富山鹿島町教会

礼拝説教

「兄弟を得るために」
詩編 第133編1〜3節
マタイによる福音書 第18章15〜20節

何のために礼拝に集まるのか
 八月の第一主日の礼拝を、私たちの教会では「夏期総員礼拝」と呼んでいます。最も暑い時期であるこの時、特にこの日をみんなで覚えて礼拝に集い、信仰を新たにして歩んでいこうということです。前にも申したことがありますが、「総員」という言葉はどうも軍隊用語です。国語辞典を見てみると、例文として「総員起し五分前」というのが載っています。そういうちょっとものものしい言葉を使っているわけですが、要するに思いは、みんなで礼拝に共に集おうということです。そういう思いをもって私たちはこの礼拝に集まってきたわけですが、それでは私たちはここに集まって、何をするのでしょうか。何のためにこの場に集まっているのでしょうか。神様を礼拝するためだ、というのは正解ですけれども、それではもう一歩つっこんで、何のために礼拝をするのでしょうか。別の言い方をすると、礼拝をするとどんないいことがあるのでしょうか。「聖書のお話しを聞くことができる」と、教会に来るようになって間もない方はお考えになるかもしれません。いや、もう長く礼拝を守っている信者の方でもそう思っている人がいるかもしれません。でもそれなら、家で本を読んで学ぶことだってできます。あるいは、私のこの説教は、毎週、完全原稿の形で、当教会のインターネットホームページに載っていますから、暇な時にそれを読めば、礼拝に来たのと同じ話にふれることができるのです。だから「聖書のお話や教えを聞く」ということが目的なら、何もこの時間にこの場所に集まる必要はない、ということになるのです。それでは何のために私たちはここにこうして集まって礼拝をするのか。それは、主イエス・キリストにお目にかかるためです。本日の聖書箇所の20節に、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という主イエスのみ言葉があります。この主イエスにお会いするために、私たちは礼拝に集まるのです。
 この20節のみ言葉は、私たちの教会が本年度の主題聖句として掲げているものです。この聖句がもとになって、「主イエスのもとに集い、共に歩もう」というのが本年度の目標です。この主題聖句を、丁度この夏期総員礼拝において読むことができたのは幸いなことです。本日はまずこのみ言葉をじっくりと味わっていきたいのです。

主イエス・キリストと会う
 このみ言葉は、私たちが集まるところに、主イエスがその中に共にいて下さることを語っています。そこに、私たちが礼拝に、あるいはその他の集会に「集まる」ことの意味があるのです。聖書を学んだり、キリスト教の教えを聞くためならば、先程も申しましたように、必ずしも「集まる」必要はないのです。まさに今日はIT、インフォメーション・テクノロジー、情報技術の時代で、居ながらにして世界中の情報に接することができるようになりました。聖書やキリスト教の教えという情報だって、そういう形でどんどん得ることができるのです。それではそういうことがもっと進み、みんながそういう情報に接することができるようになったら、もう教会に集まって礼拝をするということは不必要になってなくなるのかというと、決してそうではありません。私たちが礼拝に集まるのは、聖書の教えという情報を得るためではなくて、主イエス・キリストとお会いするためなのです。主イエスは、私たちが「集まる」ところに共にいて下さるとおっしゃっています。集まるところでこそ、主イエスにお目にかかることができるのです。この、共にいて下さる主イエスにお会いすることこそ、私たちが礼拝に集まる目的です。礼拝をするとどんないいことがあるか。その答えは、主イエス・キリストにお会いすることができる、ということなのです。

わたしの名によって
 しかしそれは、ただ何でも集まればよいということではありません。「わたしの名によって集まるところには」とあります。主イエスのみ名によって集まるのです。主イエスのみ名のもとに、主イエスを信じ、そのみ言葉を聞き、従っていくという思いをもって、つまり信仰という絆のもとに集まるのです。それが教会であり、教会の様々な行事、集会です。教会とは建物のことではなくて、信仰者の群れ、共同体のことですが、それはまさに「主イエスの名によって集まる群れ」なのです。その教会が、集まるために持っている建物が教会堂です。ですから教会堂に神様が、主イエスがおられるのではありません。そこに信仰者たちが集まり、礼拝や集会を開く、そこに主イエスが共にいて下さるのです。その集まりの中心は勿論主の日の礼拝です。しかし礼拝だけではなく、様々な集会も、そして教会堂で行われる集まりだけではなく、教会員の家で行われる家庭集会も、あるいは先週行われた子供たちの夏期学校のようなものも、すべては主イエスの名によって集まるところであり、そこに主イエスが共にいて下さり、私たちはそこで主イエスにお会いすることができるのです。

