富山鹿島町教会


礼拝説教

「主を畏れよ」
サムエル記上 第12章1〜25節
ヨハネの黙示録 第19章5〜10節

月の終わりの主の日には、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞いています。本日はその第12章です。この12章には、「サムエルの告別の辞」という小見出しがつけられています。サムエルという人の、別れの言葉、あるいは演説がここに記されているというのです。サムエルとはどのような人だったか、これまでサムエル記を共に読んできた皆さんはおわかりなわけですが、そうでない方のために簡単にお話しておきたいと思います。2節の終わりのところに、「わたしは若いころから今日まであなたたちを率いて歩んできた」とあります。つまりサムエルは、イスラエルの民の指導者だった人です。しかも「若いころから」とあります。彼は小さな子供の頃から、神殿の祭司のもとに預けられ、神様に仕える者として育てられてきたのでした。神様はまだ幼かったサムエルに語りかけ、彼を、神様の言葉を人々に伝える人、つまり預言者としてお立てになりました。人々は、サムエルのもとに来て神様のみ心を聞き、また彼を通して自分たちの願いを神様に訴えていったのです。そのようにしてサムエルは、イスラエルの民を導いてきたのでした。そのサムエルが、今やイスラエルの民に「告別の辞」を述べている。それは2節のことでしょう。「今からは王が、あなたたちを率いて歩む。わたしは年老いて、髪も白くなった。そして、息子たちはあなたたちと共にいる」。自分はもう年をとったから、イスラエルの民を率いて歩む指導者としての働きから引退する、というわけです。サムエルが引退してその後を引き継ぐ者は誰か、それは王です。具体的には、サウルという人が、イスラエルの最初の王として立てられたことが、これまで読んできた11章までのところに語られていました。自分は引退して、これからはサウル王が、あなたたちを率いて歩むのだ、と彼は語っているのです。そこに、「息子たちはあなたたちを共にいる」という言葉があります。これは、自分の息子たちはあなたがたを率いて歩む者ではない、ということを意味しています。実は、「あなたがたを率いて歩む」と訳されている言葉は、直訳すれば、「あなたがたの前に歩む」となります。口語訳聖書はそう訳していました。民の前に立って歩む、それが「率いて歩む」ことなのです。とすれば、息子たちはあなたたちと共にいる、というのは、息子たちはあなたがたの前にいるのではなく、あなたがたの中に、つまり率いる者の位置にではなく、率いられる民の中にいる、ということです。サムエルは実は自分の息子たちを、後継者として立てようとしたということが8章の始めのところに語られていました。しかしその息子たちは、賄賂を取って裁きを曲げたりして、民の指導者たるべき器ではないことが明らかになったのです。それゆえに今、この引退、告別の辞においてサムエルは、今から後あなたがたを率いて、あなたがたの前を歩む者は、私の息子たちではなく、サウル王なのだということをはっきりと告げているのです。

さてこのように、サムエルはここで引退を宣言しているわけですが、それでは、この12章をもってもうサムエル記にサムエルが登場しなくなるかというと、そうでははありません。13章以下にもサムエルはしっかり登場します。そしてその姿は、決して楽隠居というようなものではありません。王として立てられたサウルは結局、神様のみ心に適った働きをすることができずに、滅ぼされていくのですが、そのことを告げているのもサムエルです。そしてサウルに替わる王としてダビデに油を注ぐのもサムエルです。それらのことは決して、サムエルが隠居したはずなのになおいろいろなことに口出ししてひっかき回した、というのではなくて、主なる神様のみ心によることです。つまり神様のみ心を告げ、それによってイスラエルの民を導くというサムエルの働きは、なお継続しているのです。それならばどうして、この12章に、告別の辞が語られているのでしょうか。「告別の辞」というのは、最初に申しましたように、この12章につけられている小見出しの言葉です。小見出しは聖書の言葉ではありません。新共同訳になって便宜的につけられたものです。それは、このへんにはこんなことが書いてある、ということを手っ取り早く知るのに便利ではありますが、しかし小見出しが必ずしも内容を適切に表現していない場合もあります。ここなどもその例であって、この12章を「サムエルの告別の辞」と理解してしまうと、今申しましたような矛盾が生じてしまうのです。サムエルはここで、イスラエルの民に別れを告げているのではありません。これは「告別の辞」ではないのです。

それでは、この12章の、長いサムエルの演説はどのような意味を持つものなのでしょうか。先程読んだ2節には、「今日までわたしがあなたがたを率いて歩んできた。しかし今からは、王があなたたちを率いて歩む」と語られています。つまりここには確かに、サムエルからサウル王への、イスラエルの指導者の変更、その立場の継承が語られているのです。しかしそれは、今見ましたように、サムエルが引退してサウルがその後を継ぐ、ということとは違っています。サムエル記がここで見つめ、語っているのは、そのような、個人から個人への指導者の変更ではないのです。むしろここには、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりが見つめられているのです。

