富山鹿島町教会


礼拝説教

「復讐は是か非か」
レビ記 第24章17〜22節
マタイによる福音書 第5章38〜42節

本日の説教の題を、「復讐は是か非か」としました。与えられている聖書の個所であるマタイによる福音書第5章38節以下には、「復讐してはならない」という小見出しがつけられています。そこで主イエスがお語りになったことは、「目には目を、歯には歯を」という復讐を認め教えている律法に対して、「悪人に手向かってはならない」という、復讐、仕返しをすることを戒める教えです。その教えにおいて、よく知られた「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」ということが語られているのです。これはまさしく、復讐、仕返しを一切禁じる教えです。そういう意味では、「復讐は是か非か」などという問いはあり得ない、主イエスの教えに従うなら、復讐は絶対に非であって、是ではあり得ないということになるのです。それにもかかわらず、敢えてここでは「復讐は是か非か」という題を掲げました。それは、主イエスのこのお言葉にもかかわらず、いや、このお言葉に聞き従うことの中で、なお、このように問うことが許されるし、またこのような問いがある必然性を持つと思うからです。

 先週、この富山に関係する一つのニュースがありました。戦争中、朝鮮半島から徴用あるいは誘われて富山の不二越の工場で働いていた三人の韓国人が、その賃金を受け取っていないこと、また、不二越へ行けば上級の学校に進めるという嘘の誘いによって連れて来られたことなどの謝罪と賠償を求めて起こしていたいわゆる「不二越訴訟」に和解が成立したのです。私はこの訴訟が提訴された時から、ほんの少しですが原告の支援をさせていただきました。三人の原告の内のお一人、高さんという男性の方は韓国の教会の牧師です。そういうこともあり、この教会でこの高先生を囲む集会をさせていただいたこともあります。裁判はなかなか願ったように行かず、原告側敗訴によって最高裁にまで持ち込まれていました。これはどうにもならないかなと思っていたところが、不二越が方針を変更して、過去の負の遺産を21世紀にまで持ち越すのではなく、今世紀中に和解することを決断したために和解の運びになったのです。この裁判や和解の内容についてここで詳しくお話しする暇はありません。しかし間単に言ってしまえばこれは、過去に受けた物理的精神的苦痛を認め、それに対する補償、償いと埋め合わせを求める訴えです。それはいわゆる復讐ということとは違いますが、自らが受けた苦痛と損害をそのままにせず、裁判という公的な手段によってその賠償を求めようということです。こういうことは、主イエスの教えにおいてはどうなるのでしょうか。先ほど申しました高先生は徴用されて不二越に連れて来られました。徴用という言葉は今日の日本ではもう死語になっていますが、国語辞典によればその意味は「非常の場合、国家が国民を強制的に集めて、一定の仕事につかせること」です。それはまさに本日の個所の41節で主イエスが言われたことなのです。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。ミリオンというのは距離の単位です。新共同訳聖書の後ろの付録の表を見ると、一ミリオンは1480メートルに当るとあります。その距離を行くことを強いる「誰か」とは官憲、国家です。国家が人やその持っている家畜をまさに徴用して、物を運ばせたりすることが考えられているのです。主イエスは、そのような権力を持つ者の強要に対して、「一緒に二ミリオン行きなさい」と言われました。それは、強制された働き以上のことをせよ、ということです。つまり、徴用されても、不満や怒りを抱くのではなくて、むしろ進んで協力せよ、命じられた以上の奉仕をせよ、と主イエスは言われたのです。そうだとすると、牧師である高先生は、このような訴訟を起こすことによって、主イエスのこの教えに背くことをしているのでしょうか。徴用されたことによって受けた苦痛や損害の補償を求めることは、主イエスの教えに反することなのでしょうか。

