礼拝説教「共にいて下さる神」イザヤ書 第41章8〜13節 マタイによる福音書 第17章14〜20節 麓に残された弟子たちのところに、群衆が集まってきていました。その中の一人が進み出て、主イエスの前にひざまずき、願ったのです。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」。ここに「てんかん」という病名が出てきます。これが、今日私たちが医学的に知っている「てんかん」という病気そのものであるのかどうかはわかりません。ひきつけを起して倒れる、という症状から、そう推測されているのです。聖書はこれを単なる病気としてではなく、この後のところからわかるように、悪霊にとりつかれたことによって起っていることと見ています。つまり原因は、体の内部にあるのではなくて、外から入ってきて人間にとりつき、狂わせてしまう力にあるのだということです。悪霊は、この子供を度々火の中や水の中に倒れさせる、つまりわざと危険な所で倒れさせて命を脅かしているのです。この父親は、息子を悪霊から何とか解放し救いたいと願って、主イエスのところに連れて来ました。しかし丁度その時、主イエスは三人の弟子を連れて高い山に登っておられて不在だったのです。それで彼は、残っていた弟子たちに、この子から悪霊を追い出してくださいと願いました。そこで弟子たちもやってみたのですが、悪霊を追い出すことができなかったのです。彼が弟子たちに息子の癒しを願い、弟子たちがそれを試みたことを、「そんな無理なことを」と思ってしまってはなりません。この福音書の第10章で、主イエスは十二人の弟子を選び、彼らに、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能をお授けになったのです。だから弟子たちは、主イエスから授けられたこの力によって、悪霊を追い出すことも出来たはずです。だからこそ彼らはそれを試みたのでしょう。神様に祈り、「生ける神の子イエスの名によって命じる。悪霊よ、この子から出ていけ」と言ったのでしょう。しかし悪霊は出ていかなかった。彼らの試みは失敗に終わったのです。弟子たちは深い挫折を味わったことでしょう。イエス様が力を与えて下さったはずなのに、それを発揮できない、悪霊に打ち勝つことができない、悪霊の力の前に自分の無力を思い知らされたのです。また、癒しを期待している人々の前で、彼らの面目はまるつぶれです。なんだ、何もできないじゃないか、イエスの弟子だというからもう少し何かできるかと思ったが全然ダメだ、と愛想をつかされてしまう。そしてそれは主イエスの面目をも失わせることです。弟子があの調子じゃあ、イエスも大したことはないな、と思われてしまうのです。 主イエスが三人の弟子を連れて山に登っておられる間に、麓ではこういうことが起っていました。そこへ、主イエスたちが戻って来られたのです。先々週の説教において、この変貌の山を下りていくことは、私たちが、主の日の礼拝から日常の生活に戻っていくことと重なると申しました。礼拝は、ある意味で、日常の生活を離れた山の上です。そこで私たちは神様の恵みに触れ、栄光のお姿に輝く主イエスと出会うのです。しかしいつまでもそこに留まっていることはできません。私たちはその礼拝から、日々の生活へと戻っていくのです。そこで私たちを待ち受けている現実がここに描き出されていると言うことができるでしょう。私たちの日常の生活においては、悪霊が支配し、人を狂わせ、脅かしているという事実があるのです。その力に対して、主イエスを信じる信仰に生きている私たち信仰者、主イエスの弟子である者たちも、自分の無力を嘆かずにはおれません。主イエスが与えて下さったはずの力をもって、この世の現実を支配している悪霊と戦っていこうとするけれども、破れてしまう、負けてしまう、挫折してしまう、信仰者としての面目まるつぶれになってしまう、主イエスの顔にも泥を塗るようなことになってしまう、そういうことが繰り返し起ってくるのです。それが、山の麓での、私たちの日々の生活の姿です。 ここで一つ興味深いことがあります。この出来事は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に共通して語られています。そして主イエスの「いつまであなたがたと共にいられようか」というお言葉も三つに共通しているのですが、「共に」と訳されている原文の言葉がマタイだけは違うのです。マルコとルカにおいては、「〜の方に、向かい合って」という意味の言葉が用いられています。それに対してマタイのみが、文字通り「共に」という言葉を使っているのです。そしてこの「共に」という言葉は、マタイ福音書においてとても大事な意味と役割を持っている言葉です。まず、1章23節にその言葉が出て来ます。主イエスの誕生を天使がヨセフに告げた場面です。そこで、このことは「おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤの預言の成就なのだ、ということが告げられ、そのインマヌエルという言葉の意味は、「神は我々と共におられる」ということだと語られています。この、「神は我々と共におられる」の「共に」が本日の箇所における「共に」と同じ言葉なのです。主イエス・キリストがこの世にお生まれになる、それによって、神が我々と共にいて下さるという恵みが実現するのだ、ということをこのお告げは語っています。主イエスによってもたらされる救いの本質がここに示されているのです。それは、神が私たちと共にいて下さるということです。「共に」という言葉は、そのように、主イエスによる救いの本質を語る言葉なのです。そして同じ言葉が、この福音書の一番最後、28章20節にも出てきます。復活された主イエスが弟子たちを伝道へと派遣する場面です。主イエスはこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この最後の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、この約束に支えられて、弟子たちは全世界へと伝道に出ていくのです。