祈りの場へ
今私たちは、マタイによる福音書第26章の、主イエスの受難の物語を礼拝において読み進めています。先週のペンテコステ記念礼拝においては、いわゆる「最後の晩餐」の中で主イエスが弟子たちにパンと杯を与え、今日私たちが礼拝において行っている聖餐を定められたことを読みました。その最後の晩餐は、木曜日の夕食です。その夜の内に主イエスは逮捕され、翌日の金曜日には、十字架につけられていくのです。本日与えられている31節以下は、最後の晩餐と主イエスの逮捕の間のことを語っています。30節に、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」とあります。最後の晩餐は「過越の食事」だったと先週も申しましたが、その食事の最後に歌う賛美の歌は決まっていたようです。旧約聖書の詩編の一部です。主イエスと弟子たちは、その賛美歌を歌って過越の食事を終え、エルサレムの市街を出て、オリーブ山へと向かわれたのです。と言っても、その山に昇るためではありません。36節には、「ゲツセマネという所に来て」とあります。それはオリーブ山の麓にある園です。主イエスはそこを祈りの場としていつも用いておられたらしいのです。その祈りの場へ、祈るために行かれたのです。最後の晩餐の後、逮捕されるまでの間に主イエスがしておられたことは、祈りだったのです。それはどれくらいの時間だったのでしょうか。主イエスの逮捕は、弟子の一人だったユダの手引きによって行われました。ユダは、最後の晩餐の席に共にいます。主イエスが食事を終えていつもの祈りの場へと向かうことを確認した彼は、今こそ、人目につかない所でイエスを逮捕するチャンスと思ったのです。彼は一行の中からいつのまにか姿を消し、祭司長や長老たちのもとに走り、その差し向けた手勢を引き連れてゲツセマネへと向かったのでしょう。彼らが到着し、主イエスを逮捕したのは数時間後、もう深夜だったでしょう。それまでの間、主イエスは祈り続けておられたのです。
つまずきの予告
さてそのゲツセマネへと向かう途中で、主イエスが弟子たちに重大なことを言われたことが31節以下に語られています。主イエスは、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われたのです。「つまずく」というのは、つまずいてころんでしまうことです。主イエスに従っていく弟子としての、信仰の歩みにおいて、ころんでしまうのです。その道を歩み続けることができなくなってしまうのです。日本のキリシタン迫害の時代に、迫害に耐えられなくなって信仰を捨てることを「転ぶ」と表現しました。弟子たちみんなにそういうことが起ると主イエスは言われたのです。しかも、「今夜」です。もう数時間後には皆、転んでしまい、主イエスに従うことをやめてしまうのだと言われたのです。そして主イエスは、旧約聖書の言葉を語られました。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」。この言葉は、本日共に読まれたゼカリヤ書13章7節です。しかしお気付きのように、ゼカリヤ書には、「羊飼いを打て、羊の群れは散らされるがよい」となっています。「打て」という命令が、「わたしは打つ」という宣言に変えられているのです。つまり主イエスは、これから起る弟子たちのつまずきは、神様が羊飼いである主イエスを打たれるために、羊の群である弟子たちが散らされてしまう、という出来事なのだと言っておられるのです。主イエスが捕えられ、十字架につけられていく、それは父なる神様のご意志、ご計画によってなされることです。それによって、主イエスに従ってきた弟子たちが散らされてしまう、羊飼いがいなくなったとたんに羊の群れが四散してしまうようなことが起るのです。ということは、弟子たちがつまずくのはやむを得ないこと、必然的なことなのだと主イエスは言っておられるのです。しかしそれを聞いたペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いました。「私は大丈夫です。他の者たちが皆あなたを捨てたとしても、私だけは絶対にあなたから離れたりしません」と言ったのです。主イエスはそのペトロにさらに、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われました。今夜、鶏が鳴く前に、つまり夜明け前に、三度、わたしのことを「知らない」と言う、つまり、徹底的に、主イエスとの関係を否定し、自分は関係ないと見捨てるのだと言われたのです。ペトロは躍起になってそれを否定します。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。ずいぶんはっきりと、激しく断言したものです。しかし結局、主イエスの言われた通りになったことを、私たちは知っています。そのことについては、もう少し先へ行ったところで読むことになります。
悲しみもだえる主イエス
