富山鹿島町教会

礼拝説教

伝道礼拝
「枯れた骨の復活」
エゼキエル書 第37章1〜14節
コリントの信徒への手紙一 第15章50〜58節

枯れた骨
 預言者エゼキエルは、神様の霊に導かれて、幻を見ました。彼はある谷間へと導かれたのです。そこは、骨でいっぱいだった。おびただしい骨、しかも人間の骨が、そこらじゅうにころがっているのです。それらの骨は、甚だしく枯れていた、とあります。「枯れている」という言葉は、英語では「ドライ」です。乾いている、カサカサに干涸びている、それは、命の痕跡がもうどこにもないということでしょう。かつてはこれらの骨も、肉を帯び、筋がそれを繋ぎ、そこには血が流れ、瑞々しい皮膚がそれを覆い、命ある一人の人間だった、しかしその命がもはやない、この骨が生きた人間だったという痕跡がどこにも残されていない、それがこの、甚だしく枯れた骨です。火葬場で、亡くなった方の骨上げをしたことのある方は、あの骨を思い浮かべるかもしれません。火で焼かれていますから、あの骨も全く乾いています。そういう意味ではあの骨も「枯れた骨」です。けれどもあの骨上げの骨を思い浮かべていたのでは、エゼキエルがこの谷間で見た光景を正しくイメージすることはできないでしょう。特にこのごろの火葬場は、とても強い火力で一気に焼きますから、骨はほとんど粉々になってしまいます。骨上げの時には、わずかに、これが頭蓋骨の一部だとか、これは大腿骨だということがわかるぐらいです。今はわざとそれくらい粉々になるまで焼いてしまうのでしょう。エゼキエルがこの谷間で見た骨は、そんな粉々のものではありません。一つ一つ、一本一本の骨が、そのままの形でころがっているのです。学校の保健室によく人間の骨格の模型がありましたが、ああいう骨が、勿論模型ではなく本物が、バラバラになってころがっているのです。そういう骨が無数に、谷間を満たしているのです。そしてそれらの全てが、枯れ果てている。命のない屍として横たわっているのです。火葬場の骨は、乾いているけれども同時に、火で焼かれたことによる清潔感があります。しかしこれらの枯れた骨が感じさせるのは、そういう清潔感ではありません。枯れているとは、もう生きて動くことができない、見ることもできない、口を開いて語ることもできない、愛することもできない、そういう命の営みの一切が失われた、命の枯渇です。枯れて干涸びた骨の群れはそういう絶望、虚しさを訴えています。頭蓋骨の、目のあったあとの窪みが、その絶望、虚しさを訴えつつ虚空を見つめているのです。そしてそれらの動くことのない骨の間を吹き抜ける乾いた風の音だけが、この谷間に聞こえる唯一の物音です。それはかえってこの谷間を支配している沈黙、命のしるしである物音を全く失った絶望の沈黙を際立たせています。この谷間は、死と絶望が支配する沈黙の世界なのです。
 これらの骨は、年老いて、あるいは病気で、自然に死んだのではありません。天寿を全うして死んだのではないのです。9節に、「これらの殺されたもの」とあるように、彼らは殺されたのです。まだまだ生きることができるはずだったのに、生きたかったのに、その命を奪われたのです。つまりこの谷間で、多くの人々が虐殺されたのです。その悲しみが、恨みが、一つ一つの骨にまつわりついているのです。最近も、イラクで、フセイン政権下で虐殺された人たちの遺体が多数埋められているのが発見されたというニュースがありました。そのような、虐殺された無数の人々の白骨化した死体のあり様こそ、エゼキエルがこの幻において見た枯れた骨に最も近いと言えるでしょう。要するにこれは、目を覆いたくなるような、到底直視することができない光景なのです。

