富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の子供たち」
ホセア書 第2章1〜3節
マタイによる福音書 第17章22〜27節

第二回受難予告
 本日この礼拝のために与えられている聖書の箇所は、マタイによる福音書第17章22節以下ですが、その最初の22、23節には、主イエス・キリストがご自分の受難と復活を予告されたことが語られています。主イエスは「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する」と言われました。「人の子」というのは、主イエスがご自身のことを言われる言葉です。そのご自分が、これから、人々の手に引き渡され、殺されるのだと語られたのです。ここの小見出しに、「再び自分の死と復活を予告する」とあるように、主イエスがこのようにご自分の受難と復活を予告されたのはこれが二度目です。一度目は16章21節以下でした。そしてこれはちょうど先週の「聖書を学び祈る会」の夜の方で学んだのですが、20章17節以下に、三度目の受難予告がなされているのです。主イエスは三度にわたって、ご自分の受難と復活を予告された、本日の箇所はその第二回の受難予告なのです。

三回の受難予告
 「聖書を学び祈る会」でも申したのですが、この三回にわたる受難予告はそれぞれに少しずつ違っており、次第に発展というか、深まりを見せていると言うことができます。一つには、それが語られた場所の違いです。第一回は、16章13節以下で主イエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に行った、その話の中でなされています。フィリポ・カイサリアは、ガリラヤ湖の北の方、ヨルダン川の源流の地域です。本日の第二回は、22節にあるように、「一行がガリラヤに集まったとき」です。ガリラヤ地方は主イエスが伝道の根拠地としていたところです。フィリポ・カイサリアから南へ下ってきて、そのガリラヤで第二回受難予告が語られたのです。そして第三回は、20章17節にあるように、「エルサレムへ上って行く途中」に語られています。主イエスは19章1節で、「ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」と語られているように、ガリラヤから、南のユダヤへと移動していかれたのです。それは、エルサレムへ向けての歩みでした。そしてそのエルサレムで、捕らえられ、十字架につけられていくのです。第三回受難予告は、このエルサレムへの途上で語られました。このように、三回の受難予告は、フィリポ・カイサリア、ガリラヤ、エルサレムへの途上と、次第に南に下りながら、つまり受難の地エルサレムに近づきながら語られているのです。三回にわたる受難予告によって、主イエスの受難というクライマックスへ向けて次第に緊張感が高められていると言ってよいでしょう。
 主イエスが語られた受難予告の内容においても次第に深まりが感じられます。本日の第二回に初めて出てくる言葉は「引き渡される」という言葉です。主イエスは人々の手に「引き渡される」、その言葉が、苦しみを受け殺されることを代表しているのです。その言葉は第三回になると、二度繰り返して語られていきます。「引き渡される」という言葉は、聖書において、主イエスの受難の本質を言い表す言葉として用いられているのです。主イエスは引き渡された、誰から誰へと引き渡されたのでしょうか。勿論直接には、ユダヤ人たち、その指導者である祭司長、長老、律法学者たちによって捕らえられ、ローマの総督ピラトに引き渡されたのです。そしてピラトが十字架の死刑の判決を下し、死刑執行人に引き渡したのです。けれどもこの「引き渡す」という言葉が見つめているのは、そういう人間の思いや行動の背後にある、神様のみ心です。父なる神様が独り子主イエスを十字架の死へと引き渡したのです。主イエスの受難は、私たちの救いのために、父なる神様がその独り子を十字架の苦しみと死へと引き渡して下さったという出来事だったのだということが、この言葉によって暗示されているのです。
 さてこの受難予告を聞いた弟子たちの反応はどうだったでしょうか。それも、三回それぞれにいろいろと違っています。第一回においては、弟子の筆頭であったペトロが、直ちに主イエスをわきへお連れして、「先生そんなことを言ってはいけません」と諌めたということが語られていました。主イエスが苦しみを受けて殺されるなんて、そんなことがあるはずはないし、あってはならない、とペトロは思ったのです。それに対する主イエスの言葉は大変厳しいものでした。そしてその中で、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という大切なお言葉が語られたのです。それでは本日の第二回における弟子たちの反応はどうでしょうか。それについては一言「弟子たちは非常に悲しんだ」と言われているだけです。しかしこの一言には重いものがあります。主イエスが、一度ならず二度までも、ご自分の苦しみと死を予告された、それは弟子たちの心に、重苦しい不安と恐れを与えたことでしょう。「悲しんだ」というのは、主イエスのために「お気の毒に」と悲しんだというよりも、自分たちのこれからの歩みへの不安と恐れを抱いたということでしょう。

