富山鹿島町教会


礼拝説教

「怒りと和解」
詩編 第103編1〜13節
マタイによる福音書 第5章21〜26節

礼拝において、マタイによる福音書を読み進めておりまして、今その5〜7章の、「山上の説教」と呼ばれる、主イエスの教えを読んでいます。本日は5章21節以下を読むのですが、ここは、その前の所、先々週の礼拝、5月21日に読んだ17節から20節までのところと密接に結びついています。主イエスは17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。また20節では、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。律法とは、神様が旧約聖書において、イスラエルの民に与えられた掟、戒めです。主イエスはその律法を完成させる、主イエスを信じ、従っていく信仰者はその完成された律法を行っていくのです。律法学者やファリサイ派の人々は旧約聖書の律法の専門家でしたが、主イエスを信じる者は、主イエスによって完成された律法を行って生きるがゆえに、彼らより以上の義、正しさに生きるのです。主イエスは旧約聖書の律法をどのように完成させるのでしょうか。律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とはどのようなものなのでしょうか。そのことが、本日の21節以下に語られていくのです。

21節から22節かけては、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく」というふうに語られています。「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」という言葉は、旧約聖書の律法の言葉です。「殺してはならない」は律法の中心である十戒の第六の戒めです。「人を殺した者は裁きを受ける」という言葉は十戒ににはありませんが、律法にはそういう内容が定められています。つまりこの「昔の人に命じられていること」は旧約聖書の律法の教えなのです。それを示した上で主イエスは、「しかし、わたしは言っておく」とおっしゃって、ご自身の教えを語っていかれます。ここに、律法を完成する主イエスの教えが語られていくのです。律法学者やファリサイ派の人々にまさる義に生きるとはどういうことかが、この「しかし、わたしは言っておく」以下に語られているのです。そして、このような語り方がこの後、5章の終わりまで繰り返されていきます。「〜と命じられている。しかしわたしは言っておく」という形で、律法の教えが引用されては、それを完成する主イエスの教えが語られていくのです。そういう意味で、この5章21節から48節までは一つのまとまった部分なのです。

さて、そのような、山上の説教における教えの流れを確認した上で、本日の箇所に入っていきたいと思います。今読みましたようにここには、「殺すな」という律法の教えがとりあげられています。人を殺してはならない、それは、旧約聖書の律法の専売特許というわけではない、およそどの宗教においても語られることです。いや宗教的背景を持たない道徳においても、それは基本的な常識とされることです。誰にでもわかる、最も常識的な教え、戒めを主イエスはまず取り上げられたのです。主イエスはこの教えをどのように「完成」なさるのでしょうか。

人を殺してはならないという教えは常識だと申しましたが、しかし最近はこの常識も崩れ去ってきていると思わずにはいられません。つい先ごろも、「人を殺す経験をしてみたかった、相手は誰でもよかった」という殺人が、17歳の少年によって行われました。人を殺すというとんでもないことが、「やってみたい経験」の一つになってしまい、そしてそれが実際に実行されてしまう。それは、「人を殺してはならない、人の命は尊重しなければならない」という一番基本的な道徳律が、もはや力を持っていない、歯止めになっていない、ということを物語っています。私たちはこのことに唖然とするのですが、しかしこのことは、実は今に始まったことではなくて、「殺すな」という戒めがあっても、殺人はずっと行われ続けてきたのです。つまり、「殺すな」という戒めは、あるいは「人を殺した者は裁きを受ける」という刑法の罰則規定は、殺人をなくす力を持ってはいなかったわけです。今日そのことが、よりはっきりと表れて来たということです。だからこそ主イエスはこの律法の戒めを完成しようとなさるのです。

