富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの死」
レビ記 第16章1〜19節
マタイによる福音書 第27章45〜66節

十字架上の一言
 礼拝においてマタイによる福音書を連続して読んで参りまして、いよいよ、主イエスが十字架の上で死なれる場面になりました。主イエスは、先週読みましたように、死刑の判決を受けた後、総督の兵士たちによって侮辱され、さんざん痛めつけられ、十字架につけられてもなお、多くの人々から罵られました。その間、一言も語っておられません。黙って、沈黙の内に、苦しみと屈辱を受けておられるのです。その主イエスが、十字架の上でお語りになったただ一つの言葉が46節にあります。いよいよ息を引き取られる直前に、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのです。それは、ここに記されているように、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。この後50節には、再び大声で叫んで息を引き取られたとありますが、言葉としては、この一言のみが、主イエスが十字架の上で語られたことだったのです。少なくとも、マタイ福音書と、マタイ下敷きにしたとされるマルコ福音書ではそうなっています。この主イエスの十字架の上での唯一のお言葉は、何を語っているのでしょうか。

絶望の叫び?
 このお言葉をどう理解するかについては、昔からいろいろな考え方がありました。というのは、このお言葉は、主イエスが独自に語られたことではなくて、旧約聖書の引用だからです。先週の礼拝において、共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編の第22編を選びました。その冒頭に、「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」とありました。この言葉を、主イエスは十字架の上で語られたのです。そのように旧約聖書の言葉が引かれているとなると、このお言葉の意味はそう簡単ではなくなります。このお言葉は、そういう背景を一切考えずに読むならば、神様に見捨てられ、助けてもらえない、そういう絶望の叫びです。主イエスは結局最後は、ついに神に見捨てられた絶望の内に死んでいったのだ、ということになるでしょう。実際そのように考えて、これをキリスト教への攻撃の材料に用いた人々もいます。明治十年代、キリスト教の伝道が盛んになされていった時代に、この富山でも、仏教徒による妨害がかなりありました。その中に、キリスト教がいかに駄目な、信じるに値しない宗教であるかを門徒たちに教えるためのかぞえ歌があったことが記録されています。その中にこういう一節がありました。「最後に臨みてキリストは、天主(ゴッド)のうらみてな、泣き出す、この愚か者」。この「天主(ゴッド)のうらみてな、泣き出す」というのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの最後のお言葉を指して言っているのです。こんな絶望の内に、神を恨みつつ惨めに死んでいった情けない奴を救い主だなどと信じている、クリスチャンとはなんと哀れな連中か、というのです。

信頼の言葉?
 この主イエスの最後のお言葉が、詩編22編の引用なのだという事実は、そういう非難や揶揄に対して、それは違うと主張するために有効です。主イエスのこの言葉は、絶望の叫びではない、主イエスは死に臨んだこの最後の時にも、聖書の言葉を語られたのだ、と言うことができるのです。この詩編22編は、神様に見捨てられた絶望の言葉から始まっていますが、しかし読み進めていくと、最終的には、神様の助けを信じ、神様を讃美する言葉になっていきます。最後は、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」と終っているのです。主イエスは、十字架につけられて死んでいこうとする苦しい息の中で、この詩編22編をご自分の今の思いとして語ろうとなさった、しかしその最初の一節を語っただけで力つきてしまったのだ。だからこれは、本当は神様に見捨てられた絶望の言葉ではなく、むしろ神様への信頼を語ろうとした言葉だったのだ、という主張が一方にあるのです。
 主イエスは、神様に見捨てられた絶望の内に死んでいったのか、それとも最後まで神様に信頼しておられたのか、いったいどちらが本当なのでしょうか。第一の考えはキリストを情けない奴と攻撃し、キリスト教を信じるに足りない教えだと主張するために用いられています。第二の考えは、そういう攻撃がいわれのない中傷であると言っています。そういう意味では、第二の解釈の方が信仰的であり、正しい解釈であるようにも思えます。しかし、それは余りにも表面的な、薄っぺらな理解だと思います。事はそんなに単純ではないのです。

