破局への不安
「世の終わりに備える」という題を掲げました。本日から私たちが読んでいくマタイによる福音書第24章には、主イエス・キリストが、この世の終わりについて教えられたみ言葉が記されています。この世の終わり、それは私たちにとって、全く現実からかけ離れた、荒唐無稽な小説の世界、あるいはいかがわしいカルト宗教が人をおどかして信者を獲得しようとして語っていることのようにも思えます。この世の終わりをあまり強調しすぎる教えには気をつけた方がよい、ということは事実だと思います。けれども、主イエスが本日のところで世の終わりの前兆として起ると言っておられるいくつかのことが、今まさに私たちに不安と恐れを与えているということも事実です。6節に、「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが」とあります。今週中にも、アメリカのイラク攻撃が始まるかもしれない、今はその瀬戸際にあります。国連の安全保障理事会はどういう結論を出すのか。アメリカは国連を無視して攻撃に踏み切るのか。一貫してブッシュを支持してきたイギリスのブレア首相はお膝元が危うくなってきてどうするのか。アメリカはイギリスなしで単独で戦争を始めるのか。そして日本はどうするのか。北朝鮮の脅威もあって、日本はアメリカに黙ってついていくしかないのか。それらのことが今まさに土壇場を迎えているのです。その、戦争の不安、恐れの中で、平均株価がついに八千円を割り込むという事態になりました。そこに端的に現れているように、今私たちは、この社会は、戦争と、それによる破局への恐れ、不安の中にいるのです。7節には、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」とあります。これもまた、今世界のあちこちで起っていることです。大きな地震が世界の各地で立て続けに起っている。いよいよ主イエスが言われた世の終わりが近づいているのだろうかと思わされます。そして12節には、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」とあります。これもまたまさに、今の世相にぴったりあてはまることです。先日も、国会議員が逮捕されました。国民を指導する立場にある者たちの間で、その地位を利用して私腹をこやすようなことが立て続けに起っています。そういう点では潔癖な、まじめなところだと思っていたわが富山県でもそういう事件が起りました。そういうことが起るたびに、綱紀の粛正が叫ばれますけれども、不正はいっこうに減らない、むしろ増えていくばかりです。これはもう、社会の根本的なところでタガが外れてしまっているとしか思えない。そのような不正がはびこっている社会においては、真面目にやっていることが馬鹿らしく思えていくのです。「多くの人の愛が冷える」とはそういうことでしょう。人を愛し、人のために、社会のために生きようとする思いが、特に若者の間からどんどん失われていく、そして自分のことしか考えない、またその場その場の楽しみばかりを追い求める刹那的な生き方が広がっているのです。このままではこの社会は、この国はどうなってしまうのか、という恐れ、危機感を懐かずにはおれません。そしてそのような社会においては、11節にあるように、「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす」のです。今日の偽預言者は、いわゆるカルト宗教の教祖のことだけではありません。テレビを中心とするマスコミに登場する「評論家」たちがそれぞれ好き勝手なことを放言しています。そういうものが無批判に受け止められて世論を形成していくということが起ります。偽預言者というのは、旧約聖書の時代も今も、多くの人々に喜ばれるような、耳ざわりのよいことを語るのです。ですから、視聴率を上げることが至上目的であるテレビ番組にこれほど相応しい存在はないのです。そういうものに惑わされると大きな間違いを犯すことになります。そして何よりも恐ろしいのは、そういう偽預言者がはびこることによって、何も信じられなくなることです。カルト宗教の呪縛からようやく抜け出した人が、「もう宗教なんかこりごりだ」という思いになってしまうように、偽預言者は、本物の預言者、本当の神の言葉に耳を傾けようという思いを奪うという結果をもたらすのです。
このように見てくると、主イエスがここで語っておられる、世の終わりの前兆、世の終わりが来る前にこのようなことが起るということはことごとく、今の私たちの社会に当てはまると言わなければなりません。そして私たちは、たとえ主イエスのこのみ言葉を知らなくても、このような社会の、人間の現実の中で、漠然とした、破局への不安を感じ、崩壊、終わりへの予感におののいているのではないでしょうか。このままではすまない、どこかで終わりが来る、破局が訪れる、そういう感覚が私たちの中には共通してあるのではないでしょうか。今年は鉄腕アトムの誕生の年だそうです。手塚治虫があの漫画を描いた、私などが子供だった時代、21世紀は希望ある明るい世界として思い描かれていました。しかし今実際に21世紀を迎えて、私たちは、終わり、破局への不安におののかずにはおれなくなっているのです。
神殿を指さす
