妬みのために
主イエスは逮捕されて、大祭司カイアファの屋敷へと連れて行かれました。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていたと57節にあります。この人々は、ユダヤ人の議会であり裁判所でもあった最高法院のメンバーたちでした。彼らがこの夜中に大祭司の屋敷に集まって、主イエスの裁判を行い、死刑にするための証拠を集めようとしたのです。これは一応裁判という形を取っていますが、最初から結論の決まっている、形だけのものです。イエスを死刑に当たる者と断定することが目的であり、そのための理由を、何でもいいから集めようとしているのです。「イエスにとって不利な偽証を求めた」とあります。偽証でも、嘘偽りでも何でもいいのです。とにかく主イエスを殺してしまいたいという思いが、大祭司を始め最高法院の人々を捕えています。彼らはなぜそれほどまでに主イエスを憎み、殺そうとするのでしょうか。この後主イエスはローマの総督ピラトに引き渡されていくのですが、そのピラトは、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」と27章18節にあります。ユダヤ人の最高法院の人々が主イエスを殺そうとしたのは、妬みのためだったのです。それは主イエスが彼らよりも民衆の心を捕え、人気がある、ということへの妬みでしょう。また、彼らがとうてい語り得ないような、神様のみ言葉を主イエスが語っていることへの妬み、さらには、彼らが出来ないような素晴らしい奇跡、み業を主イエスが行っていることへの妬みもあるでしょう。要するにかれらは心の奥で、主イエスにはとうてい適わない、と感じているのです。その思いが、主イエスに対する激しい憎しみと殺意を生んでいるのです。妬みの思いとはまことに恐ろしいものです。妬まれる方には何も思い当たる節はないのに、その人の存在そのものが憎しみと殺意の対象になってしまうのです。主イエスの十字架の苦しみと死は、ユダヤ人の指導者たちのそういう妬みから生じた、ということを意識しておくことは意味深いことです。何故なら私たちもまた、そのような妬みの思いに捕われるからです。ある人の、存在そのものが憎らしい、と思うようになってしまうことがあるからです。その人が何をしたからというのではなくて、「あの人にはとうてい適わない」と思うだけで、憎らしくなり、いじめてやりたいと思い、またその人の苦しみを内心で喜ぶような、醜い、病んだ思いが私たちの中にもある。そういう人間の思いが、神様の独り子イエス・キリストを十字架につけたのです。
神殿を三日で
何人もの偽証人が現れたが、証拠は得られなかったとあります。偽証人どうしの言うことが合わなかったのです。二人または三人の証言が一致しなければ人を有罪とすることはできないと律法に記されており、この裁判がいかに茶番であるとしても、その原則を無視することはできないのです。しかし最後に二人の者が決定的な証言をしました。「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と言ったのです。この証言は一致した。それまで語られたいろいろなことはみんな辻褄が合わなかったのが、このことにおいては、二人の証言がぴったりと合ったのです。なぜ合ったのか。それは、主イエスが本当にそう言われたからでしょう。主イエスがこういうことを言われたということは、マタイによる福音書ではここにしか語られていませんが、ヨハネによる福音書の2章19節にはこれと似た主イエスのお言葉が出てきます。主イエスは確かに、人間の手で造られた神殿とは違う、ご自分の十字架の死と三日目の復活によって打ち立てられる新しい神殿のことを語られたのです。神殿とは礼拝の場です。礼拝は、神の民を結び付ける絆です。神の民は、礼拝を中心として結集されるのです。それゆえに、新しい神殿を建てるとは、新しい神の民が興されるということです。主イエスは、ご自分の十字架の死と三日目の復活によって、新しい神の民が生まれることを語られたのです。しかし悪意をもって聞く人々はそれを、エルサレムの神殿を冒涜する言葉として聞き、主イエスを訴える証拠としてここに提出したのです。この証言は一致しました。それで大祭司は、これでイエスを有罪にすることができる、と勢いを得て、「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」と詰め寄ったのです。しかし主イエスはそれに答えず、黙り続けておられました。
神の子、メシア