主イエスの十字架とは何か
 このことを正しくとらえるためには、主イエスの十字架の死とは何だったのか、ということから考えなければなりません。せっかく神様がその独り子を救い主として遣わして下さったのに、それを理解せず、受け入れようとしない、神様に敵対する罪深い連中が主イエスを捕えて無実の罪で処刑してしまった、それが主イエスの十字架だ、ということならば、そのような苦しみの中でも神様への信頼を失わずに歩み通された主イエスは何と立派なことか、という話になるでしょう。けれども、主イエスの十字架の死は、私たちにとってそのような他人事ではない、ということを、私たちはこれまでに繰り返し見つめてきました。先週の箇所においても、主イエスを侮辱し、精神的にも肉体的にも痛めつけ、「それでも神の子か、十字架から降りてみろ、そうすれば信じてやる」などと嘲り罵っているその人々の中に、私たち自身の姿がある、ということを見つめたのです。私たちとは関係のない昔の罪人たちによって、主イエスは苦しみを受け殺された、おいたわしやイエス様…、そんなふうに十字架を見つめることはできないのです。主イエスを十字架につけ、苦しめ、嘲り、殺したのは、私たちの、神様に背き逆らう思いです。神様を神様として信じ従うのではなく、自分が絶対になって、自分の意に添わないことは一切受け入れない、自分は変わろうとせずに神様に、また隣人に文句を言ってばかりいる、自分のプライドを守るためには人を徹底的に責め、攻撃する、そういう私たちの罪が、神様の独り子主イエスを拒んでいるのです。十字架につけているのです。ですから私たちは、もし自分がこの当時エルサレムにいたら、イエス様を十字架につける者たちの仲間にはならなかっただろうとか、もしイエス様が今、当時と同じように一人の人間としてこの世に来られたなら、自分はイエス様を信じ従っていくだろう、などと、ゆめ思ってはならないのです。私たちは、もしも当時生きていたなら、「十字架につけろ」と叫び、「それでも神の子か」と嘲ったに違いないし、もし今主イエスが一人の人間として来られたら、「あんなの神様なわけないじゃないか」と拒み、無視するに違いないのです。

罪を引受ける主イエス
 主イエスの十字架の死がそのように私たちの罪の結果であるならば、それは、神の独り子であられる主イエスが、私たちの罪とその結果をご自分の身に引き受けて下さったということです。先週申しましたが、主イエスは、自分を十字架につけようとする者たちを打ち破って死を免れる力を持っておられるのです。主イエスが捕えられた時、剣を抜いて抵抗しようとした弟子に、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた主イエスはそれに続いて、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と言われたことが26章の53節にあります。主イエスはそれだけの力と権威を持っておられるのです。その主イエスがしかし、その力を一切発揮することなく、黙って十字架の苦しみを引き受けられた。それは、私たちの罪を引き受け、背負って下さったということです。その時そこに、一つの大きな転換が起っているのです。私たちが主イエスを十字架につけ、罵っている、主イエスは私たちの罪の犠牲者だ、ということをこれまで見てきました。しかしその私たちの罪の結果を御自分から背負い、引き受けて下さったことによって、主イエスはもう単なる犠牲者ではなくなっているのです。むしろそのお姿は、自分の罪の結果として本来私たちが受けなければならないはずの滅びと死の姿になっているのです。主イエスを拒み、十字架につけ、罵っている者たちこそ、十字架の死刑に処せられるべき罪人です。それは私たちのことです。十字架の上に釘づけにされなければならないのは、実は私たちなのです。その私たちに代って、私たちの罪を背負って、神様の独り子であられる主イエスが、本来私たちがつけられるべき十字架について下さったのです。私たちは、主イエスを十字架につけ、嘲っている人々の中に自分の姿を見てきました。しかし今やそれと同時に、十字架につけられている主イエスに、自分自身を見出していく、本当は自分が受けなければならない裁きと死を、主イエスが自分に代って受けて下さっていることを畏れをもって受け止めることを求められているのです。

絶望の叫び
 そしてそうであるならば、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの叫びは、自らの罪のために神に見捨てられて絶望の内に死んでいかなければならない私たちの絶望の叫びを、主イエスが私たちに代って叫んでおられるのだと言うべきでしょう。私たちは、イエス様のこの叫びの意味は何か、などと呑気に考えていることなどできないのです。これは私たち自身の叫びです。その意味で、キリストは神に見捨てられた絶望の内に惨めに死んだというのは正しいのです。それは主イエスが「愚か者」だからではなくて、それが私たちの真実の姿だからです。私たちが、神様に見捨てられて絶望の内に死ぬしかない者であって、その私たちの死を、主イエスが代って引き受けて下さったのが、あの叫びなのです。

