富山鹿島町教会

礼拝説教

「ダビデの帰還」
サムエル記下 第19章41〜20章22節
使徒言行録 第4章23〜31節

アブサロム以後
 月の第四の主の日には、旧約聖書サムエル記下からみ言葉に聞いています。先月は、18章から19章の始めにかけてのところを読みました。そこには、ダビデ王の息子アブサロムが父に対して反乱を起し、一時エルサレムを奪ったけれども、結局ダビデの軍勢との戦いに敗れて殺されてしまったこと、その息子アブサロムの死を、父ダビデが深く嘆き悲しんだことが語られていました。本日は、それに続くところを読んでいきます。アブサロムが反乱を起した時、ダビデはエルサレムを逃れて、ヨルダン川の東側のマハナイムという所に避難しました。戦いに勝利し、アブサロムが死んだとなれば、当然そこからエルサレムに戻り、王位に復帰するということになります。ところが、事はそう単純にはいかなかったということが19章から20章にかけて語られているのです。

北の諸部族
 アブサロムの反乱は、彼一人が自分の手下を率いて起したという単純なものではありませんでした。もしそうなら、ダビデがエルサレムから逃れなければならないようなことにはならなかったでしょう。アブサロムは、相当周到に計画を練り、準備を整えて反乱を起したのです。そのことは15章の始めのところに語られていました。彼はイスラエルの人々の心をつかみ、ダビデよりも自分を支持する者たちを得ようとしたのです。そこを読んだ時にも申しましたが、アブサロムが声をかけ、支持を求めていったイスラエルの諸部族というのは、後に北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂した、その北のイスラエルの諸部族のことなのです。ダビデ王は南のユダ族の出身です。ダビデは先ずヘブロンでユダの王として即位し、それからイスラエル全土の王になったのです。ですからユダ族はダビデを固く支持しています。そのダビデに対して反乱を起し、とってかわろうとするためには、ダビデの支配に不満を抱いている者たちを味方につけることが有効な手段です。それにはユダ族以外の、北の諸部族に働きかけるのが一番なのです。アブサロムはそのように、主に北の諸部族の人々に呼びかけ、支持を求めたのです。ですから、アブサロムが反乱を起した時、15章13節に、「イスラエル人の心はアブサロムに移っている」という知らせがダビデのもとに届いたのですが、その「イスラエル人」とは主に北の諸部族の人々のことだったのです。アブサロムの反乱はこのように、単なる個人の反乱ではなく、イスラエルを北と南に分ける、内戦の様相を呈したのです。
 その戦いがダビデの勝利に終わり、アブサロムが滅亡した今、アブサロムを支持した北の諸部族は困惑しました。そのことが、19章10節以下に語られています。「イスラエル諸部族の間に議論が起こった。『ダビデ王は敵の手から我々を救い出し、ペリシテの手からも助け出してくださった。だが今は、アブサロムのために国外に逃げておられる。我々が油を注いで王としたアブサロムは戦いで死んでしまった。それなのに、なぜあなたたちは黙っているばかりで、王を連れ戻そうとしないのか』」。この「イスラエル諸部族」が、今言った北の諸部族です。彼らはアブサロムに油を注いで王としたのです。しかし彼が死んでしまった今、やはりダビデを王としていただく他に道はない、と彼らは考えました。そしてそれなら、むしろ急いでダビデのもとに行き、アブサロムに加担したことなどなかったかのように、ダビデを王としてエルサレムに連れ戻すのがよい、ということです。まことに虫のよい話ですが、実際の政治というのはこういうものでしょう。機を見るに敏でなければならない。それに乗り遅れると致命的なことになるのです。

ユダ族
 しかしダビデは、このような北の諸部族の動きを知ると、自分の支持母体であるユダ族に声をかけます。それが12節以下です。ダビデはユダの人々に、あなたたちこそ、まっさきに私を王として迎え、エルサレムへの帰還の主導権を握るべきだと言っています。ダビデのエルサレムへの帰還が、どの部族によってなされるかによって、その後の王国の主導権が決まるのです。これは、本能寺の変の後、秀吉が明智光秀を滅ぼしたことによってその後の政治の主導権を握っていったのと同じことです。ダビデは、ユダ族がその主導権を握ることを求めています。北の諸部族にそれを握られてしまっては、ダビデ自身のその後の統治がやりにくくなるのです。このような事情の中で、ダビデはエルサレムに帰還しました。ですからこれは、反乱軍との戦いに勝った王が首都に帰還した、というような単純なことではないのです。平穏に見えるこの帰還の裏には、まことに熾烈な争いがあるのです。そのことが、先程朗読された41節以下に描かれているのです。

