富山鹿島町教会


礼拝説教

「主イエスに従う」
箴言 第7章1〜27節
マタイによる福音書 第4章18〜25節

本日この礼拝のために与えられている聖書の箇所は、マタイによる福音書第4章18〜25節、つまり第4章の終りのところです。ここには二つのことが語られていると言うことができます。第一は、いずれもガリラヤ湖の漁師であった、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネという二組の兄弟たちが、主イエス・キリストの最初の弟子となったということ、第二は、主イエスがガリラヤ中を伝道して回り、人々の病気を癒されたために、大勢の人たちが主イエスのもとに集まって来た、ということです。主イエスの伝道の初めの頃の、二つのエピソードが語られていると言うことができるでしょう。新共同訳聖書も、この二つに段落が分けられていて、それぞれに「四人の漁師を弟子にする」「おびただしい病人をいやす」という小見出しがつけられています。ところが、そのように一見、二つの別々な話が並べられているように見えるのですが、実は、この二つは別の話ではない、二つで一つのことを語っている、密接に関係し合う話なのです。そのことを明らかにしていきたいと思います。

まず、この二つの話の両方に登場する言葉を見つけ出していただきたいのです。主イエスのお名前が登場する、それは当たり前ですから別です。ガリラヤという地名も別です。それを除いてもう一つ、実は本日の箇所に3回出て来る言葉があるのです。それは「従った」という言葉です。20節に「二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。22節にも「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」とあります。そして25節の終りにも、「大勢の群衆が来てイエスに従った」とあります。原文を読みますと、この三箇所はいずれも同じ形で、直訳すれば「彼に従った」という言い方になっています。20節も「彼に従った」ですし、22節も、原文にあるのは「イエス」というお名前ではなくて、「彼に従った」という言葉なのです。25節も同じです。直訳すれば「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側からの大勢の群衆が彼に従った」となるのです。この「彼」つまり主イエスに「従う」ということが、この二つの話を貫いている一本の筋です。つまりこの二つの話は共に、主イエスに従う人々が生まれた、ということを語っているのです。

主イエスは、先週読みました17節において、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始められました。それまでは、全く無名の人だったのです。ところがそのように伝道を始めるとすぐに、主イエスに従う人々が生まれる、これは不思議なことです。本日の後半の話で、大勢の群衆が主イエスに従ったのはわかるような気がします。主イエスは、ガリラヤ中の諸会堂で「御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と23節にあります。そのように、病気、苦しみを癒して下さる方としての評判が伝わり、苦しみを持った多くの人々が主イエスのもとに来て、癒され、従っていく者となったのです。そういうことはあり得るだろうと思います。しかしそのことに先立って、四人の漁師たちが主イエスに従っていく者、つまり弟子になった、これは不思議な話です。最初の兄弟、シモンとアンデレは湖で網を打っていました。ヤコブとヨハネは舟の中で網の手入れをしていました。つまり、自分たちの普段の仕事をしていたのです。主イエスの話を聞きに来ていたわけでもないし、病気や苦しみを癒されたわけでもありません。ところが彼らは、主イエスが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけると、すぐに、その仕事を捨て、父親をもそこに残して従っていったのです。どうしてこんなことができるのだろうか、と私たちは思います。これがもし、この前半と後半の話の順序が逆で、人々の病や苦しみを癒された主イエスのもとに、多くの人々が集まり、従って来るようになった、その主イエスがガリラヤ湖畔を通った時に、彼ら四人に声をかけ、彼らも、この方に従って行こうと決心した、ということだったら、まだ話はわかるような気がします。あるいは、ルカによる福音書の第5章にあるように、彼らが、夜通し漁をしても何もとれなかったのに、主イエスのお言葉に従って網を降ろしてみたところ、ものすごい大漁になった、というような驚くべき体験をしたというのなら、このようにすぐに主イエスに従ったのもわかるように思います。けれどもマタイ福音書はそのようなことを全く語りません。マタイは、四人の漁師たちが主イエスに従って行った、その気持ちを私たちにわかるように説明しようとは全くしていないのです。

