富山鹿島町教会


礼拝説教

「悲しむ人は幸いである」
イザヤ書 第51章12〜16節
マタイによる福音書 第5章4節

悲しむ人々は幸いである、と主イエス・キリストは語られました。本日はそのみ言葉に思いを集め聴きたいと思います。このみ言葉を聞いてまず私たちが思うことは何でしょうか。それはおそらく誰でも、悲しんでいる者が何故幸いなのだろうか、ということではないでしょうか。悲しんでいるというのは、幸いでないから、不幸があるから、苦しみがあるからなのだ、それを幸いであるとはどういうことか、と私たちは思うのです。私たちの、このみ言葉との対話はここから始まります。悲しんでいる人が幸いであると主イエスが言えるのは何故か、どのような意味で、悲しんでいる人が幸いなのか、私たちはそれをあれこれ考えていくのです。

昔から、クリスチャンたちはこのことをいろいろに考え、このみ言葉と対話してきました。その中から、この悲しむ者の幸いについて、いろいろな読み方、解釈が生まれました。その中の代表的なものに、たとえばこういうのがあります。この悲しみとは、自分の罪を嘆き悲しむ悲しみのことだ、主イエスは、自分の罪を心から悲しみ、悔いている人の幸いを語られたのだ。このように理解するならば、このみ言葉は悔い改める者の幸いを語っていることになります。自分の罪を真剣に悲しむところに、悔い改めが起ります。そして悔い改めこそが、神様から与えられる本当の祝福、幸いへの道なのです。またこのことは、他者の犯している罪を悲しむということにもつながります。自分の罪を悲しんでいる者は、同時に、他の人の犯している罪をも悲しむのです。そこには、人の罪をただ批判し裁くのではなく、それを共に嘆き悲しむ姿勢が生まれます。単なる批判からは悔い改めは生まれないけれども、自分の罪を真剣に悲しんでいる人の働きかけによって、悔い改めの思いが与えられていく、ということは起り得るのです。さらにこの悲しみは、この世に起る様々な悲惨な出来事、人間の罪が引き起こす苦しみの現実を悲しむことにもつながります。この世界の現実に目を向けていく時に私たちは、今なお戦火に追われて難民となっている人々がいることを知らされます。一部の国にはあり余る食料が贅沢に無駄使いされているのに、多くの人々が飢えて苦しんでいるという現実があることを知ります。それは本当に悲しむべき現実であり、それを悲しむところから、その事態を何とかしていこうとする努力が生じるのです。悲しむことはそういう意味でとても大事なことです。この場合の悲しみは、人の悲しみへの共感、同情です。人の悲しみを自分の悲しみとする感受性です。そういう感受性は、自分自身の悲しみの中で育てられる、悲しんでいる者、悲しみを知っている者こそが、人の悲しみを思いやることができる、人と心を通わせることができる、と言われます。悲しみというのはそのように、人と人とが心を通わせていく、その扉を開く鍵のようなものでもあります。そういう意味で、悲しむ人々は幸いであると言うことが確かにできるのです。

けれども、「悲しむ人々は幸いである」というみ言葉を、こんなふうに理解し、説明していこうとする時に、主イエスのこのお言葉は、私たちから遠く離れた、別の世界の事柄になってしまうのではないでしょうか。私たちは、いつも自分の罪を嘆き悲んでいる者ではありません。自分の罪のためにいろいろ不都合なこと、問題が生じてくるとそういう思いになることがありますが、しかしそこで私たちがすることは、自分の罪を真剣に悲しむことであるよりも、むしろいろいろと言い訳をし、人のせいにしていくことなのではないでしょうか。人の罪を悲しむというのは聞こえのよい言い方ですが、私たちはそのように言いながら、いかにしばしば、人の罪を喜び、興味の対象とし、そしてそれによって自分が優越感にひたる、ということをしているでしょうか。悲しみを知っている者こそが、人の悲しみをも共感することができる、と言われるけれども、本当に悲しんでいる時には、人の悲しみなど目に入らない、自分の悲しみだけで精一杯で、とても人のことをかまっている余裕などない、というのが私たちの現実なのではないでしょうか。「悲しみはこのような意味で幸いなのだ」ということを説明するどのような言葉も、私たちの現実の具体的な悲しみの前では力を失う、そして、実際に悲しんでいる私たちとは遠く離れた別世界の話になってしまうのです。