ダビデの帰還
 41節に、「ユダの全兵士もイスラエルの兵士の半分も王と共に進んだ」とあります。このまことにおかしな文章は、今言った事情の反映なのです。ダビデの帰還は、ユダ族の全兵士によって果たされました。しかしそこには、イスラエルの兵士の半分も共に加わっていた。そのイスラエルとは、やはり北の諸部族のことです。その半分がダビデの帰還に共に関わったのです。しかし、ユダ族の兵士は全部であるのに対して、イスラエルの兵士は半分であるというところに、北の諸部族の複雑な事情が伺えます。ダビデを再び王として迎え、そのもとで王国を再建しようとする人々と、それを喜ばない人々とが、北の諸部族の中には半々ぐらいでいたということです。また、ダビデのもとに集まり、その帰還に加わった人々の間でも、ユダとイスラエルの間には対立があったことがここには語られています。どちらがダビデを迎えてエルサレムに共に帰還するかで、言ってみれば、ダビデ王の奪い合いのようなことを彼らはしているのです。44節に、イスラエルの人々のこういう言葉が記されています。「王のことに関して、わたしたちには十の持ち分がある。ダビデ王に対してもお前たちより多くの分がある。なぜわたしたちをないがしろにするのだ。わたしたちの王を呼び戻そうと言ったのはわたしたちが先ではないか」。彼らが、「わたしたちには十の持ち分がある」と言っているのは、イスラエルの民の十二の部族の内の十が北の諸部族であるということです。南に属するのは、ユダとベニヤミンの二つです。この十部族と二部族が、後に北王国イスラエルと南王国ユダとに分かれていくのです。そういう分裂の芽はもうこのころからあったというふうにも読めるし、あるいは後に十部族がダビデ家に対抗して北王国となったことから、こう語られているのかもしれません。いずれにせよこのように、ダビデが王としてエルサレムに帰還した時の状況は、ハッピーエンドどころか、一触即発の危機をはらんでいたのです。

シェバの反乱
 この一触即発の危機に火をつけたのが、シェバという人でした。そのことが20章に語られています。彼はダビデを王として迎えた人々の中にいたのですが、角笛を吹き鳴らしてイスラエルの人々を煽動し、こう言いました。1節です。「我々にはダビデと分け合うものはない。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ」。つまり、北の諸部族に対して、ダビデと袂を分かち、もはやダビデを王としていただくのをやめてそれぞれの地に帰るように呼びかけたのです。このシェバの呼びかけによって、2節にあるように、「イスラエルの人々は皆ダビデを離れ、ビクリの息子シェバに従った」のです。ユダと北の諸部族イスラエルとの対立はこのシェバによって決定的となり、アブサロムの反乱が収まったと思ったイスラエル王国に、再び大規模な紛争が起ったのです。しかもこのたびは、アブサロムという個人の反乱よりももっと深刻な、部族間の対立による内戦です。6節でダビデが、「我々にとってビクリの子シェバはアブサロム以上に危険だ」と言っているのはそういうことです。下手をすればイスラエル王国自体が分裂、瓦解してしまいかねない事態が起っているのです。