我々の骨は枯れた
 これらの枯れた骨の群れは、過去において殺された、虐殺された人々なのではない、それは実は今生きている人々、預言者エゼキエルがその一員であるところの、イスラエルの民の今の姿なのだ、ということが11節に語られています。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と」。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」とイスラエルの民は言っている。預言者エゼキエルが活動していたこの時代、イスラエルは、バビロニア帝国によって既に国を滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕え移されていました。自分たちの国を失い、敵の国に捕虜として連れて来られてそこで苦しい生活を強いられている、いわゆる「バビロン捕囚」の時代です。エゼキエル自身も、捕囚として故郷から引き離され、バビロンに連れて来られているのです。イスラエルの民は今、そういう苦しみ、民族としての存続の危機の中にあります。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆かずにはいられないような現実を彼らは体験しているのです。しかしそれは、この時のイスラエルの民だけの話でしょうか。私たちはこの枯れた骨に満ちた谷間を、昔虐殺された人々の話を聞くように、例えばアウシュヴィッツに代表されるナチスによるユダヤ人大量虐殺の話を聞くように、あるいはフセイン政権によるイラクにおける虐殺のニュースを聞くように、「恐ろしいことだ」と思いつつ、しかし自分たちとはかけ離れた他国の出来事として眺めているだけですむのでしょうか。いや、イスラエルの人々にとって、これらの枯れた骨の群れはまさに今生きている彼ら自身の姿だったように、私たちも、ここに私たち自身の現実を、まさに自分自身の姿を見つめざるを得ないのではないでしょうか。私たちは国を滅ぼされて他国に連れ去られているわけではありません。しかし外面的には豊かで平和な時代を生きているように見える私たちのこの社会が、実は様々な点において危機に瀕している、いやそれどころか、既にあそこでもここでも、崩壊が始まっている、ぼろぼろと崩れ去り始めているということを私たちは感じているのではないでしょうか。そして何よりも私たち自身が、自分の生活、人生の営みにおいて、そこにおける人との関係、交わりにおいて、それまで頼みとしていたもの、確かだと信じていたものががらがらと音をたてて崩れ去っていくような体験を、そしてそれをどうしたらよいのかわからない、どうすることもできないという苦しみを味わっているのではないでしょうか。経済的な混迷、不況の中で、生活の基盤が失われていく、という形でそれを味わっている人もいるでしょう。老いや病による肉体の衰えということにそれを感じている人もいるでしょう。愛する者の病気や死において、人生の支えを失った思いをしている人もいるでしょう。あるいは様々な人間関係の破れの中でそれを味わっている人もいるでしょう。それぞれに形は違っても、私たちは皆、自分の人生の中心、骨格において、まさに「骨が枯れる」ような思いをしているのではないでしょうか。旧約聖書、箴言の17章22節に、「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる」とあります。後半の部分は、以前の口語訳聖書では、「たましいの憂いは骨を枯らす」となっていました。まさに私たちは、骨を枯らすような魂の憂いを覚えつつ、乾いた骨をギシギシときしませながら日々を生きているのではないでしょうか。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」というイスラエルの民の嘆きは私たちの嘆きでもあるのです。

あなたのみがご存じです
 この枯れた骨の谷間を行き巡っているエゼキエルに、主なる神様は、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と問いかけられます。命の痕跡が全く失われた、干涸びた骨の山、それがもう一度生き返り、瑞々しい命を得ることができるのか、絶望と沈黙が支配しているこの谷間に、再び人々の生きて活動する物音が、語り合う声が響くことはあり得るのか、それを神様が私たちに問いかけられるのです。私たちはその問いにどう答えるのでしょうか。「そんなことはあるはずがない、無理だ、死んだ者は生き返らない、枯れた骨が再び命を得ることなどあり得ない」、それが、私たちの答えでしょう。私たちが知っていること、常識、私たちの経験や考え、そういうものを総動員しても、得られる答えはそれしかないのです。けれども聖書は、そこにもう一つ別の答えがあることを教えています。その答えは、決して難しいことではありません。人間の常識や知識を否定する別の何かを打ち立てるようなことではありません。ニュートンの力学の常識を覆す相対性理論を打ち立てたアインシュタインのような天才でなければ得られない答えではないのです。その別の答えとは、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」ということです。枯れた骨が復活することができるか、それは私たちの常識からすれば、とうてい不可能なことです。あり得ないのです。だから私たちは、「我々の望みは失せ、我々は滅びる」と言うしかないのです。けれども、その私たちになお残されている可能性は、その人間の常識、私たちの知識や経験から来る結論を、絶対的なものとしない、ということです。枯れた骨が生き返ることはない、という私たちの絶望を絶対不変のものとするのではなく、神様の力と働きの余地がなおそこにはある、と認めることです。それは、「神様が死者を必ず復活させて下さる」と固く信じることとは違います。そういう確信というのはむしろ、神様を人間の知識の一部にしてしまうことであり、人間の傲慢です。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」という答えは、そういう確信を語っているのではありません。そうではなくて、枯れた骨が生き返るのか、それはわたしにはわかりません、と言っているのです。しかしそれは、「そんなことはあり得ない」という絶望でもありません。わたしにはわからないが、神様あなたがそれをなさるならば、そういうことも起こり得ます、ということです。つまりこの答えは、人間にはとうてい不可能としか思えない救いを、神様は与えることができる、そのことを見つめ、その神様の救いの力に期待をかけているのです。人間が神様の前で本当に謙遜になるとはこういうことではないでしょうか。そしてエゼキエルがそのように答えることができたのは、神様が彼に敢えて、「これらの骨は生き返ることができるか」と問いかけて下さったからです。神様は、この答えを引き出すために、この問いをなさったのです。同じ問いかけが私たちにも与えられています。この問いかけに、「そんなことあるはずがないではないか」、と答えるのではなく、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えていくこと、それが聖書の教える信仰です。そしてそれは決して難しいことではないでしょう。人間の、私たちの思いや常識を絶対的なものとすることをやめさえすればよいのです。それらを括弧に入れて、それを超える神のお働きを願い求めていく、ただそれだけのことなのです。