「悲しむ人々は幸いである」、このみ言葉を読むに当って、私たちが心しておかなければならないことは、主イエスはここで、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、という説明を全くしておられないということです。「このように考えれば、この点を見つめるならば、悲しむ人が幸いであることがわかる」ということを主イエスは言っておられないのです。主イエスが語っておられるのは、悲しむ人々は幸いであるという一つの宣言です。このような悲しみならば、という限定も、このような見方をすれば、というような留保もそこにはないのです。ということは、これは別世界の話ではなくて、この世の現実を生きる私たち一人一人に対する語りかけです。私たちそれぞれは、それぞれなりに、様々な悲しみをかかえています。肉親を失った、特に、愛する子供を失った、その癒されない悲しみの内にある人もいます。自分の体の病や怪我や障害、あるいは老いの現実の中で、悲しんでいる人がいます。家族の、体におけるあるいは心における病気に直面して、嘆き悲しみの内にある人がいます。あるいはこの不況の中で、仕事の面、生活の面での不安をかかえている人がいます。自分が願い求めている道がなかなか開かれないという悲しみの内にある若者がいます。あるいは家族、隣人、同僚との人間関係において、苦しみ悲しみの内にある者もいます。私たちはそのような、それぞれ様々に異なった悲しみをかかえて生きているのです。その私たち一人一人に対して、主イエス・キリストは、「悲しむ人々は、幸いである」と語りかけておられるのです。そう宣言しておられるのです。主イエスはそこで決して、「あなたのこのような悲しみは、幸いとは言えない、もっとこういう悲しみにならなければ、幸いにはつながらない」とはおっしゃらないのです。どんな悲しみであろうとも、何を悲しんでいるのであっても、「あなたは幸いだ」と言われるのです。これは主イエスが無理やりに、悲しんでいる私たちに、「おまえたちは実は幸いなのだ、喜べ」と喜びを強制しておられるということではありません。そうではなくて、主イエスは、悲しんでいる私たちのその悲しみの現実のただ中に、幸いを作り出して下さろうとしているのです。その幸いとは何でしょうか。それは「その人たちは慰められる」ということです。悲しむ人々には、慰めが与えられる、そこに、悲しむ人々の幸いがあると主イエスは言われるのです。

悲しむ人々への慰めはどのようにして与えられるのでしょうか。悲しみは人それぞれに違っていると今申しました。「幸福な家庭というのはどれも似たりよったりだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」というのは、トルストイの「アンナ・カレーニナ」の有名な冒頭の言葉ですが、そこに語られているのも、不幸、悲しみというのは人それぞれに違っているもので、十把一からげにすることはできない、ということです。そうであるならば、悲しみに対する慰めも、その人その人によって違うものとなるはずであって、「慰められる」などと一言で言ってしまうことは出来ないのではないか、とも思います。この慰めを、悲しみの原因となっている問題や事柄の解決、解消と考えるならばその通りでしょう。個々の悲しみにはそれぞれの解決、解消しかないのであって、全部まとめて解決しますなどということはあり得ないのです。しかし、「慰められる」というのは、問題の解決や解消とは違うことです。悲しみの原因がなくなるから慰められるのではないのです。むしろ慰められるというのは、悲しみの現実の中で、その悲しみの重荷を背負って生きていく力を与えられることです。悲しみにおしつぶされてしまうのでなく、なおそこで立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく積極的な思いと力とを与えられることです。慰められることによって私たちは、悲しみがなくなるのではなくて、悲しみを背負って生きていく力を与えられるのです。それゆえにこの慰めると訳されている言葉は、「慰める」という意味を越えた広がりを持っているのです。聖書において、同じ言葉が、ある時は「励ます」と訳されることがあります。「慰められる」とは、悲しみの中で、それを背負って生きることができるように力を与えられ、励まされることです。またこの言葉はある時には「勧める」とも訳されます。勧誘の勧と書く「勧める」です。悲しみの中にある者に、どのように歩んだらよいか、どのようにして悲しみに対処すればよいか、その勧め、アドバイスが与えられるのです。「慰められる」という言葉には、これらのことが全て含まれていると言うことができるのです。