信頼の言葉
 しかしまた、あの言葉が詩編22編の冒頭の言葉であり、この詩全体は神への信頼を歌っているということもまた真実です。主イエスは、神に見捨てられて死ぬしかない私たちの絶望を引き受けて下さったと同時に、その絶望の中で、神様の独り子として、父なる神様への信頼の内に歩み通されたのです。そのことは、この詩編22編を最後まで読んで初めてわかることではありません。この一言の中にも、既にそれは表されています。それは「わが神」という言葉です。「なぜ私をお見捨てになったのか」という絶望、恨みの叫びにも聞こえる言葉が、「わたしの神」に向かって叫ばれている、そのことが大事です。主イエスはここで、「わたしの神」を見失っておられない。神に見捨てられたという絶望の中でなお、神様を「わたしの神」と呼び、その「わたしの神」に向かって絶望の叫びをあげているのです。このことによって主イエスは、本来神様に見捨てられて死んでいくしかない罪人である私たちに、あなたがたはその絶望の中でなお、神様を「わたしの神」と呼ぶことができるのだと教えて下さっているのです。教えて下さっていると言うよりも、主イエスご自身が私たちのために、その道を切り開いて下さったのです。主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪人である私たちが本来受けなければならない絶望の死を引き受けて下さり、その中であの叫びをあげて下さったことによって、私たちも、主イエスの父なる神様を「わが神」と呼ぶことができるようになったのです。自分の罪がいかに重く大きく私たちにのしかかり、神様に見捨てられた絶望の内に死ぬしかないような時にも、私たちは、この主イエスと共に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶことができるのです。私たちは、どんな絶望の中にあっても、その絶望を「わが神」に叫び訴えることができるのです。それはとりもなおさず、主イエスと共に、神様への信頼を最後まで失わずにいることができる、ということです。

神殿の垂れ幕
 主イエス・キリストは、十字架の上で、この一言のみを発して、そして死なれました。その時、いくつかのことが起ったと51節以下に語られています。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」。神殿の垂れ幕、それは、エルサレム神殿の一番奥の至聖所と、その手前の聖所とを隔てる幕のことです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、レビ記16章に、その垂れ幕のことが語られています。その2節に「主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである」とあります。垂れ幕の奥の至聖所には、もともとは、十戒の石の板を納めた契約の箱が置かれていました。その蓋の部分を「贖いの座」といいます。そここそ、主なる神様がご自身を現される場所と考えられていたのです。その垂れ幕の奥の至聖所には、年に一度、贖罪日と呼ばれる日に、大祭司のみが、贖罪の献げ物をたずさえて入ることができる、とされていました。主イエスの当時の神殿においては、契約の箱はもう失われていましたから、至聖所は何もないからっぽの空間でしたが、しかしその垂れ幕による隔ては厳然としてあり、それが、聖なる神様と人間との隔ての幕となっていたのです。その垂れ幕が、主イエスの死と同時に、上から下まで真っ二つに裂けた。それは、神様と人間の間の隔てが取り除かれたということです。神様と人間の間を隔てているのは、人間の罪です。罪を犯し、汚れている人間は、聖なる神様の前に出ることはできないのです。それゆえに大祭司があのレビ記に書かれているような贖罪、罪の贖いの儀式を厳重にした上でないと垂れ幕の向こうには行けなかったのです。しかし今や、主イエス・キリストが十字架で死なれたことによって、その隔ての幕は不要になりました。私たち人間の罪が赦されたのです。私たちのための贖罪が成し遂げられたのです。神様の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を引き受け、背負って、十字架にかかって死んで下さったことによって、また罪の内に神様に見捨てられて絶望の死を迎えなければならない私たちに代って「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、私たちの絶望をも神様のみもとに置いて下さったことによって、私たちは、もはや何の隔てもなく神様のみ前に出て、神様を礼拝することができるようになったのです。

死人の復活
 それと同時に、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、死んでいた昔の信仰者たちの多くが生き返ったとあります。死人の復活が起ったのです。これは、主イエスの十字架の死が、死の力を打ち破り、人を新しく生かすものだということを示す出来事でしょう。罪が赦され、神様のみ前に出て、礼拝をすることができるようになった、それは、死の力に捕えられ、支配されていた私たちが、新しい命を与えられて生かされていくということです。そのことは本当は主イエスの復活においてこそ与えられる恵みですが、それが既にこの十字架の死の場面で先取りされて語られているのです。しかしマタイは注意深く、次の53節で、「イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」と語っています。復活した人々は、主イエスの復活の後に続いていくのです。主イエスの復活こそ、私たちにも与えられる復活の恵みの先駈けなのです。