「今からは王が、あなたたちを率いて歩む」。これは、サウル王があなたがたの指導者となる、というだけのことではありません。要するに、イスラエルが王に率いられて歩む、王国時代が始まる、ということです。イスラエルの民の歴史が、王国時代という新しい時代に入ったことが告げられているのです。それでは、これまではどのような時代だったのでしょうか。それが、「今日までわたしがあなたたちを率いて歩んできた」という言葉に言い表わされています。「わたし」とは勿論サムエルですが、しかし彼がここで見つめているのは、自分サムエルがイスラエルの指導者であった期間のみのことではありません。サムエルは、イスラエルの民のこれまでの歴史をふりかえり、その一つの時代の終わりに自分を位置づけているのです。そのことを示すために、彼は6節以下で、イスラエルのこれまでの歴史をまとめています。そこを読んでみます。「サムエルは民に話した。『主は、モーセとアロンを用いて、あなたたちの先祖をエジプトから導き上った方だ。さあ、しっかり立ちなさい。主があなたたちとその先祖とに行われた救いの御業のすべてを、主の御前で説き聞かせよう。ヤコブがエジプトに移り住み、その後、先祖が主に助けを求めて叫んだとき、主はモーセとアロンとをお遣わしになり、二人はあなたがたの先祖をエジプトから導き出してこの地に住まわせた。しかし、あなたたちの先祖が自分たちの神、主を忘れたので、主がハツォルの軍の司令官シセラ、ペリシテ人、モアブの王の手に彼らを売り渡し、彼らと戦わせられた。彼らが主に向かって叫び、『我々は罪を犯しました。主を捨て、バアルとアシュタロトに仕えました。どうか今、敵の手から救い出してください。我々はあなたに仕えます』と言うと、主はエルバアル、ベダン、エフタ、サムエルを遣わし、あなたたちを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたたちは安全に住めるようになった』」。これは、イスラエルの民のこれまでの歴史のまとめとしてははなはだ不十分なものです。しかしサムエルはここで、イスラエルの通史を語ろうとしているのではありません。彼が特に見つめ、語ろうとしているのは、9節以下のことです。8節までには、エジプトの奴隷状態からの解放と約束の地カナンを与えられたことがごく簡単にまとめられています。それは9節以下を語るための前提なのです。9節以下には、約束の地を与えられたイスラエルが、しかしその恵みを与えて下さった主なる神様を忘れて、バアルやアシュタロトという偶像の神々に仕えるようになった、そのために主はいろいろな敵の手にイスラエルの民を売り渡し、イスラエルが彼らによって苦しみを受けるようにされた、そしてその苦しみの中で彼らが悔い改め、「我々は罪を犯しました。主を捨て、バアルとアシュタロトに仕えました。どうか今、敵の手から救い出してください。我々はあなたに仕えます」と言うならば、エルバアル、ベダン、エフタ、サムエルを遣わして敵の手から救い出して下さったということが語られています。これこそが、サムエルが今ふりかえっている、これまでの時代の姿です。それは、聖書の言葉で言えば、士師の時代です。士師というのは、イスラエルが主なる神様を忘れ、その結果外敵によって圧迫され、苦しめられる。その苦しみの中で悔い改め、神様に救いを求めた時に、神様がその都度立てて下さった指導者です。彼らが敵を打ち破り、イスラエルを救ったのです。その士師たちの活躍が士師記に語られています。エルバアルというのは、有名な士師ギデオンの別名です。ベダンという名の士師は士師記には出てきません。これは誰かの名前が間違って伝えられたのか、あるいは士師記に記されていない別の話があったのかもしれません。エフタも士師の一人です。そしてそれらの士師たちのリストの最後に、サムエルは自分の名をあげています。サムエルもまた士師たちの一人であり、最後の士師なのです。「今日までわたしがあなたたちを率いて歩んできた」ということによって見つめられているのは、この士師の時代の全体であると言ってよいでしょう。士師が民を率いて歩んだ時代が今や終り、王が民を率いて歩む時代が始まる、その時代の転換をサムエルは見つめているのです。つまり、サムエルのここでの演説は、「告別の辞」ではなくて、この大きな時代の転換に当って、イスラエルの民が何を見つめ、どのように生きるべきであるかを教え示す言葉なのです。そしてこの後、イスラエルが王国となってからも、主の預言者としてのサムエルの働きはなお続いていくのです。主はサムエルを通して、王たちを立て、王国を導いていかれるのです。