このような終わり、破局への不安の中で私たちは、確固たるもの、滅びないものを捜し求めます。これに依り頼んでいれば安心だ、というものが欲しいのです。主イエスの時代も今もそれは変わりません。そのことが、24章の1節に示されていると思います。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした」とあります。弟子たちは神殿の建物を指さした。エルサレムの神殿です。それはヘロデ大王によって大改修を施された、白壁に金の柱や飾りの輝く、まことに美しく壮大な建物であり、当時の地中海世界の中でも最もすばらしい建造物の一つだったのです。弟子たちはそのすばらしい神殿の建物を指さした。彼らがそうしたのには理由があります。それは、主イエスが、その直前、先週読んだ23章38節でこう言われたからです。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」。これは主イエスが、エルサレムの運命を嘆いて言われた言葉です。「お前たち」とはエルサレムのことであり、「お前たちの家」とは神殿のことであると言ってよいでしょう。その神殿が、見捨てられて荒れ果てる、そういう破局、崩壊、破壊がエルサレムを襲うと主イエスは言われたのです。そのみ言葉は弟子たちに、大きな不安、心配、恐れを与えたことでしょう。その不安の中で弟子たちは、神殿の建物を指さしたのです。それは、「この神殿を見てください。こんなに立派な、壮麗な、美しい神殿が破壊されたり、崩れ去ったりするようなことがあり得るでしょうか。そんなことは考えられません。ここには、確固たる、滅びない、依り頼むことのできるものがあるのではないですか」ということです。今目の前にある壮麗な神殿に拠り所を求め、そこに確固たる支えを見出そうとする思いがそこにはあるのです。私たちもこの弟子たちと同じように、今この終わり、崩壊、破局への不安の中で、何かを指さして生きているのではないでしょうか。ここには確かなもの、支えとなるものがある、これに依り頼んでいれば安心できる、私たちはそういうものを指さしながら、あるいはそういうものを探し求めながら生きているのです。
本当に確固たるものは?
神殿の建物を指さした弟子たちに対して主イエスは言われました。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」。「これらすべての物を見ないのか」というのはおかしな言い方ですが、要するにそれは、「あなたがたは本当のことが見えていない」ということでしょう。その本当のこととは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」ということです。つまりこの神殿は徹底的に破壊される、跡形もなくなるのです。そのことは、紀元70年に、ローマ帝国によって現実となりました。エルサレム神殿は徹底的に破壊されたのです。それ以来今日に至るまで、神殿は再建されていません。この神殿が今どんなに壮麗で美しく、永遠不滅なもののように見えても、それは必ず滅び去っていくものであって、本当に不変な、確固たる、依り頼むべきものではない、それが主イエスがここで語られた「本当のこと」です。私たちが今指さし、依り頼んでいるものはどうでしょうか。それは本当に確固たる、依り頼むに足るものなのでしょうか。
世の終わりについての問い
この壮麗なエルサレム神殿も崩壊する日が来る、と主イエスは言われました。それを聞いた弟子たちは、それこそこの世の終わりの日だと思ったのです。このエルサレム神殿が跡形もなく破壊されるとすれば、それはもはやこの世の終わりだ、全てのものの破局、崩壊だ、それで彼らは主イエスに改めて尋ねました。3節です。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」。この問いは二つのことを尋ねています。第一は、世の終わりはいつ来るのかということです。この壮麗なエルサレム神殿さえも破壊されてしまうということは、この世の全てが崩壊し、破局を迎えるということだ、その終わりの日、この世の終末はいつ来るのだろうかということです。第二は、その終わりにはどういう前兆、徴があるかということ、どんなことを見たらいよいよ世の終わりが近いとわかるのか、ということですが、そこでは、この世の終わりと主イエスが来られることとが結びつけられています。「あなたが来られて世の終わるとき」。つまり主イエスが再びこの世に来られる、それによって終わりが来るのです。このことは先週読んだ23章39節を受けています。そこには、全ての者たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言うときが来る、ということが語られていました。それは、将来、主イエス・キリストがもう一度この世に来られるということです。その再臨によってこの世は終わるのです。このことには後でまたふれるとして、今は先ず第一の問い、世の終わりはいつ起るか、ということについて考えたいと思います。
まだ終わりではない
