復活の主と弟子たち
1999年11月から礼拝において読み始めたマタイによる福音書を、本日をもって読み終えることになりました。そしてそれが、私の当教会における最後の説教となりました。
マタイ福音書の28章は、主イエスの復活を語っています。しかし先々週も申しましたように、主イエスの遺体が息を吹き返して起き上がった、というようなことが語られているのではありません。主イエスの死を嘆くために墓にやって来た婦人たちに、天使が、「イエスは復活して生きておられる」と告げたこと、主イエスを葬ったはずの墓がからっぽだったことが示されたこと、その知らせを受けて墓から走り出した彼女たちに、主イエスが生きた方として出会って下さったことが、28章の前半に語られていたのです。本日の後半は、復活なさった主イエスが、今度は弟子たちに出会って下さった場面です。十一人の弟子たちはガリラヤへ行き、主イエスが指示しておかれた山に登り、そこで、生きておられる主イエスに会ったのです。彼らは「イエスに会い、ひれ伏した」とあります。この「ひれ伏す」という言葉は9節にもありました。主イエスに出会った女性たちが「イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」のです。この言葉は後に「礼拝する」という意味になっていったと申しました。主イエスに会い、そのみ前にひれ伏す、それが私たちの、教会の、礼拝の根本的な姿です。復活された主イエスとの出会いは、礼拝を伴います。礼拝においてこそ、私たちは復活された主イエスと出会うことができるのです。主イエスの復活は、それがあったかなかったか、納得できるかできないかと私たちがあれこれ考えていって答えが出るような問題ではありません。礼拝の中でこそ、主イエスの復活ということがわかっていくのです。
主イエスの招き
弟子たちはガリラヤの山で復活された主イエスと出会い、ひれ伏して礼拝をしました。それは主イエスご自身が女性たちを通して彼らに、「ガリラヤへ行け、そこでわたしに会うことになる」とお伝えになったからです。つまり彼らは、主イエスによってこの山へと呼び集められた、主イエスが彼らをこの礼拝へと、復活の主イエスとの出会いの場へと招いて下さったのです。そうでなければ、彼らはこのように復活の主と出会い、礼拝をすることなどできなかったでしょう。「十一人の弟子たち」とあります。主イエスの十二人の弟子の内、ユダは裏切って、その後悔と絶望の内に自殺してしまったので、残った十一人です。しかしその十一人は、ユダとは違って主イエスに最後まで従い通し、弟子としての歩みを全うしたのでしょうか。そうではありません。彼らは、主イエスが捕えられる時に、みんな、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。主イエスの十字架の死と埋葬を見届けたのは彼らではなく、女性たちだったのです。そして彼らの筆頭であったペトロは、「あなたもあのイエスの仲間だろう」と問われて、「そんな人は知らない」と三度にわたって、最後には呪いの言葉さえ口にしながら、弟子であることを否定したのです。主イエスとの関係を徹底的に断ち切ったのです。ですから彼らはもはや誰も、「自分は主イエスの弟子である」などと言える者ではありません。礼拝をするどころか、主イエスのみ前に出ることすらもはやできないような者たちなのです。そんな彼らが、しかしこうして主イエスに会い、み前にひれ伏すことができたのは、ただひたすら、主イエスが彼らを招いて下さったからです。復活を告げた天使は女性たちに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」と言いました。そして彼女らに出会った主イエスも、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われたのです。復活された主イエスが、弟子たちより先にガリラヤへ行って、そこで待っておられる。そこには、主イエスの彼ら弟子たちに対する大いなる赦しの恵みが示されています。主イエスを見捨て、裏切り、知らないと言った、主イエスに従うこと、つまり信仰において挫折し、もう弟子と呼ばれる資格のない彼らを、主イエスは赦して下さり、原点に立ち戻ってもう一度ご自分のもとに迎えて下さり、弟子として、主イエスを信じ従う者として、新しく立てて下さるのです。復活の主イエスとの出会いにおいて起るのはそういうことです。私たちも、主イエスの弟子、信仰者として主のみ前にノコノコと出て礼拝をすることなど本来できない罪人です。しかし主イエスが私たちを赦して、招いていて下さっているから、こうして礼拝を守ることができるのです。
近寄って来られる主イエス