 このように言ってきますと、皆さんの中にはこう思われる方もいるのではないかと思います。主イエスがここで禁じている復讐というのは、個人的な恨みや怒りで個人的になされる復讐であって、公の裁判の場で損害の賠償、補償を求めることとは違うのではないか、ということです。確かに、たとえばこの原告の方々が、不二越に恨みを抱いて、夜中に忍び込んで何かを壊すとか、火をつけるとか、そんなことをしたなら、それはいわゆる復讐であり、そういうことを主イエスは固く戒めておられると言うことはできるでしょう。しかし、ここでよく考えてみなければならないのは、主イエスがこの教えを語られたのは、「目には目を、歯には歯を」という旧約聖書の律法の教えに対してであったということです。私たちは先ず、この律法の教えの意味を正しく知らなければなりません。本日共に読まれたレビ記24章17節以下にそれが語られています。特にその19、20節です。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」。私たちは今日の感覚からこの律法をずいぶん残酷な、野蛮な教えであるように感じますが、この教えが意味しているのは、私的な恨みでもって復讐をしてはならない、ということです。人から何か損害や苦しみを受けた、それに対して個人的な恨みや憎しみによって復讐していくならば、その復讐は決して「目には目、歯には歯」で止まるものではありません。目をつぶされた者は相手の命をもって復讐しようとする、歯を折られた者は相手の腕の一本も折ろうとする、それが人間の復讐の思いです。そしてそういう復讐を受けた者は逆にさらなる復讐をもって返す、子供の喧嘩によくあるように、一発ぶたれたら二発ぶち返す、すると相手は三発ぶち返す、そういうふうに復讐は復讐を生み、エスカレートしていくのです。それは人間の本性に根ざすことであると言わなければならないでしょう。私たちは、自分が人から受けた苦しみや損害にはまことに敏感であり、それを大きく感じるのに対して、自分が人に与えた苦しみや損害にはまことに鈍感であり、小さくしか感じないのです。だから、私的な恨みで復讐をしていったら、どこまでもエスカレートしていくことになるのです。「目には目を、歯には歯を」という掟は、そういう私的な復讐を禁じて、ちゃんと裁判において傷害の程度を認定し、それと同じだけの復讐をなせ、それ以上のことをしてはならない、ということです。ほうっておけばどこまでも膨れ上がっていく私的な復讐を、律法の与える秩序の下にコントロールしようとしているのです。そういう意味では、個人的な復讐はいけないけれども、公の裁判における損害賠償請求ならよいのではないか、というのは、実は「目には目を、歯には歯を」という律法が語っていることなのです。主イエスは、その律法に対して、「しかし、わたしは言っておく」とおっしゃって本日の教えを語られたのです。つまり、「私的な復讐はいけない、損害賠償はちゃんと裁判に訴えよ」ということだけなら、旧約聖書の律法で十分なのです。主イエスの教えはもっと私たちの内面に向けられています。人から損害や苦しみを受けたことに対して私たちがどのような思いを抱き、どう行動するか、主イエスの教えはその根本のところに関わっているのです。

 そのことを、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という教えにおいて考えたいと思います。これは単に、一発なぐられたらさらにもう一発なぐらせなさいという物理的暴力についての話ではないようです。相手の右の頬を打つというのはどうやったらできるか、ちょっと考えてみていただきたいと思います。右利きの人が相手の頬を打つ場合、普通にすれば相手の左の頬を打つことになります。敢えて右の頬を打つには、左手で打つか、それとも右手の掌ではなくて甲で払うように打つことになるのです。このような打ち方というのは、ユダヤ人たちの間で、特別に侮辱的な、軽蔑を込めた打ち方であると考えられていたようです。つまり問題は喧嘩の中での殴り合いではないのです。「だれかがあなたの右の頬を打つ」というのは、人から侮辱を加えられることです。馬鹿にされ、人間としての尊厳を否定されることです。それは単に殴られるということよりもよほど深い傷を受けることであり、場合によっては生きていく力を奪われてしまうようなことなのです。そのような苦しみ、侮辱、屈辱を人から受けた時に、「もう片方の頬をも向けよ」と主イエスは言われるのです。それは、その侮辱、屈辱を黙って受けなさいということです。それに対抗して身を守ったり、抗議したり、相手を攻撃したりするなというのです。

 次の40節についても考えてみたいと思います。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。「訴えて下着を取る」というのは、借金の差し押さえの訴えです。お金を借りている人は、それを返せないと、持っているものを差し押さえられるのです。貸した人が、返せないならこれをよこせと要求するのです。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者」がいるということは、その「あなた」はお金を借りている人です。下着を取ろうとする人は貸している人です。しかも「下着を」というのは、借りている人がとても貧しく、財産など持っていないことを示しています。その日暮らしの貧しい人が、わずかな金を借りて、返せないので下着を抵当に取られようとしている、ということです。主イエスはその人に「上着をも取らせなさい」と言われます。出エジプト記22章25、26節に、このような場合のことにふれた掟がありますので、そこを読んでみたいと思います。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」。ここに語られているのは、上着というのは貧しい人にとって寝具ともなるものなのだから、質に取っても日没までには返さなければいけない、ということです。つまり、どんなに貧しくて借金が返せない人であっても、夜を過ごすための上着まで取り上げてはならない、上着はその人が生きるための最低限の権利として保証されている、律法はそのように定めているのです。ところが主イエスは、「下着を取ろうとする者には上着をも取らせなさい」と言われます。それは、貧しい人に対して、認められている最低限の権利さえも放棄せよ、ということです。お金を貸している豊かな人が、貧しい人を苦しめ、わずかに残されたものすらも奪い取ろうとしている、その時に、貧しい人に、抵抗するな、されるままにせよ、と言っておられるのです。主イエスは弱い者、貧しい人の味方だということが一般的に言われますが、果たしてそうだろうか、と首をかしげざるを得ないようなことがここには言われているのです。

