富山鹿島町教会

礼拝説教

「高ぶる者とへりくだる者」
詩編 第75編1〜11節
マタイによる福音書 第23章1〜12節

第五の説教
 マタイによる福音書を礼拝において読んできまして、本日から第23章に入ります。ここから25章にかけては、主イエスの教えがまとめて語られているところ、説教の部分です。マタイによる福音書は、このような説教の部分と、物語の部分、そこには、主イエスが奇跡を行なわれたことや、弟子たちとの問答、あるいはファリサイ派の人々などとの論争もありますが、そういう物語の部分とが交互に語られていく、という構造を持っています。その説教の部分を取り出してみると、全部で五つの説教がある。第一は、5〜7章の、いわゆる「山上の説教」です。第二は10章の、弟子たちを伝道へと派遣されるに際しての説教、第三は13章の、天の国についてのたとえ話が並べられている説教、第四は18章で、これは主イエスを信じる者の群れである教会における兄弟との交わりを主題とした説教です。そして最後の第五が、23章から25章です。つまり本日から私たちは、マタイ福音書における第五の、最後の説教の部分に入っていくわけです。最初の説教、いわゆる山上の説教と同じく、ここも三章から成っています。聖書の章や節は最初からあったものではありませんから、もともと三章立てになっていたというわけではありませんが、どちらもそれくらい長い説教になっている、ということは言えます。つまりマタイ福音書は、主イエスの説教、教えを中心にしてそのご生涯を描いていき、その最初と最後に、最も長い説教を置いているのです。そして長さだけでなく、内容においても、この23〜25章は、5〜7章の山上の説教と対応している、対になっている、ということが言えます。ここを読んでいく中で、しばしば、山上の説教をふりかえっていくことになるのです。
 さてその最後の教えの部分である23〜25章ですが、23章と、24、25章とでは語られている相手や場所が違っています。23章は、1節にあるように、「群衆と弟子たち」に対して語られたものです。その場所は、24章の1節に、「イエスが神殿の境内を出て行かれると」とありますから、エルサレムの神殿の境内ということになります。しかし24章3節以下は今度は、「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て…」となっています。24、25章は、弟子たちだけを相手に語られた教えであり、その場所はエルサレムの町から谷を隔てたオリーブ山なのです。そのように23〜25章は二つの別の説教が結びつけられているものです。そして前もって言っておくならば、24、25章に語られているのは、この世の終わりのこと、何によってこの世界は終わり、そこでどういうことが実現するのか、ということです。それに対してこれから読んでいく23章に語られているのは、律法学者やファリサイ派の人々への主イエスの厳しい批判の言葉です。21章の後半から22章にかけて、神殿の境内における主イエスとこれらの人々との論争が語られてきました。ファリサイ派の人々は、主イエスに議論をふっかけ、その言葉尻を捕えて陥れようとしたのです。そういう論争を受けて、主イエスが彼らについて語られた言葉がここに記されているのです。

ファリサイ派
 主イエスを陥れ、破滅させようとしたファリサイ派は、聖書において、主イエスの敵の代表として出てきますので、私たちはともすれば彼らを、とんでもない悪人であると思ってしまいます。しかしこの人々は、旧約聖書にある神様の律法、神様がご自分の民として下さったイスラエルにお与えになった掟を熱心に守り、それに基づいて生活していた人々です。そのために彼らは、律法をよく学び、研究していました。だから一般の人々は、神様の律法のことを彼らに教えてもらう、律法に従って生きるためのアドバイスをもらう、いろいろな問題で、律法においてはこのことはどう教えられているのか、こういう時はどうすれば律法に従って歩むことができるのか、ということを彼らに教えてもらっていたのです。ですから彼らは「律法学者」、つまり律法の先生とも呼ばれているわけです。要するにこの人たちは、真面目に、熱心に、神様の掟に従って生きようとしていた人々なのであって、決していわゆる悪人ではないのです。主イエスの時代にはまだエルサレムの神殿があって、それがユダヤ人たちの心の拠り所、故郷となっていました。しかし紀元70年に、ローマ帝国によってエルサレムが陥落し、神殿も破壊されてしまい、ユダヤ人たちが信仰の拠り所、故郷を失ってしまったときに、律法を守って生きる、ということによってユダヤ人たちに民族の誇りと自覚を与えていったのはこのファリサイ派でした。今日のユダヤ教の土台を築いたのは彼らファリサイ派なのです。彼らのおかげで、ユダヤ人たちはその後二千年にわたって、国を持たず、各地に散らされて生きる中でも、民族としてのアイデンティティーを失わずに歩むことができたのです。

