先週の夏期総員礼拝に引き続いて、本日も、マタイによる福音書第18章15節以下からみ言葉に聞きたいと思います。先週は、20節の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という、本年度の私たちの教会の主題聖句になっているみ言葉から始めて、だんだん前に戻って来る仕方でこの箇所を読みました。本日は、逆に、15節から読み進めていく仕方でこの箇所を読みたいと思います。
教会とは
前にも申しましたが、この18章は、主イエス・キリストを信じる信仰者の群れである教会のあり方を教えている所です。マタイによる福音書の中で、「教会」という言葉が出てくるのは、16章18節と本日の箇所の17節の二箇所のみです。16章の方は、ペトロが主イエスに、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰の告白をしたのに対して、主イエスが「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたところです。つまり、教会はペトロが弟子たちを代表して語った信仰の告白を土台として立て上げられていく群れであることがそこでは教えられているのです。それに対してこの18章では、その教会とはどのような群れ、共同体であるべきなのか、ということが教えられていると言うことができます。20節の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉も、教会の本質を語っている言葉であると言えるでしょう。教会とは、二人または三人が、主イエス・キリストのみ名によって、つまり主イエスを神の子、救い主と信じ従っていく信仰において、集まるところに成り立つものであり、そこに、主イエス・キリストが共にいて下さるのです。
兄弟が自分に対して罪を犯す
このようにこの18章では、主イエス・キリストのもとに、信仰によって集まる者たちの群れである教会が見つめられているわけですが、その教会が、何の問題もない、理想的な群れとして、つまりこの世の天国のような所として見つめられているのでは決してない、ということが大事です。そのことは18章の冒頭から既にそうです。そこには、弟子たちが、「だれが天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問したことが語られています。その「誰が」というのは、自分たち弟子たちの中で誰が、ということです。弟子たちの群れ、即ち教会の中でも、自分が一番偉くなりたいという思いが起ってきて、それによる仲間割れ、対立が生まれるということが見つめられているのです。さらに6節では、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」ということが語られています。「わたしを信じる」というのですから、これは教会における仲間、兄弟姉妹の間でのことです。その中の小さな一人をつまずかせてしまう、つまり、何らかの仕方でその人を傷つけ、その人が教会の仲間として、信仰者として歩めなくなってしまう原因をつくってしまう、そういうことが教会の中で起ることが見つめられているのです。そのことは10節では「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という形で言い直されています。教会の中で、その兄弟姉妹の交わりの中で、弱い、小さな一人が軽んじられてしまうということが起るのです。そういうことをしてしまわないようによくよく気をつけなければならない、と主イエスは教えておられるのです。ここまでは、自分が小さな一人をつまずかせたり、軽んじてしまわないように注意せよという教えです。しかし本日の15節になると今度は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」ということが語られています。兄弟とは教会の兄弟姉妹です。その中の誰かが、自分に対して罪を犯すこと、自分を傷つけ、苦しめ、いろいろな意味での損害を与えることがある、自分がその被害者になることがある、そういうことが見つめられているのです。このように見てくると、マタイは教会という群れ、共同体を決して奇麗事として見ていないことがわかります。主イエス・キリストのみ名によって、信仰によって集まるこの群れにおいて、人をつまずかせたり、軽んじたりすることが起るし、また人が自分に罪を犯し、それによって傷つけられたりすることが起るのです。教会は、そういう意味で、決して、地上の天国などではない、むしろこの世の他の様々な人間の集団、共同体と同じように、人間の罪のうず巻く所なのです。問題は、その罪の現実に、私たちがどう対処し、立ち向かうかです。そのことは特に、兄弟が自分に対して罪を犯した、その時に、その罪の被害、損害を被った自分が相手に対してどうするか、というところに最も端的に現われます。そこでこそ、その共同体の質が問われているのです。本日の箇所はまさにそのことをとりあげており、そこで何をなすべきかを教えているのです。
二人だけのところで