36節からは、先程申しましたように、ゲツセマネという所での主イエスの祈りの場面です。主イエスは、ペトロと、ゼベダイの子二人、ヤコブとヨハネ、つまり弟子たちの中でも最も主イエスの側近くにいつもいた三人を伴って祈りに行かれたのです。「そのとき、悲しみもだえ始められた」とあります。そしてペトロら三人に、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われたのです。この主イエスのお姿を、私たちはしっかりと見つめなければなりません。主イエスは、悲しみもだえておられるのです。それは、十字架の苦しみと死がいよいよ目前に迫ってきたことによってです。まもなく、捕えられ、悪意に満ちた裁きを受け、肉体的にも精神的にもひどい侮辱を受け、そして十字架を負わされて歩かされ、手足を釘打たれて十字架にはりつけにされ、苦しみの中にじわじわと死んで行く、そういう道が目の前にはっきり見えているのです。主イエスにとってもそれは、悲しみもだえずにはおれない、恐怖だったのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言っておられます。悲しみのあまり死にそうになる、それは深い絶望です。泣きわめいて自暴自棄になってしまいそうになるような状態です。主イエスは、そういう悲しみを味わわれたのです。私たちはこのことをどうも軽く考えてしまいがちです。主イエスの苦しみや悲しみをあまり真剣に受け止めないで、イエス様は神様の独り子なんだから、十字架にかけられて殺されても三日目には復活することを知っているんだから、大したことではないのではないか、などと考えてしまいがちなのではないでしょうか。そこには、神の独り子であられる主イエスが、悲しみもだえるとか、死ぬばかりに悲しいなどというのは相応しくない、救い主らしくない、という感覚も働いているように思います。しかし聖書は、主イエスのこのような悲しみ苦しみのお姿をはっきりと語っているのです。そのことを私たちは目を開いてしっかりと見つめなければなりません。
支えを求める主イエス
そしてその悲しみの中で主イエスが、ペトロたちに、「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われたこともまた、しっかりと見つめるべき大切なことです。こんなふうにおごそかに訳されていますが、もっと卑近な言葉で訳せば、「ここにいてくれ、一緒に目を覚ましていてくれ」ということです。つまり主イエスは、死ぬばかりの悲しみにもだえながら、弟子たちに、一緒にいてわたしを支えてくれと頼んでおられるのです。弟子たちの支えと助けを求めておられるのです。これもまた、私たちが意外に思うことかもしれません。弟子たちは主イエスに教えられ助けられ支えられてようやく歩んでいる者なのであって、その弟子たちに主イエスが助けを求めるなんてことがあるだろうか、と思うのです。しかしここで主イエスはまさに、弟子たちの支えと助けを求めているのです。その助けとは何でしょうか。「目を覚ましていなさい」とあります。父なる神に祈っておられる主イエスと共に目を覚ましていることが助けになるのです。それは、41節の「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」という言葉からもわかるように、祈ることです。主イエスと共に、眼を覚まして祈ること、それが、悲しみもだえる主イエスの支え、助けになるのです。一緒に祈って支えてくれと主イエスは彼らに願われたのです。
主イエスの戦い
主イエスがこの死ぬばかりの悲しみの中で祈られたこと、それが39節に語られています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。「この杯」というのは、これから起ろうとしている主イエスの受難、十字架の死のことです。できることならそれをわたしから過ぎ去らせてくださいと祈っている。つまり、十字架につけられ、殺されなくてもすむようにしてほしい、という願いです。それが、主イエスの切なる願いなのです。「しかし」とこの祈りは続きます。「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。これは直訳すると、「わたしの意志するようにではなく、あなたが意志するように」となります。わたしの意志、願いは、この杯を過ぎ去らせて下さること、十字架の死を免れることです。しかし、その私の意志をではなく、あなたのご意志を行ってください、そしてわたしがそれに従うことができるようにしてください、と主イエスは祈られたのです。この主イエスの祈りは、激烈な信仰の戦いの場です。私たちの祈りは、神様に自分の思いや願いを投げかけているだけということが多いのではないでしょうか。そういう祈りをしてはいけないということはありません。自分の願いを神様に向かって語ることは信仰の大事な要素です。しかし、そういうことだけの祈りは、ともすれば独り言に終わってしまいます。要するにそこには戦いが起らないのです。祈りが本当に神様との対話となるためには、主イエスの祈りの後半の部分、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」が必要なのです。神様の御心、ご意志はどこにあるのかを求め、それに従っていこうとすること、それが信仰です。