言うだけで実行しない
 このようにファリサイ派は神様の律法に従って生き、またそれを人々に教えています。そのことを主イエスは否定したり、批判してはおられません。2、3節の、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」というみ言葉がそのことを示しています。「モーセの座についている」、それは、彼らが、律法を学び教えることによって、神様から律法を受けて民に教えたモーセの権威を受け継いでいるということです。主イエスはそのように、律法を神様からの掟として尊重しておられます。そのことは、あの山上の説教の中の5章17節のお言葉「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」において語られている通りです。ですから主イエスは、律法を教えているファリサイ派のことを決して頭から否定しておられるわけではありません。彼らの言うこと、つまり律法についての教えはすべて行い、守りなさい、彼らは正しいことを語っている、神様の律法は正しいものであり、否定されたり、拒否すべきものではないのだ、と言われたのです。しかし主イエスはそれに続いて、「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」と言われました。彼らの教えは正しい、しかし行いは見倣うべきでない、それは、彼らが、言うだけで実行しないからだというのです。これはどういうことでしょうか。ファリサイ派の人々は、人に律法を教え、こうしなさい、ああしなさいと命じるけれども、自分ではその通りに生きていない、それを実行していない、ということでしょうか。しかしそれは違うはずです。先ほど申しましたように、彼らファリサイ派は、まず自分たちが律法をしっかりと守ってその通りに生きようと熱心に励んでいたのです。だからこそ彼らは人々の尊敬を受け、律法の先生と呼ばれ、律法に従う生き方を彼らに教わろうとする人々が現れたのです。教えるだけで自分はそのようにしていない人のところになど、誰も相談に行ったりはしないでしょう。そうするとこの「言うだけで実行しない」とはどういうことなのでしょうか。それはむしろ次の4節の、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」ということを言っているのだと考えるべきでしょう。つまり、律法を教え、律法に従って生きるためにはこうしなさい、と命じることによって、人々の肩に大きな重荷を載せるけれども、その人が実際にそれを背負って歩いていける、つまりその律法に従って生きていけるようにはしてくれないのです。それが、言うだけで実行しない、ということの意味です。彼らが、自分の教えた通りの生活をしていない、ということではありません。彼ら自身は確かに、その教えたように、律法を守って生きているのです。しかしそのことが、彼らの教えを受ける人々、律法を教わる人々にとっての力や支えにはなっていない。教えは正しいし、そのようにできるように頑張れ、と尻をたたかれるけれども、どうしたら本当にそのようにできるようになるのかはいっこうにわからないのです。
 こういうことは私たちの周囲に多々あるのではないでしょうか。いろいろな悩みに対して、したり顔で相談に乗ってくれる人がいます。あるいはそういう相談窓口があります。そこで「こうしなさい」「ああしなさい」というアドバイスが与えられる。しかし、そういうふうに出来れば苦労はしない、それが出来ないから悩んでいるのだ、ということがよくあります。宗教においてもそういことがあります。悩み苦しみをもって宗教に救いを求める、すると「こうすれば救われる」という答えが与えられる。しかしその「こうすれば」ということがなかなかできない、しかしそれは「あなたの努力が足りないのだ」と片付けられてしまう。それでは救いにはならないのです。その「こうすれば」というところにお金のことが出てくるのが、いわゆる「カルト宗教」の特徴であるということが、先週の富山地区長老・幹事・役員研修会で語られました。何百万、何千万というお金をだまし取られてしまうことが簡単に起るのは、「こうすれば救われる」の「こうすれば」が、お金を積むというまことにわかりやすい、また目に見える形で求められるからです。これが教会のように、悩みをもって相談に来る人に、「それでは一緒に礼拝を守りながら、神様に支えと助けを祈り求めていきましょう。献金?それは神様への感謝の献げものとして志をささげてください。献金をすれば悩みが解決するというものではありません」などと言っているところは逆に流行らないのです。それはともかく、ファリサイ派の人々は、「こうしなさい」と教え、それは律法に基づく正しい教えだけれども、それを本当に実行することができるような力にはなっていなかったのです。

