富山鹿島町教会

礼拝説教

「疑いからの解放」
エレミヤ書 第8章4〜13節
マタイによる福音書 第21章18〜22節

アドベント ― 到来
 教会の玄関にアドベントクランツが置かれ、その蝋燭の一本に火が灯されました。本日からアドベント、待降節に入ります。主イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスに備える時です。四本の蝋燭を立て、本日は一本、来週は二本と、主の日ごとに火を灯す数を増やしながら、クリスマスに備え、待ち望む心を整えていくのです。四本の蝋燭全てに火が灯ると、クリスマスがやってきます。私たちの喜びが満ちるのです。そのようにアドベントは、クリスマスを喜び待つ時ですが、しかしそれだけではありません。アドベントという言葉は、「到来」という意味です。到来するものを待ち、その到来に備えるのです。クリスマスは、主イエスがこの世に、私たちのところに到来されたことを記念する時です。神様の独り子であられる主イエスが、およそ二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋で、一人の赤ん坊としてお生まれになった、そのようにしてこの世に、私たちのところに来て下さったのです。その主イエスの到来を覚え、この世に来て下さった神の子主イエスを喜び迎える、その思いを整えつつクリスマスに備えるという意味がアドベントには確かにあります。しかし、クリスマスの出来事は、二千年前に既に起ったことです。つまり私たちはクリスマスにおいて、その二千年前の主イエスの到来を記念し、感謝し、喜ぶのですが、それを待ち望むわけではありません。ですから、クリスマスの出来事だけを見つめているならば、アドベントはクリスマスの祝いへの準備期間にしかならないのです。しかしアドベントは、お祝いのパーティーのための飾り付けの期間や前夜祭のようなものではありません。私たちは一本一本蝋燭に火を灯しながら、主イエスの到来を待ち望む心を整えるのです。その到来は既に二千年前に起ったあの到来ではなく、これから起る、第二の到来です。主イエス・キリストが、もう一度この世に、私たちのところに来て下さる、その到来です。二千年前、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。私たちの罪が赦され、神様の子として新しく生きるために、ご自身を犠牲にして下さったのです。その主イエスを父なる神様は死者の中から復活させられ、死に打ち勝つ新しい命を与えて下さいました。復活され、もはや死ぬことのない者となられた主イエスは、天に昇り、今は父なる神様の右に座しておられるのです。そして使徒信条が「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と言っているように、あるいはニカイア信条に「生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます」とあるように、もう一度来られるのです。それを主イエスの再臨と言います。第二の到来です。その主イエスの第二の到来によって、今のこの世が終わり、神の国が実現し、私たちの救いが完成する、そのことを待ち望んで生きるのが私たちの信仰です。アドベントは、その信仰を整え、主の再臨に備える心を新たにしていく時でもあるのです。つまり、主イエスの第一の到来を覚え、感謝するクリスマスに備えつつ、その第二の到来、再臨を待ち望む心を整えていく、それがアドベントの意味なのです。先ほど、讃美歌229番、「いま来たりませ」を歌いました。そのタイトルの上のところに、「待降・再臨・アドヴェント」とあります。待降と再臨を共に覚える時がアドベントなのです。「いま来たりませ」と私たちが待ち望むのは、クリスマスにお生まれになった主イエスである以上に、再臨の主イエスなのです。