マタイが語ろうとしているのは、彼らの気持ちではない、とすれば、いったい何をここで語ろうとしているのでしょうか。私たちはここから何を読み取ったらよいのでしょうか。語られているのは、主イエスが彼らに、「わたしについて来なさい」と語りかけ、彼らがそれに応えて従ったという単純な事実のみです。マタイはそのことを語ろうとしている、と言うしかないでしょう。そして、このことは、実は23節以下においても同じなのです。私たちは、四人の弟子たちが従っていった話と、大勢の群衆が従った話とを区別しがちです。そして、先ほど申しましたように、群衆の話の方はまだわかる、と思うのです。彼らは、主イエスに病気を癒してもらい、苦しみから救ってもらったから従って行ったのだと考えるのです。けれども、病気が癒される、という奇跡が、主イエスに従っていく、ということを必ずしも生むわけではありません。たとえばこの福音書の11章20節以下を読みますと、数多くの奇跡が行われても悔い改めようとしない町々に対する主イエスの厳しい叱責のお言葉が記されています。奇跡を見れば主イエスを信じ従っていく、というような単純なものではないのです。そういう意味では、25節に「大勢の群衆が来てイエスに従った」とあるのは、決して当たり前のことではない、むしろ驚くべきことなのです。四人の漁師たちが主イエスに従ったのと同じことがここでも起っていると言ってよいのです。四人の漁師の場合、そのことを引き起こしたのは、「わたしについて来なさい」という主イエスの語りかけでした。この群衆の場合、何がこのことを引き起こしたのでしょうか。それは、主イエスが「御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」ということです。私たちの意識はとかく、いやしのみ業の方にばかり向いがちですが、ここに「御国の福音を宣べ伝え」とあることに注目しなければなりません。「御国」と訳されている言葉は文字通りには「国」という言葉です。それは「支配、王国」という意味です。そしてそれは、先週の17節の、主イエスの伝道開始の言葉に出てきたものなのです。主イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始められました。天の国、つまり神様の王国、神様のご支配が今や実現しようとしている、ということです。それが「御国の福音」です。「福音」とは「喜ばしい知らせ」です。神様が、その恵みをもって今や私たちを支配し、ご自分の王国を確立させようとしていて下さる、その喜ばしい知らせを主イエスはガリラヤ中の諸会堂でお教えになったのです。いやしのみ業は、この御国の福音に付随するもの、それを確証するものです。病気や苦しみがいやされる、それは、神様の恵みの力のご支配がそこに表わされることです。つまり「天の国は近づいた」というみ言葉が確かなものであることが示されるために、いやしのみ業が行われたのです。群衆が主イエスに従ったのは、このことによってでした。つまり彼らは、「御国の福音」を聞き、その現れを見たのです。「天の国は近づいた」ということを体験したのです。それによって彼らは主イエスに従ったのです。

このことからもう一度、四人の漁師たちのことに戻って考えるならば、彼らが主イエスに従ったことも、「御国の福音」に対する応答として位置づけられていると言うことができるでしょう。その「御国の福音」は17節に語られています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。この主イエスの言葉に対する人間の応答として、18節以下の、最初の弟子たちのことが語られているのです。つまり18節以下は、17節との密接なつながりにおいて読まなければなりません。そこを切り離してしまうと、18節以下が語ろうとしていることがわからなくなるのです。