人に見せるため
 彼らの教えが何故そのようになっているのか、ということを主イエスは鋭くえぐり出しておられます。それが5節の「そのすることは、すべて人に見せるためである」というみ言葉です。このことは、人の肩に重荷を負わせるが、それを動かすために指一本貸そうとしない、ということと直接関係がないようにも見えます。しかし実は大いに関係があるのです。「人に見せるため」とは、何を人に見せようとしているのかがその後7節まで語られていきます。「聖句の入った小箱を大きくする」、それは、たとえば出エジプト記の13章8節などに、主のみ言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとせよ、とある、それを文字通りに受け止めて、聖句の書かれた小さな紙切れを入れた小箱を額や腕に付けて生活する、ということがあったのです。ファリサイ派はその小箱を大きくし、目立つようにしているのです。それによって、自分は神様のみ言葉を額や腕につけていつも覚えている、ということを人々に見せようとしている。「衣服の房を長くする」というのもそれと同じことです。つまり彼らが人に見せようとしていることは、自分がいかに神様のみ言葉、律法を大事にし、それを覚え、守り行なっているか、ということ、つまり自分の信仰深さです。それと結びついているのが、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれることを好むということ、つまり、人から尊敬され、重んじられることを喜び求めるということです。「人に見せる」のはそのように自分の立派さや正しさを見せ、人から尊敬を受けるためなのです。彼らが、律法を守り、またそれを人々に教えているのはすべてこのことが目的になっている、と主イエスは見抜いておられます。そしてそれは、彼らのしていることはすべて「自分のため」だということです。人に律法を教え、こうしなさいとアドバイスをするのも、実は自分のため、自分の立派さを人々に示すためなのであって、本当に相手のため、アドバイスを求めている人、神様の律法に従って生きるためにはどうすればよいかと悩んでいるその人のためではないのです。だからそのアドバイスはその人を生かさない。重荷を負わせるだけで、それを動かすために指一本貸そうとしないということになるのです。「人に見せようとする」ことと、重荷を負わせるだけで手助けをしない、ということとはこのように表裏一体の関係にあるのです。

高ぶりへの戒め
 彼らは「先生」と呼ばれることを好む、ということに続いて主イエスは8節以下で、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われました。人間を、「先生」「父」「教師」と呼んではならない、本当の「先生」は一人だけで、あとは皆兄弟だ、本当の父は天の父お一人だ、本当の教師はキリスト一人だけだ、というのです。これは、「先生」とか「教師」と呼ばれる人がいてはいけない、ということではないでしょう。教会において牧師はみ言葉の教師として立てられている者で、牧師のことを先生と呼ぶことは多いのです。また、子供たちに教える教会学校の教師もいます。そういうことがこの主イエスのみ言葉に反していると考える必要はないでしょう。またこれは、家庭において、子供に「お父さん」と呼ばせてはならないということでもありません。これらのみ言葉によって主イエスが語っておられるのは、自分が偉い、立派な者であることを人に見せようとし、人から尊敬され、重んじられることを求める、そのために先生とか父と呼ばれることを求めることへの警告です。ですからこの教えは次の11、12節の「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という教えへとつながっていくのです。先生、父、教師と呼ばれてはならないというのは、この「高ぶること」への戒めです。自分が何か高い者、偉い者、立派な者であるように思うな、むしろ、人に仕える者となること、へりくだる者となること、つまり人よりも低いところに自分を置いて奉仕することこそが、本当の意味で偉いことであり、神様によって高められることなのだ、と主イエスは教えておられるのです。
 このようにここで主イエスは、自分を偉い者、立派な者と思い込む高ぶりを戒め、ファリサイ派の人々はそういう高ぶりに陥っていると批判しておられます。そのような高ぶりに陥っていると、人を本当に助け、力を与え、救う教えは生まれないのです。人に重荷を負わせ、自分でそれを背負って歩めと突き放すようなことにしかならないのです。そこまでのことは私たちにもよく分かります。しかし問題はその先です。それではどうすればよいのか。どうすれば、このような高ぶりに陥らないで、仕える者、へりくだる者として生きることができるのだろうか。そのことが示されなければ、この主イエスの教えだって結局、背負いきれない重荷を人の肩に載せ、自分ではそれを動かすために指一本貸そうとしない、ということになってしまいます。「仕える者になれ」「へりくだる者になれ」という、ファリサイ派とは別の掟を教えるだけで、あとは自分の努力でなんとかしろ、というのでは、ファリサイ派と大して変わらないことになってしまうでしょう。そしてそこでは私たちの中で何が起るかというと、今度は、自分がどれだけ人に仕えているか、へりくだっているか、謙遜であるか、ということを人に見せようとし、それによって自分が偉い者、立派な者となり、人から尊敬される者になろうとするという高ぶりです。それでは結局振り出しに戻ってしまう。聖句の小箱が自分の謙遜さに置き換わっただけのことになってしまうのです。

