富山鹿島町教会

礼拝説教

「後で考え直す」
エレミヤ書 第3章19〜22節
マタイによる福音書 第21章28〜32節

兄と弟のたとえ
 本日与えられている聖書の箇所、マタイ福音書第21章28節以下には、主イエス・キリストが語られた一つのたとえ話が記されています。このたとえ話は、多くの群衆たちを前にして彼らへの教えのために語られたものではありません。28節によれば、「ところで、あなたたちはどう思うか」という語りかけによってこのたとえ話は始められています。ここで主イエスから「あなたたち」と語りかけられているのは、先週読んだ23節以下に出てきている「祭司長や民の長老たち」です。先週のところには彼らが主イエスに、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と質問をしたことが語られていました。それは主イエスを訴える口実を得るための悪意ある質問です。先週のところには主イエスがこれに対して、逆に一つの問いを投げかけることによって彼らの罠を逃れ、言葉尻を捕えられることを防いだことが語られていました。本日のところはその続きです。彼ら祭司長、民の長老たちに、今度は主イエスの方から語られたたとえ話がここに記されているのです。
 これは父親と二人の息子のたとえです。ぶどう園の経営者である父親がまず兄息子に、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。しかし兄は「いやです」と答え、父の求めを拒絶した。けれども彼は後で考え直して、結局はぶどう園へ行って働いた。兄に断られた父は今度は弟のところへ行って同じことを言った。すると弟は「お父さん、承知しました」とよい返事をしたが、結局はぶどう園へ行かなかった。こういうたとえです。そして主イエスは彼らに「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問われたのです。答えは当然、最初は拒否したけれども後で考え直して出かけた兄の方です。このようにこれはまことに単純な、どうということのないたとえ話に思えるのですが、しかし同じところを前の口語訳聖書で読んでみると、面白いことに気づかされます。実は口語訳では、兄と弟のあり方が全く反対になっているのです。兄は「おとうさん、参ります」と答えたが行かなかった、弟の方は「いやです」と言ったが後から心を変えて出かけた、これが口語訳におけるこのたとえ話です。ですから「どちらが父の望みどおりにしたのか」という主イエスの問いへの答えは「あとの者です」ということになるのです。口語訳と新共同訳がこのように正反対になったのは、翻訳の元とされた底本の違いです。そしてそれは、このような二種類の写本が存在しているということです。どちらを原文として採用するかによってこのような違いが生じるのです。このことは、この話が書き写されていく過程において、写本家たちの間にあるとまどいがあったことを示しています。「わかりました」と言ったのに結局行かなかった息子と、最初は「いやです」と言ったが思い直して出かけた息子、どちらを兄にしどちらを弟とするべきなのか、書き写していく中でとまどいを感じたのです。話としては、兄に断られたので次に弟のところに行って同じことを頼んだというのが自然です。それゆえに最近はこの新共同訳の方がより古い形だろうと考えられるようになっています。もともとはこのような話だったのが、写本家のとまどいによって兄と弟の姿が入れ替えられたのだと考えられているのです。なぜそのようなとまどいが生まれたのか、それは、このたとえ話に続く主イエスのお言葉との関係から来ることです。31節で主イエスは、祭司長や長老たちに対して、「徴税人や娼婦たちの方があなたがたより先に神の国に入るだろう」と言っておられます。つまり、このたとえ話における兄と弟の対比によって示されているのは、祭司長、長老たちと、徴税人、娼婦たちの違いなのです。そして主イエスは明らかに、徴税人、娼婦たちの方が、祭司長、長老たちよりも、父親の、つまり神様のみ心に適うことをしていると言っておられます。つまり、徴税人、娼婦たちがこのたとえでは兄に当り、祭司長、長老たちは弟に当るということになるのです。そこにとまどいが生まれます。イスラエルの社会における位置づけから言って、祭司長や長老たちの方を兄に、徴税人、娼婦たちの方を弟にした方が相応しいのではないか、それで、口語訳のような、兄は「わかりました」と言ったが実際には行かなかったのに対して、最初は「いやです」と言った弟が後から心を変えて出かけた、という話に書き換えられていったと考えられるのです。
 もしもこの仮説が正しいとするならば、私たちが考えなければならないのは、このようなとまどいが生じることが目に見えているのに、主イエスがお語りになったもともとのたとえ話において、「いやです」と言ったが後で考え直して出かけたのが兄の方になっているのは何故か、そこにはどのような意味が込められているのか、ということです。この問いに答えるのはそう簡単なことではないでしょう。そういう意味ではこのたとえ話は単純なように見えて、結構奥深いものがあるのです。