士師の時代から王国時代への転換に当って、サムエルが民に語ったことは何だったのでしょうか。サムエルの演説の四つのポイントを見つめていきたいと思います。サムエルは3〜5節において、自分があなたがたに対して何か不正を働き、あなたがたを圧迫したり苦しめたりしたことがあったか、問うています。それに対して民は、そんなことは一度もなかった、と答えました。これはサムエルが士師としての務めを終えるに当って、自分は公明正大に務めを果たした、やましいところは何一つない、ということを人々に確認させようとしている、ということですが、そのことに続いて、先程の6節以下が語られていきます。そこには今見てきたように士師たちのことが語られており、その最後にサムエルが位置づけられていることを考え合わせるならば、この3〜5節も、ただ自分一人の働きについて語っているのではないと言うことができるでしょう。これまで、士師たちが神様によって立てられ、民を率いて歩んできた、その士師たちの導きの中で、民が苦しめられたり、不正なことが行われたことがあったか、ということが問われているのです。そして人々は、そんなことは一度もなかったことを確認しているのです。つまりサムエルはここで、イスラエルの人々に、これまでの士師たちの時代、あなたがたには何も欠けることがなかった、誰かに踏みにじられたことも、苦しめられたこともなかったということを確認させているのです。士師の時代とは、神様が必要な時にその都度士師たちを遣わして民を導いてきて下さった時代です。その時代、周囲の国々はみんな王様に治められる王国であるのに、イスラエルだけは王のいない国でした。それは、神様こそがイスラエルの王であられたということです。王である神様が、必要な時にその都度、ご自分の将軍として士師たちを立て、民を敵の手から救い出してこられたのです。そこには何の不都合もなかった。それで十分民は守られ、不当な苦しみや圧迫にあうこともなく生きることができていたのです。士師の時代が終るに当って、イスラエルの民はそのことをしっかりと見つめておかなければならない、それがこのサムエルの演説の第一のポイントなのです。

士師の時代にも何の不都合もなかった。しかし今イスラエルは、王国時代に入ろうとしているのです。それは何故か。それが12節に語られています。「ところが、アンモン人の王ナハシュが攻めて来たのを見ると、あなたたちの神、主があなたたちの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々の上に君臨すべきだ』とわたしに要求した」。今、イスラエルが王国になったのは、民が王を求めたからです。敵が攻めてくるのを見た民は、恐れをなし、自分たちを守り、指導し、敵と戦ってくれる王を求めたのです。それは「主があなたたちの王であるにもかかわらず」、つまり、まことの王であられる主なる神様を無視し、神様がおられないかのようにふるまうことでした。神様が王として支配し、守り導いていて下さることでは安心できない、それでは物足りない、目に見える人間の王の方が頼りになる、そういう思いから、民は王を求めたのです。それは、これまで守り導いてきて下さった神様に対する甚だしい忘恩の罪でした。士師の時代から王国時代への転換はこのように、民の大きな罪によって引き起こされたのです。サムエルはこの演説でそのことを人々に知らせようとしています。それがこの演説の第二のポイントです。それゆえに、これを聞いた人々は19節でこう言ったのです。「民は皆、サムエルに願った。『僕たちのために、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。確かに、我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました。』」。

「今からは王が、あなたたちを率いて歩む」。この王国時代の開始は、このように、イスラエルの民の、主なる神様に対する大きな罪の結果でした。けれども、このサムエルの演説は、その罪を指摘し、断罪することで終ってはいません。12節に続いて、13節が語られているのです。「今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる」。主が王であるにもかかわらず、人間の王を求めた民に対して、主なる神様は、彼らの求める人間の王を与えて下さったのです。士師の時代から王国時代への転換は、それゆえに、人間の罪によると共に、そこには神様の導きがあったのです。神様は、目に見える人間の王を求めるイスラエルの民の思いを受け止め、それに応えて下さったのです。それは神様が私たち人間の弱さを思い遣り、それに配慮して下さったということです。目に見えない神様のみを王として歩む、それがイスラエルの民の本来のあるべき姿です。しかし人間は弱さのゆえにそのことに耐えられず、目に見える指導者を求めてしまう、それは罪です。しかし神様はその人間の罪の思いを受け入れ、それを背負い、そこでなお救いのみ業を行って下さったのです。そこに、人間の罪にもかかわらず、なお恵みをもって臨み、その罪を背負って救いのみ業を行って下さる神様のお姿があります。聖書の語る神様の救いとはそういうものです。またそうでなければ、私たちが救われる道はないと言わなければならないでしょう。この神様の救いが最もはっきりと、鮮明な仕方で現わされているのが、神様の独り子、主イエス・キリストの十字架です。神様の独り子が、一人の人間となってこの世に、私たちのところに来て下さったのです。そのまことの神であられる主イエスを、人間は、私たちは、受け入れませんでした。徹底的に拒否し、十字架につけて殺したのです。主イエスはたった一人で、孤独の内に死なれました。弟子たちの誰一人として、主イエスと共に捕えられ、十字架の死を共にした者はなかったのです。それが私たちの姿です。弟子たちにできなかったことを私たちが、「自分ならどこまでも主イエスに従ったのに」などと言えるはずはないのです。主イエスの十字架は私たちの罪の極まりです。しかしまさにそこにおいて、神様の救いのみ業が行われたのです。主イエスが私たちの罪を背負って下さり、ご自分の命を捨てることによって、私たちを赦して下さったのです。私たちはこの、主イエス・キリストによる神様の恵み、私たちの罪にもかかわらず、その罪を背負って救いのみ業を行って下さる神様の恵みをいただいています。イスラエルの民が、王を求めるという罪を犯し、しかし神様がその罪の中でなお民を見捨てることなく、ご自分から王を与え、イスラエルの新しい時代を開いて下さった、そこには、主イエスの十字架におけるのと同じ恵みが働いていると言うことができるでしょう。この神様の大きな恵みを示すことこそ、サムエルの演説の第三のポイントなのです。

