富山鹿島町教会


礼拝説教

「憐れみ深い人は幸いである」
詩編 第89編1〜53節
マタイによる福音書 第5章7節

「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」と主イエス・キリストはおっしゃいました。主イエスがお示しになった八つの幸いの内の、第五の幸いです。この第五の、憐れみ深い人の幸いは、私たちも既に知っている、その通りだとわかる、と思うのではないでしょうか。日本の諺にも「情けは人のためならず」というのがあります。人に情けをかける、親切に、憐れみ深くすることは、決してただその人のためというだけではない、その親切、憐れみは廻り廻って自分のところに帰ってくる、人に親切にすることは、結局は自分のためにもなるのだ、という意味です。「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という教えを私たちはこの諺のように受け止め、「確かにその通りだ。私たちもそのことは知っている」と思っているのではないでしょうか。そのことを間違いだと否定する必要はないでしょう。しかし問題は、「憐れみ深い」ということの意味、内容です。主イエスは「憐れみ深い」という言葉によって、どのようなことを思い描いておられるのでしょうか。私たちが憐れみ深い者として生きるとは、どのように、何をして生きることなのでしょうか。「情けは人のためならず」という諺における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は果して同じなのでしょうか。

憐れみ深い者として生きる、ということにおいて、主イエスが私たちに求めておられることは何か。それを考える上で避けて通ることのできない箇所があります。それは同じマタイ福音書の25章31節以下です。少し長いですがそこを読んでみたいと思います。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」。この話に、主イエスが「憐れみ深い」ということで私たちに何を求めておられるのかが示されています。それは、飢えている者に食べさせ、のどが渇いている者に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の者に着せ、病気の者を見舞い、牢にいる者を訪ねること、しかもそれを、自分の周りの最も小さい者の一人に対してすることです。このように生きる者こそが、主イエスの言われる「憐れみ深い人々」なのです。この話は私たちに、いくつかの大事なことを教えています。一つは、憐れみ深い者として生きるためには具体的な行動が必要だということです。ただ「同情する、かわいそうに思う」だけでは「憐れみ深い者」とは言えません。そこには、具体的な憐れみの行為が求められるのです。もう一つは、その憐れみの行為を誰に対してするか、です。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」に対してそれをせよと主イエスは言われるのです。私たちの周りにいる最も小さい者、それは私たちが見過ごしにしてしまいがちな、自分には関係がないと思ってしまいがちな目立たない存在です。そういう人を主イエスは「わたしの兄弟」と呼び、その人に対してしたことが即ち私自身に対してしたことなのだと言われるのです。ですから私たちは、自分の周りの、その最も小さい者たちを見出さなければなりません。その存在に気づかなければなりません。「憐れみ深い人」というのは、自分の周囲にいる、自分が助けるべき小さな人々に気づくことができる感性を持った者です。しかしこの話が示しているように、私たちはしばしばそれに気づかない、鈍感な者です。憐れみ深い者であろうと思っていても、自分の目の前にいる、自分が助けるべき隣人に気づかないで見過ごしにしてしまう、ということがいかに多いことでしょうか。憐れみ深い人というのは、隣人を見出し、隣人となることができる人なのです。

そこで思い起されるのは、ルカによる福音書第10章25節以下の、あの「善いサマリア人」の話です。強盗に襲われて倒れている人を見た時、祭司やレビ人は、道の反対側を通って行ってしまった、見て見ぬふりをしたのです。しかしユダヤ人と敵対しているはずの一人のサマリア人が、彼を介抱し、宿に連れて行き、その代金を払ってやった、つまりあのサマリア人こそ、隣人を見出し、隣人となった、憐れみ深い人なのです。主イエスがこのたとえ話で教えておられる大事なことの一つは、本当に隣人を見出し、隣人になるとは、敵意、敵対関係を乗り越えることだ、ということです。私たちが見出すべき隣人、自分の周囲にいる最も小さい者というのは、私たちに敵対し、苦しめている者でもあるのです。あいつは気にくわない、いつも自分に意地悪をしている、だからあんなやつには憐れみ深くある必要はない、あいつが苦しむならむしろいい気味だ、という思いに生きている者は憐れみ深い者ではないのです。最も小さい者の一人に、というのはそういう意味でもあるのです。その相手が小さくて目立たないのは、彼が自分に敵対している者だからです。あいつは憐れみの対象などにはならないし、する必要もない、と私たちが思っている、まさにそこに、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」がいるのです。 主イエスが私たちに求めておられる「憐れみ」とはこのようなものです。とすればそれは、山上の説教の少し後のところ、5章43節以下に語られている「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えと共通するということができるでしょう。「憐れみ深い者」とは、敵をも愛する人です。つまり、自分に加えられた罪を赦すことができる人です。自分をいじめ、迫害する者をも赦すということなくして、憐れみ深い者であることはできないのです。