主イエスは、ひれ伏している彼らに近寄って来られたと18節にあります。この「近寄って来た」という言葉に注目したいのです。9節には、「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とありました。婦人たちは、自分から主イエスに近寄って足を抱いて礼拝したのです。しかし弟子たちは、主イエスから少し離れた所でひれ伏しています。それは、主イエスを裏切り、見捨ててしまったという彼らの罪の意識、うしろめたさから来ていることでしょう。しかし主イエスはその彼らの方に、ご自分から近寄って行かれるのです。なかなか主イエスの足元まで近寄って行けない私たちのところに、主イエスの方から、近寄って来て下さるのです。
天と地の一切の権能
弟子たちに近寄ってきて下さった復活の主イエスが語られたこと、それは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」ということでした。ここに、主イエスの復活の意味が示されています。「天と地の一切の権能を授かっている」というのは、神様がお造りになったこの世界の全体において、最高の権威と力を、主イエスが持っているということです。そういう権威と力を、主イエスはご自分で獲得したのではありません。それは父なる神様から授けられたものです。主イエスの復活は父なる神様のみ業であり、主イエスは「復活させられた」と受け身の形で語られている、ということを前回申しました。それはただ生き返らされたということではなくて、このことによって、この世界における最高の権威と力が、主イエスに授けられたのです。この世界を、私たちを支配している最高の力、権威とは何でしょうか。この世界にはいろいろな力や権威があって、私たちの生活はそれらの支配下にあります。しかし、最後究極的に私たちを支配し、そこから逃れることは誰もできないものとは、死です。人間は、たとえどんな力や権力を手に入れ、自分の思いのままに生き、すべての願いを叶えることができたとしても、死に打ち勝つことだけはできません。死は、遅かれ早かれ私たちを捕え、支配するのです。主イエスの復活は、その私たちを支配している最高の力、権威である死の力を、神様が打ち破って下さったということです。父なる神様が死の力と戦い、勝利して、主イエスに復活の命を与えて下さったのです。そして死の力に代って、今や主イエスが、天と地の一切における最高の権威と力の座に着かれたのです。主イエスが復活して下さったことによって、私たちを、私たちの人生を最終的に支配するものは、もはや死の力ではなくなりました。私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった神様の独り子主イエスが、私たちの真実の支配者となられたのです。それは言い換えれば、神様の恵みが、私たちの肉体の死を越えて、今や私たちを支配している、ということです。復活された主イエスが、私たちを招いて下さり、私たちがみ前にひれ伏して礼拝することができる、その礼拝において、主イエスが私たちに近寄って来られ、親しく告げて下さるのは、この神様の恵みの、死に対する勝利です。死の力を打ち破って主イエスを復活させて下さった神様の恵みが、私たちにも注がれ、私たちをも、死の支配から、その絶望から解き放ち、神様の恵みのもとに生かして下さるということです。復活された主イエスは、そのような恵みをもって、私たちに臨んでいて下さるのです。
インマヌエルの主
最後の20節に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とあります。復活された主イエスが、私たちと、いつも共にいて下さる。それが、マタイ福音書のしめくくりの言葉、結論です。主イエスが復活したことによって、死の力が打ち破られたのです。ですから、主イエスは一旦復活したけれどもまたしばらくすれば死んでしまったのではありません。もはや死ぬことのない、永遠の命を生きておられるのです。そしてそれは、主イエスが一人永遠の命を享受しておられるというのではなくて、いつも、どんな時にも、私たちと共にいて下さるためです。天と地の一切の権能を授けられた主イエスが、死に打ち勝つ神様の恵みをもっていつも私たちと共にいて下さる、マタイはそのことを告げてこの福音書をしめくくっているのです。そしてそれは、マタイがこの福音書において、一貫して語ってきた主題でもあります。主イエスの誕生において、主の使いはヨセフに、「その名はインマヌエルと呼ばれる。それは『神は我々と共におられる』という意味である」と告げました。主イエスにおいて、インマヌエル、神が我々と共にいて下さる、という恵みが実現した、それが、マタイが語っている福音なのです。
聖霊の働きによって