 41節の徴用については先程お話ししました。これも、権力を持った者が弱い一般の人々を無理やりに働かせることです。しかしそれに抵抗するな、そのことを受け入れ、命じられた以上の奉仕をせよと主イエスは言っておられるのです。

 これらのことを通して主イエスが語っておられるのは、人から受ける苦しみ、それは人格を否定されるような侮辱であったり、強い者によって弱い者がいじめられ、苦しめられることであったりするけれども、それらの苦しみを積極的に引き受けなさい、それに対して抵抗したり、対抗して相手を攻撃したりしてはならない、ということなのです。いや、ただ抵抗するな、対抗するなということだけではありません。「左の頬をも向けなさい」「上着をも与えなさい」「一緒に二ミリオン行きなさい」ということに示されているのは、そのように自分を苦しめる相手に対して、むしろ愛をもって臨めということです。苦しみを忍耐するだけでなく、苦しめている相手を愛することを主イエスは求めておられるのです。そのことは、次の43節以下の、所謂「敵を愛しなさい」という教えにつながっていきます。本日の、「復讐をするな」という教えが消極的な仕方で語っていることを、「敵を愛しなさい」という教えは積極的な仕方で語っていくのです。

 主イエスの教えの内容はこのように、とてつもないことです。とんでもないことと言ってもよいかもしれません。もしもこれをこの通りにこの世の中で実行していったらどうなるか、悪人は大喜びです。誰も自分に抵抗する者はいなくなるのです。強い者は弱い者をいくら苦しめても何の抵抗も受けなくなります。国家権力は大喜びです。徴兵制を始めとして、国民にどんなひどいことを強制しても、抵抗する者はいなくなるのです。それが私たちをとりまくこの世の現実です。主イエスは、そういうこの世の現実を無視してこの教えを語られたのでしょうか。そうだとすればそれははなはだ無責任な話になります。自分の教えがこの世の現実の中でどういう結果をもたらすかをわきまえていない教えというのは無責任な教えなのです。もしもこのことを語ったのが私たちだったとしたら、それはまさに無責任な、とんでもない教えということになるでしょう。しかし、主イエスは無責任な方ではありません。主イエスはこの世の、私たちの現実から目を逸らして単なる理想や教条的な教えを語られる方ではないのです。それでは主イエスはこの世の現実の中に何を見つめつつこの教えを語られたのでしょうか。それは、「天の国は近づいた」ということです。主イエスはこのことを宣べ伝えておられたのです。天の国、それは神様のご支配ということです。神様のご支配が、この世の現実の中に、今や打ち立てられようとしている、そのことを見つめつつ主イエスはこの教えを語っておられるのです。

 天の国、神様のご支配はどのようにしてこの世に打ち立てられるのでしょうか。それは、主イエス・キリストのみ業とみ言葉、そして何よりもそのご生涯の最後の十字架の死と復活によってです。主イエスはここでお語りになったことをそのまま実行して歩まれました。悪人に手向かうことをせず、ご自分を侮辱し苦しめる者たちに抵抗することなく、その侮辱と苦しみを受け入れられました。神の独り子であられた主イエスが、神としての権利や力をすべて放棄して、人間となり、しかも最も貧しく弱い者として歩み、最後には罪人として死刑に処せられてしまう、そういう道を歩まれたのです。それは、下着を取ろうとする者に上着をも取らせるような歩みです。また私たちは、神様の独り子である救い主が共にいて下さり、私たちを守り助けて下さることを期待しています。しかし主イエスはそれ以上のことを、私たちの罪を背負って身代わりになって十字架にかかって死んで下さるということまでもして下さいました。一ミリオン行くように強いられた者が進んで二ミリオン行くのと同じことを主イエスは私たちのためにして下さったのです。これらの主イエスのみ業、歩みによって、天の国、神様のご支配がこの世に打ち立てられたのです。つまり、主イエスがここで私たちに教えておられることは、主イエスご自身が、天の国、神様のご支配をこの世に打ち立てるために歩まれる、その道に他ならないのです。言い換えるならば、神様がこの世に、どのようなご支配を確立しようとしておられるのか、それがここに語られているのです。それは、悪に対して復讐、報復をもって対抗するのではなく、むしろ侮辱や苦しみを引き受け、自らの当然の権利をも放棄して、罪人の救いのために十字架の苦しみをも背負っていく、そういう徹底的な愛によるご支配です。そして、その神様のご支配を信じ受け入れ、その神様の民として生きる者、即ち信仰者がどう生きるべきか、がここには教えられているのです。