このように、主イエスが教えられた「憐れみ」の内容を見つめていく時、私たちは、自分がその憐れみからいかに遠い者であるかということを思い知らされるのです。「情けは人のためならず」という諺で言われている「情け」をはるかに越えたものを主イエスは私たちに求めておられるのです。この要求の前に私たちは、立ちすくむしかない、自分はこの幸いからはるかに遠いと言わざるを得ないのです。そしてそのように私たちが、自分がこの幸いからはるかに遠い者であることを知る時、私たちは初めて、この教えの前に本当に立つことができるのです。「情けは人のためならず」と同じようにこれを受け止め、その通りだ、私たちもこのことは知っている、と思っている間は、私たちはこの教えを本当に聞くことができません。ここに並べられている「幸いの教え」はどれも、私たちがもともと知っている、あるいは求めている幸いとは違うことを教えています。主イエスはこれらの教えによって、私たちがもともと持っていない、求めてもいない、新しい、そして本当の幸いを私たちに与えようとしておられます。私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられるのです。「憐れみ深い人々は幸いである」という教えもその一つです。私たちはこの幸いを持っていない、そのことに気づくことが、この教えを正しく聞くための第一歩なのです。

主イエスは私たちの生活の中に、この幸いを造り出して下さる、つまり私たちを憐れみ深い者として下さるのです。憐れみ深い人の幸いとは何でしょうか。「その人たちは憐れみを受ける」。憐れみ深い人の幸いは、憐れみを受けることです。それは、人に親切にしておけば、そのうち人も自分に親切にしてくれる、ということではありません。この憐れみは人からのものではなくて、神様の憐れみなのです。神様の憐れみを受ける、それが、憐れみ深い人の幸いです。それでは、神様の憐れみとはどのようなものであり、どのようにして私たちに与えられるのでしょうか。

本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第89編に注目したいと思います。ここに、神様の憐れみとはどのようなものであるかが示されているのです。注目すべき言葉は、2節の冒頭にある「主の慈しみ」です。この「慈しみ」が「憐れみ」と訳すこともできる、旧約聖書において憐れみを表す代表的な言葉です。この詩はその主の慈しみを見つめ、歌っています。この詩が歌っている主の慈しみとはどのようなものでしょうか。4、5節に、「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」とあります。主の慈しみはここに示されています。そのことが、20節以下に詳しく語られているのです。そこには、主がダビデを選び、イスラエルの王としてお立てになったことが語られています。25節には「わたしの真実と慈しみは彼と共にあり、わたしの名によって彼の角は高く上がる」とあります。29節にも「とこしえの慈しみを彼に約束し、わたしの契約を彼に対して確かに守る」とあります。主の慈しみは、ダビデと契約を結び、それをどこまでも守って下さることなのです。31〜33節には、ダビデの子孫である王たちが、主なる神様の教えを捨て、その戒めを守らない、つまり主がダビデと結んで下さった契約を破るならば、彼らに災いを下すということが語られています。しかし34、5節「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」。これが主の慈しみです。つまりそれは、主なる神様が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間たちがその契約に忠実でなく、神様を裏切るようなことがあっても、怒りはするし罰を与えることはあるが、しかしその契約を破棄することなく、どこまでもそれに忠実であって下さるということなのです。この慈しみは、人間の側から言うならば憐れみです。人間は、神様の恵みにもかかわらず、約束を破り、神様を裏切り、不真実の罪を犯します。神様がお怒りになり、もうこのような者を自分の民とすることはやめた、と契約を破棄し、捨てられてしまっても仕方がないのです。しかしそのような罪人である私たちを神様は憐れんで下さり、赦して下さり、見捨てることなく、忍耐して下さるのです。私たちは、神様の独り子、主イエス・キリストによって、この神様の慈しみ、憐れみをいただいています。主イエス・キリストは、神様の恵みによって生かされていながら、いつも自分の思いを第一として神様に背き、そのために憐れみ深くあることができない私たちのために、その私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。主イエスが、私たちの身代わりになって、罪に対する父なる神様の怒りと裁きを引き受けて下さったのです。その主イエスの十字架の死によって、神様は私たちと新しい契約を結んで下さいました。その契約において、私たちは罪を赦され、神様の恵みの下に生きる新しい命を与えられたのです。それは神様の深い憐れみによることです。神様は私たちへの憐れみのゆえに、ご自身の独り子の命をも与えて下さったのです。私たちは、神様のこのような憐れみを受けています。「その人たちは憐れみを受ける」という幸いを、私たちは主イエス・キリストによる新しい契約の恵みにおいて既に与えられているのです。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからはほど遠い者ですが、その私たちが、既にこのような憐れみを受けているのです。