二人または三人が
 「二人または三人が」とあることにも目を向けておきたいと思います。二人または三人とは、「集まる」ということの成り立つ最小の人数です。つまりどんなに少数であっても、主イエスのみ名によって集まる人がいる所には、主イエスが共にいて下さると言われているのです。私たちの教会は今、七十名から八十名の人々が集まって礼拝を守っています。この数が百名に近づいて行くことを願って私たちは伝道をしているわけですが、しかし礼拝において主イエスにお目にかかる恵みは、人数によって変わることはありません。たとえ二、三名の礼拝であっても、そこに主イエスが共にいて下さる恵みは同じなのです。私の父は、教会のない所に初めて教会をつくりあげていく開拓伝道をしましたが、最初のうちは父と母の二人だけの礼拝ということもしばしばあったと聞いています。そういう礼拝も、何百人が集まる礼拝も、「わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という恵みにおいては何ら変わることはないのです。

一人でいる時には?
 さてしかし、私たちが二人でも三人でも「集まる」ところに主イエスが共にいて下さるとしたら、私たちが一人でいる時には主イエスは共にいて下さらないということなのでしょうか。教会の何かの集会に集っている時だけ主イエスが共にいて下さり、家で一人でいる時には共にいて下さらないのだとしたら、それは寂しいことだ、などと言うどころではない、それでは私たちは一日たりとも生きていけないのではないでしょうか。特に、病気になったり、年をとったりして、なかなか教会の礼拝や集会に集うことができなくなったら、もう主イエスとも縁が切れてしまうのか、ということにもなります。これは大問題です。このことははっきりさせておかなければなりません。
 結論から先に申しますと、主イエス・キリストは、私たちが一人でいる時にも、どんな時にも、いつも共にいて下さいます。そのことを最もはっきりと語っているのが、他ならぬこのマタイによる福音書です。マタイは、主イエスの誕生の場面で、「その名はインマヌエルと呼ばれる」という天使の言葉を語っています。それは「神は我々と共におられる」という意味です。神様が私たちと共にいて下さる、その恵みが、主イエス・キリストにおいて実現しているのです。またこの福音書はその最後のところ、28章20節で、復活された主イエスが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言されたことを伝えています。この世の終わりまで、いつも共にいて下さる主イエス、それをこの福音書は語っているのです。それが、マタイの伝えている「福音」なのです。「いつも」というのは、私たちが礼拝や集会に集まっている時だけではなくて、そうでない時もいつもです。一人でいる時にも、病院に入院している時にも、寝たきりになって礼拝にも集会にも行けなくなっても、その場に主イエスが共にいて下さるのです。私たちはどのような状態になっても、主イエスと共に生きることができるし、主イエスの守りと支えの内にあるのです。そして私たちがこの地上の人生を終えて死ぬ時にも、そこに主イエスが共にいて下さるのです。私たちは共にいて下さる主イエスに、自分の命を、また家族を、心残りなことの全てを、委ねることができるのです。それが、主イエスを信じる信仰者に与えられている恵みです。主イエスが共にいて下さるのは、決して、礼拝や集会に集っている時だけのことではないのです。

集まるところに与えられる恵み
 それなら、本日の箇所で、ことさらに、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われているのは何故なのでしょうか。それは、ここで見つめられている「二人または三人が集まるところにわたしもその中にいる」ということと、今見てきた「主イエスがいつも私たちと共にいて下さる」ということとは意味が違うからです。私たちが「集まる」ところに主イエスが共にいて下さることと、一人でいる時に共にいて下さることでは意味が違う、言い方を変えれば、そこで主イエスが与えて下さる恵みが違うのです。この違いを、私たちはしっかりとらえておかなければなりません。そうしないと、先程のように、二人または三人が集まるところに共におられるなら、一人の時にはいて下さらないのか、という話になってしまうのです。私たちが「集まる」ところに共にいて下さる主イエスが与えて下さる特別な恵みとは何なのでしょうか。