兄弟が自分に対して罪を犯す、そういうことが起った時に、主イエスは私たちに先ず何をせよとおっしゃっているのでしょうか。それは、「行って二人だけのところで忠告しなさい」ということです。自分に罪を犯している人と自分と、その二人きりのところで、忠告をする、つまり、あなたが私にしたこのことは罪だ、と指摘をし、反省を求める、悔い改めを求めるのです。要するに、相手と直接に、率直に語り合うのです。このような語り合いは、相手が自分に対して罪を犯している、という前提のもとでは、なかなか難しいことです。相手の罪の被害者である自分にはどうしても怒りの気持ちがあり、その怒りを相手にぶつけたい、そして仕返しをしてやりたい、という思いがあります。また、私たちの人間関係の現実は、「相手が自分に対して罪を犯している」、つまり一方的に相手の方が悪い、ということはむしろ稀であると言わなければならないでしょう。確かに相手が自分に罪を犯した、そのことは指摘をして、反省を求めなければならない、しかし同時に自分の方にも相手に対する落ち度がある、自分にも罪がある、自分も反省しなければならない点がある、という場合の方が多いと思うのです。だからこの話し合いは現実には複雑なものとならざるを得ない。ただ相手に忠告するというだけではすまない場合が多いのです。そういう意味では、主イエスが言っておられることはいささか単純すぎるようにも思えます。けれども、ここで私たちがしっかり聞き取らなければならない大切なことは、むしろその次の「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」という言葉なのです。「言うことを聞き入れる」とは、忠告を受け入れて、罪を認め、それを悔い改める、そして「悪かった」と詫びることです。それは、お互いの間に理解と共感が生まれ、悪意や敵意が乗り越えられて、よい関係が回復することです。それによって「兄弟を得る」ことが起るのです。もともと兄弟姉妹であったものが、罪によってその間が引き裂かれ、兄弟として歩めなくなってしまっている、その問題が解決されて、再び兄弟となることができる、そのことこそ、この二人きりの話し合いの目指すところなのです。この目的をしっかりと見据えておくことが何よりも大事です。つまり自分に罪を犯した兄弟と話しをするのは、怒りをぶつけて自分の気を晴らすためでもなければ、相手の罪を徹底的に責めてたたきのめし、復讐するためでもない、相手を兄弟として得るため、兄弟としてのよい交わりを回復するためなのです。そのことをしっかりと見定めておくことによって、この話し合いに臨む私たちの足場がしっかり固まるのです。先程申しましたように、この話し合いは現実には複雑なものにならざるを得ません。一方的に相手の罪を指摘するだけではすまないのです。しかしそれがどんなに複雑な錯綜としたものとなっても、「相手を兄弟として得る」という目的がしっかり見定められていれば、この話し合いの中で道に迷ってしまうことはないでしょう。
ほかに一人か二人を連れて行って
けれども、そのように二人だけで話をしても、それがうまくいかないことも多々あります。相手を兄弟として得ることができない、よい関係を回復することができない場合です。その時には、次の16節に、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と教えられています。一人か二人の人に共に行ってもらって、二人または三人で相手の説得に当るのです。そのようにする理由は、「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」と語られています。これは、旧約聖書に語られている、裁判の公正を期すための掟です。人に有罪の判決を下すことは、一人の証言のみでしてはならない、と定められています。必ず、二人または三人の証言が一致しなければならない、そうなって初めて、そのことが事実であると認定できるのです。兄弟との間のトラブル、罪においても、当事者どうしの間で解決がつかない場合にはそれと同じことが必要になってきます。一対一では水掛論になってしまうところに、二人または三人が共にその人の罪を指摘することによって、それは被害者一人のみの主観的な思いではなく、客観性を持ったことだということが示され、より強力に悔い改めを求めていくことができるのです。しかしこの二人または三人による話というのも、大変難しい面があります。下手をすればそれは、二人または三人がよってたかって一人の人を責めたてるようなことになってしまいます。被害者が、一人二人の仲間の力を借りていっしょに復讐をする、ということにもなりかねないのです。しかしそういうことは主イエスがここで教えておられることとは全く違います。ここでもまた、先ほどの「兄弟を得るため」という目的がしっかりと見定められていなければならないのです。被害者である自分も、また共に行く一人二人も、罪による関係の破れが癒されて、兄弟としての交わりが回復されることを目指してこの話合いをするのだということを肝に銘じておかなければならないのです。
教会に申し出る
さてしかし、そのように二人または三人で説得に当っても、なお「聞き入れない」、悔い改めがなされず、兄弟の交わりを回復することができない、ということも起ります。その場合にはどうするか、それが17節です。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」とあります。ここに「教会」という言葉が出てきているわけです。
「兄弟が自分に罪を犯した」という問題を、最終的ににせよ、「教会に申し出る」ということに私たちは違和感を覚えるのではないでしょうか。兄弟と自分との問題、トラブル、それは個人的な事柄です。それを教会に申し出て、教会の問題にするなんて、そんな必要があるのか、とも思うし、そんな恥ずかしいことはしたくない、という思いも起こります。この「教会に申し出る」ということの持つ意味を私たちはじっくり考えなければならないでしょう。
