富山鹿島町教会

礼拝説教

「共にいて下さる神」
イザヤ書 第41章8〜13節
マタイによる福音書 第17章14〜20節

変貌の山を下りて
 マタイによる福音書第17章14節に、「一同が群衆のところへ行くと」とあります。この「一同」とは誰のことでしょうか。実は原文には「一同」という言葉はないのであって、直訳すれば「彼ら」です。その彼らとは、17章1節以下で、高い山に登っていた、主イエスとペトロとヤコブとヨハネです。主イエスはこの三人の弟子のみを連れて、山に登っておられたのです。他の弟子たちは麓で待っていたのでしょう。山から下りてきた四人が、その待っていた人々のところに来たのです。つまり、本日の箇所は、1節以下のいわゆる「山上の変貌」の話の続きです。先々週、「変貌の山を下りて」と題して説教をしましたが、まさにあの山を下りてきたところで起ったことが本日のところに語られているのです。
 麓に残された弟子たちのところに、群衆が集まってきていました。その中の一人が進み出て、主イエスの前にひざまずき、願ったのです。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」。ここに「てんかん」という病名が出てきます。これが、今日私たちが医学的に知っている「てんかん」という病気そのものであるのかどうかはわかりません。ひきつけを起して倒れる、という症状から、そう推測されているのです。聖書はこれを単なる病気としてではなく、この後のところからわかるように、悪霊にとりつかれたことによって起っていることと見ています。つまり原因は、体の内部にあるのではなくて、外から入ってきて人間にとりつき、狂わせてしまう力にあるのだということです。悪霊は、この子供を度々火の中や水の中に倒れさせる、つまりわざと危険な所で倒れさせて命を脅かしているのです。この父親は、息子を悪霊から何とか解放し救いたいと願って、主イエスのところに連れて来ました。しかし丁度その時、主イエスは三人の弟子を連れて高い山に登っておられて不在だったのです。それで彼は、残っていた弟子たちに、この子から悪霊を追い出してくださいと願いました。そこで弟子たちもやってみたのですが、悪霊を追い出すことができなかったのです。彼が弟子たちに息子の癒しを願い、弟子たちがそれを試みたことを、「そんな無理なことを」と思ってしまってはなりません。この福音書の第10章で、主イエスは十二人の弟子を選び、彼らに、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能をお授けになったのです。だから弟子たちは、主イエスから授けられたこの力によって、悪霊を追い出すことも出来たはずです。だからこそ彼らはそれを試みたのでしょう。神様に祈り、「生ける神の子イエスの名によって命じる。悪霊よ、この子から出ていけ」と言ったのでしょう。しかし悪霊は出ていかなかった。彼らの試みは失敗に終わったのです。弟子たちは深い挫折を味わったことでしょう。イエス様が力を与えて下さったはずなのに、それを発揮できない、悪霊に打ち勝つことができない、悪霊の力の前に自分の無力を思い知らされたのです。また、癒しを期待している人々の前で、彼らの面目はまるつぶれです。なんだ、何もできないじゃないか、イエスの弟子だというからもう少し何かできるかと思ったが全然ダメだ、と愛想をつかされてしまう。そしてそれは主イエスの面目をも失わせることです。弟子があの調子じゃあ、イエスも大したことはないな、と思われてしまうのです。
 主イエスが三人の弟子を連れて山に登っておられる間に、麓ではこういうことが起っていました。そこへ、主イエスたちが戻って来られたのです。先々週の説教において、この変貌の山を下りていくことは、私たちが、主の日の礼拝から日常の生活に戻っていくことと重なると申しました。礼拝は、ある意味で、日常の生活を離れた山の上です。そこで私たちは神様の恵みに触れ、栄光のお姿に輝く主イエスと出会うのです。しかしいつまでもそこに留まっていることはできません。私たちはその礼拝から、日々の生活へと戻っていくのです。そこで私たちを待ち受けている現実がここに描き出されていると言うことができるでしょう。私たちの日常の生活においては、悪霊が支配し、人を狂わせ、脅かしているという事実があるのです。その力に対して、主イエスを信じる信仰に生きている私たち信仰者、主イエスの弟子である者たちも、自分の無力を嘆かずにはおれません。主イエスが与えて下さったはずの力をもって、この世の現実を支配している悪霊と戦っていこうとするけれども、破れてしまう、負けてしまう、挫折してしまう、信仰者としての面目まるつぶれになってしまう、主イエスの顔にも泥を塗るようなことになってしまう、そういうことが繰り返し起ってくるのです。それが、山の麓での、私たちの日々の生活の姿です。