神殿税
 その弟子たちの不安と恐れの中で起って来た一つの出来事が、24節以下に語られています。「一行がカファルナウムに来たとき」とあります。カファルナウムはガリラヤ湖の北の岸辺の町で、そこにペトロの家があり、主イエスはそこを根拠地としてガリラヤ伝道をしておられたのです。主イエスが滞在している家の主人であるペトロのところに、神殿税を集める者たちが来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言ったのです。神殿税とはどういうものか、については、聖書の後ろの付録の用語解説を見てみたいと思います。付録の32頁です。そこには「出エジプト記30:11以下に定められた規定に従って、ユダヤ人成人男子が年に一度、神殿に納める税金。額は旧約では半シェケル、新約時代には2ドラクメであった」とあります。神様の民であるイスラエルに属する者が、そのしるしとして、神殿のための献金を毎年捧げる、それが律法によって義務づけられていたのです。ちなみに、2ドラクメとはどれくらいの額かということも、付録の「度量衡および通貨」の表で調べることができます。それによれば、1ドラクメは1デナリオンです。1デナリオンは普通の人の一日分の賃金ですから、2ドラクメは二日分の賃金に当る額ということになります。それが多いか少ないかは人によって感覚の分かれるところでしょうが、とにかく、一年に一度、それだけのお金を神殿のために捧げることが、神様の民イスラエルの一員であるしるしだったのです。それぞれの町に、その神殿税を集める係りの人が立てられていました。カファルナウムの町のその担当者が、ペトロのところに来て、「おたくに滞在しているあのイエスという人の神殿税はまだ納入されていないが、払う気があるのか」と問うたのです。いやそれだけではなく、27節の主イエスの言葉からわかることは、ペトロ自身もまだこの年の神殿税を納めていなかったようです。主イエスに従ってあちこちへと伝道の旅をしている中で、それを納めている暇がなかったということかもしれません。あるいは、彼自身の心の中に、主イエスのもとで歩み、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白していく中で、神殿とそこでの犠牲を中心とする従来の信仰のあり方とは違う思いが生じてきていたということかもしれません。主イエスのこれまでの伝道の歩みは、明らかに、神殿やそこでの祭儀とは一線を画すような、そこにではなく、主イエスご自身とその働きの中に、神の国、神様のご支配の実現を示していくという歩みでした。神様の恵みのご支配の下で生きるために、神殿は特に必要ではない、というのが、主イエスと共に歩むことを通して弟子たちが教えられ、学び取ったことだったのです。それで、神殿税を納めることにあまり意味を見出せなくなっていたのかもしれません。しかし、ユダヤ人たちの常識においては、それは通用しません。エルサレムの大神殿こそ、主なる神様がおられる所であり、そこでの祭儀こそ神の民イスラエルの信仰の中心である。その神殿が存在する限り、ユダヤ人は神様の民として歩み続けることができる。だからその神殿のために毎年神殿税を納めることはユダヤ人としての当然の義務であって、それを納めない者は神様の民の仲間ではない、不信仰な、神に逆らうとんでもないやつだ、というのが、当時の人々の当たり前の感覚だったのです。カファルナウムの神殿税徴収人の来訪によって、ペトロはそういうユダヤ人の常識と直面させられ、それに対してどうするかを問われたのです。

不安と恐れの中で
 このことが、先ほどのあの受難予告によって引き起こされた「悲しみ」、即ち主イエスの受難への恐れと不安の中で起ったということに意味があります。主イエスの苦しみと死、それは、主イエスが人々から理解されず、受け入れられず、捕えられ、裁かれ、死へと引き渡されるということです。そういう不安、恐れを抱いている弟子たちにとって、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」という問いはとてもこたえるのです。それは到底世間の人々に理解されることではない、常識に反することだ、そういうことをしていくことによって、主イエスは、そして自分たちも、どんどん人々に受け入れられなくなっていく、理解されなくなっていく、そして迫害を受け、捕らえられて殺されたりすることになっていく、そういう恐れが弟子たちの心を捉えているのです。そういう意味で、受難の予告とこの神殿税の話は密接に結び合っています。受難予告によって漠然と感じられた不安、悲しみが、この神殿税の問題によってにわかに具体的な身近なものとして迫って来たのです。
 ペトロは神殿税徴収人に、「納めます」と答えました。「納めないのか」と問われて、「いや、納めますよ」と返事をしたのです。果して主イエスがそれを納めるつもりがあられるのかどうか、彼は確かめていません。しかし主イエスのお気持ちはどうあれ、ここは「納める」と言っておいた方がよい、主イエスがもし「そんなものは納めない」と言われるとしても、主イエスには黙って自分が二人分納めておこう、彼はそんなふうに思ったのだと思います。世間の常識といたずらに対決して、人々の反感をかうようなことは避けた方がよい、人々に受け入れられないのが分かっているようなことをことさらにしない方がよい、という判断です。このペトロの気持ちは私たちにもよく分かります。私たちも、いつもこのような判断をしながら生きているのではないでしょうか。主イエス・キリストを信じて、従っていく、その信仰の歩みが、この社会の、世間の常識、慣習とぶつかり合うということが、私たちにおいてもしばしばあります。「神殿税を納めないのか」という問いと似たような問いを私たちもいつもつきつけられているのです。その中で、あまり世間の人々と事を荒立てないで、できるだけ彼らに歩み寄って、非難されないようにしよう、という思いが、私たちの内にも働いているのです。