サムエルはこの神様の恵みを、22節でこのように言い表しています。「主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである」。主なる神様はご自分の民を決しておろそかにはなさらない。「おろそかにしない」と訳されている言葉は、もっと強い意味を持っています。「見捨てない、見放すことはない」という意味です。神様は、いったんご自分の民とされた者たちを、彼らが罪を犯しても、神様をないがしろにして、人間の王を求めるような忘恩の行為に走っても、決してお見捨てにはならない、見放してはしまわれないのです。士師の時代が終り、王国時代が始まるというのは、この神様の恵みによることです。その時代の転換点において、イスラエルの民はこの神様の恵みをしかと覚え、わきまえておくべきなのです。そしてサムエルは、この大いなる恵みを覚えて生きる者たちのあるべき姿をここに語っています。それがこの演説の最後の、第四のポイントです。それは14、15節です。「だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る」。イスラエルの民も、その上に立てられる王も、共に、主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従っていく、それこそが、神様の大いなる恵み、ご自分の民を決して見捨てることはしないと約束して下さる神様の恵みに応えて生きる道なのです。同じことが24、25節にも語られています。「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」。「主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたか」、それは彼らにとっては、王を求める罪にもかかわらず、イスラエルを見捨てず、その罪の思いをも受け止めて、新しい時代を拓いて下さったということです。私たちにとってはそれは、主イエス・キリストの十字架と復活による、罪の赦しと永遠の命の約束です。主なる神様のこの偉大な恵みを覚えて、主を畏れつつ生きる、それが、信仰者の生活なのです。

主を畏れて生きる。私たちはこの畏れの感覚を失わないようにしなければなりません。私たちの罪にもかかわらず、神様が救いのみ業を行って下さる、それは、罪の中に安住していてよいということではありません。「悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」という警告の言葉は真剣に聞かなければなりません。信仰とは、主なる神様を畏れかしこむことです。畏れかしこむことなしに、平安や安心が得られることはないのです。しかし主の偉大な恵みを受けて、主を畏れかしこみつつ生きる者には、この世の何物にもまさる喜びと幸いと、そして希望が与えられます。本日は、ヨハネの黙示録第19章5節以下が共に読まれました。ここには、世の終りの救いの完成の時に、天において、主なる神様のもとで行われる礼拝の様子が語られています。その5節には、「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ」とあります。神を畏れる者たちこそが、終りの救いの完成の時に、天において神を礼拝する者たちなのです。その者たちは、大いなる喜びの内に、神の栄光をたたえている、と7節にあります。その喜びとは、9節によれば、「小羊の婚宴に招かれている者たち」の喜びです。私たちのために犠牲の小羊となって下さった主イエス・キリストが、この世の終りに、花婿としてもう一度来られる、その主イエスのもとで催される婚宴に、私たちは招かれているのです。私たちが招かれているのは、招かれるのにふさわしい立派な者だからではありません。神様が私たちをご自分の民と決めていて下さり、私たちを決して見捨てることなく、その独り子の命すらも与えて下さった、その大いなる恵みによって、私たちは招かれているのです。この喜びの祝宴への招きを受けている者として、今この地上で、主を畏れかしこみ、礼拝する者でありたいと思います。私たちが今地上で守るこの礼拝は、やがて私たちが主のみもとに召され、そこで主をほめたたえる礼拝の、そしてさらには世の終りの小羊の婚宴における礼拝の、先取りです。主を畏れかしこむ礼拝において、私たちは主の喜びの祝宴に招かれている確かな希望に生きることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年3月26日]

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