不信仰でよこしまな時代
 主イエスはこの父親の言葉を聞いて、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われました。主イエスの深い嘆きの言葉です。しかし主イエスはここで何を嘆いておられるのでしょうか。弟子たちが、悪霊を追い出すことができない、そのための権威を与えたはずなのに、それをちゃんと発揮することができない、何となさけない…、と弟子たちのことを嘆いておられるのでしょうか。この言葉はそれとは少し違うようです。「信仰のない、よこしまな時代」と主イエスは言っておられます。これは弟子たちのことだけを言っているのではないでしょう。むしろ弟子たちをも含めた全ての者が生きているこの時代、人間とその社会をとり囲み、支配している力を主イエスは見つめておられるのです。それは「信仰のない、よこしまな時代」だ。今は信仰のない時代だと主イエスが言われたことに私たちは注目しなければなりません。私たちは、今日、自分たちを取り巻く社会の有様を見つめて、「信仰のない時代だなあ」と嘆くことがあります。神を信じることなど非科学的、非合理的だという思いが一方にあり、他方には目に見える物質的な繁栄、豊かさのみを追求していく風潮がある、そういうこの時代はまことに信仰のない時代です。神様を信じにくい時代です。しかしそれなら、二千年前の、主イエスの時代なら、信仰の環境が整った、神様を信じやすい時代だったのかというと、決してそんなことはないのです。主イエスのこの時代にも、神様のご支配は隠されており、むしろ悪霊の力の方がずっとリアルに人々の現実を捉え、支配していたのです。その中で神様のご支配を信じて悪霊の力と戦っていくことはまことに困難なことであり、弟子たちといえどもこのように敗北してしまうという現実があったのです。そういう意味では、主イエスの当時と、今日と、全く違いはないと言わなければならないのです。つまり私たちがあの山の麓で生きる現実とはいつもこのようなものです。私たちは、「信仰のない、よこしまな時代」の中を、信仰者として生きるのです。そこにおいて私たちだけが不信仰や罪のけがれから自由であることは出来ません。私たち信仰者も、不信仰と罪の中にどっぷりと浸されているのです。