本当に、この人は神の子だった
 主イエスの十字架の死が、死人をも新たに生かす恵みの出来事であることは、むしろ次の54節に、大変印象的に語られています。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」。百人隊長は、ローマの兵隊の隊長です。彼と、彼の指揮下で十字架の見張りをしていた人々、つまり兵卒たちが、主イエスの死と一連の出来事によって、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。彼らは、主イエスの十字架を第三者として眺めていたのではありません。むしろ主イエスを十字架につけた者たちです。その前に、総督官邸において主イエスに残虐な暴行を加えた者たちの一部だったとも考えられます。また、十字架の下で主イエスから剥ぎ取った服をくじ引きにしたのも彼らだったでしょう。「それでも神の子か、ユダヤ人の王か」と嘲った者たちでもあったでしょう。その彼らが、「本当に、この人は神の子だった」と言った。これは、十字架の主イエスに対する最初の信仰の告白です。十字架につけ、嘲っていた者たちが、最初の信仰告白をしたのです。それは、死人が復活するのと同じような奇跡です。それまでは思いもよらなかった、全く新しい思いが、彼らの中に生まれたのです。
 他の福音書では、この信仰告白をしたのは百人隊長一人となっています。しかしマタイはこれを、「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」と複数の人々の言葉としています。そこには意味があると思います。主イエスを十字架につけた人々、それは私たちだと言ってきました。その人々が、主イエスの死によって、この告白へと導かれたのです。それもやはり私たちのことです。主イエスが、私たちの罪のために、私たちの罪を背負って、私たちに代って十字架にかかって死んで下さった、そのことによって私たちは、この十字架につけられた主イエスこそ、まことの神の子、救い主だ、という信仰の告白へと導かれるのです。この告白を共にする者たちの群れが教会です。マタイはここで、教会のことを意識していると言ってよいでしょう。

傍観者でいたくない
 今年の受難週祈祷会における、Y兄の奨励を私は忘れることができません。「こだま」の五月号に載っていますから読み返していただきたいのですが、バッハの「マタイ受難曲」を通して、主イエスの十字架の出来事に初めてふれ、それによって与えられていった導きを語られました。受難曲を聞いていく中で、まだ信仰を持っていなかった Y兄は、自分こそ主イエスを苦しめ、十字架につけた者だと語る歌詞に驚かされたのです。主イエスの十字架の死を傍観者として眺めていることはできない、十字架につけたのはあなたなのだ、とこの受難曲は語りかけているのです。そして、この百人隊長たちの告白の場面になります。それが合唱団によって歌われるのですが、それを聞いた時、「自分はここでも傍観者でいたくない」と思い始めた、と Y兄は語られました。「本当にこの人は神の子だった」と歌う者たちの群れに、つまり教会に、自分も加わりたい、この告白を共にする者となりたい、という願いが起こされていったのです。私たちは、主イエスの十字架の死を、最初は、傍観者として見ています。自分には関係のない、遠い昔の、人々の罪によって起った悲惨な出来事、無実の人間のいたわしい死、ぐらいに思っているのです。しかし、聖書を通して、礼拝を通して、次第に傍観者ではいられなくなっていきます。主イエスを十字架につけ、嘲り、苦しめている人々とは実は自分のことだ、自分がこの人々の中の一人だ、ということに気付かされていくのです。そしてさらに、その自分の罪による苦しみを受けておられる主イエスの十字架のお姿が、自分が本来受けなければならない絶望と死とを代って引き受けて下さっているお姿なのだ、ということに気付かされていきます。十字架につけている人々の中にのみでなく、主イエスご自身のお姿に、自分の身代わりの、自分に代って罪の結果を背負って下さっているお姿を見つめるようになっていくのです。そしてさらに私たちは、主イエスを苦しめ、十字架につけたその人々が、主イエスの死によって新しくされ、変えられて、「本当に、この人は神の子だった」という信仰を言い表すようになった、その人々の中にも、自分を見出していくようになります。その告白を共にする者へと変えられていくのです。主イエス・キリストの十字架の死は、この信仰告白へと私たちを招いています。この招きに応えていく時に、主イエスを十字架につける者である私たちが、主イエスの与えて下さる新しい命に生きる者とされるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年8月10日]

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