主イエスは、「世の終わりはいつ起るか」という問いに対して、それはいつだ、という形ではお答えになっていません。その代わりに語られていったのが、最初に申しました、世の終わりの前兆であるいくつかのこと、戦争やそのうわさ、民どうし、国どうしの敵対、飢饉や地震、偽預言者の出現、不法がはびこること、なのです。これらのことによって主イエスは何を言っておられるのでしょうか。世の終わりはいつだ、とはっきりとは言えないけれども、これらのことが起ったなら、まもなく世の終わりが来ると思いなさい、ということでしょうか。よく読んでみると、そうではないということが分かります。たとえば6節にはこう言われています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。戦争の騒ぎやうわさを聞いても、それで世の終わりだと思うな、それはまだ世の終わりではない、と主イエスは言っておられるのです。7節の「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」というのも、それを受けて8節には「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と言われているのです。つまり、これらのことが直ちに世の終わりなのではなくて、まだそれは「始まり」に過ぎないということです。つまり主イエスがここで言っておられるのは、これらの、この世の終わり、崩壊、破局と思えるようなことが起っても、それを直ちに世の終わりだと思うなということです。弟子たちは、神殿の破壊の予告を聞いて、それこそ世の終わりだと思い、そのこと、つまり神殿が破壊されてこの世が終わることはいつ起るのですかと尋ねたのです。しかし主イエスは、この答えによって、神殿が破壊されても、それが世の終りではない、と言われたのです。神殿の破壊だけではない、さらにいろいろなことが起る。まさにもう世も末だと思わずにおれないような様々な苦難、戦争や天変地異や人々の心の荒廃などが起る、しかしそれらのことをもって、世の終わりと思ってはならない、そういうことは起るに決まっているが、まだ世の終わりではない、と主イエスは言っておられるのです。このことを私たちは今日しっかりと聞き取らなければなりません。私たちは先ほど見たように、ここに並べられていることがどれも、今の私たちの社会、その世相に当てはまると感じます。まさにこのような破局が迫っているように感じて、不安や恐れを覚えるのです。しかし間違えてはなりません。それが世の終わりではないのです。この世は、そのような破局によって終わるのではないのです。戦争は起るでしょう。飢饉や地震も起こるでしょう。偽預言者も現れるし、不法がはびこり、多くの人の愛が冷えるという事態も起るのです。しかし、それが世の終わりではありません。それらは、終わりの始まりでしかないのです。それでは、本当の世の終わり、終わりの終わりとは何か、そこで何が起るのか、それが、先ほどの弟子たちの第二の問いとその答えによって示されているのです。
主イエスの再臨
第二の問いは、「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」というものです。「主イエスが来られてこの世が終わる」これが、本当の世の終わり、終わりの終わりです。この世は、戦争や災害その他の破局、崩壊によって終わるのではありません。主イエス・キリストがもう一度来られる、そのことによって終わるのです。そして主イエス・キリストがもう一度来られるとは、私たちの救い主が来られるということです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して天に昇られた、その主イエスが、神の子、救い主としての栄光と力をもってもう一度来られ、その恵みのご支配が完成するのです。その時私たちの救いが完成するのです。そのことによってこの世は終わるのです。このことは、15節以下に語られていることですので、今申しましたことは来週お話しすることの先取りになります。しかし本日のところも、それを前提としなければ正しく読むことができません。この世の終わりは、破局、崩壊ではなくて、神様の独り子、イエス・キリストによる救いの完成であり、その主イエスのご支配の完成なのです。だから、世の終わりに備えるとは、破局、滅びに備えることではなくて、この救いの完成、神様のご支配の完成に備えること、つまり、それを待ち望むことなのです。そのことを主イエスはここで語っておられるのです。
産みの苦しみ
しかし見逃してならないのは、そのように主イエスがもう一度来られ、その救いが完成する世の終わりの徴、前兆として、先ほどから見ているような様々な苦難が起ると言われていることです。まさに崩壊と滅びへと向っているとしか思えないような、苦しみ、悲惨なことがこの世に、この社会に、そして私たちの人生にも起ってくるのです。その苦しみは半端なものではありません。9節には「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される」とあります。苦しみを受けるだけではない、実際に、殺されてしまう、命を奪われてしまうということも起るのです。その「あなたがた」とは弟子たちのことです。つまり主イエスを信じ、従っている信仰者です。神様を信じている者、クリスチャンであっても、これらの苦しみと無縁ではないし、その中で殺されてしまうことだって起るのです。さらに9節後半には、「また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」とあります。主イエスの名のために、つまり主イエスを信じているという信仰のゆえに、憎まれ、迫害を受けるのです。迫害によって殺される者も沢山出るのです。信仰をもって生きる者にも、そういう大きな苦しみが襲ってくる。それゆえに、10節にあるようなことにもなるのです。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」。これは、信仰者どうし、教会の兄弟姉妹どうしの間に起ることです。