礼拝説教2000年元旦礼拝「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」 詩編 第96編1〜13節 コリントの信徒への手紙二 第5章16〜21節 紀元2000年を迎えました。紀元2000年のことを、A.D.2000と書きます。A.D.というのはラテン語の言葉の頭文字で、Aは「年」、Dは「主の」という言葉です。ですからA.D.2000というのは、「主の年2000」、もっと日本語的に言えば「主の2000年」という意味になります。「主」というのは勿論主イエス・キリストです。主イエスのご降誕から数えて2000年目の記念すべき年を迎えたのです。もっとも、歴史の本を読みますと、主イエス・キリストの誕生は紀元1年ではなかったようです。現在ではそれは、紀元前7年から4年の間ぐらいだったろうと言われています。西暦紀元が定められた時には、この年が主イエスの誕生の年だろうと考えられていた年を元年としたのですが、その後の歴史知識の発展によって、実はずれていたことがわかってきたのです。ですから厳密には、既に主イエスのご降誕から2000年を過ぎています。しかし考え方からすれば、西暦は主イエスのご降誕を起点としているのであって、その2000年を迎えたことはやはり大事な節目であると言えます。 21世紀を迎えるのは、2001年からです。つまり今年は20世紀最後の年であるわけですが、しかし1999年から2000年になる方が、2000年から2001年になるよりも、大きな変化のように感じられるのではないでしょうか。一の位だけが変わるのではなくて、四桁全部が変わる方がよっぽど大きな変化です。たとえば今朝早く、本当は昨日の内に届いた今日の新聞の日付の2000年という数字を見ただけでそう思います。0が三つ並ぶ年号など、これまで見たことがありません。二つでさえ、体験した人はこの中にはいないのです。そのこと一つをとっても、2000年を迎えたことによって、私たちは、何か周囲のすべてが新しくなったような気がするのではないでしょうか。 しかしそれは、そういう気がするだけで、実は昨日と今日とで何も違ってはいないのだということを私たちは知っています。2000年になったからといって、何かが変わるわけではありません。私たちが生きているこの現実が変わるわけではありません。私たちが背負っている重荷、苦しみ、悲しみがなくなることはないのです。 しかしそれでも、いやそれだからこそ私たちは、2000年を迎えたことによって、ある新しさを、そして希望をそこに見出したいと切に願います。2000年の年頭に当たって、いろいろなことを新しくやり直したい、これまでの古いもの、どうしようもなくひきずっているものを清算して、新規巻き直しをしたいと願うのです。 この元旦礼拝のために与えられている聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二の第5章16節以下です。この中の17節は、本年度の私たちの教会の宣教計画の主題聖句となっています。本年度はあと3か月ですが、ここで改めてこの主題聖句をかみしめ直したいのです。しかし今日この聖句を読むことの意味はそれだけには止まりません。ここには、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあります。私たちがこの2000年を迎えることによって、何となく感じ、また切に求めている「新しさ」について、ここには語られているのです。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。このように高らかに語ることができれば、どんなにかよいでしょうか。それゆえに、主の2000年の年頭に、このみ言葉から、新しい年の新しい歩みへの指針をも与えられたいのです。 「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」、パウロがこのように言っているのは、年が改まったからではありません。あるいは彼を取り巻く周囲の状況が変わったからでもありません。17節前半にこうあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」。キリストと結ばれる、そのことによって私たちは、「新しく創造された者」となる、そこに、彼の見つめる新しさがあるのです。それでは「キリストと結ばれる」とはどういうことでしょうか。前の口語訳ではここは「だれでもキリストにあるならば」となっていました。「キリストと結ばれる」あるいは「キリストにある」と訳されるここの原文は、英語で言うならば「イン クライスト」、つまり、キリストの中にある、という言葉です。キリストの中に自分が入ってしまう、キリストにすっぽりと包まれてしまう、というような感じでしょうか。しかしそれはどうもはっきりとイメージがつかめないことです。