こういう広がりを持った、本当の意味での慰めは何によって与えられるのか。そのことを知るためには、この「慰める」という言葉のもともとの成立ちを知らなければなりません。「慰める」と訳されている聖書の言葉のもともとの意味は、「傍らに呼ぶ」ということです。「慰める」も「励ます」も「勧める」も、皆「傍らに呼ぶ」ことによってなされるのです。例えばスポーツの試合の間に、監督がタイムをかけて選手たちを自分の傍らに呼ぶ、ということを考えてみればよいでしょう。それによって選手たちは一息つき、気持ちの混乱を正され、何をすべきかを指示されて、もう一度新たな気持ちで試合に臨んでいくのです。「慰められる」ことは、このように「傍らに呼ばれる」ことによって起ります。つまり、慰めは、傍らに呼んで下さる方がおられるところに与えられるのです。悲しむ者が慰められるのは、悲しみの原因が取り除かれることによってではありません。自分を傍らに呼んで、ねんごろに語りかけ、慰めと励ましと勧めを与えて下さる方を見出し、その方との交わりを与えられるところに、慰めがあり、幸いがあるのです。私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さる方、それは言うまでもなく、主イエス・キリストであり、その父なる神様です。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」という主イエスのお言葉は、それゆえに、主イエスご自身が、悲しむ者たちを傍らに呼び、ねんごろに慰めを与えて下さる、という宣言であり、約束でもあるのです。

主イエス・キリストが私たちをご自分の傍らへと呼び、慰めを与えて下さる、そこに悲しむ人々の幸いがある、とするならば、私たちはいったいその幸いにあずかっているのでしょうか。主イエスが私たちをご自分の傍らへと呼んで下さっているということを、どこで確認することができるのでしょうか。先程のたとえで言えば、私たちは人生の歩みという試合の中で、敵の力、妨げる者の攻撃の前にたじたじとなり、浮足立ち、敗色濃厚になっています。それが、悲しみに捕えられている私たちの姿です。そんな私たちの姿を見て、監督である主イエスがタイムを宣して下さる、そして私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さる、そのことはいつ起るのでしょうか。そして私たちが試合のコートから出て、監督である主イエスの傍らに行く、それはどういうことなのでしょうか。そもそも私たちの人生には、そんな「タイム」があるわけではないのです。「タイム」なし、待ったなしの私たちの人生です。人生の戦いをちょっとやめて主イエスのところへ行って慰めを与えられてくる、などということはできないのです。日曜日、主の日の礼拝はそれに当るのではないか。礼拝の時間は、私たちが人生の戦いからしばし離れて、主イエスのもとに集い、その慰め、励まし、勧めをいただく時ではないか、と思う方もいるかもしれません。しかし礼拝の時に私たちが人生の戦いの場を離れていると思ったらそれは間違いです。悲しみということだけを取っても、私たちは人生の様々な悲しみを離れて礼拝をしているのではありません。私たち一人一人が、それぞれの、それぞれに違った悲しみをかかえてここに集っているのです。それぞれのかかえている悲しみはここではちょっと括弧に入れて、などというものではないのです。私たちは、自分の悲しみを一時離れて主イエスの傍らに行くのではありません。その全てをかかえたままで、つまり人生の戦いの場にあるままで、主イエスの傍らに呼ばれるのです。そしてそれは実は、私たちが呼ばれて主イエスの傍らに出向いていくというのではなくて、主イエスの方が、悲しんでいる私たちの傍らへと来て下さる、私たちとぴったりと身を寄せて下さり、ねんごろに語りかけて下さるということなのです。主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことにはそういう意味があります。神様の独り子、まことの神であられる方が、私たちと同じ人間になり、この世界に来て下さったのです。それは、神様が、私たちの傍らに来て下さったということです。しかも主イエスは、私たちの罪をご自分の身に背負って下さり、私たちの身代わりになって十字架の苦しみと死とを引き受けて下さいました。主イエスがこの世に来られたのは、苦しみ悲しむ私たちの傍らに立ち、私たちの苦しみと悲しみを共に担って下さるためだったのです。ですから私たちは、慰めを与えていただくために、主イエスの傍らへと行く必要はないのです。私たちは、主イエスの傍らに呼ばれるのではなくて、主イエスご自身が、私たちの傍らにまで降りて来て下さって、悲しんでいる私たちの傍らに立って下さっているのです。慰め、励まし、勧めを与えて下さっているのです。礼拝というのは、私たちが、人生の戦いのただ中で、この傍らに立っていて下さる主イエスとの出会いを与えられる時なのです。私たちは今ここにおいても、それぞれの悲しみを背負っています。それを離れて、あるいはそれを隠して、何の悩みも苦しみもないように見えるよそ行きを着てここにいるわけではないし、その必要もありません。悲しみにおしつぶされそうになっている、その身をいわばひきずるようにして、私たちは礼拝に集うのです。そしてそこで、主イエス・キリストが、私たちのために苦しみと死とを引き受けて下さった方が、私たちの傍らにいて、私たちを担い、支えていて下さることを示されるのです。そしてそこで、慰めを受けるのです。