共にいて下さる主イエス
 主イエスはこのように弟子たちのことを、またこの時代全体のことを嘆き、そして言われました。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。私たちはこのお言葉に、主イエスのいらだちを感じます。「いつまであなたがたと共にいられようか。いつまで我慢しなければならないのか」。それは、「もうとてもこんな連中と共にはいられない。もう我慢できない」という気持ちの現われだと私たちは思うのです。つまり、もう主イエスはさじを投げた、とてもやっておれんと投げ出した、私たちがこういう言い方をした時にはそういう意味になるのです。しかし主イエスはどうなのでしょうか。主イエスは、さじを投げてしまわれたのでしょうか。こう言ってから主イエスは、「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と言われます。そして、悪霊を叱ると、悪霊は出て行き、子供は癒されたのです。弟子たちがどうしても追い出すことが出来なかった悪霊に、主イエスは打ち勝ち、その支配から子供を解放したのです。これは、主イエスが彼らの苦しみをしっかりと背負い、救って下さったということです。悪霊に打ち勝つことができなかった弟子たちの失敗、挫折を主イエスが担い、その埋め合わせをして下さったのです。それは、「おまえたちのことなどもう知らん」と突き放してしまうことではありません。主イエスは、あのように言いつつ、しかしなお彼らと共にいて下さり、彼らのことを我慢して担い続けていて下さるのです。
 ここで一つ興味深いことがあります。この出来事は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に共通して語られています。そして主イエスの「いつまであなたがたと共にいられようか」というお言葉も三つに共通しているのですが、「共に」と訳されている原文の言葉がマタイだけは違うのです。マルコとルカにおいては、「〜の方に、向かい合って」という意味の言葉が用いられています。それに対してマタイのみが、文字通り「共に」という言葉を使っているのです。そしてこの「共に」という言葉は、マタイ福音書においてとても大事な意味と役割を持っている言葉です。まず、1章23節にその言葉が出て来ます。主イエスの誕生を天使がヨセフに告げた場面です。そこで、このことは「おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤの預言の成就なのだ、ということが告げられ、そのインマヌエルという言葉の意味は、「神は我々と共におられる」ということだと語られています。この、「神は我々と共におられる」の「共に」が本日の箇所における「共に」と同じ言葉なのです。主イエス・キリストがこの世にお生まれになる、それによって、神が我々と共にいて下さるという恵みが実現するのだ、ということをこのお告げは語っています。主イエスによってもたらされる救いの本質がここに示されているのです。それは、神が私たちと共にいて下さるということです。「共に」という言葉は、そのように、主イエスによる救いの本質を語る言葉なのです。そして同じ言葉が、この福音書の一番最後、28章20節にも出てきます。復活された主イエスが弟子たちを伝道へと派遣する場面です。主イエスはこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この最後の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、この約束に支えられて、弟子たちは全世界へと伝道に出ていくのです。その「共に」がやはり同じ言葉です。つまりこの「共に」は、マタイ福音書の最初と最後のところで、言わば額縁のような役割をしており、この福音書全体の主題を提示している言葉なのです。世の終わりまで私たちと共にいて下さる神である主イエスを、この福音書は語り示しているのです。そしてマタイはその言葉を、本日のこの箇所でも用いています。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」の「共に」を、もともとのマルコとは違うこの言葉に変えているのです。それによって、この言葉と先ほどの28章20節の言葉との間に呼応関係が生れているのです。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」、という問いへの答えが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」なのです。信仰のない、よこしまな時代のただ中で、悪霊の支配に翻弄されている私たちです。信仰を持って生きていると言いつつも、いつもその力に打ち負かされてしまうような情けない私たちです。しかし主イエスは、そのような私たちと、いつまでも、どこまでも、共にいて下さるのです。
 この話は三つの福音書がみな語っていると申しました。しかし直接もとになっているマルコの9章の記事と本日の箇所とを読み比べてみると、随分大きく違っていることに気づきます。今申しました「共に」という言葉の違いは、原文で読まなければわからないわけですが、翻訳で読んでもすぐにわかる大きな違いは、この子供の癒しの場面にあります。マルコの方では、父親が、子供の病気の症状を詳しく説明し、そして主イエスに、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言うのです。すると主イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言われ、父親はそれに対して、よく知られた信仰告白の言葉、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」を叫ぶのです。マルコではそういう問答を経て子供の癒しが行われます。つまりマルコでは、この父親の信仰が問われ、「不信仰なわたしをお助けください」と主イエスに叫び求めることこそが本当の信仰であることが示されているのです。しかしマタイは、そのエピソードを全て省いています。この癒しの場面で、父親は何の役割も果していない、登場すらしていないのです。このように読み比べてみることによって分かってくることは、マタイはここで、父親の信仰うんぬんを見つめているのではなく、共にいて下さる主イエスの憐れみと恵みのみを見つめているということです。私たちの救いは、私たちの信仰の如何によるのではない、ただひたすら、どこまでも共にいて下さる十字架と復活の主イエス・キリストの憐れみと恵みとによるのです。

なぜ悪霊を追い出せなかったのか
 しかしそれですべてが解決というわけではありません。19節以下には、弟子たちがひそかに主イエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねたことが語られています。「ひそかに」というところに、弟子たちの思いが表れています。悪霊を追い出そうとしたができなかった彼らは、その挫折に傷つき苦しんでいるのです。人々の前で、弟子としての、信仰者としての力を発揮できなかった、証を立てられなかった、その恥かしい思いがあり、人前に顔を出せないような思いに捉えられているのです。この「ひそかに」主イエスのもとに来た弟子たちの姿は、この礼拝に集っている私たち一人一人の姿と重なると言うことができるのではないでしょうか。私たちも、一週間の信仰の生活、この世の現実の中での歩みにおいて、様々な挫折をかかえています。信仰の挫折です。罪や悪との戦いにおいて敗北してしまったという経験です。信仰者としてのよい証を立てられずに、むしろみ栄えを汚すようなことをしてしまったという苦い思いです。そういう思いを私たちはそれぞれ、自分一人の心の中に秘めてこの場に集っているのではないでしょうか。もしもそれを全てさらけ出されたら、とても恥かしくてこんなところに座ってはおれない、という思いがあるのではないでしょうか。そして私たちはそれぞれ、心の中で密かに主イエスに問うのです。「なぜ私は悪霊を追い出せなかったのでしょうか」。