「教会に申し出なさい」という教えにおいて主イエスが示しておられる最も大事なことは、兄弟姉妹の間での罪の問題、それによって傷つけられたり、つまずきが起ったりする、その問題は、個人的な問題に留まるものではない、それは教会の問題なのだ、ということです。それは、こういう問題の全てに、教会が首をつっこんで何かをしなければならない、ということではありません。これまで見てきたように、当事者どうしの間で、あるいは二人または三人の人々の努力によってそれが解決されていくならそれでよいし、そのことが望ましいのです。しかし、それでもどうしても解決されずに、つまり罪が残り続け、それによる関係の破れが癒されず、兄弟としての交わりが失われたままであるなら、それは教会の問題なのです。教会という、主イエス・キリストのもとに共に集い、信仰によって結び合って共に生きる共同体の交わりが、この罪によって破壊されてしまうからです。そのことを教会は、「あれは個人の問題だ」として見過ごしにはできないのです。もしそうするならば、それによって、先程の10節にあった、「これらの小さな者の一人を軽んじる」ことになってしまうからです。その軽んじられる一人は、兄弟に対して罪を犯している人かもしれません。あるいは、兄弟の罪によって傷つけられている方の人かもしれません。あるいはその両方共かもしれません。いずれにせよ、罪によって兄弟の関係が失われてしまっていることをそのままにしてしまうなら、それは兄弟の誰かを軽んじることになるのです。そしてそこから、6節にあったように、「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ということが起ってくるのです。ですから教会が、兄弟姉妹の間に起る罪によるトラブルを解決するための努力をせずに、結局その二人が絶交状態になって終わり、ということになってしまうなら、それは教会自体が一人の小さな者を軽んじ、つまずかせていることになってしまうのです。
戒規
教会に申し出る、その申し出られた教会はどうするのでしょうか。そこでもすることは、基本的にあの二人または三人の場合と同じです。罪を犯している者を説得し、悔い改めを求めていくのです。そして当事者どうしが、お互いに非のある所を認め謝ると共に、相手を赦して、兄弟の関係を回復することを求めていくのです。兄弟を得るための三度目の努力がなされていくのです。そしてそれでもどうしても解決が得られず、犯した罪がみんなから客観的に指摘されてもそれを悔い改めようとしないならば、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われています。異邦人か徴税人、それは当時のユダヤ人たちの社会において、神様に背く罪人として忌み嫌われていた人々です。そういう人たちとは一切関係を持たない、付き合わないのが一般のユダヤ人の生活だったのです。その人々と同様に見なすとは、その人をもう教会の仲間、兄弟姉妹として扱わないということです。教会の交わりからその人を追放することです。このことは後に「破門」とか「除名」という形で制度化されていきました。それらの制度の全体を、私たちの言い方では「戒規」と言っています。「十戒」の「戒」と規則の「規」です。戒告から始まり、陪餐停止、つまり聖餐にあずかってはならないということ、そして最も重くは除名という戒規が教会の歴史の中で整えられていったのです。このことは、教会における懲罰規定のように思われるかもしれません。しかし根本的にはそうではないのです。これは、教会がある人に悔い改めを求める、最終的な処置です。兄弟の間で犯された罪をうやむやのままに見過ごしてしまうのでなく、それがきちんと悔い改められて、それによってお互いが赦し合い、兄弟の関係が回復されるために、このような処置がなされるのです。従ってこれは、罪を犯した人を罰するとか、被害者に代わって復讐するというものではありません。「兄弟を得るため」というあの目的はここでも見失われてはならないのです。それゆえに、その人が悔い改めて、赦し合いが成り立ち、兄弟関係が回復されるならば、その処置は直ちに解除されるのです。これが戒規というものであり、その聖書的根拠がこの17節にあるのです。
しかし今日の教会において、この戒規というものはほとんど行われていません。それには現実的ないくつかの理由があります。一つは、先程から申しているように、兄弟どうしの間の罪というのがそう単純なものではない、ということです。百%片方が悪い、というようなことはほとんどないのであって、お互いに悪い点があり、反省すべき所があるというのがたいていの場合です。そういう中では戒規によって悔い改めを求めるということになりにくいのです。また、戒規が有効であるのは、その社会全体にそれについての共通理解があり、教会の戒規を受けることがその社会で生きる上でのあるダメージになるような場合ですが、今日の、特に日本の社会においてはそういうことは全くあり得ません。戒規を受けたってそれは教会の中だけのことで、教会に来なくなってしまえば何の痛痒も感じずにすむのです。そういう状況の中で戒規を行うことは、むしろその人のつまずきの原因を作ってしまうことにしかならない、というのも、私たちの間でそれが行われない大きな理由です。このように、戒規はそれを具体的にどう執行するかにおいて様々な問題や困難があるわけです。しかしそれを具体的に行なうかどうかは別として、教会という共同体は、その中で起る罪とこのように向き合い、それを全体の問題として対処していくべき群れなのだということは、私たちがここから受け止めるべき大切な教えなのです。