言葉と行動?
 さて、今の問いへの答えは後で考えることにして、それを頭に置きつつ、少し別なことを考えてみたいと思います。このたとえ話は、口では立派なことを言っていても結局それを実行しなかった息子と、口では反抗的なことを言いながら結局は父の願い通りにした息子との対比になっています。その点を見つめるならばこれは、「言葉と行動」というテーマについてのたとえであると考えられます。言葉だけで行動、行いの伴わない者はだめだ、大切なのは言葉ではなく、実際に父の、つまり神様のみ心を行うことだ、言葉より行為が大事なのだ、そういう結論をここから導き出すこともできそうです。二人の息子に関するたとえ話だけを読むなら、そのように言うこともできるでしょう。しかし、その後の主イエスのお言葉と合わせて読んでいく時に、この読み方は間違いであることが分かってきます。祭司長、長老たちが、言葉の上だけで神様に従っている、というのはその通りかもしれませんが、それでは彼らと対比されている徴税人や娼婦たちはどうなのでしょうか。彼らは、言葉においては拙いけれども実際の行為、生活においては神様のみ心を行っていたのでしょうか。そうではありません。徴税人や娼婦たちは、当時の社会において、罪人の代表格とされていた人々です。それは、彼らの言葉や態度が悪かっただけで、実際には正しい生活をしていたのに罪人のレッテルを貼られていた、ということではありません。彼らはまさにその行為において、生活において罪を犯していたのです。徴税人たちは征服者であるローマのための税金を徴収し、その権力をたてにして私腹をこやしていたのです。娼婦たちも、勿論そうならざるを得ない事情がいろいろにあったでしょうが、罪を犯しながら生きていたのです。ですから彼らが、生活、行動において、神のみ心を行っていたとは到底言えないのです。

ヨハネの義の道
 それでは主イエスは何故、彼らの方が祭司長、長老たちよりも先に神の国に入ると言われたのでしょうか。そのことが32節に語られています。「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。徴税人や娼婦たちが先に神の国に入るのは、彼らが正しいことを行い、神のみ心に適う生活をしているからではありません。ヨハネが来て示した「義の道」を彼らが信じたからです。それに対して祭司長、長老たちはそれを信じなかった、その違いを主イエスは指摘しておられるのです。主イエスがあのたとえで、「どちらが父親の望み通りにしたか」と問うておられる、その「父親の望み通りにする」とは、ヨハネの示した義の道を信じることだったのです。「ヨハネの示した義の道」、それは先週のところでは、「ヨハネの洗礼」と言い表されていました。主イエスが活動を始められる前に、その先駆けとなり、準備を整えた、洗礼者ヨハネのことです。彼は人々の罪を厳しく指摘し、神様のもとに立ち返る悔い改めを迫りました。当時の宗教的指導者であったファリサイ派やサドカイ派の人々に対してすら、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と言って悔い改めを求めたのです。つまりヨハネが示した義の道とは、自分が神様の前に罪人であることを認めて、悔い改め、神様のもとに立ち返ることです。その悔い改めの徴として彼は洗礼を授けていたのです。徴税人や娼婦たちは、このヨハネが示した義の道を信じた、つまり彼らは、自分たちがどうしようもない罪人であることを自覚し、認め、悔い改めの徴である洗礼を受けて、罪の赦しを神様に願い求めたのです。それに対して祭司長や長老たちは、このヨハネの呼びかけを無視しました。ヨハネの洗礼に意味を見出さなかったのです。ということは、自分たちが悔い改めなければならない罪人であるとは、彼らは思っていないのです。そこに、徴税人、娼婦たちと彼らの違いがあります。そしてそれゆえに、むしろ徴税人や娼婦たちの方が先に神の国に入ると主イエスは言われたのです。つまり、この両者の対比において見つめられているのは、「言葉と行動」ということではありません。言葉だけで行動の伴わない者はだめだ、ということではありません。自分が罪人であることを認め、悔い改めて神様のもとに立ち返り、赦しを求めるかどうか、それこそが問題なのであり、あのたとえ話の兄と弟の違いもそこにあるのです。