主イエスはこの律法の教えを完成させるために、何を語られたのでしょうか。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。主イエスがここで問題にしておられるのは、兄弟に対して腹を立てること、「ばか」と言うこと、「愚か者」と言うことです。人を殺す者が裁きを受けるだけではなく、これらの者たちも裁きを受けるのだ、と主イエスは言われたのです。「兄弟に腹を立てる」、それは心の中でこの野郎と思うことです。怒りや憎しみの思いを持つことです。「ばか」と言う、それはそのような思いを、心の中で抱いているだけでなく、言葉として表すことです。「ばか」と言うことと「愚か者」と言うこととは日本語ではあまり違わないように思えますが、「愚か者」と訳されている言葉の方が意味はより深刻です。この言葉はしばしば、神様との関係において愚かである、神様との関係が適切でないという意味で使われます。つまり「愚か者」と言うというのは、「おまえは神様に背いている、呪われるべき者だ」と言うことなのです。そのように、ここに並べられている三つのことは、兄弟に対する怒りや憎しみにおいて次第に深く強くなっていると言うことができます。そしてそれにつれて、その者に与えられる裁きも深まっていくのです。兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける、それは言わば地方裁判所の裁きです。「ばか」と言う者は最高法院に引き渡される、それはエルサレムにあった上級裁判所です。そして「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる、それは、神様の裁きを受け、罰せられるということです。そのように、憎しみ、怒りの深まりと共に、与えられる裁き、罰も深まっていくのです。このことによって主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。腹を立てるぐらいならまだ軽い裁きですむが、「愚か者」と言うような、神様の前で人を呪うようなことをしたら厳しい裁きにあうぞ、ということでしょうか。そうではないと思います。主イエスは、怒り、憎しみにそういう段階を設けて、このくらいまでなら神様のお怒りもまだ大したものではないだろう、などと考えさせるためにこのようなことを言われたのではないのです。主イエスがおっしゃっているのは、兄弟に腹を立てることと「愚か者」と言うこととの間に本質的な違いはない、それらはすべて神様の裁きの対象であり、地獄の火に投げ込まれることにつながるようなことなのだ、ということです。そしてこのことを主イエスは、「殺すな」という戒めを完成するご自分の教えとして語っておられるのです。つまり主イエスは、「殺すな」という戒めを、兄弟に対して腹を立てる、その怒りや憎しみに対する戒めによって完成しようとしておられるのです。

このことをもっとはっきりと言えば、兄弟に腹を立てること、悪口を言ったり、呪ったりすることは、人を殺すことと同じだ、ということです。「殺すな」というのが、旧約聖書以来の律法ですが、主イエスは、人に腹を立てること、悪口を言うこともそこに含めて、それを禁止なさったのです。それが主イエスによる律法の完成であり、主イエスを信じる者たちは、律法学者やファリサイ派の人々にまさるこのような義に生きるのです。律法学者やファリサイ派の人々は、律法に書かれていることを守ることに熱心でした。律法に「殺すな」とあったら、人を殺さないことによってそれを守ろうとしていました。しかし主イエスはご自分の弟子たち、信仰者たちに、それ以上のことを求められたのです。人を殺さないというだけではなくて、心の中で腹を立てたり、それを口に出したりすることすらも、殺すことと同じく禁じられたのです。

この教えを読む時に、私たちは途方にくれる思いを抱くのではないでしょうか。「人を殺すな」という戒めならば、私たちも何とか守っている。「あいつ殺してやりたい」なんて思うことも時としてあるけれども、それはそう思うだけで、実際に殺したりはしない、それが普通です。殺してやりたいと思うことと、実際に人を殺すこととの間にはものすごく大きな隔たりがあるのです。そういう意味で、人を殺す経験がしてみたいという思いから実際の殺人に即つながってしまうというのは、ものすごい短絡だと思うのです。それがごく普通の人間の感覚でしょう。けれども、主イエスのこの教えにおいては、「あいつ殺してやりたい」と心の中で思うことが既に実際に人を殺すことと同じだと言うのですから、そうなったら、私たちは皆、日々殺人の罪を犯していると言わなければならないでしょう。クリスチャンになったら人に腹を立てることすらも許されないのか、そんなことでは、息が詰まってとてもやっていられない、と思うのが、ここを読む人の普通の感覚だろうと思うのです。