業を煮やした大祭司は、さらに決定的な問いを主イエスにつきつけます。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」。主イエスは神の子、メシア、つまり救い主なのかどうか、それが、この大祭司の下での裁判において問われたことの中心です。先程の、神殿を壊して三日で建てるというのも、そんなことのできるのは神の子、救い主だけなのですから、要するに主イエスが自分は神の子、救い主だと宣言した、という話なのです。大祭司としては、そういうことを主イエスが言ったことがはっきりするならば、それだけで有罪にできるのです。一人の人間に過ぎない者がそのようなことを言うのは、自分を神とするという、神様へのとんでもない冒涜だからです。大祭司は主イエスからそういう言葉を引き出して、有罪を宣告しようとしているのです。そしてまた他方、主イエスが民衆に人気があり、支持を得ているのは、この人こそ神の子、救い主ではないか、という期待があるからです。だからもしも主イエスがこの問いに対して、「いや私は神の子、メシアではありません」と言って命乞いをするならば、それはそれでよいのです。主イエスは人々の期待を裏切り、その人気は失墜し、もはや相手にされなくなるのです。それで彼らの目的は達成されるのです。だからこの問いは、「イエス」と答えようと「ノー」と答えようと、いずれにしても主イエスを破滅させることができる、そういう問いなのです。この問いによって彼らは主イエスを最終的に追いつめたつもりでいるのです。
あなたは言った
この決定的な問いを受けて初めて、主イエスは口を開き、「それは、あなたが言ったことです」と言われたのです。これは何を言われたのか、わかりにくい言葉です。原文を直訳すれば、「あなたは言った」となります。英語で言えば「You said.」です。それをどう訳すかは解釈によって違います。以前の口語訳聖書はここを「あなたの言うとおりである」と訳していました。「あなたは言った」に、「その通りだ」をつけ加えて、明確な肯定の言葉として訳しているのです。それも一つの解釈ですが、別の解釈も成り立ちます。例えばある英語訳では、「それはあなたの言葉だ」と訳しています。新共同訳はそれに近いと言えるでしょう。それはこの問いに対する肯定でも否定でもありません。「それはあなたが言っていることで、私には関係ない」と答えをはぐらかしているようにも思えます。しかし主イエスはここで、この問いに答えることを避けようとしておられるのではありません。そのことは、その後のお言葉を読めば明らかです。「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言われたのです。これは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるダニエル書7章13、14節をもとにした言葉です。そこには、世の終わりに「人の子」が雲に乗って来て、全ての民を支配する権威と力を受けると語られています。主イエスは、ご自分こそその「人の子」だと言っておられるのです。それはつまり、ご自分こそ神の子、来るべきメシア、救い主だと宣言しているのと同じです。つまり主イエスはこの大祭司の決定的な問いに、はっきりと「イエス」を言われたのです。いやむしろそれ以上のことを宣言されたのです。だから、それを聞いた大祭司は、激しい抗議の印として服を引き裂き、「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか」と言ったのです。最高法院の議員たちもそれに応えて、「死刑にすべきだ」と言いました。もうこれ以上証言を求める必要はない、本人が、この裁判の場で明確に、自分を神の子、メシアであると宣言し、皆がそれをはっきり聞いたのです。それによって、主イエスの有罪、死刑に当たるということが確定したのです。それゆえに、先程の「あなたは言った」に戻るならば、内容的には、口語訳のように、「あなたの言うとおりである」と訳してもよいのです。しかしこの「あなたは言った」にはもう一つ大事な意味が込められていると思います。それは、「お前は神の子、メシアなのか」という問いを、「あなたの言ったこと」とすることによって、この問いを相手に、大祭司に投げ返しているということです。大祭司は、主イエスに神を冒涜する言葉を吐かせるためだけに、「お前は神の子、メシアなのか」と問うているのです。けれども、「あなたは神の子、メシアなのですか」という問いは、本来、大変大事な信仰の問いです。