従って、この7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神様の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではないのです。私たちは、憐れみ深い者となることによって憐れみを受けるのではありません。そういう順序ではないのです。私たちは神様の憐れみを既にいただいているのです。それゆえに、憐れみ深い者となることができるのです。そのために努力することができるのです。主イエスはそのことを、この福音書の18章でお教えになっています。18章21節以下の、「仲間を赦さない家来のたとえ」です。ある王が、自分に一万タラントンの借金のある家来を、憐れに思って赦してやったのです。借金を帳消しにしてやったのです。一万タラントンというのは、いわゆる天文学的数字です。一生かかっても絶対に返すことのできない額です。それほどの借金を赦してもらったその家来が、その直後、自分に百デナリオンの借金のある仲間と出会います。百デナリオンというのは、決してはした金ではありません。しかし彼が赦してもらった一万タラントンに比べれば、やはりそれは雀の涙です。しかし彼はその仲間を赦さず、あくまでも借金を取り立てようとしました。それを聞いた王は怒って、彼の借金帳消しを取消し、彼は破滅してしまったのです。王は彼にこう言っています。「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。これが、私たち一人一人に神様が語りかけておられるみ言葉です。神様は、独り子イエス・キリストによって、その十字架の苦しみと死とによって、私たちを憐れみ、罪を赦して下さいました。私たちの罪は、神様の独り子が十字架にかかって死刑にならなければならない程大きいのです。私たちはどんなに努力しても、一生かかっても、それを償うことはできません。償うどころか、私たちは一日生きるごとに、その罪のかさをより大きくしているのです。その私たちの罪を、神様は帳消しにして下さいました。借金を帳消しにする時には、貸していた者は損害を引き受けることになるのです。神様が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害、それが、独り子主イエス・キリストの十字架の死です。神様はその損害、苦しみを引き受けて、私たちを赦して下さったのです。そこに、神様の深い憐れみがあります。その憐れみをいただいた私たちが、自分に百デナリオンの借金のある人を赦す、それが私たちが憐れみ深い者となることです。百デナリオンの借金を赦すことは、決して楽なことではありません。相当の損害を引き受けることです。人を赦すこと、憐れみ深い者であることは、それを本当に実行しようとする時、苦しみを負うことになるのです。損をすることになるのです。「情けは人のためならず」などと言っていられるうちは、まだまだ本当の憐れみに生きてはいないということでしょう。本当に憐れみ深い者となることは、「これはひいては自分のためにもなるのだ」などと思っていたらできないのです。どう廻り廻っても自分のためになどなりそうもない、むしろ苦しみや損失を受けることになる、そういう場面において、私たちの憐れみ深さが問われるのです。そこでなお憐れみ深い者となることは、私たちの努力でできることではありません。主イエス・キリストが私たちの中に、そのような憐れみ深い思いを造り出して下さらなければできないのです。そのことは、私たちが主イエスによって神様の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする所でこそ起ることなのです。

「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」、この教えは、主イエス・キリストにおける神様の深い憐れみのみ心の中で私たちに語られています。私たちは、神様の憐れみによって生かされているのです。その憐れみにすがるしか、罪に満ちた私たちの生きる道はないのです。そして神様は、本当に有り難いことに、独り子イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活によって、罪と汚れに満ちた私たちを赦し、私たちを神様の契約の民として新しく生かして下さるのです。私たちはその神様の憐れみを受けている者です。その幸いを与えられている者です。それゆえに私たちは、憐れみ深い者となろうとするのです。そのことを生涯の課題として生きるのです。人を憐れむというのは、何か人よりも上に立ち、優位に立とうとすることのようで躊躇を覚えるかもしれません。しかしあの借金のたとえを思い起せば、そうではないことがわかります。私たちが人に対して憐れみ深くあるのは、決して私たちが人よりも偉かったり、立派だからではありません。私たちは、神様の憐れみにすがらなければ生きることができない者なのです。その憐れみを神様が主イエス・キリストによって与えて下さった。その私たちが人に対して憐れみ深くないならば、それは神様の憐れみを無にすることになるのです。

憐れみ深い人が憐れみを受け、幸いになるのではありません。神様の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとするのです。それが信仰におけるすじ道です。でもそれならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」と言わないのでしょうか。そこに、私たちを導いて下さる主イエスの思いが込められていると言えるでしょう。あの借金のたとえも、その前に、弟子のペトロが、「兄弟が私に罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問をしているのです。それに対して主イエスは、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。そしてそれに続いてあのたとえを語られたのです。七の七十倍までも、兄弟の罪を赦せ、と主はまずお命じになります。憐れみ深い者であれ、とまずお命じになるのです。そしてそれは、あなたがたが憐れみを受けている者だからだ、という根拠、土台がその後で示されます。私たちはまず、主のご命令に従って、人の罪を赦すことのできる、憐れみ深い者であろうと努力していくのです。しかしその努力が私たちを救うのではないし、また私たちはそこにおいて繰り返し、自分が憐れみからほど遠い者であることを思い知らされていくでしょう。それでもなお、私たちは、憐れみ深い者であろうとしていくことができる。主イエス・キリストによる神様の憐れみが私たちを支えているからです。そこに、私たちの幸いがあるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年4月9日]

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