人ということなのです。俳優は、舞台の上で、観客を前にして、様々な役柄になって演技するのです。それを客に見せるのです。観客がどう見てくれるか、自分の演技をどう評価してくれるか、が俳優にとっての勝負です。俳優というのはそのように、常に人の目を気にし、自分が人からどのように見られているかを気にしながら生きているのです。それが、偽善者の本質です。それは、俳優さんが偽善者だということではなくて、私たち一人一人が、そのようにいつも人の目を気にしながら、人が自分をどう見ているかを気にしながら生きている偽善者なのではないでしょうか。これ見よがしに人前で善行をしていようと、目立たない所でさりげなくしていようと、私たちが人の目を気にし、人から誉められることを願い、そういうことに左右されて生きているならば、私たちは人の前で自分を取り繕う偽善者となっているのです。 主イエスはそのような私たちに、天の父なる神様からの報いをこそ求めよと言われます。それは、私たちが、人の目を気にし、人からの評価を気にして人のことばかりを見ている、その目を、天の父なる神様の方へと向け変えなさいということです。周りの人々のことばかりをキョロキョロと見回している、その目を、上に、天に、神様の方へと向けなさいということです。そして、人から受ける評価,評判、それは良い評価であったり、悪い評価であったりするわけですが、それが最後決定的なものではない、天の父なる神様による評価こそが、私たちにとって決定的なものなのだということをわきまえなさいということです。天の父なる神様は私たちのことをどう評価なさるのか。私たちをどのように見つめておられるのか。天の父は、「隠れたことを見ておられる」方です。それは、私たちが人知れずしている良い行いを見ていてくださる、ということでもありますが、同時に、私たちが人には隠している様々な罪、悪いことをも神様はちゃんと見ておられる、ということにもなるでしょう。私たちの、良い所も悪い所も、天の父なる神様の前には全て知られているのです。その神様の前で私たちは、何をどう取り繕っても仕方がありません。私たちの偽善など神様の前では通用しないのです。その神様が私たちを評価なさる。私たちはその神様の評価にとうてい堪えるものではありません。けれどもその神様は、私たちのために独り子イエス・キリストを遣わしてくださり、主イエスを通して「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と語りかけて下さいました。「心の貧しい人々」というのは、自分の中に、神様に対して誇り得るどんな豊かさをも持っていない、神様の前で、無一物の乞食のような者のことです。神様の評価に堪えるようなどんな良いものも自分の中にはない、そういう者です。そのような者に主イエスは、「あなたがたは幸いだ。あなたがたは天の国にあずかる者だ」と言って下さったのです。そして、天の国にあずかる幸いな者として、地の塩、世の光として生きなさいと言って下さったのです。そして、あなたがたが持つべき塩味、光とはこのようなものだ、と教えて下さったのです。それが、私たちに対する神様の評価です。つまり神様は、私たちの良い所をも悪い所をも全て知った上で、その私たちを、天の国にあずかる者として選び、立て、遣わして下さったのです。この恵みは主イエス・キリストによって与えられているものです。神様の独り子であられる主イエスが、私たちのためにこの世に来て下さり、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、主イエスの父なる神様が私たちの天の父となって下さり、私たちを天の国にあずかる子どもとして下さったのです。天の父なる神様に目を向け、神様の評価こそ決定的なものであることをわきまえるとは、この神様の恵みのみ心をわきまえ、この恵みの中で父なる神様との交わりに生きることです。その時私たちは、人の目、人の評価を気にする偽善から解放されるのです。人からの報いではなく、天の父からの報いをこそ求めて生きる者となるのです。その報いは、いわゆる現世的ご利益ではありません。隠れた所で良いことをすれば、神様がそれに応じて幸福や平安を与えて下さる、ということではないのです。私たちに与えられる報いは、他ならぬ、天の父なる神様との交わりです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神様が私たちの罪を赦してくださり、何のとりえもない私たちを、天の国にあずかる者として選んで下さり、立てて下さり、遣わして下さった、その幸いの中で、父となって下さった神様と共に生きることこそが、私たちに与えられる報いなのです。この報いは、人からの誉れや評価を期待し、人からの報いを求めている間は得られません。しかし私たちが人から目を離し、主イエス・キリストの父なる神様を見つめていく時、そこには、私たちのよい行いによってではなく、神様の恵みによって既に与えられているすばらしい報いが見えてくるのです。「あなたがたは幸いである」という主イエスのみ声が響くのです。私たちはこの幸いを、自分のよい行いの報いとして獲得するのではありません。そのようなよい行いは何もないのに、主イエスにおける神様の恵みによって、既に大いなる恵みが与えられているのです。その恵みの中で私たちは、よい行いに励んでいくのです。そこにおいて私たちは、人の目、評価から自由になることができます。誰も見ていなくても、誰も自分のよい行いを評価し、誉めてはくれなくても、あるいはそれによって何かこの世での幸福を得るということはなくても、それでいいのです。私たちのために独り子イエス・キリストを遣わして下さった父なる神様が、その私たちの隠されたよい行いを見ていて下さり、それを喜んでいて下さるからです。「あなたは、天の国にあずかる幸いを知っているね。私があなたを選び、立て、遣わしたその心をわきまえていてくれるね。そして私が願う地の塩、世の光としての働きをしてくれているね」。そう神様が私たちに語りかけて下さるのです。神様とのそういう交わりが与えられている。それで私たちには十分なのです。
牧師 藤 掛 順 一 |