このとまどい、途方にくれるような思いを抱きつつ、先ずはなお先を読んでいきたいと思います。23節以下には、さらに二つの教えが語られています。祭壇に供え物を献げようとする時に、兄弟が自分に反感を持っていることを思い出したなら、まずその兄弟と仲直りし、それから供え物を献げなさいという教えと、自分を訴える人と一緒に、その裁判の場への道を行くなら、途中で和解しなさいという教えです。この二つの教えは、「仲直りせよ」「和解せよ」という点で共通しています。同じことを語っていると言ってよいでしょう。自分に反感を持っている人、自分を訴えようとする思いを持っている人と、和解しなさいという教えです。しかも、「祭壇に供え物を献げる」というのは、神様を礼拝することです。信仰において何よりも大事なのがこの礼拝のはずです。その礼拝を後回しにしても、先ず兄弟と和解、仲直りしなさいと教えられているのです。このことが、兄弟に腹を立てることも殺すことと同じだという教えに続いて語られています。ということは、主イエスがここで私たちに求めておられることは、人に対して腹を立てないということであると同時に、人と和解すること、仲直りすることでもあるのです。

ここに、本日の教えのとても大事なポイントがあります。「殺すな」という教えも、「腹を立てるな」という教えも、共に「〜するな」という消極的な教えです。何かを禁止する「戒め」です。しかし主イエスの教えは、消極的な戒めに留まるものではないのです。主イエスの教えはもっと積極的な、「和解せよ」という命令なのです。ここに至って私たちは、主イエスが、「殺すな」という律法をどのように完成しようとしておられるのか、その方向を見いだすのです。主イエスは、「殺すな」という戒めの「殺す」という言葉の意味を「腹を立てる」ことにまで広げ、従ってより厳しい、より広範囲な禁止命令を下す、という仕方で律法を完成しようとしておられるのではないのです。主イエスによる律法の完成は、「〜してはならない」という禁止の命令を、「〜せよ」という積極的な命令へと転換することによってなされているのです。ここについて言えば、「殺すな」という禁止を「和解せよ」という命令に転換させておられるのです。その転換を導きだすために、腹を立てること、怒りの思いも人を殺すことと同じだ、ということが語られているのです。人を殺すことは、人に対する敵意、怒り、憎しみの思いから生じます。「人を殺す経験をしてみたかった、相手は誰でもよかった」というあの少年の心の中にも、特定のある人にではないけれども、人に対する、あるいはこの社会に対する、漠然とした怒り、憎しみがあったと言えるでしょう。その憎しみ、怒りという根本的な所が解消され、そこに和解、仲直りが与えられなければ、「人を殺す」という問題は解決しないのです。

「和解しなさい、仲直りしなさい」と主イエスは語っておられます。それは、自分に反感を持っている兄弟と、あるいは自分を訴えようとしている人と、つまり人間どうしの間の和解です。しかし、あなたを訴える人と和解しないでいるとどうなるか、牢に入れられ、最後の1クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない、と言われる時、そこで意識されているのは、人間の裁判と言うよりも、むしろ神様の審きです。人間との和解、仲直りが出来るかどうかが、神様との関係に関わっているのです。祭壇に供え物をしようとして、兄弟が自分に反感を持っているにを思い出したなら、という教えも、兄弟と和解することを神様への礼拝に先立ってなすべきこととしているわけですが、それは、このことが神様を正しく礼拝するために必要だからです。つまり、神様との関係を正しく保つために、兄弟との和解が必要だと言っているのです。そのように、人との和解はただ人との関係をよくすることではなくて、神様との関係を整えることでもあるのです。主イエスは、そのような和解を私たちに教え、求めておられるのです。