 一切の復讐を禁じるこの主イエスの教えは、このように、主イエスによって確立する天の国、神様のご支配と分かち難く結びついています。復讐からの、つまり憎しみからの解放は、主イエスによってもたらされる天の国、神様のご支配の下でこそ現実となるのです。その天の国、神様のご支配は、主イエスによって既にこの世にもたらされました。主イエスの十字架の死と復活において、それは確かにこの世の現実として確立しているのです。けれども、同時に言えることは、そのご支配は今はまだ、目に見えるものとはなっていない、ということです。主イエス・キリストは確かに私たちのために、すべての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。そして死の力に勝利して復活なさいました。しかしその主イエスは天に昇り、今私たちの前に目に見える姿ではおられません。私たちに今働いていてくださるのは、父なる神様と主イエスのもとから遣わされる聖霊です。聖霊の働きによって私たちは信仰を与えられ、目に見えない主イエスを、父なる神様を信じ、目に見えないそのご支配を信じて歩むのです。信仰とはそのように、目に見えない神様を信じて、目に見えないそのご支配の下で忍耐しつつ生きることです。しかし神様のご支配はいつまでも見えないままなのではありません。天に昇られた主イエスが、そこからもう一度この世に来られる日が来る。その時、この世は終わり、天の国、神様のご支配が目に見える仕方で完成するのです。私たちはその日を待ち望みつつ、今は信仰によって、見えない神様の隠されたご支配を信じて生きているのです。それゆえに、主イエスがもう一度来られる日以前のこの世界を生きる私たちの信仰の生活には、「すでに」と「いまだ」という両面があります。神様のご支配は主イエスによって「すでに」実現しているが、それは「いまだ」隠されているのです。私たちは、信仰によってこの世界を生きる上で、この二つの面を区別する必要があります。一切の復讐を禁じるこの教えは、主イエスによってすでに実現している神様のご支配の下でこそ意味を持ち、生きるものなのです。しかしそれを、いまだそのご支配が隠されているこの世の現実の中に、一つの掟や決まりとして持ち込もうとすると、そこには問題が生じます。それは先程申しましたように、この世の現実に対して無責任な生き方にもなってしまうのです。具体的に言うならば、私たちはこの世の生活において、悪人の悪を抑制し、その犠牲になる人ができるだけ少なくなるようにしなければなりません。そのためには、警察が必要だし、裁判の制度が必要なのです。そこにおいて、「悪人に手向かってはならない」というこのみ言葉をそのまま適用するわけにはいかないのです。また私たちは、この世の現実において、強い者が弱い者を苦しめ、搾取するということがあるのを見つめなければなりません。そして、そういうことを防ぎ、弱い者の権利を守るための手立てを整えなければなりません。貧しい者が上着まで取られることのないようにしなければならないのです。また、最初に申しました徴用の問題などにおいて、人々が受けた苦痛が償われ、損害が賠償されることを求めていくことは、むしろ大切なこと、必要なことなのです。主イエスによる神様のご支配がいまだ隠されてるこの世界においては、「目には目を、歯には歯を」という律法がなお大切な働きをします。そのことを私たちは見失ってはなりません。しかし私たちは同時に、主イエス・キリストによる神様の徹底的な愛のご支配の下にすでに生かされています。主イエスが私たちのために、神の子としての権利を捨てて人となり、苦しみ、侮辱を進んで引き受け、十字架の死に至る道を歩んで下さったことによって、神様の愛のご支配が私たちの上に確立しているのです。それゆえに私たちは、復讐や憎しみの思いから解放されて新しく生きることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年7月16日]

メッセージ へもどる。