預言せよ
 「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えたエゼキエルに、神様はこう言われました。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」。枯れた骨の群れに向かって「預言せよ」と神様は言われるのです。聖書において「預言」というのは、これから起ることを言い当てることではありません。神様のみ言葉を宣言することが預言です。つまりエゼキエルは、神様のみ言葉を語るように命じられたのです。そのみ言葉は、神様が枯れた骨を生き返らせて下さる、ということです。人間の常識ではとうてい不可能としか思えない、そんなことあり得ないと思わざるを得ないことを、神様がして下さる、と語るようにエゼキエルは命じられたのです。しかもそれは、誰か生きた人間に向ってではありません。これらの枯れた骨に向ってです。命の痕跡が全くない、誰も聞く人がなく、死の沈黙の支配しているこの谷間に、「おまえたちは生き返る」というエゼキエルの声が響き渡るのです。それは、虚空に向って語りかけるような、まことに虚しいことです。けれども、彼がその虚しさに耐えつつ神様のみ言葉を語っていると、物音一つしない、死の沈黙に支配されていたはずのこの谷間に、新しいことが起っていったのです。枯れ果てて横たわっていた骨がカタカタと音を立てて動き始めたのです。骨と骨とが寄り集まり、そこに筋と肉が生じ、皮膚がそれを覆い、人間の姿になっていったのです。枯れた骨の群れはこうして、人間の体の群れとなりました。しかしそこにはまだ命はありません。これだけなら、骨よりももっと気味の悪いゾンビの群れです。この体が生きたものとなるために、神様はもう一度エゼキエルに、預言することを、神様のみ言葉を語ることを求められたのです。

霊、息、風
 9節から10節、「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る』。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」。霊が体に入ることによって人間は生きた者となる、ということがここに語られています。この「霊」という言葉は、「息、息吹」と訳すこともできるものです。創世記第2章7節に、神様が最初に人間をお造りになった時、土の塵で体を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きた者となった、とあります。そこでの「命の息」とここでの「霊、息」とでは言葉は違いますが、内容的には同じことを言っています。私たちが生きているのは、神様から命の息をいただいているからです。その息が取り去られれば、死んで、元の土の塵に帰っていく、それが人間なのです。それは日本語において、「まだ息がある」とか「息を引き取る」という言い方に現れている感覚と同じだと言えるでしょう。死んだ者たちは、命の息を取り去られたのです。その息が再び吹き入れられることによって、枯れた骨は生きた人間へと復活するのです。この「命の息吹」が、「霊」という意味をも持つ言葉であるところに注目したいと思います。そしてこの言葉はさらに、「風」という意味をも持っています。ここに、「霊よ、四方から吹き来れ。これらの殺されたものの上に吹きつけよ」と言われているのは、その「風」という意味と結びついてのことです。風が吹き来たり、吹きつけるのです。それによって、霊が、命の息吹が吹き入れられるのです。このことが教えているのは、私たちを生きた者とする息、あるいは霊は、私たちの中にもともとあるものではないし、私たちの中から湧き上がって来るものでもない、ということです。「霊」というと、霊魂、魂、とのつながりも感じられるわけで、それは私たちの中にもともとあるものだ、しかし普段はあまり意識もしていないし、気付いていない、何かのきっかけでそういう人間の深い部分に気付いて、それを意識していくことが大事だ、というような話になっていきます。外面的な生活のことばかりにあくせくしていないで、魂の問題も考えよう、というようなことです。しかし聖書が見つめている霊は、そういう人間の魂と、重なる所もありますが、根本的には違うものです。それは、もともと私たちの中にあるのではなく、外から、神様から与えられるものなのです。風というのは外から吹いてきて、私たちがそれを感じるものです。そのように霊も、外から、神様から吹いて来て、私たちの中に入り、そして私たちを生かすものなのです。私たちを生かす命の息吹は、神様から吹き来るものであって、私たちはその神様の風によって新しく生かされていくのです。枯れた骨の群れに、この神様からの息吹、神様の霊が吹き来り、それによって枯れた骨が生き返り、死の世界だったこの谷間が、生きた大群衆によって満たされていった、それが、エゼキエルの見た幻だったのです。