アベル・ベト・マアカ
 この深刻な事態がどう収拾されていったかが20章に語られているわけですが、ここには、北の諸部族とユダ族との大規模な戦闘が行われたということは書かれていません。戦いとしては、一つの町の攻防戦が行われたのみです。その町とは14節にある、ベト・マアカのアベルという町です。この町の場所は、新共同訳聖書の後ろの付録の地図の4「統一王国時代」にのっています。その地図のずっと上、つまり北の方、ヨルダン川からキネレト湖、つまり後のガリラヤ湖を結ぶ線を上に伸ばしていった所に「アベル・ベト・マアカ」とあるのがそれです。そのすぐ東には「ダン」の町があります。イスラエルの人々の土地は、「ダンからベエル・シェバまで」と言われるわけで、つまりここはもうイスラエルの地の北のはずれです。シェバは14節にあるようにイスラエルの全部族を通って行ってこのアベルに立て篭もったのです。彼のもとには「選び抜かれた兵が寄り集まり従った」とあります。ところがここを前の口語訳聖書で読むと、「ビクリびとは皆、集まってきて彼に従った」となっています。ここの原文は保存状態が悪くてそのままでは意味をとれないようになっており、いろいろに推測して読むしかないためにこのような違いが生じているのです。いずれにせよ、ここに描かれているのは、シェバが北の諸部族イスラエルの全軍を率いる司令官になってはいないということです。彼はあのようにイスラエルの人々を煽動はしたものの、その全軍を自分のもとに統率するような力量はなかったということでしょう。北の諸部族も、ダビデのもとから去ってそれぞれの地に帰ってしまったけれども、さりとてダビデに代わる別の王を立てて自分たちの国を興すこともできない、そのような実力のある人がいないのです。そのように考えると、14節でシェバが「イスラエルの全部族を通って行った」とあるのも、あちらの部族、こちらの部族と渡り歩いて自分を支持し戦うことを求めたけれどもどこからも断られた、ということのようです。そのように相手にされずに、結局北の果てのアベルまで行ってそこに立て篭もったのです。ですから、彼のもとに集まった者たちも、「選び抜かれた兵」というよりも、口語訳のように「ビクリびと」と考えた方がよいように思います。ビクリとはシェバの父の名です。つまり彼の親族たちだけが彼に従って行動を共にしていたのです。このようなわけで、当初はイスラエルを南北に分裂させる危機に発展するかと思われたこの反乱は、そういう大戦争に発展せずにすんだのです。

ヨアブとアマサ
 さてここで、この20章に語られているもう一つのエピソードを見ていきたいと思います。それは、ヨアブという人に関する話です。このヨアブが、ダビデの軍勢を率いてアベルを攻めたわけですが、そこに至るまでの間に、血なまぐさい話が語られています。もともと、ダビデの命令によって、ユダの軍勢を動員したのは、4節にあるようにアマサという人でした。ヨアブがこのアマサを騙して刺し殺したのです。9節にあるように、ヨアブはアマサに、「兄弟、無事か」と声をかけ、口づけしようとしながら刺し殺しました。これを、旧約におけるユダの口づけ、と呼ぶ人もいます。このようにしてヨアブはアマサからユダの軍勢の司令官の立場を奪ったのです。このことには複雑な背景があります。そもそも、アマサという人は、17章25節に初めて登場しているのですが、そこで彼は、アブサロムによって、ヨアブの代わりにイスラエルの軍司令官に任命されています。ダビデ王のもとで、もともとヨアブがイスラエル全軍の司令官だったのです。しかしアブサロムの反乱でダビデがエルサレムを逃れ、ヨアブもそれに従って行ったために、司令官が不在となりました。そこに王として入城したアブサロムが、ヨアブに代えてアマサを司令官に任命したのです。つまりアマサはもともとはダビデにとって敵側にいたのです。しかしアブサロムの死後、ダビデはこのアマサをそのまま軍司令官の地位に留めました。そのことが19章14節に語られています。ここには、ダビデのいくつかの計算と思いが働いています。一つは、一旦アブサロム側についた軍隊を再び自分の下に置くに際して、その司令官ごと用いた方がスムーズにいくだろうということです。しかしもう一つ、むしろこちらの方がダビデの本音ですが、それは、この機会に、ヨアブを軍司令官の地位から更迭しようという思いです。ヨアブという人は、ダビデがサウルに追われて逃げている頃からその腹心の部下でした。彼は大変優れた武将であり、また冷徹な実際家で、目的のためには手段を選ばないという面がありました。サムエル記下の第3章には、サウル亡き後サウル家の将軍となったアブネルという人をヨアブがやはり騙して刺し殺したことが語られています。また、ダビデが部下であるウリヤの妻バト・シェバと関係を持ち、ウリヤを戦場でわざと戦死させてバト・シェバを自分の妻とした時に、ダビデの意を受けてウリヤを殺すために無理な命令を出したのもヨアブです。つまりバト・シェバ事件においてはヨアブはダビデの共犯者であり、ダビデにとっては自分の弱みを握られている相手でもあるのです。また先ごろのアブサロムの反乱において、ダビデが息子アブサロムには手を出すなと命令していたのに、構わず彼を撃ち殺したのもこのヨアブでした。そしてダビデが息子の死を嘆き悲しんでいると、ヨアブが、「あなたのために戦って勝利した兵士たちの労苦を無にするつもりですか」と諌めたのです。このようにヨアブは、主君ダビデのために、恐ろしいほど冷静、沈着に働き、邪魔になる者を手段を選ばずに滅ぼしていったのです。まことに有能な、頼もしい部下です。しかしダビデはそこに同時に恐ろしさを感じていたのではないでしょうか。特に、反乱を起こしたとは言え、息子アブサロムを容赦なく殺した彼に、ある恨みの思いを抱いていたことは察することができます。そういう気持ちから、ダビデは丁度この機会をとらえて、ヨアブを軍司令官の地位からはずしたのです。しかし、代わって司令官に任命されたアマサは、あまりその器ではなかったようです。5節に、彼はダビデから命令された期間の内にユダの人々の動員を終えて戻ることができなかったことが語られています。彼はイスラエルの全軍を手足のように動かせる器ではないのです。また、ヨアブという人は、司令官の地位から下ろされて、そのまま引き下がるような人ではありません。6節に、ダビデがシェバの追撃にアビシャイという人を遣わしたことが語られていますが、この人はヨアブの弟です。その追撃軍にヨアブも加わっており、そして遅れて到着したアマサを暗殺して、結局ユダの軍勢の指導権を彼が掌握していったのです。そしてこの後、23節を読むと、「ヨアブはイスラエル全軍の司令官」とあります。結局ダビデは、このヨアブをやはり軍司令官として迎えざるを得なかったのです。ヨアブの、軍を統率する力はそれほどに優れていたということです。