このように、四人の漁師の話と大勢の群衆の話を一つにして、しかも17節の主イエスの伝道開始と結びつけて読んでいく時に、ここでマタイが語ろうとしていることの輪郭が見えてきます。マタイは、主イエスが天の国の到来、神様の恵みのご支配の確立、その「御国の福音」を語り、その現実を示された時に、そこには、主イエスに従う者が起されていくのだ、ということを語ろうとしているのです。主イエスが御国の福音を語り伝えられる時に、そこには私たち人間の応答が引き起こされるのです。いやもっとはっきり言えば、主イエスは御国の福音を宣べ伝えられる時に、私たち人間の応答を求め、それを引き起こそうとなさるのです。それはすでに17節の伝道開始の言葉からしてそうでした。「天の国は近づいた」という宣言には、「悔い改めよ」という求め、命令が結びついていたのです。神様のご支配、その恵みの確立という福音、喜びの知らせは、それに対応する人間の悔い改めを求めるものです。そして悔い改めるというのは、心の向きを変えること、神様の方に向き直ることです。それは、今まではこういう考え方、生き方をしてきたけれども、これからは別の考え方や生き方をしよう、ということではありません。私たちがいくら考え方や生き方を変えたところで、それは神様の方に向き直ったことにはならないのです。神様の方に向き直るというのは、神様が遣わして下さった独り子、救い主であられる主イエス・キリストに従うことです。「わたしについて来なさい」と言われる主イエスの呼び掛けに応えることです。「わたしについて来なさい」というお言葉は、直訳すれば「来なさい、私の後ろに」となります。主イエスの後に従い、ついていくのです。本日は、共に読まれる旧約聖書の言葉として、箴言第7章を選びました。夫の留守に若い男を家に連れ込んで情事を楽しもうとする悪い女の誘惑に誘われていってしまうことを戒める、ちょっときわどい所です。ここを選んだのは、その22節に「たちまち、彼は女に従った」とある、この「従った」という言葉が、新約聖書においては本日の箇所の「彼に従った」という言葉に当るからです。つまり私たちは、誰の後についていくか、ということを問われているのです。それが、私たちの人生を、運命を変えるのです。本当についていくべき方は主イエス・キリストです。そして主イエスについていくというのは、考え方や生き方を変えることとは違います。考え方や生き方を変えるという時には、私たちはやはり自分の考え方や生き方によって歩もうとしているのです。しかし求められているのは、そのように「自分」を見つめることをやめて、主イエスを見つめ、主イエスが先立ち、導いて下さるその道を歩んでいくことです。ですから、「わたしについて来なさい」というお言葉は、「悔い改めよ」というお言葉を言い直している、その内容をさらに明確にしていると言うことができるのです。そうであるならば、先ほどの、「何故彼らはこのように突然主イエスに従って行くことができたのか」、という問いは意味を失います。彼らは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という主イエスのお言葉に応えて悔い改めた、それだけのことなのです。

四人の漁師たちが主イエスに従ったことを語っている20節と22節は非常に似た文章になっています。「二人はすぐに網を捨てて従った」「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。「すぐに」という言葉が両方にあります。「天の国は近づいた」という「御国の福音」に応えて、悔い改めて主イエスに従っていくことは、「すぐに」起らなければならないのです。このことによってマタイは私たちに、信仰の決断を求めているのです。主イエスの語りかけを受けてすぐに従う、それは、最初にみ言葉を聞いた時から、従っていく信仰の決断をする時までどれだけ時間がかかるか、これくらいなら「すぐに」と言えるが、それ以上になったらもう「すぐに」とは言えないからだめだ、というような話ではありません。「すぐに」とは「今」ということです。主イエスに従うという決断は、今求められている。それは、私たち全員に対してです。すでに洗礼を受け、信仰者、クリスチャンになっている人も含めて、私たち一人一人が、今この時に、悔い改め、主イエスに従う決断を求められているのです。宗教改革のきっかけとなったマルティン・ルターの「95箇条の堤題」というのがありますが、その冒頭に語られていたのは、「キリスト者の生活は日々悔い改めであるべきだ」ということでした。悔い改めは、「いつか」ではなくて、毎日毎日、「今、すぐに」なされるべきものなのです。