悲しんでいる私たちが慰めを受ける。それは先程申しましたように、悲しみの原因がなくなることではありません。悲しみの現実が解決してしまうことではありません。悲しみの現実はなお変わることなく私たちの重荷としてあるのです。しかし、その下にある私たちが、傍らに共にいて下さる主イエスとの出会いによって、主イエスが悲しむ私たちを担って下さることによって、変えられていきます。悲しみに押しつぶされてしまうことなく、それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく力を与えられるのです。その力はもともと私たちの中にあるものではありません。外から、主イエス・キリストの父なる神様から与えられるものです。主イエス・キリストによって、父なる神様が、私たちをご自分のものとして、傍らに置いて下さり、私たちと、特別な関係を結んで下さるのです。そのことによって、私たちに大きな力が与えられるのです。本日共に読まれた旧約聖書の個所、イザヤ書51章12節以下にはそのことが語られています。その12節に「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」とあります。主なる神様こそが、イスラエルの民を真実に慰めて下さる方なのです。それは何故か、それが15、6節に語られています。「わたしは主、あなたの神。海をかきたて、波を騒がせるもの。その御名は万軍の主。わたしはあなたの口にわたしの言葉を入れ、わたしの手の陰であなたを覆う。わたしは天を延べ、地の基を据え、シオンよ、あなたはわたしの民、と言う」。万軍の主なる神、天を延べ、地の基を据えられた全能の神が、「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」と宣言して下さり、イスラエルの民と特別な関係を結んで下さるのです。この神様との特別な関係によって、イスラエルの民は慰めを受け、12節の2行目から14節にかけて語られているように、自分たちを苦しめる者たちをもはや恐れることなく歩んでいくことができるのです。主イエス・キリストによって私たちに与えられている恵みもこれと同じです。主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、神様は私たちに、「私はあなたの神、あなたは私の民、私こそあなたを慰めるものだ」と宣言して下さったのです。私たちはこのことによって慰められ、力を与えられて、悲しみを背負いつつ、新しい一歩を踏み出していくのです。

私たちはこのようにして、それぞれの悲しみを背負いながら、共にいて下さる主イエス・キリストに支えられて歩んでいきます。その歩みの中で、慰めを与えられるのです。悲しむ人々が幸いであるのは、この慰めのゆえです。先週読んだ3節の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えにおいて、心の貧しいことそれ自体が幸いなことではなかったように、本日の「悲しむ人々は幸いである」という教えも、悲しみそれ自体が幸いであったり、価値があったりするわけではないのです。悲しみは悲しみです。それは幸いではありません。悲しむ者は幸いではないのです。私たちは、悲しみをも無理に幸いと思わければならないのではありません。そうではなくて、私たちのために十字架の苦しみと死とを受けて下さった主イエス・キリストが傍らにいて下さることによって、悲しむ私たちが慰められるのです。この主イエスによる慰めをいただきつつ歩む時に、私たちの悲しみは、意味のあるものとなります。悲しみによって、人の悲しみへの共感の気持ちが与えられていくというのもその一つでしょう。自分の罪を悲しみ、悔い改めることも、この主イエスによる慰めの中でこそできることでしょう。そして人の罪を悲しみ、それを責めるのではなく共に嘆き悲しみ、共に悔い改めへと至るということも、主イエスによる慰めを与えられている者にこそできることだと思います。主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は幸いなのです。

私たちは、信仰者というのはいつも喜んでいるものだという錯覚に陥っているのではないでしょうか。悲しんでいるのは信仰者らしくない、信仰者なら、喜びに生きるべきだ、その喜びをいつも人々に表わし、証ししていくべきものだ、そういう強迫観念に捉えられているのではないでしょうか。確かに聖書には、「いつも喜んでいなさい」という言葉があります。しかし主イエスはここで、悲しむ人々の幸いを語られたのです。それはつまり、あなたがたは悲しんでよいのだ、泣いてよいのだ、ということです。ただ、忘れないでほしい、その悲しんでいるあなたの傍らに、私がいる、泣いているあなたの隣に私がいて、慰めを与えようとしている、あなたがたの悲しみは、その慰めの中にあるのだ、と主イエスはおっしゃるのです。この慰めを知り、この慰めの中で生きることが信仰です。「いつも喜んでいなさい」というのは、悲しみなどないかのように、そういうものは超越して、あるいはおし隠して生きよということではなくて、この慰めに支えられて、悲しみを背負って歩みなさいということなのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年3月12日]

メッセージ へもどる。