知恵ある女
 さて、話はアベル・ベト・マアカの包囲戦に戻ります。ヨアブに従うユダの軍勢が、アベルに立て篭もるシェバを包囲し、その町の城壁を崩して町を滅ぼし、シェバを殺そうとしたのです。そこに、一人の「知恵のある女」が登場します。彼女が城壁の上からヨアブに呼ばわったのです。18、19節です。「昔から、『アベルで尋ねよ』と言えば、事は片づいたのです。わたしはイスラエルの中で平和を望む忠実な者の一人です。あなたはイスラエルの母なる町を滅ぼそうとしておられます。何故、あなたは主の嗣業を呑み尽くそうとなさるのですか」。彼女が言った「昔から、『アベルで尋ねよ』と言えば、事は片づいたのです」ということの意味はわかりにくいですが、「アベルで尋ねよ」という諺があったということでしょう。このアベルという町が、この近くのダンにあった聖所との関係で、いろいろな紛争、もめ事の解決を求める人々が集まり、祭壇に献げものをして神様のみ心を問うという仕方でその調停がなされてきたのだと考えられます。アベルはそういう意味で、北の諸部族イスラエルの中でも大事な町だったのです。彼女がヨアブに言ったのは、あなたはイスラエルの諸部族にとってそのように大事な町を攻め滅ぼそうとしている、ということです。それに対してヨアブが答えたのは、我々はこの町を攻め滅ぼすことが目的ではない、我々が追っているのはシェバ一人だ、ということです。そこで、この女は町の人々を説得して、シェバを捕え、その首をヨアブのもとに投げ落としたのです。それを確認したヨアブは矛を収め、エルサレムに帰りました。このようにして、シェバの反乱はあっけなく終わりました。多くの人々の血が流されることなく、シェバ一人が殺されて終わったのです。このことは大変大きな意味を持っています。先程申しましたように、この時ダビデの率いるユダと、北の諸部族の間は一触即発の状態にあったのです。そのような中で、もしもヨアブの軍勢がアベルの町を滅ぼして虐殺が行われたりしたら、北の諸部族はやはり黙っていないということになったでしょう。そのことをきっかけに本格的な内戦に拡大していったかもしれません。あの知恵ある女の呼びかけと、それに答えたヨアブによって、そのような事態が回避され、イスラエルに平和が戻ったのです。このことを機に、もはやダビデ王の支配に異を唱える人々、部族はなくなりました。ダビデ以外に、イスラエルの十二の部族をまとめる力のある人はいないことが明らかになったのです。アブサロムの反乱を機に生じた王国の危機はこうして乗り越えられ、ようやくダビデの王国が安泰となったのです。その平和は、ダビデの後を継いで王となったソロモンの治世が終わるまで続きます。その平和の下で、イスラエル王国は最盛期を迎えていくのです。