主イエスが肉体をもって復活されたお姿でこの地上を歩まれたのは四十日のみでした。その後は天に、父なる神のもとに昇られたのです。それゆえに私たちは今、主イエスを、地上を歩まれたままの肉のお姿で見ることはありません。しかし、それに代って、聖霊が降り、聖霊の働きによって今主イエスは私たちと共にいて下さるのです。「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」という主イエスの約束は、聖霊の働きによって今も果たされています。共にいて下さる主イエスをこの目で見ることができないのは、心もとない、本当にいて下さるのかどうかわからない不確かなことのように思うかもしれません。しかし、実はその方がずっと確かに、いつでもどこでも、主イエスが共にいて下さるのです。例えば、私は本日をもって皆さんとお別れして、横浜の教会に転任します。富山を去って横浜に行くのです。それが、肉体をもって生きる人間のあり方です。もしも主イエスが今も復活なさったままの肉の姿で地上におられたなら、それと同じように、富山にいれば横浜にはいない、横浜に行けば富山にはいない、ということになります。そうではなくて、私たちがどこにいても、どんな状態にあっても、起きていても寝ていても、仕事をしていても車を運転していても、スポーツに汗を流していても病院に入院していても、どんな苦しみ悲しみに陥っていても、主イエスは、聖霊の働きによって、死に勝利した神様の恵みの権能、力をもって私たちと共にいて下さるのです。目には見えないけれども、目に見えるよりずっと確かに、復活された主イエスが、礼拝において私たちに出会い、み言葉を与え、私たちを信じる者として、主イエスに従う者として立てて下さるのです。
主イエスに遣わされて
そして主イエスは、私たちをこの礼拝から派遣されます。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。弟子たちはこの命令を与えられて全世界へと、すべての民のもとへと遣わされたのです。私たちも同じように、主イエスによって、この礼拝から派遣されていきます。すべての民のもとへとです。私たちはこの命令を、全世界に伝道旅行に行け、という意味にのみ読む必要はありません。私たちが身近な所で出会う、関わりを持つ、共に生きるあの人この人、それが「すべての民」の一人です。私たちはそれらの人々のところに、主イエスによって遣わされていくのです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われています。私たちが主イエスの弟子であるように、出会う人々をも主イエスの弟子としていくのです。それが伝道ということであり、それは確かに難しいことかもしれません。けれども、主イエスの弟子になることは、師匠の難しい教えを学び、その手本に倣って四苦八苦しながら生きることとは違います。主イエスは、天と地の一切の権能を授かった主として、死の力に勝利した神様の恵みの担い手として、私たちと共にいて下さるのです。主イエスの弟子として生きるとは、この共にいて下さる主イエスの恵みと力に支えられ、生かされて歩むことです。ですから私たちの伝道も、ここに、私たちを本当に支えてくれる方がいる、その方が、死の力をも既に打ち破った神様の恵みをもって私たちと共にいて下さる、あなたもそこで共に生きよう、と言うことに尽きるのです。父と子と聖霊の名によって洗礼を受けるとは、この主イエス・キリストに連なる者、キリストの体である教会の一員、神様の民の一人に加えられることです。洗礼を受け、キリストにつながって、キリストが授けられている死に勝利する恵みの力にあずかりつつ生きることが、キリストの弟子である信仰者の歩みなのです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とあります。主イエスが命じられたこと、それは、この福音書の中で、特に5?7章のいわゆる「山上の説教」にまとめられている教えでしょう。それらの教えは、きびしい掟や戒めではありませんでした。むしろそれらは全て、復活された主イエスが今や天と地の一切の権能を授かっている、その主イエスにおける神様の恵みのご支配を前提とした教えだったのです。そういう思いを持って、もう一度、山上の説教を読み直してみることをお勧めします。復活して、いつも共にいて下さる主イエスが、私たちに、どのように生きることを望んでおられるのか、また主イエスがご自分に授けられている天と地の一切の権能によって私たちをどのように生かそうとしておられるのかがここに語られているのです。
教会の働きを負う中で
先程は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というお言葉を先にあげ、その後で、その主イエスが私たちを遣わされると申しました。しかしみ言葉の順序としては、まず派遣の命令があり、その上で「いつもあなたがたと共にいる」という約束が与えられています。このことも大切です。主イエスが共にいて下さる、そのことを私たちが本当に知り、実感していくことができるのは、主イエスの派遣を受け、それぞれの場で、すべての人々を主イエスの弟子とするために、伝道のために心と力と時間と財産をささげ、またそのために涙を流し、労苦を負っていくことの中でなのです。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」、それは教会に与えられている使命です。その教会の使命、働きのために心と力を尽くしていく、そのことの中でこそ、復活していつも共にいて下さる主イエスのことが分かっていくのです。本当に身近に感じられるようになっていくのです。