王への税金や貢物
 主イエスは、ペトロがそのように答えた場におられたわけではありません。しかし彼が家に入るとすぐに、一つの問いをペトロに投げかけてこられたのです。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」という問いです。税金や貢物を王様に納めるのは誰か、それは王の子供たちか、それともほかの人々、つまりその国の住民、王に支配されている人々か、その答えは明らかです。王子たちが税金を納めるという話はありません。税金を取られるのは支配されている人々、王の家族ではない、「ほかの人々」に決まっています。ペトロがそのように答えると、主イエスは、「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」と言われたのです。主イエスがこのたとえを通して語られたことは、勿論直接には神殿税のことです。そういう税金を払うべき者は、王、つまり神様の子供たちではなく、他の人々だ。主イエスは神様の独り子なのだから、本来、そのようなものを支払う必要はないはずだ、ということです。主イエスは、ペトロが「納めます」と言って自分の分まで払おうとしているのを見抜いてこのように言われたのです。けれども、この主イエスのお言葉にはそれだけに留まらないもっと深い意味や含蓄があります。まず気づくことは、「では、『子供たちは』納めなくてよいわけだ」と、「子ども」が複数になっていることです。つまり、税金や貢物を納めなくてもよい神様の子供は主イエスお一人ではないのです。ではその神の子供たちとは誰のことでしょうか。少なくとも言えることは、主イエスはそこに、ペトロら弟子たちも含めておられるということです。つまり主イエスのこのお言葉は、「私は神の子なんだから、神殿税など納める義務はない。そんなものは払わないぞ」と自分のことを言っているのではなくて、「ペトロよ、私たちは神の子供たちなのだ。だから神殿税を納める必要などない者なのだよ」ということ、つまりご自分とペトロとを一つに結び合わせているお言葉なのです。

子供たちは自由
 この「子供たちは納めなくてよいわけだ」の「納めなくてよい」と訳されている言葉は、もともとの意味は、「解放されている、自由である」ということです。「子供たちは解放されている、自由だ」と主イエスは言われたのです。それはただ神殿税を支払う義務がない、というだけのことではありません。神様の子供とされるならば、人は解放されるのです。自由になるのです。何から解放されるのか、それは第一には、神殿税に象徴される、神様の家来としての義務からです。神様と私たちの関係が、支配する者と支配される者、王と家来の関係であるなら、そこでは私たちは神様に税金や貢物を納める義務があることになります。そういう義務を果たすことによって、王様である神様への服従を示すのです。そしてそのようにきちんと家臣としての義務を果たす者であれば、王様からいろいろな恵みを与えられたり、守ってもらえたりするのです。神様と私たちの関係、つまり信仰とはそういうものだと思っている人がいます。けれども主イエスは、それとは違う関係を神様と私たちの間にうち立てて下さるのです。それは、「父と子」という関係です。神様が私たちの父となって下さり、私たちはその子供とされるのです。子供とされるということは、父である神様に愛される者となることです。そしてそこには、税金や貢物を納める義務からの解放があるのです。親というのは、子供が何かの義務を果たせば愛してやる、などというものではありません。家来たちからは税や貢物を要求する王も、自分の子供たちはそんなことなしに愛し、養い、守るのです。あなたがたは神様にとってそういう子供たちなのだ、神様はあなたがたの天の父となり、あなたがたを愛して下さっているのだ、と主イエスは語っておられるのです。ここに、神様の子供とされることによる解放、自由の第二の、より根本的な意味があります。つまりそれは、神様に愛されて生きるところに与えられる解放であり、自由です。それは、何かの義務や束縛からの自由と言うよりも、むしろ、恐れからの自由、不安からの、絶望からの自由です。主イエスがペトロに、このたとえを用いて語ろうとなさったのも、そのことなのではないでしょうか。子供は親に税金を払ったりする必要はないのだ、ということによって言われているのは、だから我々は神殿税を払わなくてよいのだ、ということであるよりも、あなたは父である神の愛の下にいるのだ、神が天の父としてあなたを守り、導き、み手の内に置いていて下さるのだ、だからあなたは、安心していてよいのだ、不安や恐れを抱く必要はないのだ、たとえ人々に理解されず、迫害を受けるようなことがあっても、あなたはしっかりと神の愛のみ手に捕えられているのだ、だから絶望することはないのだ、ということなのです。