私たちが信仰者になるかどうかはこの問いにかかっています。イエス・キリストを、神の子、メシアつまり救い主であると信じることによって、私たちは洗礼を受け、信仰者となるのです。さらにこの問いは、一度答えを得たらもうおしまいになるのかというと、そうではありません。私たちは生涯に亘って、いつも「主イエスは神の子、救い主であられるのか」という問いと直面しつつ歩むのです。そしてその歩みの中で私たちが知らされるのは、この問いは、どこかから明確な答えが与えられて、それで納得して信じるというものではないことです。主イエスは神の子、救い主であられるのか、という問いに、主イエスご自身が「そうだよ」とはっきり答えて下さることはないのです。天から答えの声が響くということもないのです。あるいは仲間の信仰者や、教会の指導者である牧師や長老が「そうなんですよ」といくら言ったところで、それで信じられるものでもないのです。つまり私たちは、主イエスは神の子、救い主であられるのか、という問いに、自分で答えていかなければならないのです。誰かに答えてもらおうとしてもだめなのです。この問いに答えるのは、自分自身なのです。「それはあなたが言ったことです」という主イエスのお言葉は、そのことを語っているのではないでしょうか。あなたは、「お前は神の子、メシアなのか」と問うているが、それはあなたが自分で答えるべき問題だ、あなたは私を神の子、メシアと信じるのか、そのことがあなた自身に問われているのだ、ということです。大祭司と最高法院の人々は、主イエスから逆にそのように問いかけられたのです。そして彼らはその問いにはっきりと答えました。「お前は神の子、メシアなどではない。ただの人間だ。ただの人間がそのようなことを言うのは神への冒涜であり、死刑に当たる罪だ」。これが、彼らの答えです。彼らが出したこの答えによって、主イエスは十字架につけられていきます。主イエスを十字架につけたは、あなたは私を神の子、メシアと信じるのか、という問いかけに対して、それを否定し、イエスはただの人間であって、神の子、救い主ではない、とする思いなのです。私たち一人一人も、この問いかけを受けています。それにどう答えるかによって、私たちも、主イエスを十字架につける者の一人となるのです。
ペトロの信仰告白
「あなたは私を神の子、メシアと信じるのか」、このことが、私たち一人一人に問われています。この問いに真剣に答えていくことが信仰の歩みなのです。そしてその私たちの歩みの先頭に立っている人がいます。それは、主イエスの弟子の筆頭であったシモン・ペトロです。ペトロはこの福音書の16章で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。主イエスに対する、最初の、はっきりとした信仰の告白を、このペトロが語ったのです。このペトロの信仰告白の言葉は、本日の所における大祭司の問い、「お前は神の子、メシアなのか」とぴったり一致しています。ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言いました。大祭司の言葉をそれに合わせて訳せば、「あなたはメシア、神の子ですか」となります。ペトロの言葉から「生ける」を取り、そして「ですか」という疑問文に変えれば、大祭司の問いになるのです。つまり、あのペトロの信仰告白の場面と、この大祭司のもとでの主イエスの裁判の場面とは、対照的なのです。大祭司は、主イエスから逆に「あなたは私のことを何者だと言うのか」と問われて、はっきりと主イエスをただの人間とし、神の子、メシアと信じることを拒みました。ペトロは、同じ問いかけを受けて、「あなたは救い主メシア、生ける神の子です」と信仰を告白したのです。私たちも同じ問いかけを受けています。主イエスからのこの問いかけに、ペトロと共に答え、ペトロの信仰告白を受け継いでいくのが信仰者です。本日も一人の姉妹が信仰を告白して洗礼を受けますが、それはこのペトロの信仰告白を自分の告白として受け継ぐ者となる、ということなのです。
ペトロの裏切り