その「共に」がやはり同じ言葉です。つまりこの「共に」は、マタイ福音書の最初と最後のところで、言わば額縁のような役割をしており、この福音書全体の主題を提示している言葉なのです。世の終わりまで私たちと共にいて下さる神である主イエスを、この福音書は語り示しているのです。そしてマタイはその言葉を、本日のこの箇所でも用いています。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」の「共に」を、もともとのマルコとは違うこの言葉に変えているのです。それによって、この言葉と先ほどの28章20節の言葉との間に呼応関係が生れているのです。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」、という問いへの答えが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」なのです。信仰のない、よこしまな時代のただ中で、悪霊の支配に翻弄されている私たちです。信仰を持って生きていると言いつつも、いつもその力に打ち負かされてしまうような情けない私たちです。しかし主イエスは、そのような私たちと、いつまでも、どこまでも、共にいて下さるのです。 この話は三つの福音書がみな語っていると申しました。しかし直接もとになっているマルコの9章の記事と本日の箇所とを読み比べてみると、随分大きく違っていることに気づきます。今申しました「共に」という言葉の違いは、原文で読まなければわからないわけですが、翻訳で読んでもすぐにわかる大きな違いは、この子供の癒しの場面にあります。マルコの方では、父親が、子供の病気の症状を詳しく説明し、そして主イエスに、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言うのです。すると主イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言われ、父親はそれに対して、よく知られた信仰告白の言葉、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」を叫ぶのです。マルコではそういう問答を経て子供の癒しが行われます。つまりマルコでは、この父親の信仰が問われ、「不信仰なわたしをお助けください」と主イエスに叫び求めることこそが本当の信仰であることが示されているのです。しかしマタイは、そのエピソードを全て省いています。この癒しの場面で、父親は何の役割も果していない、登場すらしていないのです。このように読み比べてみることによって分かってくることは、マタイはここで、父親の信仰うんぬんを見つめているのではなく、共にいて下さる主イエスの憐れみと恵みのみを見つめているということです。私たちの救いは、私たちの信仰の如何によるのではない、ただひたすら、どこまでも共にいて下さる十字架と復活の主イエス・キリストの憐れみと恵みとによるのです。 この「信仰が薄い」というのも、マタイが繰り返して語っている言葉です。8章26節に、ガリラヤ湖の嵐によって舟が沈みそうになってあわてふためいている弟子たちに、主イエスが、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たち」と言われたとありました。また14章31節には、主イエスに願ってガリラヤ湖の水の上を歩いたペトロが、風を見て怖くなり、沈みそうになった、そのペトロをつかまえて下さった主イエスが、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われたとあります。これらの二つの箇所を読み合わせていくことによって、「信仰が薄い」と主イエスが言われたことの意味が見えてきます。それは、主イエスが共にいて下さり、守り支えていて下さることを見失ってしまうことです。あるいは、その主イエスから目をそらして、この世の現実に働く罪の力の方を見てしまうことです。それが「信仰が薄い」ということであり、それゆえに、彼らは悪霊を追い出すことができなかったのです。ということは、ここで問題とされているのは、信仰の量ではありません。からし種一粒ほどの信仰もなかった、それにあとどれくらい足りなかったという話ではないのです。からし種一粒とは、最も小さいもののたとえです。どんなに小さくても、信仰があれば、不可能が可能になると言われているのです。その信仰とは、共にいて下さる主イエスを見つめることです。様々なこの世の力、神様の恵みに敵対する力が支配し、私たちを翻弄している、その現実の中で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さっている主イエスを見つめ、目をよそにそらさないことです。信仰とはただそれだけのことだと言ってもよいのです。そういう意味では、私たちの信仰は、次第に深くなったり篤くなったり大きくなったりするものではありません。共にいて下さる主イエスを見つめているかどうか、つまり、あるかないかでしかないのです。自分の信仰が大きくなった、深くなったと思う時に、実はそれは主イエスをではなく自分の中の何かを見つめ始めているのかもしれません。しかし、自分の中の何かをいくら大きくしていっても、それによって私たちは悪霊を追い出すことはできないのです。この世を、そして私たちの人生を翻弄している悪の力、神様に敵対する力に打ち勝つことはできないのです。本当に必要なのは、そして本当に力になるのは、そういう大きな信仰ではなく、からし種一粒ほどの小さな信仰です。それは、世の終わりまでいつも共にいて下さる主イエスの約束を信じ、「信仰の薄い者よ」と言いつつ私たちを支え、守り、助けて下さる主イエスを見つめて生きることです。それだけのことである小さな信仰こそが、山を移すほどの力を発揮するのです。信仰のない、よこしまな時代のただ中で、この世の様々な力に翻弄されていく私たちの日々の生活において、どこまでも共にいて下さる主イエスを見つめる信仰こそが、私たちを本当に支え、主イエスの憐れみによって山が動くことを体験させてくれるのです。
牧師 藤 掛 順 一 |