からし種一粒の信仰
 主イエスはこうお答えになります。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」。この主イエスのお答えも、マルコとは違っています。マルコでは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言われています。「祈りによらなければ」とは、神様の力を祈り求めることなしには、ということであり、自分の力で悪霊に打ち勝とうとしてもそれはできない、ということでしょう。つまりマルコは、弟子たちが自分の力で悪霊と戦おうとしたところに、追い出せなかった原因があると見ているのです。しかしマタイでは、「信仰が薄いからだ」となっています。そして「からし種一粒ほどの信仰があれば、山も動く」と言われているのです。粉ように小さなからし種、その一粒ほどの信仰があれば、不可能も可能になる。弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは、それほどにも信仰がなかったからだということになる、つまり問題は弟子たちの、そして私たちの信仰にあるのです。
 この「信仰が薄い」というのも、マタイが繰り返して語っている言葉です。8章26節に、ガリラヤ湖の嵐によって舟が沈みそうになってあわてふためいている弟子たちに、主イエスが、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たち」と言われたとありました。また14章31節には、主イエスに願ってガリラヤ湖の水の上を歩いたペトロが、風を見て怖くなり、沈みそうになった、そのペトロをつかまえて下さった主イエスが、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われたとあります。これらの二つの箇所を読み合わせていくことによって、「信仰が薄い」と主イエスが言われたことの意味が見えてきます。それは、主イエスが共にいて下さり、守り支えていて下さることを見失ってしまうことです。あるいは、その主イエスから目をそらして、この世の現実に働く罪の力の方を見てしまうことです。それが「信仰が薄い」ということであり、それゆえに、彼らは悪霊を追い出すことができなかったのです。ということは、ここで問題とされているのは、信仰の量ではありません。からし種一粒ほどの信仰もなかった、それにあとどれくらい足りなかったという話ではないのです。からし種一粒とは、最も小さいもののたとえです。どんなに小さくても、信仰があれば、不可能が可能になると言われているのです。その信仰とは、共にいて下さる主イエスを見つめることです。様々なこの世の力、神様の恵みに敵対する力が支配し、私たちを翻弄している、その現実の中で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さっている主イエスを見つめ、目をよそにそらさないことです。信仰とはただそれだけのことだと言ってもよいのです。そういう意味では、私たちの信仰は、次第に深くなったり篤くなったり大きくなったりするものではありません。共にいて下さる主イエスを見つめているかどうか、つまり、あるかないかでしかないのです。自分の信仰が大きくなった、深くなったと思う時に、実はそれは主イエスをではなく自分の中の何かを見つめ始めているのかもしれません。しかし、自分の中の何かをいくら大きくしていっても、それによって私たちは悪霊を追い出すことはできないのです。この世を、そして私たちの人生を翻弄している悪の力、神様に敵対する力に打ち勝つことはできないのです。本当に必要なのは、そして本当に力になるのは、そういう大きな信仰ではなく、からし種一粒ほどの小さな信仰です。それは、世の終わりまでいつも共にいて下さる主イエスの約束を信じ、「信仰の薄い者よ」と言いつつ私たちを支え、守り、助けて下さる主イエスを見つめて生きることです。それだけのことである小さな信仰こそが、山を移すほどの力を発揮するのです。信仰のない、よこしまな時代のただ中で、この世の様々な力に翻弄されていく私たちの日々の生活において、どこまでも共にいて下さる主イエスを見つめる信仰こそが、私たちを本当に支え、主イエスの憐れみによって山が動くことを体験させてくれるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年6月16日]

メッセージ へもどる。