聖書の面白さ
 さて本日はこのように、19章から20章にかけて語られていることを、その背景や裏の事情まで推測しながらお話ししてきました。私が語ってきたことには、かなり推測が入っています。しかしいずれも、聖書に語られていることをもとにした推測で、何の根拠もない勝手な推測ではありません。語られていることを少し深く読めばこのような事情が浮かび上がってくるのではないか、ということです。こういう歴史物語のようなことをお話ししてきたのは、聖書、特に旧約聖書は、よく読めばこんなに面白い、手に汗握る物語なのだということを知っていただきたいためです。そのことは、聖書通読運動に参加して通読を進めておられる方は既にお気づきのことと思います。旧約聖書の、特にこのあたりは、登場人物の息遣いが感じられるような、面白いところなのです。

私たちへの励まし
 しかし、ただ面白がっているだけでは信仰の足しにはなりません。今読んだところに語られていたことは、私たちの信仰にとって、どのような意味を持つのでしょうか。ここに語られていたことは、その根本的な内容としては、ダビデの王国がその危機を乗り越え、安定したということです。アブサロムや、シェバが反乱を起こしてダビデを脅かしたし、また北の諸部族の人々の思いによって王国の統一が危うくなったりしましたが、それらの全てが収拾されて、ダビデの王国は安定していったのです。またそこには、ヨアブとダビデの複雑な関係も織り成されています。お互いがお互いに対して、恐れや怒りを抱いていたり、不満を持っていたり、必ずしもうまくいかない関係にありながら、その二人の連携によって平和が実現し、王国の安定がもたらされたのです。私たちはここに、主なる神様の不思議な導きを見ます。神様が、あらゆること、人間の目からは必ずしも好ましくないと思えるようなことをも用いて、そのみ心を実現して下さるということを、ここからも教えられるのです。そのみ心とは、ダビデを王として選び、その王国を固く据えて下さるということです。このダビデに反抗し、その王位を脅かし、王国を分裂させようとする者たちのたくらみは虚しいのです。主なる神様は、そのような者たちがどんなに荒れ狂っても、彼らを嘲笑い、ダビデの王国を支えて下さるのです。そういうことを歌っているのが、詩編の第2編です。そしてその詩編第2編の一部が、本日共に読まれた新約聖書の箇所、使徒言行録第4章25、26節に引用されているのです。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」というところです。「主とそのメシア」とあります。「メシア」は詩編の方では「油注がれた方」となっています。それがメシアという言葉の意味であり、それは神様が選んで立てた王を意味しています。詩編の方ではそれはダビデを指しているわけですが、この使徒言行録にそれが引用された時、このメシアは主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、ダビデ王の子孫として生まれ、その王位を受け継ぎ、神様の民イスラエルをご自分のもとに結集し、一つにして治める救い主なのです。旧約のダビデは、この主イエス・キリストのひな型であり、主イエスを指し示しているのです。この主イエス・キリストに、ヘロデや、ポンティオ・ピラトや、異邦人やイスラエルの民、つまり全ての人々が逆らい、罪に定め、十字架にかけて殺しました。けれども父なる神様は、その主イエスを死者の中から復活させ、私たちの罪を赦し、神様の民として新しく生かして下さる方、新しいイスラエルである教会の土台にして王である方として立てて下さったのです。神様のみ心は、今やこの主イエス・キリストによって実現し、他ならぬ私たちが、神様の王国の民として、ダビデに勝る王イエス・キリストのもとで、まことの平和を与えられているのです。本日の箇所を私たちは、この主イエス・キリストによって私たちに与えられている救いの恵みを指し示す出来事として、またそこにどのような妨げ、困難があり、人間の思惑がどのように渦巻いても、神様はこの救いを必ず実現して下さることのしるしとして見ることができます。使徒言行録の4章29節に、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」という祈りがあります。これは私たちの祈りでもあります。様々な困難や妨げの中で、私たちが、神様のみ言葉を固く信じ、それを大胆に語っていくことができるように、その励ましを、ダビデの王国への神様のこの導きの物語から受けることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年8月25日]

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