この「キリストと結ばれる、キリストにある」ということを理解するには、その前の16節がヒントになるのです。16節には「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」とあります。特に後半に、キリストをどのように知るか、ということが語られています。キリストを、肉にしたがって知るか、そうでない仕方で知るか、「キリストと結ばれる、キリストにある」というのは、このことと関係があるのです。「キリストの中にある」ということは、中ではなく外にあることとの対比において語られている言葉であると言えるでしょう。キリストの外にあって、外からキリストを知ることと、中にあって、中からキリストを知ること、それが対比されているのです。外にあって、外からキリストを知る、それが「肉に従ってキリストを知る」ということです。「肉」というのは、人間とその営みを表す言葉です。つまり、人間としての、目に見える外面的なところにおいてのみキリストを知ることです。パウロ自身も、以前はそのように、肉に従って、外からキリストを知っていたのです。しかし今はもうそのような知り方はしない。キリストの中にある者としてキリストを知っているのです。そのように、新しい仕方でキリストを知るようになった者はだれでも、新しく創造された者なのだ、とパウロは言っているのです。 それでは、肉に従ってではなく、外からではなく中からキリストを知る知り方とはどのようなものなのでしょうか。パウロは以前は肉に従って、外からキリストを知っていました。それは彼が、あのダマスコへ向かう途上で、復活された主イエスとの決定的な出会いを与えられる前のことでしょう。それまでは彼は、キリストとは、つまり救い主メシアとはこういう方だというイメージを持っていたのです。それは昔のダビデ王のようなイメージ、イスラエルの民のために勇敢に戦い、異邦人である敵を打ち破って、神の民イスラエルに繁栄と栄光をもたらすすばらしい英雄としてのキリストのイメージです。少なくともキリストは、十字架にかけられるような方ではない、人間たちによって罪に定められ、死刑に処されてしまうような者はキリストではない、それが、パウロにとっての、いやパウロのみならず、多くのユダヤ人たちにとっての常識でした。ところがその十字架につけられたイエスを、救い主メシア、キリストであるなどと主張するとんでもない連中が出てきた。そんなことは救い主キリストの栄光を汚し、神様を冒涜する教えで、断じて許し難い、と彼は思い、そのように信じ、宣べ伝えている教会、キリスト者たちを迫害していたのです。つまりパウロは、サウロと言われていた当時、キリストのことを自分は知っていると思っていた、キリストはこんな方だというイメージを抱いていた、少なくともこんな方ではあり得ないという確信を持っていたのです。しかしその知り方がまさに、肉に従っての、外からの知り方だったのです。彼は、ダマスコ途上において、復活された主イエスと出会いました。十字架にかけられた主イエスこそまことのキリスト、救い主であられることを示されました。その時彼は、キリストについて、救い主について、全く新しい知り方を与えられたのです。自分の思いによって、自分の考えや、期待や、望みによってキリストを理解し、判断し、知るのではない、むしろ神様ご自身の思いによって、そのみ心の内側からキリストを知るようになったのです。その時そこに何が見えてきたか。それをパウロは14、15節で語っています。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。「一人の方がすべての人のために死んでくださった」。主イエスは、私たちすべての者のために死んで下さった救い主であられる、そのことが見えてきたのです。そして、主イエスが私たちのために死んで下さったことによって、私たちも死んだ、それは、私たちももう生きていられないということではなくて、旧い自分が死んで、主イエスが復活されたその復活の命にあずかる新しい自分が生きるということです。そのために主イエスは死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死と復活によって、私たちは、「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」者とされている。それが新しい自分です。つまり私たちは、私たちのために死んで下さったキリストによって、新しく生きる者とされたのです。このキリストを知ること、それが、肉に従ってではなく、キリストと結ばれる者として、キリストの中にある者としてキリストを知ることです。それによって私たちは新しく創造された者となる。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じたというのは、このことを言っているのです。 このことにおいて働いているのは、キリストの私たちへの愛です。