偽善者
 主イエスはこのことをどう考えておられるのでしょうか。そのことを読み取っていくために、私たちは、最初に申しましたように、あの山上の説教を振り返ってみたいのです。本日のところに語られているのと同じような、「彼らのすることはすべて人に見せるためである」ということが、山上の説教にも語られていたのです。それは、6章のはじめのところに語られていた、「偽善者たち」の姿です。6章1、2節に「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」とあります。また、5節にも「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」とあります。また16節にも「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」とあります。人に見てもらおうとして、施しとか祈りとか断食とかをする、そういう偽善者の姿が批判されているのです。それは本日のところの、律法学者たちやファリサイ派の人々が、人に見せるために聖句の小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりするのと全く同じです。偽善者たちが人からほめられることを願う、それはファリサイ派の人々が宴会や会堂での上席を好み、「先生」と呼ばれることを好むのと全く同じです。6章で語られていたあの「偽善者たち」とは、このファリサイ派の人々のことだと言ってもよいのです。そのことは、23章の次の13節以下に、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という言い方が何度も繰り返されていくことからもわかります。主イエスは、彼らの「高ぶり」の本質がこの「偽善」にあると見ておられるのです。

人の目と神の目
 それではこのような偽善に陥らないためにはどうすればよいのでしょうか。今読んだ6章において、偽善者たちの三つの姿が示された後に共通して語られていることがあります。それは、「彼らは既に報いを受けている」という言葉です。それは彼らが、人に見せようとしてこれらの善行をすることによって、人から褒められ、尊敬される、そういう報いを受けており、そしてそれで満足している、ということです。人からの報いだけで事足れりとしている。つまり彼らは、神様からの報いを求めてはいないのです。それは言い換えれば、神様を見つめていない、神様の目を意識していない、彼らが見ているのは周りの人間だけであり、人間の目、人間からの評価だけを気にしているということです。これこそが偽善の本質です。つまり、偽善は、自分を実際よりも立派に、偉く見せようとすることから始まるのではない。それはむしろ結果として起ることで、根本的には、人の目、人の自分に対する評価を気にする、そのことで心が満たされてしまうということから始まるのです。そのような偽善に陥る時、私たちのすることは、たとえ善いこと、正しいこと、人助けでも、自分の誉れのための、高ぶりの業となるのです。またそこで私たちが語ることは、人を本当に生かす教えにはならないのです。人に重荷を負わせるだけで、指一本貸そうとしないようなことになるのです。このような偽善、高ぶりから抜け出すための道ははっきりしています。それは、謙遜な者となり、へりくだって人に仕える者となるように努力し、どれだけ人よりも自分を低くすることができるかと競うことによってではありません。そういうことは別の高ぶりを生むだけです。本当に必要なことは、人の目、人の自分に対する評価を気にすることをやめることなのです。しかしそれはただやめようと思ってやめられるものではありません。人の目、人の評価を気にすることをやめるためには、神様の目、神様からの評価を求めていくしかありません。神様が自分を見つめておられる、神様が自分のことを評価して下さる、その神様のまなざしの前で生きる者となることこそ、偽善、高ぶりから解放されるために必要なことなのです。

神のまなざしの中で
 神様はどのようなまなざしで私たちを見つめ、評価なさるのでしょうか。聖書が教え、私たちが信じている神様は、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちを赦し、新しく生かして下さる方です。つまり神様の私たちを見つめるまなざしは、主イエスによる罪の赦しの恵みのまなざしなのです。神様は私たち一人一人を、独り子の命を与えて罪から救い出し、ご自分の民として生かそうとしておられるのです。私たちはどうしようもない罪人ですけれども、神様は私たちのことをそのように大切に思っていて下さるのです。私たちはこの神様の恵みのまなざしと、私たちのことを大切に思って下さるみ心の下に置かれています。そのことを覚え、この神様を見つめて生きていく時に、私たちは、人の目、人からの評価を気にすることから解放されるのです。人に自分を立派な者と見せるために虚勢を張って生きる必要はなくなるのです。弱く罪深い私たちが、そのままで神様に愛され、大切に思っていただいていることを知らされるからです。その時にこそ私たちは、人に重荷を負わせるのではなく、むしろ人の重荷を共に背負っていく者、本当に人を生かし、支える者となることができるのではないでしょうか。本当の意味でへりくだる者とはそういう人のことなのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年2月16日]

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