教会―信仰者の群れ
もう一つそこで考えておきたいのは、「教会に申し出なさい」の「教会」という言葉で何が見つめられているのか、ということです。たとえばここは、「牧師に申し出なさい」とか、「長老会に申し出なさい」となってはいないのです。福音書が書かれた当時、まだ教会の組織ははっきりと整えられていませんでした。今日の私たちのような、牧師、長老、執事という職務を担う人がいて、教会としての意志決定は牧師と信徒の中から選ばれた長老とによる長老会が行う、という制度は後に生まれていったものなのです。そうすると、ここで「教会」と言っているのは、信仰者の群れとしての教会の全体です。誰か中心になって教会を指導している人や人々ではなくて、そこに連なる全ての信仰者たちが「教会」なのです。その教会に、この兄弟の間の罪の問題が申し出られるのです。ということは、教会に連なる全ての者たちが、この問題を自分のこととして受け止め、担うということです。つまり、誰かと誰かの間でのトラブルを、「あれはあの人たちの問題で、私とは関係ない」と言ってしまってはならないということです。教会の兄弟姉妹の間で起る様々な問題、罪による傷つけ合い、それは、自分が当事者でなくても、決して自分と関係のない他人事ではないのです。
それではそこで私たちは何をすればよいのでしょうか。もめている人たちの間に首をつっこんで、どっちが悪いとか、反省しなさいとか、いやあんたの方にも悪いところがあるからお互いに赦しあわなければとか、そういうことをみんなでよってたかって言うことが求められているのでしょうか。そうではありません。そういうことは決して事柄を解決させていかないどころか、かえって混乱させるばかりです。私たちがそこで本当にするべきことは何か、それが、18節以下に教えられているのです。
教会における祈り
18節に、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあります。これは先週申しましたように、私たちがこの地上で人を罪につなぎ、つまりその人を罪人としてあくまでも断罪するか、それともその人を罪から解く、つまり赦すか、そのことが、天上で、つまり神様ご自身がその人の罪を赦さないか赦すかを決定づけるのだということです。神様は私たちにそういう重大な使命、責任を委ねておられるのです。私たちは、そういう重大な責任を覚えて歩まなければなりません。そこにおいて神様が私たちに期待し、望んでおられることは、兄弟を罪から解くこと、赦すことです。「あなたがたの地上の具体的な歩みにおいて、自分に罪を犯す兄弟姉妹を赦してほしい、そうすれば私もその人の罪を赦すことができるのだ」と神様は私たちに語りかけておられるのです。そしてそれに続いて、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と言われています。それは、二人で心を合わせてお祈りすれば何でも欲しいものが手に入るということではなくて、今お話しした、私たちが地上で兄弟の罪を赦すことができるように、その神様の期待に応えることができるように、ということを二人が祈り求めていくなら、その願いは必ずかなえられる、ということなのです。その二人とは、自分に罪を犯した兄弟と自分との二人かもしれません。あるいは、罪によって兄弟の関係が失われてしまっている人々のことを思い、その関係が回復されることを願って心を合わせてとりなしの祈りをする二人の第三者であるかもしれません。私たちが、教会の兄弟姉妹の中で起る罪による傷つけ合いを見る時に、本当になすべきこととは、このとりなしの祈りなのではないでしょうか。争い合い、傷つけ合う兄弟姉妹のことを覚えて、彼らがお互いに、相手を罪から解くことができるように、相手の罪を赦すことができるように、そしてお互いを兄弟として得ることができるように、私たちは心を合わせて共に祈るのです。そのような祈りがなされていく共同体こそが、教会です。教会が、他の人間の集まり、共同体と違うところがあるとすれば、それはこの祈りが兄弟姉妹の間でなされていくというところです。主イエス・キリストが、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とおっしゃったのはこの流れの中でです。二人または三人が、主イエスのみ名によって集まり、そこで何をするのかといえば、自分に罪を犯した兄弟との間に、真実の悔い改めと赦しが実現して、お互いがお互いを兄弟として得ることができるようにという祈りです。また、罪によって兄弟姉妹の関係を失ってしまっている者たちの間に、真実な悔い改めと赦し合いが実現して、兄弟としての交わりが回復するためのとりなしの祈りです。そのような祈りを二人または三人が心を合わせて祈っていくところに、十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さった主イエス・キリストが共にいて下さり、私たちの切なる願いを聞いて、それをかなえて下さるのです。兄弟を得させて下さるのです。平和を宣言して下さるのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2002年8月11日]
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