後で考え直す
 このことからあのたとえ話をもう一度見直していく時に、ここで一番大事な言葉は何であるかがわかってきます。それは「後で考え直す」という言葉です。これが、「悔い改める」ことを意味しているのです。兄が父親の望み通りにした、それは、「後で考え直した」からです。「いやです」と言って父の、神様の求めを拒んだ、神様に従うことを拒否して罪の中に生きていた、しかしあるところでその自分の思い、生き方を変えて、神様のもとに戻って行ったのです。考え直して、み心を受け入れ、従う者となったのです。人間はこのように、後で考え直し、心を変えることのできる者です。これはおそらく人間だけに与えられている能力なのではないでしょうか。「反省だけなら猿でもできる」という言い方がありますが、確かに猿の芸で「反省のポーズ」というのがあります。しかし猿は本当の意味で反省することができるのでしょうか。後で考え直すことができるのでしょうか。私たちにはそれができるのです。考え直し、悔い改めて、神様のもとに立ち返ることができるのです。しかし祭司長、長老たちはそれをしようとしなかったのです。罪人である徴税人や娼婦たちが、ヨハネの呼びかけによって自らの罪を認めて悔い改め、その赦しを神様に求める姿を見ても、彼らは、「後で考え直して彼を信じようとしなかった」。この「後で考え直す」ことをせず、いつまでも自分の思いや主張にしがみつき、それを変えようとしない彼らの姿が批判されているのです。ここには、神様を信じる、つまり信仰とはどのようなものであるかが示されています。神様を信じるとは、神様からの語りかけによって、私たち人間が、「後で考え直す」ことです。自分のそれまでの考え、思い、生き方を、神様によって変えられることです。「いやです」と言っていた者が、神様の求めに従ってそのぶどう園へ行って働くようになることです。そのように私たちが考え直し、生き方を変える、そっぽを向いていた者が神様のもとに立ち返る、それが信仰なのです。「考え直す」ことがなければ、つまり自分の考えを変えることがなければ、いくら神様神様と言っていてもそれは信仰ではありません。それはただ自分の考えや主張のために神様を利用しているだけのことです。それが、後で考え直そうとしない祭司長、長老たちの姿なのです。

マタイにおける放蕩息子のたとえ
 「後で考え直す」ということを中心としてこの兄と弟のたとえを読み返してみる時に、この単純な話が、実は主イエスがお語りになった最も有名なたとえ話である、ルカ福音書15章11節以下の「放蕩息子のたとえ」と重なるものであることに気づかされます。このたとえは、マタイにおける放蕩息子のたとえであると言うこともできるのです。父親の財産を分けてもらって家を飛び出した、あの場合には弟息子は、放蕩の果てに無一物になり、どうにもならなくなった時に、後で考え直して、父のもとに帰ってくるのです。父のもとで働くのなど嫌だ、自分はもっと自由に生きるのだと思っていた彼は、どん底の生活の中で、自分が本当に生きることのできる場所はあの父のもとだったのだということに気づき、思い直して帰ってくる、それが悔い改めです。本日のたとえにおける兄が、「いやです」と言いながら、後で考え直してぶどう園へ出かけたこととそれは重なるのです。それに対して、あの話には兄も出てきます。彼はずっと父のもとにおり、父と共に働いています。しかし弟が放蕩の果てにぼろぼろになって帰って来たのを父が喜んで迎え、盛大な宴会を開いたこと知った彼は、すねてしまい、家に入ろうとしません。彼は父に文句を言います。「自分は長年あなたに忠実に仕えているのに、こんな宴会を開いてもらったことは一度もない。それなのにあのどうしようもない弟のやつが帰ってきたらこんなに歓迎するなんて、納得できない」と言うのです。この兄の姿に示されているのは、彼もまた、実は、父と共にあること、神様のもとで神様に仕えて生きることを喜んではいないということです。表面的には立派な生活をしているが、内心には不平不満が渦巻いており、むしろ家を飛び出した弟のことをうらやましく思っているのです。つまりこの兄もまた、父から心が離れている、父のもとから失われてしまっているのです。それは本日のたとえにおける弟の姿と同じではないでしょうか。彼は父の求めに対して、「お父さん、承知しました」とよい返事をしています。そこだけ見れば親孝行な立派な息子です。しかし彼はぶどう園には出かけなかった。それは要するに彼が、父のもとで、父と共に働くことを喜んでいないということの表れです。つまりあの放蕩息子のたとえにおいても、本日のたとえにおいても、二人の息子たちはいずれも、父のもとから、神様のもとから失われてしまっている、罪に陥っているのです。そしていずれのたとえにおいても、その内の片方が、後で考え直して、悔い改めて、父のもとに、神様のもとに帰ってくるのです。父のもとにこそ、神様のもとにこそ、自分が本当に生かされる場所があることに気づいたからです。

悔い改める喜び
 このように考えてくるならば、この兄が、後で考え直してぶどう園へ行ったその思いを、「やはり父親一人で働かせるのは気の毒だし、父の言いつけには従うべきだから、仕方がない、行ってやろう」というふうに考えてはならないことがわかります。神様を信じる信仰というのはそのように、嫌だけれどもそれが正しいことだから、あるいは義理があるから、仕方なく…というようなことではないのです。後で考え直し、悔い改めることは、神様のみもとにこそ、自分が本当に生かされる場、罪を赦されて新しく喜びをもって歩み出すことのできる場があることに気づくことです。神様からの語りかけを受けて、私たちが後で考え直し、悔い改めるのは、そこにこそ喜びがあるからなのです。徴税人や娼婦たちがヨハネから洗礼を受けたのは、その喜びによることです。どうしようもない罪人であり、とうてい赦されることなどあり得ない、滅びるしかない自分が、罪を悔い改めて、赦しの恵みをいただき、新しくされる道がここにはある、その大きな喜びの内に彼らは洗礼を受けたのです。