マタイ二十一章
 さて、アドベントの意味についてお話ししてきたわけですが、今年のアドベントの礼拝、その第四の主の日の礼拝がクリスマス記念礼拝となるわけですが、その四回の礼拝において、どこの聖書の箇所を読み、み言葉に聞いていこうかといろいろ考えました。そして、礼拝において読み続けているマタイによる福音書をこの期間も引き続いて読み続けることにしました。アドベントの時を歩むのに、それが相応しいことだと思ったのです。今私たちは、マタイによる福音書の第21章を読んでいます。ここには、主イエスが、そのご生涯の最後に、エルサレムに来られたことが語られています。21章の始めのところに、主イエスがエルサレムに入られた時のこと、12節以下には、真っ先に向われた神殿の境内で主イエスがなさったことが語られています。主イエスがエルサレムに到来されたこと、その主イエスを迎えた人々の姿、その人々に対して、到来された主イエスが語られたことがこの21章に記されているのです。そういう意味でここは、主イエスの到来を覚えるアドベントを歩みつつ読むのにまことに相応しい箇所であると言えるのです。 いちじくの木を呪う さて本日与えられているのは、18節から22節です。ここには、主イエスが、いちじくの木を呪ってたちまちのうちに枯れさせた、ということが語られています。18節のはじめに、「朝早く、都に帰る途中」とあります。エルサレムに来られた主イエスは、17節にあるように、夜は都を出てベタニアという村に泊まっておられ、翌朝早く再び都へと向かわれたのです。その途中、空腹を覚えて、道端のいちじくの木に実がないかと近寄って見られたけれども、葉のほかは何もなかった、それで「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、その木はたちまち枯れてしまったのです。この話は私たちを困惑させます。おなかのすいた主イエスが、木に八つ当たりした話のように思えるのです。マルコによる福音書の並行箇所を読むと、「いちじくの季節ではなかったからである」とわざわざ書いてあります。いちじくが実る季節でもないのに、実がないからといって腹を立てて木を呪って枯らすなんて、理不尽この上ないことです。主イエスを神の子、救い主と信じて従っていこうとしている者も、この話を読むと、なんだ、結局この程度の人だったのか、と幻滅して去っていく、そんなことにもなりかねない話です。しかし不思議なことに、マルコ福音書も、またそれを受け継いだマタイ福音書も、この話をわざわざ語っているし、カットしないで残しています。福音書は、主イエスを救い主と宣べ伝えるために書かれているのですから、その目的に合わない、幻滅を与えるような話だったらカットしてしまえばよかったのに、そうしていないのです。それは、福音書を書いた人々が、この話を、主イエスを信じる信仰において意味のある話だと思ったからでしょう。いったいそれはどんな意味なのでしょうか。この話は何を私たちに語りかけているのでしょうか。

主イエスの到来
 そのことを考えるために見落としてならないのが、先ほど申しました、この第21章がこの福音書の流れの中で持っている意味です。主イエスがエルサレムに到来された、人々がその主イエスを迎えた、そこで何が起ったかということをこの21章は語っているのです。その文脈の中にこのいちじくの話もある、そのことを見つめていく時に、この不可解な、つまずきに満ちた話の持つ意味が見えてくるのです。つまり、主イエスの到来を覚えるアドベントの信仰においてこの話を読む時にこそ、その意味がわかるのです。それはこういうことです。主イエスが到来されたのです。人々がそれを迎えたのです。その時、迎える人間のあり方、姿勢が問われるのです。それはこんなふうにたとえることができるかもしれません。外国の首相とか大統領が来日した、というニュースが時々流れます。それらは私たち普通の人間にとっては、別段自分に関わりのない、「ああそうなのか」とただ聞き流すだけの、ニュースの中の話に過ぎません。ところが、その人が自分の家を訪ねてくる、ということになったらどうでしょうか。たとえば、どこそこの国の大統領が、日本の、普通の人の家を訪ねてそこの人と会ってみたいということで抽選をしたらあなたの家が当りました、という連絡が来たとでも考えてみてください。これはもう他人事ではすまなくなります。その人をどう迎えるか、どんなもてなしをするか、そういう様々なことを問われることになるのです。私たちが、アドベントを迎え、主イエスの到来に備えるというのはそれと同じことなのです。もしも私たちが、主イエスの到来を、二千年前の、ベツレヘムの馬小屋での主イエスの誕生ということとしてだけ考えているなら、それはどこかの大統領が来日したというニュースとあまり変らないことかもしれません。つまり主イエスはこの世に、人間のもとに来て下さった、私も人間のはしくれだから、それは私のためでもあった、有難いことだ、というぐらいの思いです。それはしかし私たち一人一人にとって、そんなに切実な話ではありません。せいぜい、国賓の来日を歓迎して沿道に出て旗を振るのと同じぐらいの話です。二千年前の主イエスの誕生を記念し、感謝するというだけなら、私たちの思いはそれと大して変らないことになるでしょう。しかし、アドベントとは、その主イエスの再臨を覚え、それに備える時です。主イエスはこれから、もう一度来られるのです。それは、過ぎ去った過去の出来事を記念するのとは全く違う事態です。私たちは、もう一度来られる主イエスと対面することになるのです。その主イエスをどうお迎えするかを問われるのです。私たち一人一人がです。つまり主イエスの再臨を覚えるというのは、自分には関係ないと思っていた国賓が自分の家を訪ねてくるようなことなのです。そこでは私たち一人一人が、自分のあり方、姿勢を問われるのです。主イエスの到来を迎えるとはそういうことなのです。主イエスを迎えたエルサレムの人々が直面したのもそういうことでした。そしてエルサレムの人々は、主イエスを迎える姿勢が整っていなかった、主イエスの到来を迎えるのに相応しいあり方ができていなかったのです。そのことが、主イエスがいちじくの木に実を捜したけれどもなかった、ということに象徴されているのです。