教会の働きのために心と力と尽くすためには、そのために自分の心と力と時間を意識して捧げなければなりません。時間が余ったら、心にゆとりができたら、力に余裕があったら、と思っているうちはいつまでたってもできはしないのです。この教会は来年の三月まで、無牧となります。無牧というのは、牧師がいないということです。しかしそれは、教会の営みが止まってしまうとか、牧会がなされなくなる、ということではありません。いつも共にいて下さる主イエスは、この期間も、死に勝利する恵みをもって共にいて下さり、まことの羊飼いとして皆さんを牧して下さるのです。そのことを皆さんが本当に体験し、その恵みを味わうために、長老会、執事会を中心としてなされていく教会の働きに皆さんが参加し、心と力を尽くして支えていっていただきたいのです。主イエスによる派遣に応えて、遣わされている働きに力を注ぎ、そのための労苦を担っていくことの中でこそ、いつも共にいて下さる主を知ることができるのです。勿論これは、誰もが同じように体を使って奉仕しなければいけない、などということではありません。遣わされている働きは、その人その人によって違うのです。体を動かして奉仕する働きに遣わされている人もいれば、それはできないけれども、祈りにおいて教会と兄弟姉妹を支える働きへと遣わされている人もいます。祈ることのできない人はいないのです。ということは、教会において、「私は何もできない役立たずだ」などと言える人は一人もいないということです。
疑いからの解放
最後にもう一つ、17節に立ち戻って見つめておきたい言葉があります。弟子たちは主イエスの前にひれ伏した。「しかし、疑う者もいた」とあるこの言葉です。疑う者もいる。何を疑うのでしょうか。主イエスが本当に復活したのか、という疑いでしょうか。しかし少なくとも彼らは、生きておられる主イエスを目の前に見ているのです。いったい何を疑ったのでしょうか。この言葉は、むしろ私たちのために、私たちの、教会の現実を見つめつつ語られていると言った方がよいでしょう。私たちは、礼拝を守り、主イエスの弟子として、信仰者として歩みつつも、なお、疑いを持ちます。何を疑うのでしょうか。主イエスは本当に復活したのか、という疑いもあるでしょう。奇跡は本当にあったのか、という疑いもあるでしょう。しかし、私たちの抱くもっと根本的な疑い、それは、神様は本当にこの自分を愛しておられるのだろうか、ということです。この世の人生において、私たちはいろいろな苦しみ悲しみに遭います。思ってもみなかったことが起ってきます。どうしてこのようなことが、この自分にふりかかってくるのか、と思うことがあります。その苦しみ悲しみの中で、私たちは、神様が自分を愛しておられること、神様の恵みを疑ってしまうのです。そんなものは嘘っぱちではないか、この現実のいったいどこに恵みなどあるのか、救いなどあるのか、と思うのです。また私たちは、その苦しみの中で自らの罪を思い知らされることもあります。自分の罪に対する神様の怒りを感じるのです。そんな時、もう自分のような者は神様に見捨てられたのではないか、神様の赦しなどもう与えられないのではないかと思ってしまうのです。そのような疑いに陥る私たちに、復活された主イエスが近寄って来て下さり、「わたしは天と地の一切の権能を授けられた」と語って下さいます。「あなたの人生を、そこに起る全てのことを支配しているのは、悪魔の力や死の力ではない。死に打ち勝った神の恵みこそが支配しているのだ。神はその独り子を十字架につけるほどに、あなたを愛しておられるのだ」、と告げて下さるのです。また、「私があなたの全ての罪を背負って十字架にかかって死んだ。神に見捨てられて死ぬ罪人の死を、私があなたに代って引き受けた。私の死によって、あなたの罪は赦されているのだ。そしてあなたは、私の復活にあずかって、神に赦された者として新しく生きることができるのだ」、と告げて下さるのです。礼拝において、私たちは主イエスからのこの語りかけを受け、それによって疑いから解放されて歩んでいくのです。主イエスの告げて下さるその恵みの徴として、洗礼が与えられています。父と子と聖霊の名によって洗礼を受けるとは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しにあずかり、主イエスの復活による新しい命、肉体の死をも乗り越える永遠の命の恵みにあずかる者とされることの徴です。繰り返し疑いに陥っていく私たちです。その都度、洗礼の恵みに立ち戻り、神様の愛、主イエスによる罪の赦しの恵みが、既に死の力に勝利していることを確認しながら、世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる、と約束して下さった主イエス・キリストと共に歩み続けていきたいのです。インマヌエルの主イエスは、いつでも、どこにいても、私たちと共におられるのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年8月31日]
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