それに従っていこうとする時に、自分の思い、願いとのぶつかり合いが起るのです。そこに戦いが生じます。祈りは信仰の戦いの場となるのです。私たちはしばしば、自分の思いや願いをそのまま神様の思いにしてしまいます。そうなると、祈りは戦いではなくなります。緊張感もなくなります。そして、別に祈らなくてもいいや、ということになるのです。しかし、神様の御心、御意志を本当に祈り求めていこうとする時に、それが自分の思いや願いとは違うことに気付かされるのです。その葛藤、戦いにおいてこそ、信仰は本物となっていくと言えるでしょう。ゲツセマネの祈りは、主イエスご自身が、この信仰の戦いを祈りにおいて戦われたことを示しています。私たちがここで見つめなければならないのは、主イエスにとっても十字架の死は悲しみであり恐怖だったのだ、ということだけでなく、主イエスはその悲しみの中で父なる神様のみ心に従っていくための戦いを、祈りにおいて戦い抜かれたということなのです。42節の、主イエスの二度目の祈りの言葉、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」は、主イエスがこの戦いにおいて、悲しみと恐怖を乗り越えて、父なる神様のご意志に従って歩む信仰を貫かれたことを現しています。「あなたの御心が行われますように」という祈りこそが、この後の主イエスの十字架の死への歩みの全てを支えているのです。
「主の祈り」
主イエスはこのように、祈りにおける信仰の戦いに勝利されました。それは神様の独り子であられる主イエスだからこそできたことで、私たちにはとても真似できない、と私たちは思います。そういう意味で、このゲツセマネの祈りは私たちの祈りとは全く次元の違う祈りだと思ってしまうのです。しかしそれは違います。主イエスのこの祈りは、何も特別な、主イエスだけが祈ることのできるようなものではありません。「あなたの御心が行われますように」という祈りが、信仰の戦いにおける主イエスの勝利を示していると申しましたが、これは、主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」の中の一つです。私たちが祈っている言葉で言えば、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。この祈りのもとの言い方は、5章10節にあるように、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です。主イエスがゲツセマネで祈られたのと全く同じ祈りを、私たちは毎日祈っているのです。主イエスがあの死ぬほどの悲しみの中での厳しい信仰の戦いに勝利されたのは、この「主の祈り」によってだったのです。主の祈りを弟子たちに、そして私たちに教え、与えて下さった主イエスは、この戦いと勝利へと私たちを招いて下さっているのです。あの主の祈りを本当に真剣に祈る時に、私たちは主イエスのゲツセマネにおける戦いと勝利にあずかることができるのです。ゲツセマネの祈りは、私たちに与えられている主の祈りがどれほど大きな力を秘めた、すばらしい恵みであるかを教えていると言ってもよいのです。
眠り込む弟子たち
さて、目を弟子たちの方に移したいと思います。彼らは主イエスから、一緒にいて眼を覚まして祈って私を支えてくれと頼まれました。けれども彼らは、主イエスと共に眼を覚ましていることができず、眠り込んでしまいました。主イエスはその弟子たちの姿を見て、「誘惑に陥らぬよう、眼を覚まして祈っていなさい」と言われました。眼を覚ましているとは、祈っているということです。眠り込んでしまうとは、祈りを失ってしまうことです。彼らが陥った誘惑は、祈らなくなってしまうという誘惑だったのです。祈りを失ってしまったことによって、彼らは、祈りにおいて信仰の戦いを戦っておられる主イエスをお支えすることができませんでした。そしてそれは、主イエスを支えることができなかっただけでは終わりませんでした。彼ら自身にもこの後、主イエスが今味わっておられる悲しみ苦しみ恐怖が襲いかかって来たのです。ゲツセマネの主イエスと同じように、自分の願いや思いと神様のご意志との葛藤の内に、どちらに従うかという戦いを迫られていったのです。その戦いにおいて、彼らは無惨に敗北してしまうのです。あれほど勇ましいことを言っていたペトロも、三度、主イエスを知らないと言ってしまうのです。その原因はどこにあったか。それは、彼らの決意や信仰が足りなかった、勇気がなかった、というようなことではありません。原因は、彼らが祈りを失ってしまったことにあるのです。このゲツセマネで、主イエスと共に眼を覚まして祈っていることができなかったことが、彼らの挫折の根本原因なのです。主イエスと共に、「あなたの御心が行われますように」と祈ることができなかった、つまり、主の祈りを真剣に祈りつつ歩むことができなかった、そのことが、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と宣言した、そしてその時には本当にそう決意していたのだろうペトロが、その夜の内に三度主イエスを知らないと言ってしまったことの原因なのです。