実のないいちじく
 当時の人々が、この出来事から直ちに連想したであろう旧約聖書の箇所が、本日共に読まれたエレミヤ書第8章の13節です。「わたしは彼らを集めようとしたがと主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた」とあります。これは、4節から続けて読めば明らかなように、イスラエルの民が主なる神様に背き、神様が「立ち帰れ」といくら呼びかけても、つまり悔い改めを求めても神様のもとに帰って来ようとしないという様子を語っている言葉です。「わたしは彼らを集めようとしたが」というのが、「わたしのもとに帰って来い」という神様の語りかけです。しかし、「ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない」。神様が期待して求めた悔い改めの実が実っていないのです。主イエスが到来された時のエルサレムの人々の姿もそれと同じだったのです。そしてそれは、その時のエルサレムの人々のみの問題ではありません。福音書にこの話が残されているということは、初期の教会の信仰者たちが、この話を自分たちのこととして受け止めたということです。それは、先ほどから言っているアドベントの信仰、主イエスの再臨を覚える信仰においてです。自分たちも、このエルサレムの人々と同じように、到来される主イエスをお迎えすることになる、その自分たちは、主イエスをお迎えする準備がきちんと出来ているだろうか、主イエスが求めておられる実を実らせているだろうか、そう思った時に、この出来事は他人事ではない、自分たちが信仰においてしっかりと受け止めなければならないことだと彼らは思ったのです。従ってこれは、主イエスがいちじくの木に八つ当たりしたなどという話ではありません。この行為を通して主イエスは、私たちに、アドベントの信仰、主イエスの到来を覚え、主イエスをお迎えする信仰を整えさせようとしておられるのです。

アドベントの信仰
そうであるならば、私たちがここから教えられ、整えられるアドベントの信仰とはどのようなものでしょうか。到来なさる主イエスをしっかりお迎えするために備えをしておかなければならない、主イエスが実を求められた時に何の実りもないようなことがあってはならない、もしそんなことになったら、この木と同じように主イエスに呪われ、たちまち枯れさせられてしまう、つまり滅ぼされてしまう、そういう警告をここから聞き取るべきなのでしょうか。そういう面も確かにあるでしょう。主イエスがこのいちじくの木を呪い、枯れさせたということには、「生きている者と死んだ者とをさばくために栄光をもって再び来られる」その主イエスの審きが見つめられていることは確かです。主イエスの第二の到来を覚えるアドベントに、私たちはこのことを覚えて、身を正していかなければならないのです。けれども、そのことだけだったら、私たちのアドベントの歩みは、喜びというよりもむしろ恐れに満たされていくことになります。主イエスの到来をびくびくしながら待つことになります。それは正しいアドベントの信仰ではないのです。

主イエスの励まし
 そのことは、本日のこの話の後半、20節以下を読むことによってもわかります。20節以下には、いちじくの木がたちまち枯れてしまったことに驚いた弟子たちに、主イエスが、「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起ったようなことができる」と言われたこと、さらには、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われたことが語られています。あのいちじくの木の話の後に、どうしてこれらのお言葉が語られているのか、これらのお言葉の意味は何なのか、それはわかりにくいことです。けれども一つ確かなことは、これらのお言葉は弟子たちに対する警告ではなくて、むしろ励ましのお言葉だということです。主イエスは、「お前たちもあのいちじくの木のようにならないように気をつけろ」と言われたのではなくて、「あなたがたも信仰を持って疑わないなら私と同じような大きな業ができるのだ」と言われたのです。いちじくの木の出来事を通して、主イエスは弟子たちに、審きを恐れてびくびくしながら生きることではなくて、「信仰を持ち、疑わない」で生きること、あるいは、「信じて祈る」者となることを教え、励まそうとしておられるのです。
 主イエスの励ましの内容は何なのでしょうか。「信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起ったようなことができる」。すると私たちも、呪いの力によって木を枯らすようなことができるようになるのでしょうか。そればかりでなく、「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」。そんなものすごいことをする力を、私たちが持つようになるのでしょうか。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。私たちは、欲しいものを何でも手に入れることができるようになるのでしょうか。それってもうほとんど、ご利益で人をたぶらかすインチキ宗教の言っていることと同じです。「信じれば何でも思い通りになる、病気も治るしお金ももうかる、そうならないのはまだちゃんと信じていないからだ、心に疑いがあるからだ、もっと徹底的に信じて、徹底的に献金しなさい」、と彼らは言うのです。主イエスが、「信仰を持ち、疑わないならば」と言われるのはそれと同じことなのでしょうか。