苦しみの中で、多くの者がつまずいていく、つまり信仰を捨ててしまう人が出るのです。また、教会の中にも、互いに裏切り、憎み合うという事態が起るのです。教会は、世間の罪や憎しみから隔絶された別世界ではありません。教会においても、こういうことはいくらでも起るのです。苦しみが人をねじ曲げ、罪を犯させていくのです。そういう大きな苦しみが私たちを襲うのです。既にそれに襲われ、翻弄されていることを感じている人もいるでしょう。それらのことが、世の終わりの、即ち主イエス・キリストの再臨の、前兆だと言われているのです。それは、そういう苦しみに襲われたら、もうキリストの再臨が近い、世の終わりが近い、あと何年ぐらいでそれが起る、という期間の問題ではありません。大切なのは8節の「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」という言葉です。これらの苦しみが世の終わりの、主イエスの再臨の、即ち私たちの救いの完成の前兆だということの意味は、その苦しみが「産みの苦しみ」だということです。産みの苦しみとは、意味のない苦しみではない、将来に希望と喜びの約束されている苦しみです。つまり私たちが受ける様々な、そして半端でない、深い苦しみは、それが世の終わりの前兆、主イエスの再臨の徴として受け止められる時、無意味な、私たちを滅ぼしていく苦しみではなくなり、意味のある、希望のある、産みの苦しみとなるのです。たとえ私たちがその苦しみの中で殺されてしまうことがあっても、私たちの救い主、復活された主イエスがもう一度来られ、この世が終わるその時に、私たちは、新しい、復活の体を与えられて、主イエスの恵みのご支配の下に永遠に生きる者とされるのです。世の終わりに備えるとは、このことを覚えて、この世の全ての苦しみが「産みの苦しみ」であることを信じて生きることです。それゆえに13節では「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われているのです。様々な苦しみや悲しみ、営々と築き上げてきたものが音をたてて崩壊していくような、命さえも奪い取られていくような、そういう苦しみの中で、しかし主イエス・キリストにおける神様の恵みを信じ続け、その主イエスの恵みのご支配が終わりの日に完成し、顕わになることを忍耐して待ち望み続けること、それが私たちの信仰なのです。そしてその忍耐が可能になるのは、キリストの再臨によるこの世の終わりを信じ、この世の苦しみがそこへ向けての産みの苦しみであると信じる信仰においてなのです。
御国の福音を指さして
私たちは今、何を指さして生きているでしょうか。どこに、本当に確固たる、依り頼むに足るものがあると考えているのでしょうか。この世の様々な財産、自分の力や業績、家族や友人との交わり、そのどれをとっても、たとえそれがどんなにすばらしい、よいものであっても、あのエルサレム神殿と同じく、崩壊していくもの、滅び去っていくものなのではないでしょうか。本当に依り頼むに足る、滅びてしまわない、この世の全てが滅び去ってもなくなってしまわないものとは、神様が、その独り子イエス・キリストによって私たちに与えて下さった恵みなのです。主イエスが、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して、父なる神様の下で生きる新しい命の先駆けとなって下さった、その恵みなのです。それが、14節の「御国のこの福音」です。私たちは、この「御国の福音」をこそ指さして生きるのです。苦しみに満ちた、破局へと向う怒涛のような力に翻弄されているこの世界において、耐え忍びつつ、主イエス・キリストによる御国の福音を指し示し続けるのです。そのようにして、御国の福音は、あらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられていきます。神様は私たちを、その働きの一端を担う者として、日本の、この富山において立てていて下さるのです。私たちがここで、主イエス・キリストによる御国の福音をしっかりと指さし、ここにこそ本当の希望がある、この福音こそ、たとえこの世の全てのものが崩れ去っていってもなお失われないまことの希望の源なのだということを指し示し続けていくならば、私たちはこの社会において、崩壊と破局へと全てを押し流していこうとする力を押し止める防波堤となることができるでしょう。御国の福音を指さし続けることこそ、教会がこの世に対してなすことができる、どんな平和運動にも優る奉仕なのです。神様は私たちにそのような働きを期待しておられるのです。そのようにして御国の福音が全世界に宣べ伝えられる、それから、終わりが来るのです。それは、神様が、御国の福音が全世界に宣べ伝えられることを待っていて下さり、それまで、この世界が終わることを先延ばしにして下さっていると言ってもよいでしょう。この世界がこうして存続しているのは、全ての者たちを御国の福音にあずからせて下さろうとしておられる神様の恵みによることです。そのために私たちは立てられています。だから、忍耐して福音を証しし続けるのです。そしていつか終わりが来ます。それは滅びの時ではなく、私たちの救い主イエス・キリストがもう一度来て下さる、救いの完成の時なのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年3月16日]
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