霊と肉
主イエスは41節後半で、「心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。私たちはこのお言葉をしばしば簡単に、「心においては主イエスに従い、祈り続けようという信仰を持っているが、肉体の弱さによって挫折してしまう、眠り込んでしまう」というふうに理解してしまいます。しかし、ここで言われているのはそのような、心と体の対立ということではありません。「心」と訳されている言葉の原語は「プネウマ」です。この言葉は来週行われる「リードオルガンとダンスのコラボレーション 息吹」のチラシに書かれています。「息吹」の訳として、プネウマという言葉が記されているのです。そのもともとの意味は、「息吹、息」、あるいは「風」です。そこから「霊」とも訳されます。ですからこの41節は、「霊は燃えても、肉体は弱い」と訳せるのです。一方、「肉体」と訳されている言葉は「肉」という言葉ですが、それは単なる「肉体、体」よりももっと広い意味を持っています。少し大胆に言えば、「人間的なもの」の全体を表すとも言えるのです。聖書においてこの「肉」はしばしば「霊(プネウマ)」と対比されて語られます。それは決して心と体の対比ではありません。霊は人間の心ではなくて、神の霊、神が人間に与えて下さる霊を意味します。ですから霊と肉の対比とは、人間において、神が与えておられる霊的なものと、人間がもともと持っている人間的なものとの対比なのです。そういう意味では、心も、それが人間のもともと持っている心であれば、体と同様に肉に属すると言わなければなりません。霊というのは、神様が与えて下さる心、神様との関わりにおいて、つまり信仰において生きようとする心なのです。このことを、先程申しましたこととの関連で言えば、神様との対話である祈りを失い、眠り込んでしまう心が肉であり、眼を覚まして祈っている心が霊である、ということです。その霊である心は、神の霊、神の息吹である聖霊のお働きによって私たちに与えられます。祈りにおいて、聖霊の働きを受けつつ生きるときに私たちは、霊に燃えて生きることができるのです。しかし、祈りを失い、聖霊の息吹を受けることができなくなっていくときに、私たちの心は肉の弱さの内に眠り込んでいってしまうのです。ですから必要なことは、いっしょうけんめい心を燃え立たせて肉体の弱さと戦うことではなくて、神様の息吹、聖霊のお働きを豊かに受けることなのです。そのために、眼を覚まして祈ることが求められているのです。来週のコラボレーション「息吹」が、聖霊の息吹を豊かに受ける時となるように、祈りつつ備えていきたいと思います。
主イエスの恵みによって
弟子たちが祈りを失い、眠り込んでしまっている中で、主イエスは「あなたの御心が行われますように」という祈りの戦いを戦い抜き、勝利されました。弟子たちは主イエスのために何の力にもなれませんでした。主イエスはただお一人で、この戦いを戦い抜かれたのです。その戦いは誰のためでもない、私たちのためでした。主イエスが、父なる神様の御心に従って、十字架の死への道を歩み通して下さったことによって、私たちの罪が赦され、私たちが、罪の支配から解放されて、神様の恵みの下に新しく生きることができるようになったのです。そのために主イエスが、死ぬばかりの悲しみにもだえつつ、祈りの戦いをしておられるのに、何の手助けも、支えもすることができずに眠り込んでしまっている、それが私たちです。「箸にも棒にもかからない」とはこういうことを言うのでしょう。しかし、そのようなどうしようもない、箸にも棒にもかからない私たちのために、独り子イエス・キリストが十字架の苦しみと死とを受けて下さることが、父なる神様の御意志であり、主イエスは、その御心が行われますようにと祈って、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。私たちは、主イエスと共に目覚めて祈ることができずにしばしば眠り込んでしまいます。しかし主イエスは、そのような私たちと共にいて下さり、私たちのために祈っていて下さり、そして私たちを、「あなたの御心が行われますように」という祈りへと招いていて下さるのです。眠り込み、祈りを失ってしまう私たち、主イエスにつまずき、「知らない」と言ってしまう私たちを、主イエスは決してお見捨てになりません。弟子たちがつまずき、散らされてしまうことを予告された主イエスは、しかしそれに続いて32節で、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われました。主イエスにつまずき、祈りを失い、肉の弱さの中で主イエスとの関係を否定してしまうような私たちを、復活された主イエスが、先回りして、迎えて下さるのです。「わたしは決してつまずきません」という私たちの決意ではなく、この主イエスの恵みこそが、私たちの信仰を、祈りの生活を支えるのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年6月15日]
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