主イエスの到来の恵み
 ここだけを読むならば、両者の区別はつかないと言わなければならないでしょう。けれども、先ほどのいちじくの木の話もそうだったように、このみ言葉も、21章の文脈の中に置いて読まなければなりません。主イエスがエルサレムに到来された、人々がその主イエスを迎えた、そこで何が起ったかということをこの21章は語っているのです。本日の箇所の前の12節以下に、主イエスが神殿の境内で、商売をしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたということが語られていました。主イエスはその時に、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』と聖書に書いてあるのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」と言われました。祈りの家であるべき神殿が、人間の欲望を満たす場になってしまっている、神様のみ前に立ち、礼拝をするべきところで、神様がないがしろにされ、人間の思いだけが支配している、そのことへの激しい怒りを主イエスは露わされたのです。それこそが、「いちじくの木に実がない」エルサレムの人々の姿だったと言えるでしょう。そして、この激しい怒りの姿に続いて語られていたのは、主イエスのもとに、目の見えない人や足の不自由な人たちが来て、主イエスが彼らを癒されたということでした。また、子供たちが、「ダビデの子にホサナ」と叫んで主イエスをほめたたえたことでした。これらのことはいずれも、神様を真実に礼拝する人々が興されたということでした。体に障害を持った人は、神様のみ前に出て礼拝をすることができないと言われていたのです。しかし主イエスは、そのような人々をこそむしろ招いて、癒しの恵みを与え、彼らが感謝して神様を礼拝することができるようにして下さったのです。また、神殿の責任者である祭司長たちや、律法の専門家である律法学者たちがぶつぶつ言っているのをしりめに、子供たちが、心から主イエスをほめたたえて礼拝をしているのです。祈りの家であるはずなのに、強盗の巣になってしまっていた神殿に、主イエスが到来されたことによって、このように、真実に神様を、主イエスを礼拝する者たちが興されたのです。主イエスの到来によって、神殿が、その本来の意味である祈りの家、礼拝の場へと回復されたのです。主イエスの到来によって、それを正しく迎えることができない人間の罪が明らかになると同時に、このように、真実な礼拝が、祈りが、人々の間に取り戻されていく、回復されていく、そのことをこの21章は語っているのです。20節以下の主イエスのみ言葉も、そういう励ましとして読まれるべきでしょう。ここに語られていることは、主イエスの到来によってもたらされている恵みなのです。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」、それは、主イエス・キリストが私たちのところに来て下さった、その第一の到来を覚え、また主イエスが再び来られる第二の到来を待ち望んで生きるところに与えられる恵みです。「疑う」というのは、心が二つに分かれてしまう、という意味です。目には見えない神様の恵みとご支配を信じる思いと、人間の力こそが支配しているように見えるこの世の現実の間で、私たちの心は二つに分かれ、動揺させられるのです。しかし主イエスの第一の到来を覚えつつ、第二の到来に備えていくアドベントの信仰によって、私たちはその疑いから解放され、この世の現実の中を、信仰を持って歩み続けていくことができるのです。「信じて祈る」者となることができるのです。そのことこそが、「山が海に飛び込む」ような驚くべきみ業なのではないでしょうか。目に見えるこの世の現実のみを全てとし、神様を否定して、自分の思いのみによって生きている私たちが、目には見えない神様を信じ、その恵みが自分に注がれていることを感謝し、神様を礼拝し、信じて祈る者となる、これはまさに驚天動地のとてつもない出来事です。それに比べれば、いちじくの木が枯れることなど、何のことはないのです。私たちが、神様を信じて祈り、礼拝をする者となること、それは立山が富山湾に飛び込むほどの大きな出来事なのです。
 それゆえに、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」というみ言葉も、祈れば何でも欲しいものが手に入る、ということではありません。私たちが本当に信じて祈る者となる時、私たちの祈りは、あの主イエスが教えて下さった「主の祈り」を中心とするものとなるのです。主イエスは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われ、「だから、こう祈りなさい」と言って主の祈りを教えて下さいました。信じて祈るとは、父なる神様が、私たちに必要なものを全てご存知であり、それを与えて下さるという信頼の中で祈ることです。そこにおいて私たちは、「願わくばみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈る者となるのです。神様のみ名がほめたたえられ、そのご支配が確立し、そのみ心が行われることをこそ祈り求めていく者となるのです。そしてその願いは決して裏切られることなく、豊かに実現するのです。
 主イエス・キリストの第一の到来を感謝して覚えつつ、第二の到来を待ち望み、それに備えていくことが、私たちのアドベントの信仰です。この信仰を深められつつこの時を歩みたいのです。私たちは主イエスの第一の到来と第二の到来との間の時を生きています。主イエスの第一の到来を祝うクリスマスを喜び迎えつつ、その第二の到来を覚え、これから到来される主イエスを待ち、その備えをしていく中で、私たちの疑いの木は枯れ、山が動いて、頑なな私たちが、信じて祈る者とされるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年12月1日]

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