彼らをつまずかせないように
 そしてだからこそ、主イエスは27節で、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」と言って、主イエスとペトロの二人が、神殿税を納めるための手配をして下さるのです。神の子供たちなのだから、神殿税など納める必要はない、それを納めることは主イエスの神の子としての権利を否定することだ、ということを主張するのならば、こんなことは矛盾なのです。妥協して神殿税を納めてしまったらそれは主イエスの負けということになるのです。しかし主イエスはそういうことにこだわっているのではありません。主イエスの願いは、ペトロが、そして私たちが、神様の子供たちとして、恐れや不安から解放されて、神様に愛されている者の自由に生きることなのです。その自由に生きるときに、そこには、「彼らをつまずかせないように」という余裕が与えられるのです。主イエスは、神殿税を納めようと言われます。しかしそれは、ペトロが、恐れや不安から、「納めます」と言ったのとは全く違うことです。人々への恐れから、事を荒立てないように神殿税を納めておこうと思ったペトロを、主イエスは、「彼らをつまずかせないように」それを納める者へと変えて下さるのです。それは表面的に見ればいずれも、あまり人々と対立的なことをして事を荒立てないようにする、ということです。しかし、恐れて、自分の身を守るためにそうすることと、人をつまずかせないようにそうすることとは全く違うのです。神の子供とされ、神の愛の内に生かされていることを知らされることによって、私たちはこのように、人をつまずかせないように配慮して生きる者へと解放されるのです。それが、本当の意味で自由になることです。本当の自由とは、自分の好きなことをできることではなくて、人のために、人の信仰のつまずきとなってしまわないために、配慮していくことができることです。そしてそれは、心にゆとりとユーモアを持って生きることでもあります。主イエスが、神殿税を納めるためにペトロに命じられたこと、ガリラヤ湖へ行って釣りをし、最初に釣れた魚の口の中を調べると銀貨があるから、それで納めなさいというのは、一つの奇跡です。しかしそれは微笑ましい、ユーモアに満ちた奇跡です。「神殿税を納めないのか、ユダヤ人としての義務を果たさないのか」と厳しく問われ、恐れや不安に満たされているペトロを、主イエスはこのようなユーモアの中に引き入れて下さったのです。このことを通してペトロが体験させられたのは、自分は恐れと不安の中で深刻になってしまっているその事柄が、父なる神様と主イエスにおいては、何でもないことであり、神様はそれこそ一匹の魚によってでも、それを解決して下さることがおできになる、ということです。そのような神様が、自分を子供として下さり、愛のみ手の内に置いていて下さるのだということを、彼は示されたのです。

神の子供たち
 私たちが深刻になってしまっている事柄も、神様や主イエスにとっては何でもないことのだ、と今申しました。それは本当は何でもないことではないのです。私たちの罪を赦し、神様の子とし、恵みのみ手の内に置いて下さるために、神様は、主イエスは、実はものすごい犠牲を払って下さったのです。それが、主イエスの十字架の苦しみと死です。神様の独り子であられる主イエスの苦しみと死とによって、本来神の子供ではなかった私たちが、神の子供たちとされたのです。私たちが神様の子供として、神様の愛のみ手の内に生きる、そのためには、主イエスの、とてつもなく大きな苦しみが、そして死があったのです。その苦しみと死とに向って、主イエスはこの時も歩んでおられたのです。しかし主イエスはここでそんなことは一言もおっしゃらずに、むしろ明るいユーモアを込めて、我々は神の子供たちなのだから、税金など納める必要はないんだぞ、と教え、でも彼らをつまずかせないようにしような、と言って、ご自分とペトロとの分を整えて下さったのです。「わたしとあなたの分として」という言葉に、主イエスのペトロに対する深い愛と慈しみのみ心が感じられます。十字架の犠牲に基づく愛とユーモアとの中に、ペトロは置かれたのです。私たちも同じ恵みの中に置かれています。私たちもまた、深刻な問題や悩み苦しみ、不安に直面しつつ、なおそこで、ユーモアを失わず、通すべき筋を通しながら、しかし人とやたらに対立するのでもなく、そして何よりも人の信仰のためにつまずきにならないように配慮することができる、そういう本当に解放された、自由な者として生きていくことができるのです。それもこれも、私たちが主イエスの十字架の犠牲によって、神様の子供たちとされていることから生じる恵みです。「天の父なる神様」と呼びかけ祈ることができる私たちの幸いは、これほどまでに大きいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年7月7日]

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