ひいては、キリストを遣わして下さった父なる神様の愛です。私たちはこの神様の、キリストの愛に包まれている、その中に生かされている、それがキリストと結ばれる、キリストの中にある、ということです。このキリストの愛に包まれることによって、私たちは、新しくなるのです。自分のために死んで復活して下さった方のために生きる者となるのです。それは具体的にはどういうことか、それが18節にこのように語られています。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」。キリストが私たちのために死んで復活して下さったことによって、神は私たちを御自分と和解させて下さったのです。つまり、私たちの罪によって破れてしまっていた関係を回復して下さったのです。そして私たちに、和解のために奉仕する任務をお授けになりました。19節の言葉で言えば、「和解の言葉をわたしたちにゆだねられた」のです。私たちは主イエス・キリストによって新しくされ、神様との和解を与えられたことによって、今度はその和解の言葉を携えて、それぞれの生活へと、そこで出会う人々のもとへと遣わされていくのです。20節には、「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」とあります。そのキリストの使者として私たちが語っていくのは「神と和解させていただきなさい」ということです。主イエス・キリストが自分のために死んで、復活して下さったこと、その神の愛を受け入れて、キリストと結ばれる者となり、新しく創造された者となりなさいと語っていく、そういう本国政府からの指令を受けて、私たちはそれぞれの生活の場に大使として派遣されているのです。 「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」というのはこのことです。私たちが生きているこの現実が変わるわけではありません。背負っている重荷、苦しみがなくなるわけではありません。しかしその中で私たちは、新しくなるのです。神様の愛によって新しく創造された者となるのです。神様との和解を与えられ、和解の使者として立てられていくのです。それは私たちがよい行いをするように努力して得ることではありません。何かを勉強して資格を得るようなことではありません。主イエス・キリストが、この私のために死んで復活して下さった、そのことを信じ、この方のために生きる者となる、そのことだけで私たちは新しくされるのです。 和解の言葉を委ねられ、和解の使者として生きる。それは、何か偉そうに上から「神と和解させていただきなさい」と語るということではありません。パウロはそのことを語ると共に、そのことを生きた人でした。それはつまり、和解の言葉を委ねられた者として人と接していったということです。16節の前半で彼はこう言っています。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」。その後の後半では、キリストのことを、肉に従って知るのではなく、キリストと結ばれた者として知るのだ、ということが語られているわけですが、この前半に語られているのは、自分の出会う人々をどのように知っていくか、ということです。そこにおいても、もはや肉に従って知ろうとはしない、と彼は言っているのです。肉に従って人を知る、それは、人間の思いによって、自分の価値判断によって、人のことを評価し、値踏みし、判断し、裁くということでしょう。人に対してそのような見方をしている限り、私たちは神様が与えて下さる和解の使者となることはできないのです。そのような、肉による人の見方をやめる、そしてここにおいても、キリストと結ばれている者、キリストの中にある者、キリストの愛に包まれている者として人のことを見つめていくことが求められています。つまり、キリストがすべての人のために死んで下さった、この人のためにも死んで下さった、そしてこの人のためにも復活して、新しい命に生かそうとしておられる、そのことを常に覚えつつ人と接していく、それが「だれをも肉に従って知ろうとはしない」ということなのです。「自分のために死んで復活してくださった方のために生きる」とはそういうことです。それによってこそ私たちは、「和解の言葉を委ねられたキリストの使者」として生きることができるのです。 主の2000年を迎え、私たちは、神様が与えて下さるこの新しさ、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」、という新しさを与えられて歩みたいのです。そこにこそ「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」というみ言葉が実現します。そして、神様と和解させていただいた者として、和解の言葉を携えて、和解を生み出す者として新しく生かされていきたいのです。
牧師 藤 掛 順 一 |