この主イエスの教え、求めは、果して私たちをとまどわせ、途方にくれさせるものでしかないのでしょうか。こんなことを求められるのでは、とても窮屈でクリスチャンなどやっていられない、と思うようなこれは求めなのでしょうか。主イエス・キリストは、私たちに和解の恵みを与えるためにこの世に来て下さいました。私たちと神様とを和解させるために、神様の独り子が人間となって来て下さったのです。私たちと神様との間には、私たちの反感、敵意、即ち罪という壁があり、それが関係を妨げています。主イエスは、その反感、敵意、罪をご自分の身に引き受け、十字架にかかって死んで下さいました。私たちの反感、敵意、罪によって主イエスは殺されたのです。私たちの罪を怒り、それを審き、私たちを滅ぼす力と権利と正しさを持っておられる神様が、このことによって私たちに和解の手を差し伸べて下さったのです。私たちはこの恵みによって神様との和解を与えられています。それが、主イエス・キリストによる救いなのです。主イエスはその救いにあずかっている私たちに、兄弟と和解しなさいとお命じになります。それは、私たちを途方にくれさせるような無理難題ではないのです。あるいは私たちを息の詰まる窮屈な生活に閉じ込めようとすることではないのです。主イエスが私たちとの和解のために、私たちの反感や敵意を受けとめて十字架にかかって死んで下さった、その与えられた恵みに応えて、私たちも自分に反感、敵意を持つ兄弟との和解に生きようということです。それは、そうしなければ救われないという掟や戒めではなくて、むしろ私たちは主イエスによって、そのように生きることができる者とされている、そういう自由を与えられている、ということです。主イエスが律法を完成するというのは、そのようなことなのです。「〜してはならない」という禁止から「〜しなさい」という積極的な命令への転換ということを先程申しました。しかしそれだけでは、律法を完成することにはなりません。主イエスは、「兄弟と和解しなさい」という命令を、ただ命令として与えるだけではなくて、まずご自分の命を捨てて、私たちと和解して下さったのです。私たちはこの主イエスの恵みの中で生かされることによって、自分から積極的に、兄弟と和解していく者となることができるのです。そこに、律法学者やファリサイ派の人々にまさる私たちの義が実現していくのです。

先々週、17〜20節についての説教の最後に、このように申しました。「私たち信仰者は、地の塩、世の光として、よい行いに励むのです。十戒をかみしめ、その指針に従って歩むのです。しかしそれは、その私たちのよい行いによって救いを得るためではありません。私たちがよい行いに励むのは、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた、罪の赦しと死への勝利の恵み、その神様からの義にあずかり、父なる神様の子として生きることを許された者として、その恵みに応えて生きるためです。つまり自分の義を立てるのではなく、神様の義によって生かされて歩むのです。そこには、律法を掟として、戒めとして守っていくより以上の、豊かな、そして自由な人生が開かれていくのです。その豊かさと自由が、この後の21節以下に、具体的に語られていくのです」。私たちの義、正しさによるのではなく、神様の義によって生かされて歩む、そこに与えられる豊かさと自由、それはまず第一に、兄弟と和解する、という豊かさ、自由なのです。

兄弟と和解する、それこそ、「殺すな」という律法の完成です。私たちはそのことを、主イエス・キリストが与えて下さった和解の恵みの中で行ないます。主イエスは、私たちの神様への反感、敵意、即ち罪をご自分の身に受け止め、それによって傷つき、死んで下さいました。正しい方、罪のない方である主イエスが、そのように苦しみと死とを引き受けることによって和解を実現して下さったのです。私たちが兄弟と和解していく時にも、それと同じことが必要だということでしょう。和解が必要であるような敵対関係は、私たちが、自分の正しさを主張し、それを押し通そうとするところに起こるのです。私たちが人に対して腹を立てるのは、相手が間違っていると思うからです。「ばか」とか「愚か者」と言うのは、自分は正しいのに相手がわからずやだと思うからです。そのような思いによって私たちは、人を殺すようなことをしてしまうのです。しかし主イエス・キリストは、正しい者が罪人から苦しみを受け、殺される、そのことを通して、罪人である私たちとの和解の道を開いて下さいました。私たちが兄弟との和解に生きるための道も、そこにこそあるのです。私たちの人生は、「あなたを訴える人と一緒に道を行く」、そういう道行きです。その人生を、兄弟に腹を立てつつ、人をののしりつつ生きるか、それとも和解のために生きるか。主イエスは私たちに、和解のための道を備えていて下さるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年6月4日]

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