神の霊の息吹によって
この幻は、故郷を追われ捕囚の苦しみの中で、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆いているイスラエルの民のために示され、与えられました。まさに骨が枯れるような苦しみの中にある彼らに、主なる神様が、その霊の息吹を、命の息吹を吹き来らせて下さる、その時この民は、新しくされ、生かされ、瑞々しい命を与えられ、神様の民として再出発することができる、そういう救いの希望をこの幻は指し示しているのです。そしてそれは、私たちのために与えられている幻でもあります。私たちも、骨を枯れさせるような魂の憂いの中を生きています。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆かずにはおれない現実が私たちの上にも重くのしかかっているのです。しかしその枯れた骨のような私たちに、生き返る望みが、新しくされ、瑞々しい命に生きる者となる希望が与えられているのです。その希望はどこから来るのか。それは、私たちの内側からではありません。私たちの心の中をどんなに探しまわっても、そのような希望を見いだすことはできません。私たちが知っている人間の知識や常識、それを総動員しても、そこで得られる結論は、枯れた骨が生き返ることなどあり得ない、不可能だ、ということなのです。私たちの本当の希望は、外から来るのです。神様から、神様の霊の息吹として、聖霊の風として、吹き来るのです。

復活の希望
 本日共に読まれた新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第15章50節以下は、この希望を与えられ、それによって生かされている人の言葉です。ここでは具体的に、死者が復活する時が来る、と語られています。最後のラッパが鳴るときに、つまりこの世の終わり、終末において、死んだ者は復活し、朽ちるものが朽ちないものへと変えられ、死ぬ者が死なない者へと変えられる。死の支配は打ち破られ、神様が与えて下さる命こそが支配する新しい世界が与えられるのだ、と語られているのです。これを初めてお読みになる方は、なんと突拍子もない、荒唐無稽なことを言っているのかとお思いになるでしょう。私もそう思います。ここに語られていることは、エゼキエルが見た、枯れた骨の復活の幻と同じような、考えられないことです。どうしてそんなことを信じることができようかと思えるようなことです。けれども、神様の霊の風、息吹が吹き来たり、私たちを満たす時に、私たちはこの希望に生きる者とされるのです。本日のエゼキエル書の箇所の最後のところに、「そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」とあります。聖霊の風が吹き来る時に、私たちは、主なる神様ご自身が語り、行って下さったみ業を示されるのです。そのことが私たちにも起こります。私たちが今聖霊の息吹によって示されるのは、主なる神様が、その独り子であられるイエス・キリストを、私たちのためにこの世に遣わして下さり、その主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことです。神様はその主イエスの十字架の死によって、私たちの罪を赦して下さいました。そしてその主イエスを死者の中から復活させ、死に勝利する新しい命の先駆けとして下さったのです。神様は、この独り子主イエスの十字架の死と復活とによる罪の赦しと新しい命の恵みによって、枯れた骨のような私たちを、神様の民として新しく生かして下さるのです。神様の霊の風は、このみ業を私たちに告げ示してくれます。それによって私たちは、神様の命の息吹にふれるのです。その息吹が私たち一人一人の心に、魂の奥深くに吹き入れられ、私たちを新しく生かすのです。そして主イエスが先駈けとなって下さった復活に、私たちも、終わりの日に、共にあずかる、その希望に生きる者とされるのです。

枯れた骨の復活とは
 神様の命の息吹を与えられて新しくされ、復活への希望に生きる私たちの生活にも、なお様々な苦しみ悲しみが付きまといます。地上を歩む限り、私たちの人生には、骨を枯らすような魂の憂いがあり続けるのです。けれども、私たちのために十字架にかかり、そして復活された主イエス・キリストに結ばれて生きるならば、私たちは希望を失うことなく歩み続けることができます。コリントの信徒への手紙一の15章の最後に、「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とあります。私たちの思いや力、人間の常識を越えて恵みのみ業を行って下さる神様に信頼して、このように希望を失うことなく、忍耐しつつ主の業に常に励んでいく、神様の命の息吹によって私たちの枯れた骨が復活するというのは、そういうことなのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年6月29日]

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