何故兄なのか
 さてここで、最初に保留にしておいた問いに戻りましょう。「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた息子が兄になっているのは何故か、という問いです。この兄の姿が、後で考え直した者、悔い改めた者のことを言っているのであれば、それは徴税人や娼婦たちのことであり、祭司長や長老たちは「承知しました」と言ったが実際には行かなかった弟の方ということになります。しかしここで見落としてならないのは、最初に申しましたように、このたとえ話やその後のみ言葉が、祭司長や長老たちに対して語りかけられているということです。このみ言葉を聞いているのは、徴税人や娼婦たちではなくて、祭司長や長老たちなのです。その彼らに対して主イエスは、この話の結論として、「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」と言っておられます。これはつまり、あなたがたも、後で考え直して悔い改めるべきだったのだ、ということです。彼ら祭司長、長老たちも、「後で考え直す」べき者たちなのです。それはつまり彼らも、このたとえで言えば最初は「いやです」と言った兄の方だということです。彼らがヨハネの洗礼を無視し、今度はそのヨハネが道備えをした主イエスを拒んでいるのはまさにそういうことなのです。その彼らに対して主イエスは、このたとえ話を語ることによって、「後で考え直す」ことの大切さを教えようとしておられるのです。後で考えなおして、自分の罪を認め、悔い改めて神様に赦しを求めよと言っておられるのです。見方を変えて言えば、そのようにして主イエスは彼らに、悔い改めて神様に立ち返るチャンスを与えておられるのです。そういう意味でこの兄はやはり彼らなのです。「あなたがたはイスラエルの民において、兄たるべき者ではないか、先頭に立つ者ではないか。そのあなたがたは、父の、つまり神の求めに対して、一旦は『いやです』と言ったとしても、後で考え直して、悔い改めて、父の望み通りにすることこそ兄たる者に相応しいことではないか。あなたがたには、イスラエルにおいてそういう本当の兄になって欲しい」。主イエスはそういう思いを込めてこのたとえを語られたのではないでしょうか。つまり主イエスはここで、祭司長、長老たちに、恵みをもって語りかけておられるのです。ところがその話が書き写されて行く中で、そういう主イエスの思いは見失われて、この兄と弟、どちらが祭司長、長老たちで、どちらが徴税人、娼婦たちのことか、という図式で見られるようになった結果、兄と弟を入れ替えた方が話がわかりやすくなるということで、口語訳のような形に変形されてしまったのではないかと思うのです。

主イエスの問いかけ
 今申しましたように、このたとえ話は、祭司長、長老たちに対する語りかけであり、問いかけです。あなたがたは、後で考え直す者、つまり自分の罪を認めて悔い改める者であろうとするのか、それともそれを拒み、自分の考え、主張を絶対に変えないと固執するのか、つまり自分の罪を認めず、悔い改めを拒み続けるのか、主イエスはそのように問うておられるのです。エルサレムに、そして神殿に来られた主イエスによって、神殿の責任者であり、イスラエルの民の指導者である祭司長、長老たちはそのような問いを投げかけられているのです。

アドベントの祈り
 アドベントの第三週を迎えました。主イエス・キリストが私たちのところに来て下さる、そのことを覚えるこのアドベントに、このマタイ福音書第21章を読むのは意味深いことだと、これまでの二回の説教において申してきました。本日の箇所においてもそれが言えるのです。主イエスの到来を迎えるということは、私たち一人一人が、その主イエスから問われることです。私たちは主イエスによって今、「あなたは後で考え直す者であろうとするのか」と問われているのです。私たちは皆もともと、神様に対して、「いやです」と言って従うことを拒んでいる者です。神様の下で生きることを不自由な束縛と思い、神様のもとを離れて自分の思いによって歩もうとしているのです。しかし、私たちが本当に喜びの内に、まことの支えを受けて生きることのできる場所は、父なる神様のみもとです。神様のぶどう園で働くことにこそ、本当に充実した、喜びのある人生があるのです。そして私たちには、後で考え直すことによって、つまり悔い改めることによって、その神様のみもとに立ち返る道が与えられているのです。主イエス・キリストがこの世に来て下さったのは、その道を切り拓くためです。ご自身の十字架の苦しみと死とによって、主イエスは、私たちが悔い改めて神様の赦しをいただき、新しく生きることができるようにして下さったのです。そして今私たちに、悔い改めて神様のみもとに立ち返れと語りかけていて下さるのです。この語りかけを受けて、自らの思いや考えや生き方に固執することをやめて、後で考え直す者、悔い改める者、神様によって新しくされることを受け入れる者として下さいと祈り求めること、それこそが、クリスマスに備える私たちのアドベントの祈りなのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年12月15日]

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