私たち信仰者の先頭に立ち、私たちが受け継いでいる信仰告白を最初にしたそのペトロのことが、本日の箇所のもう一つの大事なテーマです。主イエスが捕えられた時、弟子たちは、ペトロも含めて皆逃げ去ってしまいました。しかしペトロはその後、主イエスを大祭司の屋敷へと連行する人々の後にそっとついていったのです。58節に、「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた」とあります。「イエスに従い」とある言葉は、弟子として従うという時に使われたのと同じ言葉です。ペトロはここでも、主イエスに従って行ったのです。しかし「遠く離れて」という言葉が、この時のペトロの状況を示しています。そして彼は、大祭司の屋敷の中庭で、主イエスの裁判の成り行きをそっと見守っていたのです。ところが、一人の女中が彼に、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言いました。するとペトロはそれを打ち消し、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言いました。さらに他の女中が周りの人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言うと、彼は、「そんな人は知らない」と誓って打ち消しました。しばらくしてまた周りの人々が、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」と言うと、彼は今度は、「呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた」のです。ここには、ペトロが三度にわたって、主イエスを「知らない」と言い、主イエスとの関係を否定してしまったことが、リアルに描かれています。ペトロの否定は、次第に大きく、強くなっていきます。最初は、「何のことをいているのか、わたしには分からない」と、しらばっくれるような言い方をしています。しかし二回目からは、「そんな人は知らない」とはっきり誓っています。そして三回目には、「呪いの言葉さえ口にしながら」、主イエスとの関係を否定したのです。この「呪いの言葉」とは、「もし自分の言っていることが間違いだったら呪われてもよい」という言い方をしてあることを誓う、ということでしょう。しかし後に教会に対する迫害が始まっていくと、キリスト信者でないことを証しするために、「イエスは呪われよ」という言葉が用いられるようになっていったのです。そのように、主イエスご自身を呪うことによって迫害を免れるということがあったのです。そういう背景から考えるならば、ペトロがここで呪いの言葉さえ口にしたというのは、「イエスなんて奴は呪われよ」と言ったと考えてもよいでしょう。「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白をしたはずのあのペトロが、そして35節では、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言っていたあのペトロが、このように主イエスを裏切り、主イエスとの関係を拒絶し、弟子であることを否定してしまったのです。
私たちはここに、人間の弱さを見ます。信じている、と思っていても、何か事が起ると、状況が変化すると、信じる心そのものが失われてしまう、信仰を貫けなくなる、「死んでも従います」などと勇ましいことを言い、その時には本当にそういうつもりでいたのだろうけれども、いざという時にはその通りにできない、恐怖に負けて挫折してしまう、ひよってしまう、そういう人間の弱さがここにありありと示されているのです。人間の決心、決意というものがいかに脆いものであるかを思い知らされるのです。そしてこのペトロの弱さ、脆さは、決して他人事ではありません。これはまさに私たち一人一人の姿です。信仰の歩みにおいて、私たちはいつもこのような自分の弱さを思い知らされます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と信じ、その信仰を告白して洗礼をうけて歩む信仰者としての人生においても、この弱さがいつも私たちにつきまとい、信仰を失わせ、主イエスとの関係を拒み、否定してしまう、弟子であることをやめてしまう、そういう挫折へと引きずり込もうとするのです。
ペトロの涙