どんな願い事であれ
 このことを知るために、今の20節からだんだん前に戻って読んでいきたいと思います。すぐ前の19節にはこうあります。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。ここにも「二人」という言葉が出てきます。二人が集まるところに与えられる恵みが語られているのです。その二人が集まって何をするところに、どんな恵みが与えられるのでしょうか。「二人が地上で心を一つにして求めるなら」とあります。二人が集まってすることは、「心を一つにして神様に祈り求めること」です。神様に、祈ってお願いをする、そのために二人が集まるのです。そうすると、「わたしの天の父」つまり主イエスを遣わされた父なる神様は、その願いをかなえて下さるのです。それが、二人が集まるところに与えられる恵みです。しかしこれは本当でしょうか。私たちの中の二人が、本当に心を一つにして何事かを願い祈るなら、神様はそれをかなえて下さる。だとすればこんなすばらしいことはありません。たとえば、教会員が二人だけの小さな教会であっても、その二人が心を一つにして、「一等二億円のサマージャンボ宝くじに当選させてください」と祈る、そうするとそれがかなえられて、二人で二億円を得ることができ、立派な会堂を建てて伝道していくことができる…。そうなったらすばらしいと思いますが、しかしそういうことは、勿論絶対ないとは言えないが、まあほとんど起らないことを私たちは知っています。どんな願い事であれかなえられる、とあるけれども、こういう願い事は無理だと知っているのです。それは、主イエスのお言葉に間違いがあるということでしょうか。そうではありません。主イエスがここで、二人が心を一つにして祈り求めるべきこととして見つめておられることは何かが問題なのです。それを知るためには、さらにその前の18節を読まなければならないのです。

「つなぐ」と「解く」
 18節には「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあります。ここに、「つなぐ」と「解く」という言葉が出てきます。何をどうつなぎ、何をどう解くのでしょうか。それは、ここだけ読んでいてもわかりません。その前の15〜17節からそれがわかるのです。この15〜17節に語られているのは、非常に具体的な、また赤裸々なことです。それは、15節の冒頭に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあるように、人と人との間に、罪によるいさかい、傷つけ合いが起るということです。しかも「兄弟が」と言われているということは、信仰における兄弟姉妹、神様の家族、つまり「わたしの名によって集まる」教会の交わりが見つめられているのです。教会という、主イエスのみ名によって集まる群れ、信仰の絆で結ばれている共同体において、兄弟が兄弟に対して罪を犯すということが起る、それによって傷つけられたり、損害を与えられたり、いやな思いをさせられたりすることがある、そういうことにどう対処するか、ということをこの15節以下は教えているのです。「つなぐ」とか「解く」というのもその文脈の中でのことです。そうするとそれは、罪につなぐ、罪から解くという意味なのです。罪につなぐ、とは、その人とその人の犯した罪とを結び付け、その人を罪ある者として断罪することです。それに対して罪から解くとは、その人と罪とを切り離す、即ち、その罪を赦すことです。「つなぐ」と「解く」は、人の罪を赦さずにあくまで追求し糾すか、それともそれを赦してもう一度交わりを回復するか、ということなのです。そしてここには、「あなたがたが地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる」と言われています。地上と天上が連動しているのです。地上でというのは、私たちが生きているこの地上で、つまり私たちがつないだり、解いたりすることです。そのことが、天上でも、つまり神様のみもとにおいてもその通りになる。私たちが地上で人の罪を断罪するなら、神様のみ前でもその人は罪に定められるし、私たちが地上で人の罪を赦すなら、神様のみ前でもその人は赦されるのです。そのように、私たちがこの地上で、つまり今現在この歩みにおいて、人の罪を赦すか赦さないかは、神様のみ前での判決と連動しているのです。これは大変なことです。責任重大なことです。このみ言葉はまさに私たちに、その重大な責任を覚えさせようとしているのです。私たちが自分に罪を犯した人を裁くか、赦すか、その決断は、そのように重大な影響を及ぼす大変なことなのです。

兄弟の回復
 この重大な決断を下すに当って、主イエスが私たちに期待しておられることは、兄弟の罪を赦すことです。主イエスは私たちが地上で「解く」ことを願っておられるのです。そうすれば、神様も天上でその人を解く、つまり赦すことができる、そうなってほしい、と主イエスは言っておられるのです。そのことはやはり、15〜17節からわかります。兄弟があなたに対して罪を犯したならどうするか、まず、自分一人でその人のところに行って、二人だけのところで忠告しなさいとあります。忠告するとは、相手に対して、あなたのしていることは私を傷つけている罪だとはっきり告げ、その悔い改めを求めることです。そして「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とあります。「言うことを聞き入れる」とは、忠告を受け入れてくれること、つまり、あなたは罪を犯しているという指摘を認め、すまなかったと謝り、悔い改めることです。そうなるならば、「兄弟を得たことになる」。つまり、罪のために交わりが破壊され、兄弟姉妹の関係が失われてしまっていたのが、回復され、再び兄弟姉妹の交わりに生きることができるようになるのです。それは相手の悔い改めと同時に、自分がその人を赦すということでもあります。悔い改めと赦しが双方に起り、それによって兄弟の交わりが回復されるのです。主イエスの教えは、そういうことが起ることを願って語られています。先ず自分一人で行って忠告するのは、そのようにして失われた兄弟関係が二人の間で回復されるのを願ってのことなのです。このように主イエスは、私たちが、自分に罪を犯した兄弟を赦す者となることを願っておられるのです。勿論それはただ一方的に片方が相手を赦すということではありません。悔い改めと赦しが、双方に共に起らなければならないのです。それによって、和解が成り立ち、お互いが相手を兄弟として得るのです。そのことを目指して精一杯努力することを、主イエスは私たちに教えておられるのです。