ペトロとアンデレは「網を捨てて」従った、ヤコブとヨハネは「舟と父親とを残して」従ったとあります。この「捨てて」と「残して」は原文では同じ言葉です。ですから22節も「舟と父親とを捨てて」と訳すことができるのです。ここには、主イエスに従うことにおいて、捨てなければならないものがある、ということが語られています。しかもそれは、もういらなくなったもの、用の済んだものを捨てるのではありません。網や舟は漁師にとって、仕事の道具、生活を成り立たせる基本的なものです。そして父親、「あなたの父と母を敬え」と神様も教えておられるその大事な家族、それすらも、主イエスに従うためには捨てなければならないということが見つめられているのです。それはしかし、主イエスに従うためには仕事をやめなければならないとか、家族と縁を切らなければならない、と教えられているということではありません。そういう短絡的なことではなくて、悔い改めて主イエスに従うというのは、自分の大事なものを捨てることなしにはあり得ないということです。それが何であるのかは人によって違う。仕事を捨て、家族の縁を切るということである場合もあります。自分が何を捨てて主イエスに従うことを求められているのかは、私たち一人一人が祈りにおいてみ心を求めていくべきことでしょう。そしていずれにしても心にとめなければならないのは、主イエスがこの福音書の16章24節で言われたこのみ言葉です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。本当に捨てるべきものは、自分の持っている、大事にしている何か、ではなくて、自分自身なのです。この「自分を捨て」とはどういうことかについては、別の機会にみ言葉に聞きたいと思いますが、本日の箇所との関連で考えるならばそれは、自分の思いや願いや考えによって生きていこうとすることをやめて、主イエスに従っていくこと、つまり自分を見つめている目を、主イエスの方へと向き変えて、主イエスについていくことであると言うことができるでしょう。

「わたしについて来なさい」という主イエスの呼び掛けに応えて、私たちが主イエスに従う、そこに、教会が生まれます。ヤコブとヨハネに対して主イエスは、「彼らをお呼びになった」と21節にあります。この「呼ぶ」という言葉は、「教会」という言葉のもとになっている言葉です。「教会」と訳されている言葉は「呼び集められた群れ」という意味です。それを「教会」、教える会、と訳してしまったのは、大きな失敗であったと言わなければならないと思います。「教会」という言葉が持つイメージと「呼び集められた群れ」という本来の意味の間には大きな開きがあるのです。教会は、何かを知っていて、それを人々に教える所であるよりも、「わたしについて来なさい」と主イエスに呼ばれて、それに応えて従った者たちの群れなのです。そしてその群れは、自分たちが主イエスに従っていくだけではなくて、他の人々にも主イエスのこの呼びかけを伝え、その呼びかけに共に応えて従っていく者たちの輪を広げていくという使命を帯びているものです。「人間をとる漁師にしよう」という主イエスのお言葉にそのことが示されています。このお言葉は、彼ら漁師たちを弟子として招くためのキャッチコピーのようなものではありません。「魚をとっているよりも、人間をとる方が有意義だし、充実しているぞ」というようなことではないのです。私は釣りの趣味がありませんし、漁師さんの生活をまったく知りませんけれども、おそらく言えるだろうことは、魚をとるよりも人間をとる方が大変だし、困難が多いということです。だから主イエスのこのお言葉は、「人間をとる漁師にしてあげるからついてきなさい」ということではないでしょう。むしろこれは、主イエスに従う者の群れである教会に与えられる大きな課題、使命なのです。この福音書の一番最後の所、28章19、20節に、復活された主イエスが弟子たちにこういう命令を与えるところがあります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。教会に与えられているこのご命令が、「人間をとる漁師にしよう」という言葉の中にすでに込められているのです。

四人の弟子たちが主イエスに従った話は、このように、教会の成立とその使命を意識しています。それゆえに、それに続いて、多くの群衆たちが主イエスに従うということが語られているのです。諸会堂で、御国の福音を宣べ伝えていくことは、主イエスがなさったことであると同時に、先ほどの主イエスのご命令を受けて、弟子たち、教会がしていったことです。教会が宣べ伝えていった御国の福音、それは、主イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、その死によって神様が私たちの罪を赦して下さった、そのようにして、主イエスを通して神様の恵みのご支配が打ち立てられた、ということです。その福音が宣べ伝えられる所には、神様ご自身が聖霊によって働いて下さって、人々の苦しみが癒され、慰めが与えられていくのです。そしてこの福音は、人間に悔い改めを求めるものです。「わたしについて来なさい」という主イエスの呼びかけがそこには響くのです。それに応えて、主イエスのもとに人々が集まり、従っていく、そういう教会の広がり、呼び集められた群れの拡大がここに見つめられていると言えるでしょう。私たちも、この御国の福音を聞き、「わたしについて来なさい」という主イエスの呼びかけを聞いているのです。今、新たにその呼びかけに応えて、捨てるべきものを捨てて、主イエスに従う者となりたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年2月13日]

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