ペトロが三度目に、「そんな人は知らない」と誓い始めた。「するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」。ペトロは泣いた、激しく泣いた。このペトロの涙は何を語っているのでしょうか。ペトロは激しく後悔した、自分は何ということをしてしまったのか、あんなに信じ、慕っていた主イエスを、すべてをなげうって従ってきた先生を、たとえ殺されてもどこまでもついていく、と本当に思っていたその主を、裏切ってしまった。三度も「知らない」と言ってしまった。呪いの言葉さえ口にして、関係を否定してしまった。そのことへの、悔やんでも悔やみ切れない思いが彼を捕えていたことは確かでしょう。自分の弱さ、ふがいなさ、偉そうなことを言っていてもいざとなると何の力もない、その情けなさに打ちひしがれたことも確かでしょう。けれども、彼のこの涙はそれだけのことではないと思います。彼は、鶏が鳴く声によって、目を覚まされたのです。それまで彼は、眠ってしまっていた。その眠りは、あのゲツセマネの園で、悲しみ嘆きつつ祈っておられる主イエスの傍らで、「目を覚まして祈って私を支えてくれ」と主イエスに頼まれていたのに、眠り込んでしまった、主イエスと共に目覚めて祈ることができなかった、そこから始まっていたと言うべきでしょう。主イエスが捕えられた時も、大祭司の裁判を受けている間も、ペトロの魂は眠り込んでしまっていたのです。その眠りの中で、彼は三度主イエスのことを、「そんな人は知らない」と拒んでしまったのです。そして今、夜明けを告げる鶏の声によって眼を覚ました、魂の眠りから目覚めたのです。目覚めた彼に見えてきたこと、眠り込んでいた間は忘れていたのに思い出したことがあります。それは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主イエスのお言葉でした。あの時彼は、「たとえ死なねばならなくなっても、そんなことは絶対に言いません」と断言しました。しかし結局主イエスの言われた通りになった。そのことに彼は愕然とし、泣いたのです。しかしその涙は、単なる悔恨の涙、自分の弱さを嘆く涙ではありません。このように弱い、情けない、不甲斐無い自分の歩みの全てが、実は主イエスのみ手の中にあった、主イエスは自分の歩みの全てを、偉そうなことを言っていても結局挫折してしまう弱さをも含めたその全体を、あらかじめ知っておられ、その自分をみ手の内に置いて下さっている、主イエスのみ言葉を思い出した時に彼はそのことに気付いたのです。そのことに気付いた時、彼は激しく泣いた。涙が、後から後からとめどなく流れて止まらなかったのです。主イエスのみ言葉を思い出して泣いた彼のこの涙は、後悔と絶望の涙ではないでしょう。後悔と絶望の中では、人は本当に泣くことはできないのではないでしょうか。むしろ、主イエス・キリストの驚くべき恵みに気付かされ、その恵みのみ心の中に、弱く、情けない、どうしようもない自分が置かれていることに目覚めさせられた時に、私たちは本当に泣くことができるのです。涙を流すことができるのです。犯した罪を本当に悔いることもそこでこそできるのです。
ペトロに続いて
ペトロは、復活された主イエスによってもう一度弟子として立てられ、そして使徒として、主イエス・キリストによる救いの恵みの証人として遣わされました。「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白が、このペトロによって広められ、伝えられて、主イエス・キリストを信じる信仰者の群れである教会の土台となっていったのです。しかし、本日のこの出来事の前と後では、ペトロにとっての、この信仰告白の意味は全く違います。これ以前は、ペトロにとって、信仰の告白は自分の決意であり、自分の力で努力して守り行っていくことでした。そのような歩みの結果が、あの、「そんな人は知らない」だったのです。しかしこれ以後は、信仰はもはや自分の決意や意志や努力における事柄ではありません。主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しの恵みに驚かされつつ、その恵みの中に自分が置かれていることを驚きつつ生きることです。自分の力で信仰者であり続けるのではなく、主イエスの恵みがどんな時にも自分を取り囲んでおり、自分の弱さや罪やその他すべてのことが、主のみ心の内に置かれていることを信じて歩む、そうなった時にペトロは、二度と再び主イエスのことを「そんな人は知らない」と言うことはなかったのです。ペトロはあの信仰告白において、私たちの先頭に立っています。しかしさらに、彼が主イエスのみ言葉を思い出して流したあの涙において、彼は私たちの先頭に立っているのです。ペトロの後に続いて信仰者として生きるというのは、私たちも、主イエスの恵みのみ言葉をいただく中で、この涙を流しつつ生きることなのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年7月6日]
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