兄弟の回復のための祈り
 19節の、二人が心を一つにして求めるなら天の父がそれをかなえてくださる、というみ言葉は、この流れの中で語られています。つまりそこで、二人が心を合わせて祈り求めていくべきこととして見つめられているのは、宝くじに当るとか、そういう自分の願いや欲望をかなえるためのことではないのです。私たちが、地上で、「解く」者となること、即ち、自分に罪を犯している兄弟との間で、悔い改めと赦しが実現し、お互いが相手を兄弟として再び得ることができるようになること、そのことをこそ、二人が心を一つにして祈り求めるように、主イエスは教えておられるのです。その二人とは、罪によって関係が破れてしまっている二人と考えることもできます。お互いの間に、罪によって、敵意や憎しみが生じてしまい、兄弟として歩めなくなってしまっている、そのような中で、その敵意が克服され、お互いの間に悔い改めと赦しが実現して、お互いがお互いを兄弟として得ることができるようにと、二人が切に祈り求めるのです。その祈りを、天の父なる神様は聞いて、それをかなえて下さる、和解を与えて下さるのです。あるいはまた、この二人とは、16節にあるように、一人で忠告しても聞いてもらえない、悔い改めようとしない兄弟に対して、他に一人か二人を連れて行って説得する、その二人であると考えることもできます。罪を犯し、それを認めて悔い改めることを拒み、かたくなになってしまっている兄弟に対して、二人または三人が共に説得に当るのです。それはその人をただ責め、攻撃し、罪に対する報復を加えるためではありません。それもまた、悔い改めと赦しがそこで起り、その人が兄弟として回復されることを願って、それを目指してなされるのです。その説得に当る二人が、心を一つにして祈る。それは、罪を犯している人のためのとりなしの祈りです。その人と自分たちの間に、悔い改めと赦しが実現し、お互いが兄弟として回復されるようにと祈るのです。そのとりなしの祈りを、天の父は必ずかなえて下さる、その希望を失わないで祈り続けよと主イエスは教えておられるのです。

集まるところに与えられる恵みとは
 このように見てくることによって、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」というみ言葉に込められた特別な恵みとは何かがわかってきます。それは、兄弟姉妹の間で起る、罪による交わりの破れを癒し、兄弟姉妹としての関係を回復させてくださるという恵みです。それが、私たちが一人でいる時に主イエスがいつも共にいて守り、支え、導いて下さるのとは別の、「集まる」ところにこそ与えられる恵みなのです。人間が集まる時、そこには同時に様々なトラブルが生じます。お互いに傷つけ合うことが起ります。それは私たち一人一人が、罪人だからです。お互いの罪が、お互いを傷つけ、兄弟姉妹の交わりを破壊していくのです。それは主イエスの名によって集まる教会においても同じです。兄弟が自分に罪を犯すことがあるし、自分が兄弟に罪を犯すことも同じようにあるのです。しかし、そのようにお互いに罪を持った者どうしの集まりだけれども、この集まりは主イエスの名による集まりであり、そのまん中に、主イエス・キリストがいて下さるのです。その主イエスは、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、それによって私たちを赦して下さった方です。その主イエスが、私たちも、自分に罪を犯す兄弟を赦して、その人を罪から解き、兄弟として得ることを願ってこのように語りかけておられるのです。私たちはこの主イエス・キリストにお目にかかり、この語りかけを聞くために、こうして主の日の礼拝に、また教会の集会に集まっているのです。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる、と約束して下さった主イエスは、ご自分のみ名によって集まる者たちを、兄弟姉妹として結び合わせて下さる方です。その絆となって下さる方です。まん中にいて下さる主イエスを中心として、私たちは、兄弟姉妹として共に生きる群れとなるのです。そのために、それぞれの罪とそれによって起ってくる様々な問題を乗り越えていくことができるように、心を一つにして天の父なる神様に祈り求めていくのです。その祈りを、天の父は必ず聞き届け、かなえてくださるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年8月4日]

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